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2008年02月23日

遠軽・湧別・雄武ほか開拓時代の特異者

~湧別・遠軽ほか紋別郡を中心とした開拓上での特異人物。

 さて、ここでは「オヤ!」と思う、余り知られていない郷土の開拓者達を簡単に紹介する。

・半沢真吉
 藤野番屋ではない初めての紋別郡戸長で仙台藩少年隊の生き残り。真吉は明治12年に函館税関に奉職、翌年には網走郡役所へ移ったのち、同15年には第3代紋別郡各村戸長となる。湧別村では未開地三千坪の貸付を受け農作を試作して西郷農商務卿の巡視の際には賞賛を受けたりしている。徳弘や和田よりも早い、網走管内での農耕の先駆け。後に斜里郡止別村へ転入して農牧業を営みながら小清水駅逓所を開設、また、つとに林檎の栽培と牧畜業の開発に努めた。晩年には斜里村に移って商店を営み、味噌・醤油を醸造したりもした。
・開進社/宮崎簡亮
 岩内ほか全道各地を開発した北海道最初の開拓会社の中心人物。開進社は失敗に終わったが、のち湧別・常呂・佐呂間・渚滑へ入殖して土佐団体を指揮し、この地方の殖民初期に与えた影響は大きい。その後は実業に転じて湧別村長も務めた。
・堀川泰宗
 枝幸砂金開発の功労者。後に湧別に転住して駅逓(旅館)や牧場を開設するなど実業に従事し、村議会議員をつとめたりした。大東流合氣柔術の中興の祖といわれた武田惣角に師事した達人で、後年に合氣道を完成させた白瀧の植芝盛平とは兄弟弟子。
・学田農場/佐竹宗五郎
 遠軽の学田農場に入り、盛んにハッカ栽培を行い普及にも尽力した北見ハッカの功労者で、キリスト教の布教に努めたピアソンの有力な支援者。
・木村嘉長
 渚滑村開祖の人。有名な仁木竹吉を補佐して仁木村をつくりあげが、そのころすでに旧開地と呼ばれていた余市・岩内からの網走管内への再転住は多く、有力な者が多い。
・藤島福治
 明治16年に雄武の幌内に入った福治はこの地方の漁業の草分けであり、駅逓取扱人や郵便局長を務めながら牧畜に力を注いだ。特出すべきは明治27年にリンゴの苗木1,000本を植栽したと云い、後に美幌へ転住して、そこで一大牧場を経営した。 
                                                                第22回郷土の歴史

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 09:20│Comments(0)オホーツクの歴史
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