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2013年10月30日

ホタテの歴史、猿払、紋別













































 最初期のホタテの利用~むしろ貝殻が目的 栗本鋤雲の「箱館叢記」 /『帆立貝は六ヶ塲所中季子内の濱、又内地南部の東濱にも在れと、繪鞆産の大なるに及はす。又土人西地リイシリ島に出るを第一とすれと、是は其殻の厚くして能く火に耐るを以て、鍋に代ゆるの便を云ふのみ、味の論にあらざるべきか。』/明治12年。 蒔絵ホタテ貝皿/室蘭市民俗資料館 アイヌの蜀台/北大北方民族資料室 ○皿貝とも云われるホタテは、むしろ食器や装飾品とされていた。○戦時中に湧別漁協は、食器の代用品として大量の貝殻を軍へ発送した。 専業的ホタテ漁業のはじまり 村尾元長の北海道漁業志要 『漁具は「ホタテ」八尺と稱するものを用ゐ磯舟一人乘若くは二人乗にて漁す 漁獲は從來其殼を主とし身は鮮にて食用に宛て或は粗製の丸干となし産地に消費せしが近年は之を精製して清國に輸出するに大に聲價あり且つ其大なるものよりは寧ろ小なるものを貴ぶが故に漁業者極めて小なるものを漁するに至る從て其殼は小にして殆と價値なし 産額は年々差異あるは勿論なれども近年の景況を見るに二十四年は乾海扇百四十七石二十五年同上二百八石二十六年同上四百八十八石にて年々增加の傾あり殼も内地に輸出し又室蘭には土産の一として人工を加へて小皿用に造り發賣す』/明治30年 ○ホタテ漁は、明治中期に後志と噴火湾で盛んとなった。 ○最初期の道内各地の漁場開発に石川県人など北陸衆が果した役割は大きい。 ○乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点に道内各地へ回航するようになった。 ○新たに有望となったのがオホーツク海の猿払や紋別であり、また、後に根室地方で潜水漁業が始まった。 ○国後では、明治18年にホタテを確認したが乱獲されてしまい、同24年に漁労を再開して同30年には根室の諸島で潜水漁業が始まった。大正年間から昭和18年頃迄は千葉から多くの潜水夫が出稼ぎに入っていた。 オホーツクでのホタテ漁業1 猿払騒動 猿払は明治24年頃に石川県人が漁場を開発したことに始まる。大正2年の殖民公報に『家族を併せて總計7千人餘商賣其他のもの約二百人あり左の如し』とあるようにたいへんな興隆を見るに至った。しかし、乱獲と密漁から資源は減少し、昭和9年には稚内方面が禁漁とされ、猿払も禁漁になるはずであったが、生活が成り立たないと騒ぎ立てたため、稚内漁協と宗谷漁協から各60隻が着業することになった。これによって深くホタテ漁に関わって来た石川県人が排除されるに至り、道庁、石川県庁を巻き込んだ一大騒動に発展した。これは巧みに川崎船を操る石川県人が疎んじられた結果であるが、また、背景には以前からの宗谷と稚内との対立があり、入会が禁止された後に稚内漁協が石川団体へ名義貸しするという事態も起こり、騒動が激化、結局、石川県人の所有する建物、漁船、漁具その他を猿払漁民に譲渡し、雇われ等の漁労のみに余地を残して入会は全廃され、石川県人の道内おける一大拠点は消滅した。昭和30年代後半にはいよいよ資源が枯渇し、同40年からは全面禁漁とされて「死の海」と云われるようになった。昭和46年以降は村と漁協が10年間の稚貝放流計画を立てて多額の費用を分担し、その効果があって同49年より漁獲が再開されて増養殖事業は軌道に乗った。オホーツクでのホタテ漁業2 紋別八尺 紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云い、これはナマコ漁での混獲と思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、最初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの川崎船であった。また、別の記録では明治26年に青森県人が高島から「八尺」を持てって来て漁を始めたとも云う。大正の中頃には、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪の「紋別八尺」が全道的に知られるようになったが、既に着業間もない明治29年には資源減少が表われるなど、当初から乱獲による好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は、同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのがホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別において現在の基礎となる実証的な試験が繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは「4年毎の輪採制」として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定して来た。 紋別八尺/北海道漁具図説/S16年





























第345回 オホーツクのホタテの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:12Comments(0)オホーツクの歴史

2013年10月17日

旭川電気軌道 モハ101


旭川電気軌道㈱ モハ101(東川町郷土館) 大正15年に設立。昭和2年に旭川~東川間、同昭和4年には旭川~東旭川間で軌道路線の運行を開始し、同8年には乗合自動車を始める。昭和47年に電車事業を廃止。当時のそのままに保存されているところがイイ、リアルな傷み具合がグッド。








































第344回 旭川電気軌道モハ101      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 21:13Comments(0)鉄の部屋(軌道・鉄道)

2013年10月16日

旧東川町役場庁舎

よくも役場庁舎としたものだ。
クレオソートの板壁に白い額縁窓を結んだストライプが印象的。


旧東川村(町)役場庁舎 戦後間もない頃の公共物とは思えない。切妻造と寄造が連動したクレオソートの板壁に、一階と二階の白い額縁窓を結んだストライプが印象的。軒下の小壁もオシャレである。昭和24年建築。





























第343回 うらやましい郷土資料館      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:00Comments(0)古民家・古建築

2013年10月15日

ホタテ漁の歴史と貝灰


北海道産業考古学会へのお誘い ~ホタテ漁業、加工、廃棄物利用の歴史 現在、大改修中の姫路城であるが、「天空の白鷺」と呼ばれる国宝、白亜の大天守には昔ながらの貝灰漆喰が使われている。北海道では開拓が進んで人口移動が激しくなると疫病が頻発し、また、定住者も増えて内地様式の商家建築があちこちで建設されるようになると石灰と漆喰の需要が高まった。その頃、漁業入殖も多様化を見せるようになり、にわかに勃興したのがホタテ漁業である。ホタテ漁業と加工の変遷、廃棄物であるホタテ貝殻を使った道内貝灰製造の歴史を解説する。 とき:平成25年10月26日(土)13時から ところ:札幌エルプラザ2F研修室 発表者:山田雅也(当協会員、紋別市役所水産課) 研究発表:北海道のホタテ漁業、その貝殻はどこに行ったか? ・ホタテ漁業の勃興、125年分の漁獲統計 ・ホタテ加工流通の変遷 ・廃棄物の利用法 ・戦前の紋別での漁労ビデオ 戦前の紋別浜/北見大観/S9年 紋別のホタテ漁労/北海道漁業写真帖/S12年



























第 ー 回  北海道産業考古学会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  続きを読む
Posted by 釣山 史 at 17:00Comments(0)トピック

2013年10月13日

鷹栖町の奉安棚

またまた、巡ってます。

鷹栖町郷土資料館収蔵庫に残る奉安棚



















第342回 奉安殿 朕惟フニ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  続きを読む

2013年10月08日

北海道古地図の展示会


北海道文化財保護功労者表彰の選定会がありました。北海道文化財保護協会は、北海道古地図の展示会を開催中。ところ/札幌市中央区北2条西7丁目 かでる2・7 九階

第 ー 回  北海道文化財保護協会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:06Comments(0)北海道の文化

2013年10月01日

北海幹線用水路


赤平市の入口 刈入れが近いので水が少ないです・・・ 大正13年に農民の悲願であった空知川潅漑溝の工事が始まった。昭和4年に赤平市を起点に砂川市、奈井江町、美唄市、三笠市、岩見沢市、南幌町までの約80kmを結んだ日本一長い北海幹線用水路が完成した。
第341回 日本一の用水路      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:44Comments(0)北海道の歴史