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2008年02月29日

大正、渚滑線のはじまり

~紋別を例とした殖民期の鉄道

 この頃の新たな鉄道の敷設には各地での官民あげての期成会の結成と陳情が大きな原動力となったが、ここでは内陸最奥地の渚滑線について述べてみたい。 
 北海道鉄道速成計画図/大正6年
 鉄道と築港 略 実例としての北見は道庁当局の調査によれば網走管内の戸口数は鉄道開通の前後に於て其増加歩合開通前の一割以内に対し開通後は三割弱に達し居り 中略 池田野付牛間鉄道起工の結果利を北見地方に求むる人心の趨向を語るものにして一面生産額増加の趨勢に於ても明治四十四年池田野付牛間鉄道開通の前年即同四十三年より著しく歩合を増加し 中略 鉄道に関する今回の速成計画は鉄道院の計画に係る根室、宗谷、名寄下湧別間の三線を五年丈け繰上げ新に道庁の希望線としての五線を追加し 中略 此鉄道の敷設が殆ど北見集中主義にある事是れなり鉄道院既定計画中の名寄下湧別間は云う迄も莫く北見横貫鉄道と名称すべきものなるが道庁の追加するところの五線中諸(渚)滑サツクル間網走斜里間、美幌相生間は孰も北見線にして他の旭川ルベシベ間亦た北見に向て延伸し聯絡せんとす唯茲に帯広上士幌間が僅かに北見線たらざるのみ去れば今後共拓殖地として道庁が北見に最も重きを置き北見の開拓に努めんとするの方針を有するや疑いを容れず或は今後共北海道の拓殖は北見に在りとするやに認めらる 後略  (北海タイムス/大正5年)

 大正2年に地元の有力者であった岩田宗晴道議が士別-渚滑間の鉄道敷設を提唱したが実現せずにいた。ところが同4年に名寄-湧別間の名寄線敷設運動が起こり、これが有力代議士の支援もあって決定されると、渚滑村では同5年に上興部を経由して札久留、滝上、渚滑に至る路線へ変更するよう全村あげての縦貫鉄道期成会が結成された。

 玆ニ恭シク一書ヲ奉リ
 鐵道院総裁閣下ニ白ス下ニ連署セル吾吾人民ハ名寄下湧別線鐵道予定線路ノ一部變更ヲ行ハレ下渚滑ヨリ渚滑原野ヲ縦貫シ上渚滑ヨリ上藻興部原野ヲ経テ上興部ニ至リ以テ予定線路ニ合スルノ線路ヲ御採用アラン事ヲ請願スルモノニ有 云々  (請願書/大正5年)
 名寄線が全通すると、これにつながる現渚滑線は既定の計画であったが、その分岐点を紋別、渚滑のいずれかにするかで両者の対立が暗流となって渦を巻いた。
当時飯田氏は渚滑駅前に木工場(北見木材KK)を経営しており、その他紋別の有志で渚滑市街に土地を所有する人も多く、中略 名寄線が開通したという事実に幻惑されたというべきか、町の人々は情けないほど冷淡で、飯田への遠慮もあってか、正面切って紋別駅を分岐点と主張する熱意を欠いたことは事実であった。
父はこの点を憂い、時の町長国上国太郎を説き、紋別より二十線道路を通過する新路線を測量し、その比較調査を当局に迫ったが、驚いたことに、これを支援する人々は余りにも少なかった。  (春秋五十年/昭和41年池澤憲一自伝)
 渚滑線開通記念
 このとき滝上の全住民が政友会へ入党し、その入党書を持参して、時の政友会幹部で鉄道院総裁の床次竹次郎へ陳情したと云うエピソードも残っており、期成会の会長には渚滑村長中島繁次郎、副会長に岡本政道のほか滝上側からは宮地勝長、辰田善一郎らが渚滑側は岩田宗晴、飯田嘉吉、奥一道らがいた。
 ここにあるとおり飯田は北見林業界を代表する実力者で手広く木材を商っており、また岩田道議も澱粉製造を行うなど、彼ら自身も内陸滝上との農林産物の輸送は大きな課題であって、実際、流送に頼っていた原木の輸送も渚滑線の開通後には鉄道輸送に切り替えられている。 
                                                               北見大観/昭和9年

 大正7年「網走支庁拓殖概観」には『網走斜里間、美幌相生間、渚滑咲來間の三線は大正十年より起工せらるへきこと〃なれる既定未成線なり 中略 渚滑川流域の原野等豊大なる富源開かれ拓殖の進歩更に著しきものあるへし』とあるも結局は渚滑-滝上間の単独線として、大正12年11月に渚滑線が開通した。
 これによって移民は著しく増加し、また関東大震災後の復興事業によって木材市況が活況を呈したことから原野奥地の開拓は目覚しく進捗した。
                                                  第25回鉄道のお話し

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:25Comments(0)鉄の部屋(軌道・鉄道)

2008年02月28日

開進社、北見国の土佐団体

~紋別地方に見る開進社その後
 
 さて「宮崎寛愛」の土佐団体による渚滑村への入殖は、北見地方の開拓初期において非常に大きな比重を占めているものの、今まで余り触れられていない。「寛愛」の伯父「宮崎簡亮」は明治11年に開拓使御用係となり翌年には「北海道開進社」設立に副社長(のち社長)として参加したもので、「北海道開進社」とは本道の開拓を目指した最初の殖民会社であり、祖父与一郎は第四会所長として発足村の開墾に従事していた。
明治29年の湧別・下常呂原野殖民地の図/新設屯田兵村略図抜粋
◆周辺に見た土佐団体
 
 常呂村 農業 前略 (明治)同廿八年高知縣團体移民來リテ開拓ノ業盛ナリ今其移住顚末ヨリ記セン 該移住民ハ高知縣高岡郡ノ産ニシテ湧別原野ニ入リタル同縣人ト共ニ一ノ團体ヲ成セリ明治二十六年本道ニ在ル宮崎寛愛ナルモノニ依頼シテ移住適地ヲ探ラシメ 中略 後志國ニ在ル同縣人宮崎簡亮宮崎寛愛ニ依頼シ雑糓ヲ小樽ヨリ廻漕シ以テ飢餓ヲ免レタリ 中略 宮崎簡亮ハ明治二十八年當原野及ヒ湧別原野高知縣團体移民ヨリ金糓貸付ノ依頼ヲ受クルヤ北海道殖民協會ナルモノヲ設立シテ金品ヲ貸付シ各年ニ移住セル團体民ノ連帯負債トナシ 後略
 湧別村 部落 高知縣團体 前略 明治二十七年秋本國ヨリ渡航セルモノ十一戸及ヒ後志國岩内郡ニ在リシ該縣人數戸初メテ當原野ニ入ル 中略 徳島縣人 明治廿七年二戸同廿八年十三戸移住ス同廿九年宮崎寛愛等ノ勸誘ニヨリ凡六十戸渡來セシガ 後略
                                                    北海道殖民状況報文/明治31年
             
 この「北海道開進社」の創設者は岩倉具視の下で華族銀行と士族銀行の経営に当った元大蔵大丞の「岩橋轍輔」で、岩倉の勧めから士族授産と北海道開拓を目的にハローやプラオ、農耕馬など西洋農法を積極的に取り入れ、また七重勧業試験場の協力を得るなど、本社を函館に置いて道内5拠点で開発を行った。

 前略 余ハ北海道ヲシテ大ニ殖民開発ノ事業ヲ冀図スル事年アリ 中略 且曩ニ余カ家ニ雇使スル所ノ宮崎簡亮ヲシテ去年北海道ニ遣リ今札幌ニ在リ簡亮ハ余カ信スル所ニシテ大ニ北海道開墾ニ篤志ノ者ナリ 中略 足下宜シク力ヲ北海道開墾ニ用ユヘシ 後略
                                               北海道開進社創立起源ヲ敍ス/岩橋轍輔
                                            
 その後「北海道開進社」による殖民事業は一部の定住民を残して内部分裂と資金不足のため失敗に終わり、その流れをくむ以後の北海道への移住には「寛愛」が深く関係してくる。湧別村への入殖は明治27年に11戸、翌28年が29戸、常呂村へは同28年に42戸が入り、このときに発足村(現在の共和町)からも11戸が再転住した。
 明治28年には窮乏に備えて「簡亮」による「北海道殖民協会」が設立され、さらに徳島県からも入殖者が入るなど、大正5年「網走支庁拓殖概観」では『下湧別原野に岩内地方より移住したる農民が西洋農具を使用し以て耕馬使用の端緒を開き農用馬匹の需要を認め改良蕃殖の方法盛んなるに至る』とある。 


◆紋別での土佐団体
 「紋別市史」では明治30年の渚滑村(現紋別市)への土佐団体の入殖を『宮崎ら一行は当初斜里村に移住の目的で渡道したものであるが、途中たまたま紋別港に寄港したところ、渚滑原野が殖民地に選定され、区画割を終えて貸付け出願受付中であることを聞き、同県人岩田宗晴のあっせんで、中渚滑地区十二線から二十四線にわたる平坦地を出願入地した。』として、ここにひとつの疑問が生じる。
 それは斜里原野の測設は明治31年であって、その前年に180戸もの団体が入地したとは考えにくく、これだけの規模を着手までの間、支えるのは非常に困難であるから、これは斜里ではなく下常呂原野の誤りではないかと考えるが、河野常吉の「北見東部四郡」では『宮崎寛愛簡亮ラカ廿六年北見國迄漫遊シ 高知ヨリ団体民ヲ募リ來リ打彙タリ 是は渚滑ニ入リタリ』とあって計画的であったとも考えられる。


 前略 遂に北見国に於て、有望なる好殖民地を発見し、同国常呂・湧別・渚滑の三原野に植民を計画し、その翌年、即ち明治二十七年、前述土地(発足村の10万坪)売却代金を以て運動費に当て、郷里高知県に赴き、団体移民を組織し、爾後五年間、殖民を継続し、開拓の奨励につとめ、総人員弐千余人を移了し、明治三十五年に至り、全部成功を告げたり。         翠柊覚書
                                 
 これについて「寛愛」の自伝はこのとおりで、いずれにしろ「岩田」と「宮崎」は同県人であり、また当時の網走支庁に「吉田某(吉田金陵か)」という徳島県人がいて便宜を図ったと云うことから、何かしらの関係があったのかも知れない。
 後に「宮崎簡亮」は実業家として湧別村長を務めたりもしたが、大正4年には猿拂村にある岩崎男爵の拓北農場長として湧別村からの農夫を雇い、同じく農耕馬とハローを用いた営農を試みており、また明治44年に渚滑村へ入殖した岡村文四郎の場合(北海道農業会長、全国共済農業組合連合会長、参議院議員ほか公職を歴任)は、いわゆる呼び寄せによるものと考えるが、同28年に湧別村と常呂村へ入殖した土佐団体の内の数戸が渚滑村へ再転住しており、これと何らかの関係があったと推測する。


 前略 わたくしは南国は土佐、高知県の生まれであるが、いまでは、すっかり北海道の農民になってしまった。わたくしは明治四十三年に現役兵で入営した。中略 内地に帰って来てみると、郷里では、はからずも北海道へ行って開拓に当たろうという話が持ち上がっていた。
 わたくしの父は作次というが、父の友達で、明治二十八年に北海道へ行った人が、たまたま土佐に帰って来て、「北海道に行かないか、北海道はええところだよ」という。「よし行こう」と相談がまとまっていたのである。以下略   わが生涯/昭和39年

 このようにして開進社による開発は失敗したとは云え、その流れをくむ入殖者達は各地に分散伝染しながら、その後の道内の開拓に大きく貢献したもので、特に網走管内に四国系の入殖者が多かったのは北光社のみならずその為であり、各所に土佐コロニーが現出するに至った。

                                            常呂町土佐集落    第24回郷土語り

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Posted by 釣山 史 at 23:05Comments(0)オホーツクの歴史

2008年02月26日

親子で歌おう日本の歌百選

~日本の歌百選とトラピスト、三木露風

●「親子で歌いつごう 日本の歌百選」
 昨年、文化庁と日本PTA全国協議会は、長く親子で歌い継いでほしい歌を募集し、応募された895曲のうち101曲を選定した。
 このなかに北海道ゆかりの歌として、広く知られる童謡「赤い靴」が選ばれた。これは野口雨情が道内の新聞社に勤務していたときに知人から打ち明けられた悲話であり、当時の下層民、北海道開拓の厳しさを伝えたものである。
 さて、北海道との関わりが余り知られていない、もうひとつの名曲に三木露風の「赤とんぼ」がある。

●三木露風、「赤とんぼのこと」
 これは、私の小さい時のおもいでである。「赤とんぼ」を、作ったのは大正十年で、處は、北海道函館附近のトラピスト修道院に於いてであった。或日午後四時頃に、窓の外を見て、ふと眼についたのは、赤とんぼであった。静かな空気と光の中に、竿の先に、じっととまっているのであった。それが、かなり長い間、飛び去ろうとしない。私は、それを見ていた。後に、「赤とんぼ」を作ったのである。関係のある『樫の實』に発表した。
 家で頼んだ子守娘がいた。その娘が、私を負うていた。西の山の上に、夕焼していた。草の廣場に、赤とんぼが飛んでいた。それを負われてゐる私は見た。そのことをおぼえている。北海道で、赤とんぼを見て、思いだしたことである。
 大分大きくなったので、子守娘は、里へ歸った。ちらと聞いたのは、嫁に行ったということである。山の畑というのは、私の家の北の方の畑である。
三木露風稿/抜粋。

1夕焼け、小焼の、     3山の畑の、
 赤とんぼ、          桑の實を、
 負われて見たのは、    小籠に摘んだは、
 いつの日か。         まぼろしか。

2十五で姐やは、      4夕焼け、小焼の、
 嫁に行き、          赤とんぼ、
 お里のたよりも、      とまっているよ、
 絶えはてた。         竿の先。

●日本の歌百選
1 仰げば尊し 不詳/2 赤い靴 野口雨情 本居長世 /3 赤とんぼ 三木露風 山田耕筰 /4 朝はどこから 森まさる 橋本国彦 /5 あの町この町 野口雨情 中山晋平/6 あめふり 北原白秋 中山晋平/7 雨降りお月さん 野口雨情 中山晋平/8 あめふりくまのこ 鶴見正夫 湯山昭/9 いい日旅立ち 作詞作曲:谷村新司/10 いつでも夢を 佐伯孝夫 吉田正/11 犬のおまわりさん 佐藤義美 大中恩/12 上を向いて歩こう 永六輔 中村八大/13 海 林 柳波 井上武士/14 うれしいひなまつり サトウハチロー 河村光陽/15 江戸子守歌 日本古謡/16 おうま 林柳波 松島彜/17 大きな栗の木の下で 不詳 イギリス民謡/18 大きな古時計 保富庚午訳詞 WORK HENRY CLAY/19 おかあさん 田中ナナ 中田喜直/20 お正月 東くめ 滝廉太郎/21 おはなしゆびさん 香山美子 湯山昭/22 朧月夜 高野辰之 岡野貞一/23 思い出のアルバム 増子とし 本多鉄麿/24 おもちゃのチャチャチャ 野坂昭如・吉岡治補作詞 越部信義/25 かあさんの歌 作詞作曲:窪田聡/26 風 西條八十訳詞 草川信/27 肩たたき 西條八十 中山晋平/28 かもめの水兵さん 武内俊子 河村光陽/29 からたちの花 北原白秋 山田耕筰/30 川の流れのように 秋元康 見岳章/31 汽車 不詳 大和田愛羅/32 汽車ポッポ 富原薫 草川信 /33 今日の日はさようなら 作詞作曲:金子詔一/34 靴が鳴る 清水かつら 弘田龍太郎/35 こいのぼり 近藤宮子 不詳/36 高校三年生 丘灯至夫 遠藤実/37 荒城の月 土井晩翠 滝廉太郎 /38 秋桜 作詞作曲:さだまさし/39 この道 北原白秋 山田耕筰/40 こんにちは赤ちゃん 永六輔 中村八大/41 さくら貝の歌 土屋花情 八洲秀章/42 さくらさくら 日本古謡/43 サッちゃん 阪田寛夫 大中恩/44 里の秋 斎藤信夫 海沼実/45 幸せなら手をたたこう 木村利人訳詞 アメリカ民謡/46 叱られて 清水かつら 弘田龍太郎/47 四季の歌 作詞作曲:荒木とよひさ/48 時代 作詞作曲:中島みゆき/49 しゃぼん玉 野口雨情 中山晋平/50 ずいずいずっころばし わらべうた/51 スキー 時雨音羽 平井康三郎/52 背くらべ 海野厚 中山晋平/53 世界に一つだけの花 作詞作曲:槇原敬之/54 ぞうさん まどみちお 團伊玖磨/55 早春賦 吉丸一昌 中田章/56 たきび 巽聖歌 渡辺茂/57 ちいさい秋みつけた サトウハチロー 中田喜直/58 茶摘み 不詳/59 チューリップ 近藤宮子 井上武士/60 月の沙漠 加藤まさを 佐々木すぐる/61 翼をください 山上路夫 村井邦彦/62 手のひらを太陽に やなせたかし いずみたく/63 通りゃんせ わらべうた/64 どこかで春が 百田宗治 草川信/65 ドレミの歌 ペギー葉山訳詞 RODGERS RICHARD/66 どんぐりころころ 青木存義 梁田貞/67 とんぼのめがね 額賀誠志 平井康三郎/68 ないしょ話 結城よしを 山口保治/69 涙そうそう 森山良子 BEGIN /70 夏の思い出 江間章子 中田喜直/71 夏は来ぬ 佐々木信綱 小山作之助/72 七つの子 野口雨情 本居長世/73 花 作詞作曲:喜納昌吉/74 花 武島羽衣 滝廉太郎/75 花の街 江間章子 團伊玖磨/76 埴生の宿 里見義訳詞 BISHOP HENRY ROWLEY/77 浜千鳥 鹿島鳴秋 弘田龍太郎/78 浜辺の歌 林古渓 成田為三/79 春が来た 高野辰之 岡野貞一/80 春の小川 高野辰之 岡野貞一/81 ふじの山 巌谷小波 不詳/82 冬景色 不詳/83 冬の星座 堀内敬三訳詞 HAYS WILLIAM SHAKESPEARRE/84 故郷 高野辰之 岡野貞一/85 蛍の光 稲垣千穎 スコットランド民謡/86 牧場の朝 不詳 船橋榮吉/87 見上げてごらん夜の星を 永六輔 いずみたく/88 みかんの花咲く丘 加藤省吾 海沼実/89 虫のこえ 不詳/90 むすんでひらいて 不詳 ROUSSEU JEAN JAQUES/91 村祭 不詳/92 めだかの学校 茶木滋 中田喜直/93 もみじ 高野辰之 岡野貞一/94 椰子の実 島崎藤村 大中寅二/95 夕日 葛原しげる 室崎琴月/96 夕やけこやけ 中村雨紅 草川信/97 雪 不詳/98 揺籃のうた 北原白秋 草川信/99 旅愁 犬童球渓訳詞 ORDWAY JP/100 リンゴの唄 サトウハチロー 万城目正/101 われは海の子 宮原晃一郎 不詳                                                       
                                                             第23回残そう、日本の文化
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Posted by 釣山 史 at 07:24Comments(0)子育て・子どもの学習

2008年02月23日

遠軽・湧別・雄武ほか開拓時代の特異者

~湧別・遠軽ほか紋別郡を中心とした開拓上での特異人物。

 さて、ここでは「オヤ!」と思う、余り知られていない郷土の開拓者達を簡単に紹介する。

・半沢真吉
 藤野番屋ではない初めての紋別郡戸長で仙台藩少年隊の生き残り。真吉は明治12年に函館税関に奉職、翌年には網走郡役所へ移ったのち、同15年には第3代紋別郡各村戸長となる。湧別村では未開地三千坪の貸付を受け農作を試作して西郷農商務卿の巡視の際には賞賛を受けたりしている。徳弘や和田よりも早い、網走管内での農耕の先駆け。後に斜里郡止別村へ転入して農牧業を営みながら小清水駅逓所を開設、また、つとに林檎の栽培と牧畜業の開発に努めた。晩年には斜里村に移って商店を営み、味噌・醤油を醸造したりもした。
・開進社/宮崎簡亮
 岩内ほか全道各地を開発した北海道最初の開拓会社の中心人物。開進社は失敗に終わったが、のち湧別・常呂・佐呂間・渚滑へ入殖して土佐団体を指揮し、この地方の殖民初期に与えた影響は大きい。その後は実業に転じて湧別村長も務めた。
・堀川泰宗
 枝幸砂金開発の功労者。後に湧別に転住して駅逓(旅館)や牧場を開設するなど実業に従事し、村議会議員をつとめたりした。大東流合氣柔術の中興の祖といわれた武田惣角に師事した達人で、後年に合氣道を完成させた白瀧の植芝盛平とは兄弟弟子。
・学田農場/佐竹宗五郎
 遠軽の学田農場に入り、盛んにハッカ栽培を行い普及にも尽力した北見ハッカの功労者で、キリスト教の布教に努めたピアソンの有力な支援者。
・木村嘉長
 渚滑村開祖の人。有名な仁木竹吉を補佐して仁木村をつくりあげが、そのころすでに旧開地と呼ばれていた余市・岩内からの網走管内への再転住は多く、有力な者が多い。
・藤島福治
 明治16年に雄武の幌内に入った福治はこの地方の漁業の草分けであり、駅逓取扱人や郵便局長を務めながら牧畜に力を注いだ。特出すべきは明治27年にリンゴの苗木1,000本を植栽したと云い、後に美幌へ転住して、そこで一大牧場を経営した。 
                                                                第22回郷土の歴史

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2008年02月21日

点字の開発者・石川倉次と斜里の開拓

北海道の開拓と社会事業3。(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆斜里の石川農場
 斜里での本格的な農場の始まりは石川農場である。千葉の士族に生れた石川芳次は士族授産の給与地を貰いそびれて残念に思っていた。明治30年制定の「北海道国有未開地処分法」では開墾さえすれば土地が無償で付与されると知り、翌年には視察のために渡道して入植地を飽寒別原野の幾科に選定した。
 明治32年に79町歩の貸与地を得て単身400円の資金をもって現地へ入り、一年目は1町6反歩を開墾した。翌年には12町歩の追加貸与を受けて一家を呼び寄せると三年目からは小作人を入れ、そうして後の上斜里の牧場地と合わせた大正5年の全耕作地は約168町歩にもなって、うち14町歩は自作し、残りを岐阜や宮城、岩手と真狩からの再転住者ら34戸の小作として、4~5年の開墾期間に後の3年間は小作料を減額するもので、年に数百円は慈善事業に費やし、馬鈴薯を主に豆類や麦類のほか薄荷や林檎などの先進的な商品作物を栽培し、また、水力による澱粉製造や木挽なども行った。
 
 斜里町郷土研究第12号
 明治三十五年四月二日 貴殿ヘ兄石川倉次殿ヨリ本院男児十四五才之者数名開墾業ニ従事セシメ度趣ニテ願出相成候処該業ニ従事セントスル志望者モ有之候ニ付テハ大凡本年何月頃ニ御引取被下候哉又其節ハ御出京ニ相成候モノニ候哉何分之御回答相煩度此般申進候也トアリ
    石川倉次先生斜里滞在日記


 この間、厳しい生活に小作人が定着しないため、10年後には2戸分の開墾地を与える契約で「東京養育院」から男女10人を雇い入れ、そうして全貸与地を成墾して付与を受けることが出来たので彼らに農地5戸分を与えた。
 さて、「東京養育院」とは明治5年に設立された貧民や傷病人、孤児らのための救済所で、初代の院長は渋沢栄一であったが、少年児童は現在の「里親・職親」へと繋がる「縁組並雇預」の制度をもって自立を促し、商人や職人、漁家・農家へと引き取られていたが、芳次の兄の倉次は日本式点字を創作した「東京盲亜学校」の教師であり、その関係から養育院の院生を呼び寄せて開拓に当たらせたのだった。
 第21回歴史と郷土

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2008年02月21日

遠軽家庭学校にいた警視総監

北海道の開拓と社会事業2(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆家庭学校とその農場
  押川方義や田村顕允らの「北海道同志教育会」は明治30年に信田寿之牧師を農場長として遠軽へ入り、キリスト教学校の建設を計画し至らずにいたが、後年、留岡幸助は同地へキリスト教的教育を実践する集団農場を開設した。
 同志神学校を卒業した幸助は教会牧師を経て空知集治監の教誨師となった。このとき非行少年の感化事業の必要性を深く感じて渡米留学すると、帰国後には巣鴨監獄の教誨師のち警察学校の教授となり、明治32年には巣鴨に「少年救護院東京家庭学校」を創設して後に北海道遠軽と神奈川茅ヶ崎へも分校を設けたが、この間も内務省の嘱託として社会事業の啓蒙に努めた。

 この大正3年に設立された遠軽の「社名淵分校」は大自然での労働を通じて感化を図ろうとするもので、同年に社名淵と同5年には白滝へ計約1千町歩の売払地を得て、キリスト教に独自の報徳思想を取り入れた一戸5町歩の小作農場として、小作人には将来の自作農を、卒業生へは分家と称した永住による理想郷の建設を目指した。
 その温情と誠意にあふれた経営は小作の開墾期間を3~4年として反2円に小屋掛15円と農耕馬へ10円を補助し、1年目には滋賀県人4戸ほか計11戸が入植した。学校では大正4年に乳牛を導入し、同6年には牛舎と搾乳場を建築、同8年に畜産部を独立させて同9年には飼育数が10頭となり、同12年は大型サイロを設けて、また、バター製造を開始して東京へ出荷するなど、このサイロの建設には札幌軟石が使用されている。そうしてほかに鶏百数十羽を飼育し、小作へも牧畜と養鶏を奨励しながら、水車による製材所を建設して自他の用に供し、こうして同9年迄の小作数は社名淵が50戸、白滝が25戸となり、また前年には水稲の試作にも成功した。昭和5年には社名淵産業組合が結成されて同14年に社名淵が同16年には白滝の全小作約80戸500人を開放したが、日曜学校や夏季保育園と冬季学校など、常に地域の中心にあった。

 ところで幸助の長男の幸男は内務官僚で、東条内閣では警視総監としてゾルゲ事件に対応し、戦後の昭和21年には北海道長官となったが、どさくさの中でたびたび道職員と衝突し、何も出来ずにたった3ヶ月で辞めてしまい、その後は家庭学校の校長のほか社会事業に尽力した。また、次男の清男は北大教授や北星女短の学長を勤めた。  第20回歴史と郷土/写真は大正8年絵はがき集より

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2008年02月20日

日本キリスト教会による洞爺の孤児院

~北海道の開拓と社会事業 1

◆伊達教会と北海孤児院
 さて、浦臼の聖園農場や今金のインマヌエルなど、殖民期におけるキリスト教集団の果たした役割は大きいが、中でも伊達士族団による「胆振伊達教会」は特異な例に挙げられる。それは信徒となった旧亘理領主の伊達邦成と元家老で郡長の田村顕允が後に地元神社の祭神となったほか、道内で最初の児童福祉施設である「北海孤児院」を建設したことによる。
 明治19年に結成し、翌年には献堂を終えた教会が孤児院の建設を計画していたところ、同24年10月に濃尾地震が発生した。12月に現地へ入った林竹太郎牧師はその遺児十数名を連れ帰り、地元孤児らと集団生活を始める。協力者には伊達主従のほか、東北学院長の押川方義や室蘭病院長赤城信一らがおり、林を院長に虻田村字セタイトシマモイに荘厳な院舎を建築し、明治28年には洞爺湖畔の未開地600町歩へ小作数十戸が入植した。
 それは孤児院を農場での収益により経営しようとしたものであったが、明治33年の記録では虻田村字ニナルカの牧場で、牧草地一万五千坪、放牧地三十万三千八百坪、畑地一万五千坪、他に三万坪の土地があり、雄雌で24頭の馬が飼育され、児童は多いときで24・5人が収容され、同年には林の奔走により仁成香尋常小学校が設置された。
 当初は開墾伐採された木材の販売が好調であったが、それが終了すると収入は小作料のみとなり、その後の事業にも次第に行き詰って、また有力支援者の転出や死亡と神道の国教化政策もあり次第に教会は孤立化して行く。明治37年には拓銀の競売となり、廃院されてしまった。
 現在は伊達幼稚園として復活した孤児院も、このように存続期間が短く、また、その後の教会活動の長い不振もあって余り広くは知られていないが、この北見紋別にも関係人がいたことから紹介する。
 水戸士族の島竹(片野)貫一は明治29年に国内最初の民間鉄道である日本鉄道会社へ入社、同31年には退職して「北海孤児院」の教育係として来道した。明治32年に渚滑原野へ入り、翌33年には駅逓取扱人を命ぜられて北見紋別へと転じたが、当時は胆振が牧畜の先進地であって、孤児院牧場もあったことから駅逓経営に必要な馬の取扱いと駅員としての経験が買われたと考える。
(第19回歴史と郷土/19~21北海道の開拓と社会事業)
                                                                  

Posted by 釣山 史 at 21:56Comments(0)北海道の歴史

2008年02月20日

樺太・オタス写真館の新発見

~半澤絵はがきの見分け方

 「半澤中」が撮影した樺太の貴重な作品群は、「知床博物館研究報告20号」に詳しく、また、北大の写真集「明治大正の北海道」に一部リスト化されていて、絵はがきなどの販売写真は約100点にも及ぶと云う。
 撮影者と時期、場所がほぼ特定され、また、「オタスの杜」にあった写真館は、他に比べて当時の先住民の様子をより自然に残していることから、民族学の研究には非常に貴重なものである。そこで筆者は古書店などの店頭でも簡単に識別できる台紙による区分法を開発した。大きく分けると次の4種となる。

 右上/目印はスワンマークであるが、判別の決め手は「半」を意匠化した「丸にY印」である。右下/「POST CARD」の文字に注目、トレードマークの「丸にY印」。左上/「POST CARD」と中央下部に右記と違うスワンマークが描かれている。左下/同じ「POST CARD」だけ、「郵便はがき」の字体と写真の彩色、カットも微妙に違いがある。
 右の写真はもっとも有名なものだが、上記の台紙いづれにも見られるものである。
 これにより下記が新たな半澤写真と確認されたが、上はめずらしい組写真で、下には「庄内商店」とある。




                                                    第18回オタスの写真
関連:第7回「オタスの杜の教育所と写真館」あり

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Posted by 釣山 史 at 07:54Comments(0)樺太・千島の歴史

2008年02月18日

北海道・明治の海運

~明治のころの海運
殖民公報第六十一号/明治四十四年
 日本郵船會社ノ滊船ハ四月ヨリ十月マデ本道西海ヲ經テ鬼鹿香深稚内諸港ニ毎月二回ノ航海ヲナシ又根室ヨリ知床岬ヲ廻リテ網走紋別ヘ一ヶ年凡拾回ノ航海ヲナス又該社外ノ滊船ハ小樽ヲ以テ根據トナシ當國諸港ニ往來シ利尻禮文及ビ稚内ハ冬期ト雖モ小樽ト交通ノ便ヲ有ス又函館ヨリ來ルモノアリ其船ハ重モニ藤野四郎兵衛ノ所有ニ係リ國ノ東部ニ往復セリ日本形船ハ國ノ西部ニ止マリ東部ニ赴クモノ稀ナリ (明治31年「北海道殖民状況報文」抜粋)

 本道と本州を結ぶ定期航路は明治2年(1869年)に開拓史附属の「咸臨丸」と「昇平丸」が官公物の輸送を行ったのに始まり、同6年には附属「弘明丸」が青函航路の一般輸送を開始した。国鉄の「比羅夫丸」による青函航路の運航は同41年からである。しかし、慶応元年(1865年)にはブラキストンが清国貿易・国内輸送と沿岸の航路を開いて、箱館戦争の際には物資を輸送したと云う。
 補助航路による民間運航は明治12年に開拓史が三菱(後の日本郵船)の青函航路へ補助したのに始まり、同18年には農商務省が日本郵船に対して横浜-函館間、函館-根室間、小樽-宗谷間と国後・択捉・北見地方ほかへの航行を命令し、逓信省は同じく同21年に日本郵船へ補助を開始した。
 この頃には小樽網走線、函館網走線などの定期航路のほか、補助によらないその他の不定期船もあり、紋別では明治25年に藤野家が廻漕業を始めて汽船「芳野丸」が回航したほか、「伊吹丸」「玄洋丸」「蛟竜」などが有名であるが、それまでも日本型船「清松丸」「三寶丸」を年に数回、江差・福山、函館から運航していた。
 昭和19年の紋別町史では、この汽船「芳野丸」の初入港の様子を『最初沖合遠く水平線上を走る船影を見、次いで汽笛を聞いたので、土人等は大いに驚き、ウエンヒラリの海岸に蝟集して男女圓陣を作り、泣くが如く又怒るが如く船影を望み糾號し、又は踊る者もあり、漸次船體に近づき、辨天岬まで移動して心得したか解散した』と伝えている。
 そして北海道庁補助航路の小樽-稚内間の運航が明治33年10月より、稚内-網走間は同34年5月からいづれも日本郵船によって開始され、小樽を起点に増毛、稚内、枝幸、雄武、紋別、湧別、常呂、網走を連絡していた。日本郵船の所有船としては「貫効」「玄武」「青龍」「北見丸」などがある。
 この頃の紋別港の状況について明治44年殖民公報第63号による「紋別の商況」に見ると汽船取扱店は3、廻漕店が3、艀業が4、運送業が5、旅人宿が9であった。

小樽港の埠頭 第弐拓地殖民要録/明治39年
 ○汽船運賃(明治29年/北見事情)
  ◆小樽―稚内―枝幸― 紋別―網走    ◆函館―稚内   ◆函館―根室― 網走
  上 6.00円 8.00円 10.00円 12.00円  上 12.00円   上 15.75円 6.25円
  下 2.40円 3.50円 4.00円 4.80円   下  4.40円   下  6.00円 2.50円            第17回明治の海運

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Posted by 釣山 史 at 22:52Comments(0)北海道の歴史

2008年02月17日

エッセイ、ふたつのモンベツ

~有島武郎と本庄睦男

□紋別教会と「或る女」
 伊達紋別のキリスト教会にある明治30年ころの写真には、明治の文豪有島武郎の小説「或る女」のモデル佐々城信子が写っていると云う。この信子の生家は元仙台藩士で、明治26年に旧知の伊達開拓団を頼って来道したが、その2年後には上京して国木田独歩と結婚した。
 このとき独歩は信子との新たな生活を北海道での開拓に求め、新渡戸稲造の紹介で殖民地を出願して空知を視察したりもしたが、その結婚生活もわずか半年に終わり、独歩の北海道移住計画は夢に終わった。そして後に、この体験を著したのが小説「空知川の岸辺」と「牛肉と馬鈴薯」である。


◆「空知川の岸辺」
 目的は空知川の沿岸を調査しつゝある道庁の官吏に会つて土地の撰定を相談することである。中略 石狩の野は雲低く迷ひて車窓よりの眺むれば野にも山にも恐ろしき自然の力あふれ、此処に愛なく情なく、見るとして荒涼、寂寞、冷厳にして且つ壮大なる光景は恰も人間の無力と儚さとを冷笑ふが如くに見えた。

 
□本庄睦男と私の一族
 さて、この教会には北見紋別の開発功労者の島竹貫一が関係していて、それは教会が明治24年に設立した「北海孤児院」に彼が一時期いたからで、教会には伊達邦成の主従も入信したが、その同族の伊達邦直らによる当別への入殖風景は、後に当紋別市(旧上渚滑村)へ再転住した本庄睦男の小説「石狩川」に詳しい。

  大観堂初版/昭和14年
◆石狩川
 をこがましくも作者は『石狩川』の興亡史を書きたいと念願した。川鳴りの音と漫々たる洪水の光景は作者の抒情を掻き立てる。その川と人間の接觸を、作者は、作者の生まれた土地の歴史に見ようとした。そして、その土地の半世紀に埋もれたわれらの祖父の思ひを覗いてみようとした。
  あとがき抜粋

 余談ではあるが筆者の一族も当別からの再転住であり、同じくに旧上渚滑村に住まいしたが、当別時代に本庄睦男の兄と私の伯父は職を同じくしたことがあり、転住後も父が甥と面識があって、私もほかの親族と同じ職場で働いたことがある。
 また、本庄家は佐賀県の出身で当別において小間物店をしていたが経営に失敗、そして私の父方の祖母の実家も九州の福岡県であり、祖父は同様に商売につまずいての旧上渚滑村への再転住だった。何ほど縁の深いことか。
  第16回歴史と文学                  西辰寺・本庄家の墓碑/紋別市内



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Posted by 釣山 史 at 00:04Comments(0)トピック

2008年02月16日

古書店、司書必見!

 最奥地であった道東北は開拓が遅れ、北見東部四郡の殖民事業が本格的に始動したのは明治20年代後半からであって、江戸末期から維新後の近代黎明期までのほとんどは藤野漁場の手によるものだった。ここでは町村史を除いた明治・大正の代表的な郷土文献を挙げる。

①網走管内殖民期の主要文献ベスト20点+1

    発  行  年    書        名           著   者    備  考
1   (明治4年)    北見州経験誌            松本 十郎   新しい道史
2   (明治12年)   北地履行記              酒井 忠郁    
3    明治16年   北海道紀行              吉田 健作   新しい道史 
4    明治19年   旧事録
5       20年   藤野家履歴                       根室市史
6       29年   北見事情               神田芳太郎
7       24年   北海道殖民地選定報文完              復刻本有り
8       26年   開拓指鍼北海道通覧        久松 義典 
9       27年   北海道實業人名録          松井 十郎   
10      31年   北海道殖民状況報文北見国    河野 常吉    復刻本有り
11      32年   網走港※1              貴田 国平    復刻本有り 
12      43年   北海之新天地            吉田 民鉄 
13      45年   北見之富源             貴田 国平 
14   大正 1年   北見繁栄要覧            菊池鈍二郎    復刻本有り
15       2年   北見発達史              大場篤三郎
16       3年   網走築港調査書※2        東条  貞     復刻本有り
17            北見と人物              都香 北州    復刻本有り
18       5年   北見要覧               安藤  誠
19            北見之林業             東条  貞 
20            網走支庁拓殖概要(~7年)   網走支庁      他年有り
21      6年   網走外三郡物産共進会報告   残務取扱事務所 写真帖ほか
             注)復刻本は網走港修築意見書・網走港湾調査報文並びに※1と※2の3巻
②文献の概要
1.松本判官が根室在勤中に斜里郡から宗谷郡まで視察したときの日記。
2.開拓使官吏の酒井が札幌より日高、十勝、根室、北見、天塩を巡回視察した報告書。
3.内務官僚時代の吉田が道内を視察したときの記録。吉田は北海道製麻の創設者。
4.藤野家の網走支店が開拓使網走郡出張所に提出した報告書。
5.天明元年から明治20年までの藤野家の活動の編年記録。
6.どちらかいうと宗谷に比重を置いたもの。漁家・商家、旅館などの人名録が有用。
7.北見調査は明治22年。地理、土性、用水、運輸などの基本情報を掲載。同30年第三報文まで有り。
8.久松は北海道毎日新聞の記者。特に漁業に詳しく実業家や村総代などの人名録が有用。
9.網走地方は明治26年12月末現在のもの。当時の実業名士録。
10.明治29年に地理、気象、産業など村落ごとに実地調査した詳細な記録。
11.網走港修築請願のために編纂された要覧。
12. 筆者も閲覧したことがない、極めて稀少な一品。
13.網走線開通を記念する北見東部四郡の概覧。有力者の経歴などに詳しい。
14.網走~池田の開通を記念した要覧。写真と広告が多い。
15.北見之富源・北見繁栄要覧とで3部作と云える。産業について詳しい。
16.網走港修築を祈念したもの。港湾調査書のほか貴重な資料が多い。
17.北見東部四郡の名士録。写真と広告が多い。
18.網走外三郡物産共進会での北見東部四郡の拓殖概覧。広告が多い。
19.北見木材大会の記録。活況を呈した北見林業界を知るに有用。
20.この外、いくつかの同種文献があるが本書にはかなわない。
21.共進会受賞者ほか、当時の有力農業者の氏名が一覧できる。      第15回オホーツク郷土文献目録(改訂第60回)

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2008年02月14日

奇才、ブラキストンの船

~明治初年にブラキストンが考案した新型漁船の図

 
 英国人で元軍人のブラキストンは多才な人物である。1861年には揚子江を探検して、その記録はロイヤルメダルを受賞した。同年に商社員として来箱すると、翌年には日本最初の蒸気機関製材所を建設し、そして内地と蝦夷地、蝦夷地の沿岸での船舶輸送を開始した。
 また、幕末からあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計なども行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒となった。後年、彼の名を一躍、世界に知らしめたのは野鳥の研究で、これがブラキストン・ラインの発見であった。
 面白いところでは、‘80年にはスポンサーとなり帆船競争を行ったと云い、これは船の改良を奨励するものだったが、明治24年の「北水協会報告第六十七号」に『英人ブラキストン氏考案漁船ノ図』なるものがある。
 2番目の婦人は北海道畜産の父と云われるエドウイン・ダンの姉。

 

 ⑫~⑭は古本ぐるいの戯言「北水協会報告」編です。
                                                                ⑭北水協会

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2008年02月14日

捕鯨銃

~郡司大尉の捕鯨銃

 郡司成忠は海軍大尉であったが、明治26年に軍を辞して「報效義会」を結成、千島開発に没頭・傾注し、後の北洋漁業の基礎を作った。幸田露伴の実兄であり、また、このとき後年に南極探検を行った白瀬中尉と行動を伴に占守島で越冬した。
 ここの「明治25年北水協会報告第七拾五号」では、郡司が現役時代から着々と北方開発の準備を整えていた一端をうかがい知れる。

                                                           第13回北水協会

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2008年02月13日

人魚を捕えて食らう

~明治の文献に見る人魚のお話し


 明治24年の北水協会報告第六拾六號に「人魚を捕る」という興味深い漁業時事が掲載されている。「北水協会」とは札幌農学校第一期卒の伊藤一隆が道庁の初代水産課長として発足させた水産団体で、会長に伊藤が事務局には同じく官吏の村尾元長がいた。とても面白い記事なのでここに挙げる。
                                         
                                                               第12回北水協会

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2008年02月13日

北見のハッカ

~薫るミントの風、「北見ハッカ」のはじまり

 夏毎に我家の庭には風薫るミントの花が咲く。かっては世界の7割強を産出した北海道のハッカも今は僅かに網走管内に見られるだけで、そのほとんどを産出した「北見ハッカ」の端緒は実に紋別市にあると云う。
 北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝されて翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山兵村の山形県人石山伝右衛門で、さらにここから渡辺精司が湧別村へ移入したことから、よって以後の道内薄荷はほとんどが山形系となった。
 この「北見ハッカ」の発祥には諸説があり、河野常吉によると明治31年に永山兵村から移入した同じく湧別村の高橋と有地、腰田らがそれと云い、『渡辺精司を湧別薄荷ノ元祖ト云フモ渡辺ヨリ其苗ノ擴マリシヲ聞カズ』としているのは、この調査時の湧別村の主な栽培地は高橋から導入した芭露であって、この時には渡辺は上芭露郵便局長にあったから、渡辺の地元では高橋からの導入によるものという河野の誤認であった。
 さらに湧別村への渡辺の転住も定かではないが、明治26年には湧別原野が開放され、また翌27年2月発行の「北海道實業人名録」では前住地に経営する商店の名義を11月付で倅の「精一」としており、当時の交通事情ほかを考えると少なくとも、同26年秋頃までには移住していたと推測される。                   (置戸町郷土資料館のハッカ釜)

 殖民公報第六十四號/明治45年
 本道の薄荷栽培 中略 本道に於て始めて薄荷の栽培を試みたるは今を距ること二十年前及ち明治二十四年頃にして石狩國上川郡永山屯田兵村移住山形縣人石山傳兵衛を以て嚆矢とす越て同二十六年五月福島縣人渡部精司之か苗根の分與を受けて北見國湧別に移植し同國地方に於ける蕃殖の基因をなしたり明治三十年上川郡の産額始めて統計上に上り三十四年に至りて上川は一時休止し北見國湧別を計上し、三十五年に同野付牛並びに上川を示し 後略 
 
 北見繁栄要覧/大正元年     
 そして渡辺が開拓地の選定のために北海岸を探査中、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生薄荷に着目、それを試験的に精油したのが明治24年で、これが「北見ハッカ」の濫觴であり、後に藻別村でも栽培を試みた。後年、芭露と並び「渚滑ハッカ」と云わしめたのは、高橋と共に栽培に専念した植松一族が渚滑村(現紋別市)へ再転住し、ハッカの栽培と買付けを行ったためであるが、その渚滑には近年まで当時の通称「ハッカ御殿」というものがあった。
 それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、この頃に屯田兵を通じて湧別から移植され、また別に広く伝播した理由のひとつに日露戦争の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息から薄荷の話を聞き、戦後に至って永山村から導入し成功したのが大きなきっかけであったとも云う。
 最後に昭和8年「北聯薄荷工場(北見ハッカ記念館)」の創業以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが建設され精製されていたことは余り知られていないが、また年月を経て移転不明となっていた「渡辺精司」の墓所も今はゆかりの上芭露墓地にあり、そこには「渡部」とあって直系は函館市にお住まいである。

 野付牛町に於ける北聯薄荷工
 昭和9年(網走支庁管内概況)









第11回北見ハッカのはじまり

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2008年02月12日

新撰組が作ったリンゴ

~北海道リンゴのはじまり

 私の伯母は上湧別町は屯田の出身で、昔は寒くなる頃によくリンゴを頂いた。今はわずかに観光農園にしか見られない網走管内のリンゴも、かっては「上湧別・北限のリンゴ」として道内の1/4を占める一大生産地だった。
 道内でのリンゴ栽培の始まりは、明治2年に開設のガルトネル農園(後の七重官園)と云われ、開拓使では明治4年に東京の青山、続いて札幌へと官園を設けて、翌年にはケプロンがアメリカから輸入した果樹を東京官園へ移植したが、この中にリンゴの苗木75種が含まれていた。これを明治6年に札幌官園に移して一般人への苗木の配布が始まり、翌年には早くも札幌に民間初の水原苹果園が開設されて、同11・12年頃から札幌と余市で結実するようになると、同14年には第二回内国勧業博覧会へ出品されるまでとなった。
 この苗木の無償配布は士族への特典が多く、それは士族授産の表れでもあったが、当時のリンゴは「作ったもの」ではなく「出来た」ものであって、買いに来たから売った程度のごく一部の先覚者らによる物珍しさと嗜好のためで、ただの観賞となることも多かったが、明治20年には札幌での栽培が急増し、同24年に「北海道果樹協会」が設立されて、翌年には「第一回果実品評会」が開催された。
 さて、幕末は新撰組に属し、隊の分裂後には敵対して近藤勇を襲撃したことで有名な「阿部隆明」は、維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所へ配属され、明治19年には札幌へ果樹園を開いて、苗木の生産と普及に努めたが、品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、「北海道果樹協会」の発足では中心となり初代理事となった。 「上湧別村史/大正9年」には『三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏 中略 最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せる』とある。

同じく開拓使吏員であった津田教助の白石のリンゴ園 
《写真》移住者成績調査第二篇明治41年
                                                                第10回リンゴの話し1

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2008年02月11日

網走郷土博物館の新発見!

~網走郷土博物館の「葛籠」と「高札」

〈網走市史〉
 
 同館の2Fの近現代史コーナーには「根室縣 網走郡役所」と朱書きされた「葛籠」がある。この「県」とは明治15年2月に開拓使が廃止されて3県としたもので、同19年1月には再び北海道庁に統一された。この間、根室県の開庁は明治15年4月で、郡役所の新築は同18年9月と云い、「葛篭」はその時のものと推測されるが、一説には郡役所の開庁当時からとも云う。
 さて、ここで注目したいのは、その隣りに展示される「高札」で、日焼け著しくかろうじて「太政官」と読み取れるそれに、もしやとの期待から知人らの協力もあって次ぎのように解読に成功した。
 ◆五つの禁令
 その高札は次のとおりの「五榜の掲示」の第一札と判明、これは「五箇条の誓文」が公布された翌日の慶応4年3月15日に公示された新たな政府の基本的な禁令で、この第一札は『五倫=守るべき5つの道理、鰥寡孤独廃疾ノ者ヲ憫ム=寄辺のない者への憐み、殺人・放火・窃盗の禁止』を説いたのもだった。                                  提供:網走市立郷土博物館                                  


 〇五榜の掲示
  第一札                                    
   一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事         
   一 鰥寡孤独癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
   一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事
                        慶応四年三月


 維新前後の新政府の施政も、わずか半年後には蝦夷地に上陸した旧幕軍のものとなったが、この間には政府の平井幸一郎なる者が網走場所を受領して引き継いだと云い、高札はこのときのものと思われる。
 新政府によるこれら「五箇条の誓文」や「五榜の掲示」などは、佐幕派の大名領では掲示されず、また戊辰の役では破棄されたりもしたが、最奥の北見へは事実上の榎本旧幕政権も及ばず、また実際には場所請負人の経営下にあったから、この高札も廃棄されずに保存されたと考えるが、当時の混乱した状況を鑑みたとき、たいへん貴重な資料である。         第9回オホーツクの明治維新

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


                                                 

Posted by 釣山 史 at 10:46Comments(0)オホーツクの歴史

2008年02月10日

網走でも行われた第一次南極隊の訓練

◆南極犬語り~モンベツにもいた南極犬


 全面改訂して、第162回へ移転しました。  

Posted by 釣山 史 at 23:25Comments(0)郷土の語り

2008年02月09日

樺太、オタスの杜

~オタスの杜の教育所と写真館

 全面改訂して、第161回へ移転しました。  

Posted by 釣山 史 at 12:16Comments(0)樺太・千島の歴史

2008年02月08日

エッセイ、バチラーの周辺者たち

歴史文学エッセイ
~「銀のしずく降る降る…」、バチュラーの周辺者たち

□有珠のバチュラー記念館
 貧しくそして社会的にも恵まれないアイヌ民族を庇護し、彼らのために学園を建設したバチラー博士は「アイヌの父」と呼ばれ、有珠のアイヌに生れて博士の養女となった向井八重子は、後に渡英して英国式の教養を身につけた才女であった。伝道師として生涯を神に捧げて同胞の救済に当った八重子、彼女の歌集「若き同族(ウタリ)に」はアイヌ民族の苦しみを日常の折々に詠んだものである。
 八重子は「万葉集」の研究者で歌人・国文学者の佐佐木信綱や「アイヌ叙事詩ユーカラ」を世に紹介して知らしめた同じく国文学者の金田一京助らの知遇を得て、また、同じアイヌ歌人の違星北斗は平取聖公会での同士であり、その北斗が売薬の行商を行いながらアイヌの不遇を訴えた遺稿集の「コタン」は和人への告発に満ちていて、この平取でのバチラーらの活動は現在でも聖公会バチラー保育園として続いている。
 そして武田泰淳の「森と湖のまつり」は人種差別を底辺としたシャモとアイヌとの浪漫小説であるが、その中で『八重子さんはもとより謙遜なキリスト教徒でありますから、自分から、自分はイレスサポであるなどと、主張したことはありません。しかし私どもが考えると、彼女こそアイヌ同胞のイレスサポとも呼んでしかるべき、お姉様であります・・・』と語られている。

◆「若き同族(ウタリ)に」

 島々は 群れ居るなれど 他人の島 貧しきウタリ 寄るすべもなし
 亡びゆき 一人となるも ウタリ子よ こころ落とさで 生きて戦へ
 墓に來て 友になにをか 語りなむ 言の葉もなき 秋の夕ぐれ(逝きし違星北斗氏)
 言語学者 新村 出/北海の歌びと八重子バチュラー女子が、佐佐木金田一两先達の懇切によって初めて世に著はされようとする此の歌集は、女史のウタリにとつては、全く空前の試みではないのでせうか。その事が、女史及び其のウタリのために、單に慶ぶべきばかりか、言はば同族の「文學史」ともいふべき方面に特筆大著して然るべきはないのでせうか。
 
 友人にはプロレタリア作家で戦後に新日本文学会を創立した宮本百合子がおり、八重子の影響を強く受けた百合子は、アイヌ民族の悲惨な境遇を小説「風に乗って来るコロボックル」に著し、アイヌ部落での見聞を「親しく見聞したアイヌの生活」としてまとめている。
                                                  アイヌ保護学園寄宿舎
□知里幸恵の「アイヌ神謡集」
 バチラーの伝道師となった知里幸恵の叔母金成マツは八重子らとアイヌ伝道団を結成して布教活動を行っていた。旭川近文において祖母から口承文芸を受け継いだ幸恵はその資質を金田一に見出され、ユーカラの記録を始める。
 その集大成「アイヌ神謡集」の出版のために寄宿していた金田一宅で、校正を終えたばかりの大正11年9月に持病の心臓病が悪化、若干19才の早すぎる死であった。翌年に刊行された神謡集は、独・伊・エスペラント語にも翻訳されパリの文壇でも紹介された。弟の真志保は北海道大学教授、文学博士で言語学者である。

 ここでは稿本との比較をしてみた。
◆「神謡集原稿」(知里幸恵ノート)

 『あたりに 降るふる 銀の水 あたりに 降る降る 金の水・・』といふ歌をうたひながら 川に沿ふて アイヌ村の方へとまゐりました.そうしてアイヌ村に着きました
 北の大きな村.廣々とした村を見ますと.昔の貧乏者が今は金持になつてゐて 昔のニシパが 今はヱンクルになつてゐるやうです。
◆「アイヌ神謡集」
 「銀の滴降る降るまはりに、金の滴降る降るまはりに。」と云ふ歌を私は歌ひながら 流に沿つて下り、人間の村の上を 通りながら下を眺めると 昔の貧乏人が今お金持ちになつてゐて、昔のお金持が今の貧乏人になつてゐる様です。

 ・・・奏でるかのような、美しい旋律である。 

 第6回文学エッセイ


                               
  

Posted by 釣山 史 at 23:48Comments(0)読書と北海道文学

2008年02月07日

スキーとスケート、ママさんダンプの始まり

昔の暮らしと遊び~あいすパラダイス語りのじかんから 子供の体験学習(紋別地区社会教育推進協議会より)
~子供向け、昔の冬のお話し   
                                
 -はじめに- 
〇冬の氷だし
 ・紋別の流氷祭りの「氷柱」はどこから持って来てるか分かる?
 今はゴルフ場のところにある通称「氷池」で作っている。昔(昭和40年代)は流氷も多く、港からもたくさんの氷が切り出されていたから、やっぱり今より寒かったのかな。
〇毛がに拾い
 ・毛がに拾いって分かるかな?
 皆さんのおじいちゃんやおばあちゃんが子どもだったころ、今から何十年も昔のころは、2月から4月の流氷の頃に、「毛がに」がうじゃうじゃ砂浜に上がって来て、1斗ガンガンでひとつ2つとたくさん獲れた。そんな時代もあったんだネ。

①昔の冬の暮らし
ア)除雪のおはなし
 ・ジョンバって知ってる?
 「ジョンバ」は北海道だけのことばで「雪なげ」のこと。古くは竹や木で作られていて、今の「雪なげ」の原型は旧国鉄(今のJR)のひとが考えたらしい。そして「雪押し」も雪の多い地方の国鉄でよく使われていたものが、昭和30年代後半に一般家庭にも広まった。ママさんダンプもずいぶん昔からあったんだネ。
 ・除雪のお話し
 北海道の道路の除雪の始まりは、明治9年(約130年前)に「屯田兵村」において「除雪当番心得」というきまりができ、ひとが2人通れるくらいの道幅を5人一組でふみ固めることにしたことから。兵隊さんの雪中行進が除雪の始まり。それから明治19年にはロシアから「馬そり」が輸入されると、それを三角に工夫して、今の除雪車のように雪をかくようになった。                 (上藻別駅逓所・鴻之舞資料館)
イ)昔の暖房
 ・ストーブの始まりは宗谷と紋別から
 今のようなストーブは江戸時代の箱館奉行に頼まれた弥五郎さんがイギリス船へ見学に行き、設計したのが始まり。初めは箱館で作られ蝦夷地(北海道)の各地に送る予定だったがなかなか必要な数ができないので、それで宗谷のアイヌ人の鍛冶屋さんが作ってみたところたいへんうまくでき、そこから網走や斜里、紋別に配られたのが始まり。
 ・ダルマストーブって何?
 ストーブには石炭用と薪用があって、「ダルマ型」や「タコ型」、「小判型」など面白い名まえのものが多い。このうち「ダルマ型ストーブ」は明治の初めころにアメリカから輸入されて、駅や学校などで使われた。明治の中ごろからは列車の中でも使われて、いろんなものを焼いて食べながら、おしゃべりをする風景が見られた。
 ・ストーブの小道具いろいろ
 意外と最近まではあっちこっちの学校にまだ石炭ストーブがあって、おじさんが子どものころは「石炭当番」というのがいて、石炭小屋から石炭を運んではストーブの隣りの席に座って石炭をくべていた。「ジョンバ(十能)」、「デレッキ(かぎ)」、「石炭箱」が当番の三点セットで、そのストーブで牛乳を温めたりイモやスルメを焼いて食べた。  
②冬の遊び道具
 ・子ども用そり
 子ども用の遊びそりもたくさんの種類があるが、おじいちゃんやおばあちゃんの子どものころは(おじさんの小さい時もまだあった)、サンタさんが乗るような押し手(背)とひじかけの付いたものが一般的で、少しぐらい深い雪でもすべることができた。
 ・スケートのはじまり
 江戸時代の終わりころに箱館にいた商人のブラキストンが始めたと云われ、「ゲロリやそりで坂をすべってはケガ人が出てあぶないので止めるように」と御触書が出ている。そしてお札にもなった留学帰りの「新渡戸博士」のスケートを見本に国内でもスケートが作られるようになり、明治の終わりくらいには子どもたちの間に広まった。昔は下駄スケートや竹スケートなどというものもあり、道路などで雪スケートをした。
 ・スキーの始まり
 北海道のスキーの始まりは明治41年に札幌農学校の「コラー先生」がスイスからスキーを取寄せたのが始まりで、のちにオーストリアの「レルヒ少佐」(日本で最初にスキーをしたひと)が旭川の軍隊で教えたりしたが、このころのスキーにはストックが1本しかなかった。北海道では古くはツバメ印の「ツバメスキー」が有名。                                        (上藻別駅逓所・鴻之舞資料館)

③冬のはきもの
 ・わらぐつとゴム長
 昔は雪が深いときは「カンジキ」を使い、また、わらで作った長ぐつ、「深わらぐつ」をはいたりした。ゴム長ぐつは明治からあったが、一般のひとがはくようになったのが大正になってからで、北海道では今もある小樽の「三馬ゴム」が有名(大正8年創業)。しかし昔のゴム長ぐつはすべって歩きづらく、仕事の時やたくさん歩くときは「つま子」と云うわらのくつをはいたりしていた。明治の後半ころから都会では丈の高い「雪げた」が使われるようになり、げたの歯にはつめがついていた。

                    (置戸町史)             (置戸町郷土資料館)




 大正時代にズックくつにゴム底をはった「防寒ボッコ靴」「開墾靴」として東北から樺太まで広く通販されて、使い安いとたいへんに人気があった置戸町の「大矢ボッコ」。ゴム底は「北海道護謨」、のちの「三馬ゴム」のものが使われた。

第5回郷土の暮らしと遊び

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Posted by 釣山 史 at 21:13Comments(0)子育て・子どもの学習

2008年02月06日

古本ぐるいの戯言

~古本のにおい
 現在、北海道の地方での明治・大正期に詳しい研究者は少なく、よって歴史の探求も次第に殖民時代が中心になると、図書館巡りや古本探しがひとつの趣味となった。
 もともと函館と松前に育ったこの私、小さい頃から古いものが身近にあり、通学した小学校が重要文化財だったくらいで、「古いもの」への思いが自然と身に付いたのか、古建築や古物に興味を引かれ、特に古本には執着にも似たものがあって、周りからは「オタク」とか云われているが、入手するものは後の研究となるものばかりで、余り触れられないまま古本屋や資料室の棚隅にあるよりは、ひとつの文化財として「利用し活用する者が所有すべし」が持論である。
 しかし、思わずニヤリとする古本との出会いもあり、悦びを感じることも多く、ちょっと危ういところもあって、何気に購入した古本が著名人の旧蔵であったり、サイン本や稀覯本にレア本など、しかし、一番の楽しさは思わぬところから長年の疑問が判明したときで、思わずヤッタネであって、資料の一つひとつの点と点、線と線とを結んで行く作業はことのほか楽しい。
 近頃では研究に要する文献資料も借受が難しくなり、地方というハンディもあって、購入する古本の下敷きとなりそうで、所蔵する文献も古本屋ですらめったにお目にかかれないものも多いことから、今では稀に「売って下さい」との問い合わせもあり、「見つけたら知らせてネ」など、業界では結構知られているらしい。
 さて、これら所蔵の中には明治中期の農業雑誌「北海之殖産」があり、全巻揃いは極めて稀な自慢の一品で、その旧蔵は札幌農学校第二期卒の「宮部金吾」博士で、同期には内村鑑三や新戸部稲造らがいて、また、松浦武四郎とも親交があったという。
 後に、この「北海之殖産」の続刊「北海道農会報」を入手したところ、それには「Hanzawa」のサインがあって、これは現在の納豆製造の基礎を確立した「半澤洵」博士であるが、今の「文化納豆」とはそのことであり、何よりも宮部博士の愛弟子であった。
 そしてこれらは遇々にも、以前の睦ましい師弟のように、今は私の書架に並んでいる。


宮部蔵書印の「北海之殖産」と半沢サインがある「北海道農会報」
  

第4回古本との出会い

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Posted by 釣山 史 at 20:34Comments(0)古書籍・古本

2008年02月03日

一番詳しい、ガリンコ号のお話し

~北海道遺産/ガリンコ号の歴史

□ガリンコ号とは「アルキメデスの木ねじの原理」を応用したアルキメディアン・スクリューと云う大きなドリルでガリガリ進むことから名づけられた流氷砕氷船。最初に流氷観光を手がけたのは稚内市の東日本海フェリーであったが、専用船ではなかったために氷海には限界があり、このときの運航継続は困難だったが、後に紋別市の「ガリンコ号」が登場すると流氷クルーズは一躍脚光を浴びて、平成3年2月には網走市に「おーろら」が就航した。

初代ガリンコ号のドリル
◆初代ガリンコ号
 もとは三井造船㈱がアラスカ油田の開発のために建造した実験船で船名を「おほーつく(ASV/アルキメディアン・スクリュー・ベッセル)」と云い、昭和56年12月26日に建造された時は2本のドリルだったが、同58年には4本となった。
 その前身のAST(アルキメディアン・スクリュー・トラクター)はトラクターのタイヤの代わりにドリルを付けて、サロマ湖や紋別港で試験が行われた。昭和63年の10月に氷海に閉じ込められたクジラを米ソで協力し、救出して大きな話題を呼んだが、その時に活躍したのがAST2号機で、最初の1号機は紋別に残り、現在はガリンコ乗り場に展示されている。
 その縁もあって昭和60年の実験終了に際し、巨大なドリルで厚さ50cmの氷を砕いて進む観光船に改造され、紋別港を母港に昭和62年2月1日に世界初の流氷砕氷観光船として登場した。
 この初代ガリンコ号は当初は一階建の定員32名だったが、翌年には2階建てに改造され、総トン数39トン、全長24.9メートル、定員が70名となって平成8年3月10日までの10シーズンに延べ8万人を超える観光客をオホーツクの流氷海へと誘った。現在は紋別海洋公園に上架され展示されて、迫力ある巨大ドリルが間近に見られる。


2008年春/お色直し中のガリンコ号Ⅱ
◆ガリンコ号Ⅱ
 二代目となるガリンコ号Ⅱは同じく三井造船㈱が設計し、石巻のヤマニシが建造して総トン数150トン、全長35メートル、旅客定員は195名、砕氷能力も厚さ60㎝以上となって平成9年1月20日に就航した。
 速力も以前の3ノットから9.5ノットへと大きく性能をアップして沖合10kmまでの航行が可能となり、これまでの冬季だけではなく、夏季にはフィッシィング・クルーズも行われるようになった。
 メイン駆動は寒冷地に強い戦車にも利用されるベンツの特殊エンジンで、2本のドリルはモーターで回転する。これは通常の「スクリュー」と「木ねじの原理によるドリル」の2つの推進力で、氷の上に乗り上げながら自重によって割って進んで行く。


第3回流氷とガリンコ号

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Posted by 釣山 史 at 00:13Comments(0)紋別の歴史トピック

2008年02月02日

オホーツク平ものがたり

□もんべつマガレイと大鮃のお話し

○動力船と「もんべつマガレイ」
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させ、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航して操業し、動力船での漁が急増したが、この時は主にマガレイが大量に漁獲された。
 後にマガレイがオホーツク海を中心に全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わり、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このような歴史的背景から「紋別マガレイ」がブランド化して行ったと思われる。
 ○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年にかけては沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


   斜里・紋別地方のアイヌのオヒョウ釣りの図   
           (蝦夷訓蒙図彙)                                    第2回もんべつマガレイ(第58回へ続く)




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Posted by 釣山 史 at 14:13Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史