さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  その他北海道

新規登録ログインヘルプ


2008年09月29日

最奥の駅逓(号外)

祝!! 「旧上藻別駅逓所」文化財指定記念

 ◆駅逓寮と島松駅逓























 旧駅逓寮と逓信省新館/明治39年(絵はがき)
 幕府の道中奉行所が統括した街道の宿駅制度を引き継いで、慶応4年閏4月(明治元年)に会計官下に駅逓司が設けられ、明治4年に始まった郵便事業は、この駅逓司が取り扱い、のち、駅逓寮、駅逓局を経て同18年に逓信省となり、同20年には逓信省の「テの字」を意匠化した「〒マーク」が制定された。近代郵便制度を確立した前島密は駅逓司の実質的な長官である駅逓権正であり、また、初代の逓信大臣は北海道にゆかりの深い榎本武揚であった。この駅逓寮は今の日本橋郵便局があるところ。


















 北海道新道一覧道中隻六/明治10年頃(抜粋)
 旧島松駅逓所は明治6年頃に建設された現存する道内最古の駅逓で国指定史跡。赤毛種の栽培に成功した「寒地稲作の父」と呼ばれる中山久蔵宅を駅逓としたもので、同14年の天皇行幸の際には行在所ともなった。クラーク博士が「青年よ大志をいだけ」という明言を残し、教え子たちと別れたところ。
 この島松駅逓を描いたと思われる絵画は安藤広丞の作で、明治6年に竣工した函館から札幌に至る新道沿線を双六にしたもの。


第86回上モベツ駅逓所、号外  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

   

Posted by 釣山 史 at 09:30Comments(0)トピック

2008年09月27日

上藻別駅逓所、文化財へ

祝!!「旧上藻別駅逓所」登録文化財に指定される!   

 保存会の皆さん、おめでとう!
  高地さん、そしてご支援いただいた皆様、ありがとう!! 


 オープン当時の報道








































































 文化財指定を知らせる道新






































































 同地元紙



第85回祝!やったネ、文化財へ!!  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:02Comments(0)トピック

2008年09月26日

最奥の駅逓(第4回)

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり4~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第82回)につづき~駅逓取扱人とは

◆黎明期の駅逓
 エ)駅逓取扱人の資格
  七條 驛遞取扱人ハ左ノ各號ニ該當スル者ニ限ル
  一 二十年以上ノ男子ニシテ土地又ハ家屋ヲ有シ及業務上必要ノ設備ヲナスノ資カヲ有スル者
  二 人馬車纘立營業者ノ資格ヲ有スル者
     故意ヲ以テ郵便電信ニ關スル罪ヲ犯シ其刑ニ處セラレタル者又ハ禁錮以上ノ刑二處セラレタル者若ハ家賃分散ノ宣告
   を受ケ債務ノ辧償ヲ終ヘサル者ハ驛遞取扱人タルコトヲ得ス驛遞取扱人ハ其地方在住者ニシテ驛遞取扱人タル資格ヲ有
   スル保證人ヲ立ツルヲ要ス (駅逓所規定/ 明治33年)

 明治33年の規定での駅逓取扱人の資格はこのとおりであるが、多少の改定はあっても以後も概ねこのとおりであった。大正15年に開設した「上モベツ駅逓所」の高地氏によると実際には公職の経験がある者などとあって、取扱人へ与えられた特典は大きく、同駅逓所への出願は28人にもなり、官吏への運動費として一財産を失った者さえあると云われるくらい激しいものであったという。
 これについては明治25年開設の野上駅逓の角谷栄政も「六号駅逓取扱拝命者は笛田茂作、先代政衛とイトコです。紋別地方の有力者で、六号は湧別方面との交差点で人口希薄な当時でも八人も出願者があり、普通の人では見込みがないので、笛田茂作に出願してもらつたとのことです。 中略 駅逓が許可となり笛田茂作代理人として明治二十五年十二月野上に移転して駅逓業務を開始したのです。」とある。この笛田茂作とは明治14年に渡道して湧別村へ入り、のち紋別戸長役場書記、総代人となった人物である。
 また、訓子府では希望者の「岩淵周之助」が戸長だったので取扱人とはなれず、北光社の農場管理人で後に道会議員となった有力者「前田駒次」の名義をもって駅逓所の経営がなされ、このように当時の有望地では、大きな取扱人の利益を求めて、度々、名義の貸し借りが行われたのである。


 現在の野上駅逓跡            明治30年の駅逓/遠軽町史     笛田資料/遠軽町郷土館蔵  
 












第84回上モベツ駅逓所、その4  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:15Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月21日

歴旅・温泉、白滝編

白瀧村は旧母村に復して遠軽町となった。

□白滝温泉ホテル~意外に良かった静かな温泉

 若干の湯の花があるほか、泉質、浴場ともに特徴はないが、私には効くらしく、体がだるくなり眠くなった。段差のないユニバーサルデザインはお年寄り向けで、家族風呂もあってハンデイのある方には優しい温泉宿である。

~閉鎖されました。
  
 ・原  泉:35.9℃
 ・単純温泉:加温かけ流し
 ~内ぶろ1、露天1、家族風呂とラジウム岩盤浴あり
 ~1泊2食:6,900円から
 ~日帰り湯:大人500円、小人300円
 ~名物料理:鹿ステーキ山菜料理
   ℡0158-48-2226












◆史跡・白滝遺跡群
 旧白瀧村は黒曜石の原産地であり、「遺跡のむら」として知られ、大よそ1~2万年前の約100ヵ所もの遺跡が点在する世界でも稀に見る旧石器のまち。
◆合気道開祖と大東流ゆかりの地
 大東流の達人・武田惣角の流れをくむ、合気道の開祖・植芝盛平は明治45年に和歌山県から入植した。堀川泰宗は枝幸砂金山の開発に活躍して、のち湧別村に入り武田惣角から大東流を学び、また、渋川流の柔術を良くした。泰宗の子、幸道が興した幸道会には町村金五、堂垣内尚弘、安田貴六らがいる。
◆遠軽家庭学校
 大正3年に遠軽町社名淵に設立された遠軽家庭学校は同5年に白滝へも農場を開設した。昭和16年には白滝の全小作約80戸500人を開放した。


道の駅で買った石ヤリのレプリカ
第83回復活!白滝温泉   北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 12:29Comments(0)旅と温泉

2008年09月18日

最奥の駅逓(第3回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり3~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第80回)につづき~北見道路に見る駅逓の実際

◆黎明期の駅逓
ウ)中央道路に見る駅逓
 網走より上常呂を経て、湧別に至る道上に繁茂せる草木を明二十九年度に於て、春秋二回刈除すること。この間の道路は新設以来人民の往来稀少なるを以て草木繁茂し、ほとんど道路の用を弁ぜず、就中白揚樹はその幹経一寸以上にして、高さ一丈余に達し荷物の駅送困難なるは、勿論馬車の往復は全くこれをなす能わず。故に明春融雪の際に於て、一回の刈除きをなし更に秋季に至り春季刈除きの根株より、生ぜしものを再び伐採するに非らざれば、三十年度移住の際行通運搬を阻害する憂いあり  北見国常呂湧別出張復命書/明治28年(資料3)
 網走上川間道路 概ネ山道ナレモ嶮岨ナラス唯春雨秋涼ノ際泥濘軟膨馬足ヲ沒シテ通行困難ナリ且從來旅人稀少ニシテ驛舎ノ生計容易ナラサルヲ以テ間々舎ヲ空フシテ出稼キニ赴ク等ノ事アリシガ近頃屯田兵屋ノ工事アリ通行スル者増加シ各驛共稍々注意スルニ至レリ  北海道殖民状況報文/明治31年(資料4)
 その頃は(明治26年)まだ中央道路を通行する人馬もなく、アイヌ達が狩猟で得た獲物(鹿・狐・リス)を持ってくるので、これを塩・油・焼酎・米などと交換しその獲物がたまると父は、網走まで搬送してまた物資を仕入れて来ました。中略 駅逓の仕事も相内や湧別原野に屯田が入ってから急に忙しくなり、通行人もふえましたが人馬の継立の仕事は私が受持ちました。  千葉新太郎・三女タケの憶出から(父)新太郎のこと/留辺蘂町開拓小史(資料5)~四号(留辺蘂)駅逓

 札幌から旭川を経て北見・網走へと至る中央道路の本工事は、旭川側(上川道路)が明治23年4月に、網走側(北見道路)では同24年4月から開始され、途中、屯田兵村の設置のために安国から野付牛を経て網走へ至る経路に変更されて同24年12月に完工した。そして翌年からは沿線各所に駅逓が建設されたが、正式な取扱人が定まるまでは、札幌在住の御用商人などの仮名義とし、また、実際の入地までの間は無人駅として利用され、旅行者は携帯した食料を備え付けの鍋釜で炊いて食べた。特徴的なことは、網走から旭川へ向かって1号から12号までの付番で呼称された。
 しかし、ここの通行は険しく、北見地方の人口も極めて希薄で利用者は少なく、道路は次第に退廃して(資料3・4)、明治28年に内務官僚が網走行きを相談したところ、道庁の警察部長が中央道路は通行不可能であり札幌から苫小牧に出て釧路を経るか、小樽から汽船で網走へ至るかを勧めたと云い、当時はこれが普通であって中央道路を通る場合でも多くは野上から湧別を回り海岸沿いに常呂を経由した。明治29年には中央道路が修築され、同34年からはここでの郵便継立が始まったが、各地の道路の開鑿が進み、同37年に名寄-興部間が開通して北海岸(オホーツク沿岸)との接続が容易になると、指定郵便路線はこれに変更されてしまった。
 このように当初の奥地の駅逓は補助はあっても経営はままならず、明治30年に「北海道国有未開地処分法」が公布され、女満別、渚滑原野ほかが開放されて、同年に野付牛と湧別に屯田兵村が置かれてからは徐々に通行者も増えていった(資料5)


  四号(留辺蘂)駅逓/留辺蘂町開拓小史                        五号(佐呂間)駅逓跡

第82回上モベツ駅逓所、その3  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 18:49Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月16日

マル秘・蟹工船事件

実録/蟹工船・博愛丸事件を㊙政府資料に見る

































第81回船上のタコ部屋労働    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
































  

Posted by 釣山 史 at 20:39Comments(0)北海道の歴史

2008年09月15日

最奥の駅逓(第2回)

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり2~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)
 前回(第79回)につづき~藤野漁場から島竹さんへ、新発見!島竹さん以外にもあった紋別の駅逓。

◆黎明期の駅逓
 イ)人馬車継立所と島竹駅逓
 当地においては、藤野家の使用人であった阿波(明治26年5月没)の後任は「島竹貫一」とされて来た。しかし「北海道實業人名録・明治27年(明治26年12月付)」においては「旅人宿・島竹清作」とあり、いっぽう「人馬継立所・旅人宿・久保田幸助」ともあって、この久保田とは同23年~25年までの間の紋別郵便局長を務めた藤野家の関係者と思われる人物である。
 これは先にも述べたが明治21年に駅逓を廃止して「人馬車継立所」としたもので、同28年に「駅逓補助金支給規定」と「官設駅逓所取扱規定」が定められて、人馬車継立営業に包括されていた駅逓業務が分離されてたもので、この「継立と宿」の両方の機能を兼ね備えたものが駅逓であることから駅逓取扱人はもうひとりいたことになり、後の同33年には「駅逓所規定」が制定されてあらためて駅逓所となったもので、これら制度の過渡期には「人馬継立所」と「駅(駅逓)」の語が併用された。そして以後に幾度かの制度の改定はあっても基本的には変わりはなく、駅逓所は戦後の昭和22年3月まで存続した。
 さて、興味深いことは「北海道人名辞書・大正12年」によると島竹(片野)貫一は明治29年に国内最初の民間鉄道である日本鉄道会社へ入社し、同31年に北海孤児院の教育係として来道したもので、同32年には渚滑原野へ入り、翌33年に駅逓取扱人を命ぜられたが、これは北海孤児院には牧場があって、駅逓経営に必要な馬の取扱いと駅員としての経験が買われたと考える。


    北海道實業人名録/明治27年~紋別、湧別駅逓ほか中央道路の各駅逓が見られる                 北見繁栄要覧/大正1年



第80回上モベツ駅逓所、その2  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

Posted by 釣山 史 at 21:58Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月13日

最奥の駅逓(第1回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり1~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)

 幕藩時代には会所、運上屋、通行屋、旅宿所と種々に呼ばれて、維新後には会所・運上屋が本陣、通行屋・旅宿所が脇本陣となり、明治5年に旅籠屋並・旅籠屋と称したのちに「駅逓扱所」と改称した。駅逓とは運輸と宿泊を一体化したもので、当初の多くは郵便局を兼ねて通信業務も行った。
 開拓使事業報告/明治18年
◆黎明期の駅逓
 ア)藤野漁場による駅逓の経営
 北海岸沿いの北見国東部四郡(網走管内)において、前時代から開設された駅逓は斜里、網走、紋別の3駅である。根室県時代は新たな駅に起業費を貸与して補助金を支給、それを年賦で返還した。明治21年に3県別々であった制度を「人馬車継立営業規則」に統一して駅逓を廃止したが、同33年に改めて「駅逓所規程」を定めて駅逓所を各地へ配置し、駅間の距離は大よそ7~8里とした。単に「駅」と云ったり、「駅逓所」と呼んだりするのはこのことによる。

 堅柔ノ砂道或ハ丘岡或ハ波打端狭キ道三十二三丁歩シ紋別駅ニ達ス網尻駅ヨリ路程二十二里三分五厘紋別駅ハ方位子丑寅郡中沿海本道大概砂地ニシテ 中略 駅ニ和人寄留四戸旧土人三十七戸駅逓ハ藤野伊兵衛出店ニテ扱官馬十一頭和土人持馬六頭村社嚴嶌神社四間三間一棟寛保年度村山傳兵衛創立旅舎ハ営業ノモノナシ藤野氏ニテ兼業ス一賄常例金八銭相對ハ五銭ヨリ七銭木賃一泊十銭総テ漁業一途ニシテ佗業ノ者ナシ  北地履行記/明治12年

 さて、最奥地の道東北では明治に入っても漁場しかなく、通行者もほとんどがそれに関係する者で、依然として漁場請負人により維持されていたが、さらに明治9年には漁場持が廃止され、それまでの駅舎等の一切が買い上げとなって、補助を受ける官設となっても、この地方での駅逓経営は同じく藤野家の手によるものであった。明治19年の「藤野家旧事録」によると「網走支店/駅逓取扱人仮役 竹中健次郎」、「斜里郡出張店/郵便・駅取扱兼山田梅太郎」、「紋別出張店/駅逓取扱人 阿波徳助」とある。
 旧町史では「當時又十藤野家支配人龍田治三郎が副總代として居た外、驛遞舎番人に士族の阿波德助なる者あり、此の人々が明治十四、五年まで居住して、當時越年した和人の教導者になつてゐたのである」とある。
 島竹駅逓/明治後期の紋別市街
 斜里駅等ニ至リテハ、駅逓馬之内乗用ニ適スル馬頭ハ、多ク藤野支店ニ於テ各所漁場ニ使用シ、官吏通行之際ニ不得止継立ヲ為スモ、人民中ヨリ依頼スル事アルモ、漁業中ハ容易依頼ニ応セス、偶々之レニ応スルモ相対継立ト唱ヘ、定額賃ニ五割ヲ増シ賃金ヲ請求スルノ習慣、自然一般制規之如クニ心得更ニ恐ル処ナシ、故ニ人民中ニシテ人馬使用ハ総而相対人夫ヲ傭シ、駅○人馬傭フルモノナキヲ以テ、官吏通行一途ニ建駅セシ者之如ク、年々各駅ニ於テ収支相償ハサルモ、是等ニ原因スルナラン、元来駅逓取扱ラ藤野支店ニ命スルモ、人物ノ乏シキ不得止ニ依レハ、素ヨリ同店志願ニ非サレハ憤発勉励之志シナキ、而已ナラス取扱ヲ負担スル者ハ皆ナ同店雇人ニシテ、損益自身ニ関スルニ非サレハ、駅馬之如キ他之継立ヲ拒シテ已レノ乗用ニ供スルノ風ナキ能ハス、後略  根室県大塚九等属復命/明治17年

 このころ、斜里などでは駅馬を漁場で私用して繁忙期には旅人の利用を拒否し、あるいは5割増の料金を請求するなど不正があり、郡長から不評を買い、また、根室県の監査で指摘されるに至って、藤野家では明治18年に内部へ向けて「駅逓及旅客扱役」という心得書を発して改善を図った。

           第79回上モベツ駅逓所、その1北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/








 阿波徳助墓碑/紋別墓園
  

Posted by 釣山 史 at 08:19Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月06日

戦後の北方領土開発計画

レア資料発見・元開発局長の北方領土開発計画
 ~色丹島並に歯舞諸島の概況と開発計画/昭和31年
 (抜粋1)色丹島の開発計画


 小川譲二は北大を卒業して戦前の北海道庁へ入り、戦後は総理府を経て北海道開発局に移った初代の建設部長で二代目の局長。この開発計画は部長時代のもので、私案としながらも大変に興味深いものである。父の二郎は札幌興農園を創設し、五番館を開業した人物。
 
































































































第78回北海道開発局の北方開発

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 08:20Comments(0)樺太・千島の歴史

2008年09月03日

歴旅・温泉、愛別編

久しぶりの協和温泉

 愛別市街から愛別ダム・岩尾内湖方面へ車で10分位の山中の田園にある冷泉。明治の開拓者によって発見された湧水は古くは「美志内(うつくしない)の霊泉」と呼ばれて昭和のはじめ頃には宿が出来たが、しばらくして廃業。その後に町の有志が募って資金を出し合い、昭和44にあらたに温泉宿を開業した。
 下川・五味温泉と同じく天塩山系にあるためか、同様の炭酸水であるが、こちらの方が辛いようだ。飲用も出来て高血圧症・慢性消化器症・糖尿病・動脈硬化症・便秘などに効果がある。その昔しは子供たちが砂糖を混ぜてラムネにして飲んだと云う。
 さて、「きのこの里」で有名な愛別町にあるだけに宿の名物料理もやはりきのこづくしで、私は必ず「きのこラーメン」を食べる。


   ・日帰り入浴料 大人 500円  小人 250円 
   ・宿泊1人 7,350円から(名物のきのこフルコースでは9,450円)
   ・℡01658-6-5815/Fax6-5807
   ○源 泉 8.1℃
   ○P h 5.6
   ○湧水量は少なく、加温したお湯に湯船で混入する方法がとられている。

  ~昔しの旅館風のお年寄り向けの落ち着いた、オススメの温泉宿。


























第77回辛い温泉

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 18:02Comments(0)旅と温泉

2008年09月01日

全道の駅逓

 ~校正しました。第138回へ移転します。
  

Posted by 釣山 史 at 06:58Comments(0)北海道の歴史