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2014年07月15日

青函連絡船前史

津軽海峡を彩った船たち 釣山 史 ①青函航路での航送開始は、大正3年(1914年)である。本年は、青函航送100周年であり、日本海難史上最大の惨事である洞爺丸事故から60年目に当たる。本稿では、航送開始までの青函航路の歴史を語る。 ②松前藩の江戸後期の御用船は、全てが近江商人などに委託され、幕末における「長者丸」は、場所請負人・藤野家の所有船であった。白神岬と龍飛岬にのろし台が設けられ、福山~三厩間の発着を知らせた。そうして青函での定期航路の始まりは、文久元年(1861年)で、江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復し、箱館奉行は、慶応元年以降の幕吏移動を3~8月は箱館~佐井、9月~12月が箱館~青森とした。 ~記録によれば天保年間の手船に長者丸(九百十三石)のほか、吉祥丸(六百三十一石)、叶丸(九百三十一石)、天神丸(?)があった。 ~青函の定期航路は、文久元年(1861年)8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。萬延元年箱館全圖 米国艦隊旗艦・ポーハタン号 ③左図で目を引くのは、「御台場」と「御役所」である。「弁天砲台」は、はじめ松前藩が岬に土塁を築き、のちに幕府が海を埋め立てて堅牢な砲台場となり(文久3年(1863年))、明治29年には港湾改良が行われて函館ドックとなった。「御役所」とは、箱館奉行所のことであり、箱館戦争の終結後も開拓使出張所や函館支庁・函館県庁として利用した。そして図の埋立地には、高田屋嘉平が建造した造船場とその隣りにはブラキストンの邸宅地が見られる。廻船業の高田屋と貿易商のブラキストンは、造船の重要性を唱えていた。 ~幕府は、ロシアの進出に対応し、寛政11年(1799年)に東蝦夷地を直轄した。享和2年(1802年)には、蝦夷奉行(同年に箱館奉行と改称)を置き、翌年に奉行所を建設した。 ~安政元年(1854年)に日米和親条約が締結され、再び、箱館周辺は上地されて箱館奉行が再置し、翌年に箱館は開港した。「亀田御役所土塁(五稜郭)」が完成したのは、元治元年(1864年)である。 ④初めて箱館に来航した外国船は、寛政5年(1793年)のロシア使節・ラクスマンだった。日米和親条約の締結によって安政元年(1854年)4月15日に開港予定の箱館港を検分しようと米国艦が来函し、ペリーは遅れて21日に入港した。同年8月30日には、プチャーチンが入港して箱館奉行に交渉を求めた。こうして外国船の往来が盛んになり、箱館奉行は、慶応元年(1865年)にアメリカ領事のパークスから寄贈された火灯を信教丸に取り付けて灯明船とし、そして開拓使は明治4年に灯明船戒礁丸を弁天岬の地先に配置した。 ⑤ブラキストンは、慶応元年(1865年)に外航と内航の事業を開始し、箱館戦争では軍事物資を輸送して旧幕の敗残兵を押送した。明治6年に始めた大間~函館間の定期航路であったが、開拓使の妨害に遭い、わずか8ヶ月間で中止してしまった。 ~英国軍大尉のブラキストンが、初めて箱館にやって来たのは文久元年(1861年)で3ヶ月ほど滞在した。商社員として文久3年(1863年)に再来すると翌年には日本最初の蒸気機関製材所を建設し、慶応元年(1865年)には、内地と蝦夷地、蝦夷地の沿岸での船舶輸送を開始した。 ~また、幕末からあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計を行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒で、そして世界に名を知らしめたのがブラキストン・ラインの発見であった。面白いところでは、明治13年にスポンサーとなって帆船競争を行った。 ~明治6年に開拓使は、自らによる青函航路の増強を図ったが、ブラキストンと競合することとなり、また、黒田長官の薩英戦争の遺恨もあって露骨な営業妨害が行われたと云う。 ⑥咸臨丸は、箱館戦争では旧幕軍の軍艦として、維新後には開拓使の付属船となって青森~函館間の輸送に当ったが、幕府から引き継がれた他の船に薩摩藩から献上された洋式軍艦・昌平丸がある。安政4年(1857年)には、箱館奉行から要請を受けた続豊治がスクーネル型・箱館丸を完成させた。奉行所は、君沢形のスクーネル型船2隻の回付を受け、箱館丸と同型の亀田丸や和洋折衷の豊治丸を建造し、また、箱館に入港した米国ブリック型船・健順丸を購入するなど、海運の整備に当たった。 ~咸臨丸は、オランダのホップ・スミット造船所で建造された木造船で全長49㍍、幅7㍍、排水量は625㌧、100馬力、大砲が12門あり、原名をヤパン号と云った。安政4年(1857年)8月に長崎へ回航して海軍伝習所の練習艦となり、万延元年(1860年)の遣米使には、勝海舟や福澤諭吉、ジョン万次郎らがいた。 ~明治4年(1871年)9月20日、入殖のための仙台藩片倉家一行を乗せて台風のために破砕、木古内町のサラキ岬沖に沈没した。 咸臨丸難航図 ⑦開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有した。明治6年には、スクーナー型の木造船・弘明丸(206トン、40馬力、積石約500石、旅客数100名)が函館~青森、函館~大湊の定期航海を始めて、後に森・室蘭へ航路が延長された。 ~弘明丸とは、明治3年(1870年)に横浜の鈴木保兵衛らが横浜~東京間に就航したもの。 ~玄武丸と矯龍丸は、開拓使がケプロンを通じてニューヨークのペイロン造船所で建造したもの。玄武丸は、黒田長官大砲事件のときの官船で、また、千島樺太交換条約や台湾問題などの重要外交に関係した。 ⑧豪華なサロンを備えた鉄船・明治丸(国重要文化財)は、英国のネピア造船所において建造され、明治8年横浜に回航した。明治9年の奥羽・北海道御巡幸の帰路、函館を発した明治丸は無事、7月20日に横浜へ安着し、これを記念したのが「海の記念日(海の日)」である。 ~明治元年に新政府は洋式の灯台建設を開始して、高性能の灯台船が必要となった。明治8年11月に小笠原諸島の領有権問題が発生した際、英国軍のカーリュー号より、2日早く着いて調査を開始した。 ⑨明治41年に国鉄で最初の連絡船「比羅夫丸」と「田村丸」が就航した。国内最初の蒸気タービン船は、速力が速く、船内設備も充実し、また、それまでの日本郵船に比べて、サービスも良く運賃も安かったので乗船客が集中した。いっぽう、激増する貨物については、日本郵船とのサービス合戦となり、双方相成り立たたない状況に逓信省が斡旋に入って、日本郵船の定期航路は明治43年に廃止された。 比羅夫丸 病院船に艤装した弘済丸 ~比羅夫丸の就航は、明治41年3月7日で、田村丸が遅れて4月4日だった。船体の飾り線を比羅夫丸が白、田村丸は赤にして区別した。大正13年まで使用される。 ・総トン数  約1,480㌧ / ・全長  約89㍍ ・馬力  3,367PS(パーソンス式全反動タービン) / ・速力  約18.4ノット ・旅客定員  436人 / ・貨載量  239㌧ ・造船所  イギリスのスコットランド、ウィリアム・デニー社 ⑩日本郵船の定期航路が廃止された後、なお貨客は増加して、また、第一次世界大戦における海運・造船の活況から新造船価格がは暴騰し、鉄道院は日本郵船ほかの傭船に頼った。明治32年(1889年)に進水した「弘済丸」は、平時は輸送船として、有事には艤装して病院船となった。 ~姉妹船には、小林多喜二の「蟹工船」のモデルになった博愛丸がある。 ⑪明治43年12月から供用が開始された木造製のT字型桟橋は、342㍍沖合へ突出し、旅客が直接桟橋で乗下船が出来るようになり、また、小荷物も桟橋で降ろしてトローリーで運搬した。大正3年には、連絡船の待合所を函館駅から分離し、翌年から駅と桟橋間を列車が運行した。続いて大正14年に連絡船専用の鉄筋コンクリート製繋船岸壁が完成し、前年からは、竣工した一部の岸壁に連絡船が直接、横付けできるようになって駅と新岸壁を列車が結んだ。 ⑫⑬北海道の開発が進み、鉄道網が拡大すると、機関車と貨客車の道内への搬入が大きな課題となった。いちいち解体、荷造り、組み立てをしていては非効率である。そこで大正3年に艀船「車運丸」の運用を開始し、併せて可動橋が建設され、これが青函での車両航送の始まりであった。大正13年には、翔鳳丸、津軽丸、松前丸、飛鸞(ひらん)丸が就航し、翌年には、工事中だった第一、第二岸壁が完成して、同年8月1日、待望の貨車積み航送を開始した。 ~車両航送の発祥は、鉄道院から下関~小森江間の航送を請け負った宮本組が明治44年3月1日から試験航送を行い同年10月1日に正式営業を開始したのに始まる。 ~函館ドックで竣工した車運丸は、全長120フィート、幅26フィート、325㌧があり、軌条3本、機関車1両、客車が3両、7㌧貨車のときは7両まで積載できた。手捲きウインチによる可動橋を使った。 ~第一次世界大戦の影響による船舶不足と鉄道輸送の高まりに対応するため、いよいよ直積み航送が開始されることになり、その一号船は、浦賀ドックで建造された翔鳳丸3,461㌧で、貨車25両、旅客895人を輸送することができた。青函での直積み航送試験は、大正14年5月21日に始まった。 ~最初の航送船、翔鳳丸、津軽丸、松前丸、飛鸞丸は、昭和20年7月14日の空襲で全てが撃沈された。 大正時代の桟橋 貨車積み曳航される車運丸 3条貨車積みの津軽丸








第360回 連絡船のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 05:50Comments(0)北海道の歴史

2014年07月05日

(再)湧別煉瓦建築群/湧別町


 (再)湧別煉瓦建築群/湧別町 またまた、友人と近隣を巡見しました。 かっては世界のハッカの7割を産出した北見地方。その代表的な産地でハッカ成金を輩出した湧別村は旧名寄線と湧網線の分岐点でもあり、また、“北限のリンゴ“として良く知られ、現在も地域には倉庫のほかのレンガ建築が多く残る。熊本県出身の屯田兵であった藤島倉蔵は、湧別川が運んだ重粘土を利用してレンガを製造しようとカネ辰鈴木商店の支援を受け、大正7年に二区高台に「中湧別煉瓦工場」を創立した。それは鈴木商店が手広く北見ハッカを扱った関係からハッカ栽培に熱心であった湧別兵村とは関係が深く、また、蒸留釜にはレンガが有効であったからであろう。工場長には熊倉栄松、職工長に成沢某らがレンガの先進地であった野幌から呼び寄せられた。大正9年には栄松が経営を譲り受け、昭和16年に渡辺亀助が工場を買い取って、現在は「興農セラミック」へと引き継がれている。

第359回 レンガの魅力      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 09:56Comments(0)古民家・古建築