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2010年03月29日

北海道の奉安殿と勅語謄本

まだまだ続く、奉安殿の探索
奉安殿と勅語謄本の現存調査(経過報告)
~関連:第152回 現存する奉安殿(再々)


 昨年から本格的に探索を開始した北海道の「奉安殿」は、この3月末時点で、私の現認が14カ所、確からしい情報が6カ所の計20カ所となり、また、当時は全てが回収されたはずの「教育勅語謄本」も、数点が現存していることが分かったのが、ある資料館には、このたぐいの問い合わせが増えていると云い、ここで経過を報告することにした。その一部は「戦前・戦中の風景/北海道の奉安殿」として北海道文化財保護協会誌に報告し、このブログにも掲載している。
 全道の現存状況にかかる情報提供を、読者の皆さんにお願いする。
 また、昨年(H21年)中に、美幌神社や和琴神社の奉安殿が老朽化のため取り壊されたことは、非常に残念であり、現存地での文化財としての保存活動の高まりを期待する。
                   北海道文化財保護協会・網走地域通信員 釣山 史


上標津神社となった奉安殿
奉安殿、奉安庫、奉置所、紋別市、渚滑町宇津々/八幡宮、和訓辺/旧和訓辺小学校跡 、鴻之舞/旧喜楽町、弟子屈町、弟子屈町資料収蔵庫蔵、札友内、南弟子屈、湧別町、上湧別/中湧別神社、士別市、士別市博物館所蔵、遠軽町生田原、旧清里小学校跡、別海町、柏野会館隣接地、名寄市、風連町/東風連神社、小清水町、小清水神社、中標津町、上標津神社、江別市、 江別小学校隣接地、函館市、護国神社、石狩市、花川/了恵寺、鶴居村、茂雪裡、上富良野町、東中神社、 札幌市、琴似神社、藤女学校、教育勅語謄本、札幌市、北海道開拓記念館所蔵、石狩市、了恵寺、弟子屈町、てしかがの蔵、小平町、資料館所蔵














































第170回 奉安殿と勅語謄本    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2010年03月05日

マガレイのお値段

§もんべつマガレイの価格
 ~実際に「もんべつマガレイ」は高値なのか?
 …消費、価格が下落を続ける「お魚」をマガレイを通して解説する。

 よく紋別産のマガレイは高値で取り引きされる(?)と云われますが、私もずいぶん昔ですけれども、札幌の大手スーパーのお魚屋さんで働いたことがあり、確かに「もんべつマガレイ」として売っていました。ここでは消費地・札幌市の中央卸売市場での価格を、網走管内産とその外とで比較してみます。
 それが表1となりますが、実際、網走管内産が高値を示しており、流通コスト外は勿論ありますが、それはコスト高であっても「売れる」ということです。
 表2と表3は、地元の産地市場を管内で比較したものですが、直近の表3の場合は、近隣に比べて紋別市場が高値にあります。しかし、さらに5年間を遡ってみますと表2ですが、価格は逆に下回っていて、これらから漁業種や季節などの条件を勘案しないときに、いちがいには地元では、反映されていないことが分かりますが、また、このことから平成15年に何らかの価格付けの変化があったことが考察されます。しかし、総じてマガレイの単価は明らかな下落傾向にあり、伝統的な「マガレイ漁」を維持して行くためには、価値(価格)アップのための何らかの施策が必要です。

―では、なぜ、価格が低下しているのでしょうか?

 図1-アを見て頂くと国内消費仕向量が、平成13年をピークに下降に転じており、図1-ウでは、平成18年には、お魚とお肉の摂取量が逆転してしまいました。この10年間で、お魚の摂取量が15%も減ったのです。そして図1-イはさらにショッキングなデータでして、現在の30代の主婦の約7割は魚を捌かない、つまり「お頭つき尾つきの魚」は買わないという状況にあるのです。
 そのうえ、現在のスーパーなど大型店の画一的で限られたお魚の販売方法が影響し(安定的に供給を受け、安定して売れる)、店頭でのお刺身やお総菜に馴染まない(馴染んでいない)、カレイなどは、なおのこと消流が難しいものとなってしまいます。札幌市場でのデータを見ると、図2-ウですが、平成13年以降の仕向けで、鮮魚の単価だけが下落しており、表4ではマガレイのみが大きく下降しています。
 しかし、図3-アと図3-イ、図4-アを見ますと本当は日本人が「お魚好き」であることが分かり、はてさて、この意識と実際の購買行動とのギャップに、消費向上のヒントがあると考えますが、図4-イでは、マガレイが他のカレイに比べても既にブランド力を失っていることを示し、これは家庭の調理だけではなく、流通においても取り扱いのしやすい他のカレイが好まれているからとも思われます。
 最後に近々のデフレによる「消耗戦」の具体例を以下、月刊「水産北海道」のホームペイジのコラムから引用し、終りのご挨拶に換えさせて頂きます。


 コープさっぽろの惣菜売場は、もはや「百円均一」ではなく、「50円均一」である。一本あるいは一個50円の串ものや揚げ物で溢れている。同時に、その商品政策(マーチャンダイジング)は食品売場全体にも浸透しており、魚売場では一尾30円台の解凍サンマが並び、冬から春に豊漁で良く売れたハタハタなどは、100グラム40円以下で売ったという。鮮魚担当者も驚くほど「相場が崩れている」。
 前浜の鮮魚にしても、ホッケが一尾100円、マガレイが100グラム50円と価値観を失うような安さだ。
  中 略
 コープさっぽろの水産部担当者によると、水産物供給は、数量が前年同期を上回っているが、金額は伸び悩んでいる。「単価が安く金額が低い」「安いから売れている」といった状況だ。ライバル店のアークスグループ(ラルズ)との熾烈な価格競争が低価格化に拍車をかけている。


-主な参考資料-
 平成20年度水産白書
 平成20年度北海道消費生活モニター価格動向調査
 NHK放送文化研究所世論調査部「日本人の好きなもの」2008年
 札幌市中央卸売市場統計
 北海道水産現勢 
 月刊 水産北海道 ほか

                   第169回 鮮魚の消費低迷    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
資料・図以下、













































































































































































































































  

Posted by 釣山 史 at 08:45Comments(0)トピック

2010年03月02日

オホーツクのカレイ漁の歴史

§ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
                             北海道文化財保護協会々員 釣山 史

 それでは最初に皆様へ、お断りを申し上げます。
 このお話しの中で、特に「○○年」については、元資料によって差異があり、この場合は、当時に近いより古い資料を引用し、または、水産試験場などの公的文書を優先するように心がけましたが、ハッキリしないものもあり、ただし、紋別関連については地元の市史に従いました。
 また、『沖合い底びき網漁』については「沖手繰」「小手繰」「小型底びき網」など、その時代と地域で区分・区別は難しく、解説中では併用していますので、ご容赦ねがいます。


 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
 江戸時代のオヒョウ漁から近代機船漁業の勃興、昔の加工と流通について

―と云うことですが、

 さて、皆さんはカレイの王様は、何ガレイだと思いますか?
 かっては、このオホーツク海でもたくさん捕れた「幻のマツカワ」が道南で復活し、今では「王鰈」としてブランドとなって商標登録がなされていますが、ある意味、やはり私は「オヒョウ」がカレイの中での鰈だと思っています。
 なんせあのデカサと云ったら…、私が子どもの頃には、タタミ大のものもあって、たった2~3匹で小型のトラックがいっぱいになったのを記憶しています。
 本旨の「マガレイ」ではありませんが、まずは「オヒョウ漁」についてお話しをしたいと思います。

◆江戸時代から有名だった紋別のカレイ漁
―それでは江戸時代の図2を見て頂きたい。
 多少のニュアンスは違いますが、現代的に意訳すると『オホーツクの紋別・斜里ではオヒョウを獲るが、2メートル近いものもあって、この辺りの一番の食料である。富山のタコや滋賀のナマズに勝る名産かも知れない』と蝦夷地を北海道と名づけたことで知られる松浦武四郎さんが云っています。そして図3では「紋別」の欄に「オヒョウ」が描かれていて、この「蝦夷土産道中寿五六」は、贈答用とされ、包装紙としても用いられたもので、たくさん市中に出回ったと考えられます。
 明治に入ると後に紋別に定住した「岩田宗晴」が、同25年に網走と斜里の沖合でオヒョウを大漁して大儲けしたと云い、その時の道庁の実地調査でも好結果となり、紋別も含めたオホーツクで、オヒョウ漁が一大ブームとなります。また、明治末期には沙留の「大多喜長蔵」が道庁の補助を得て、冷蔵船と冷蔵倉庫での試験操業を行い、一定の成果を上げました。
―このように昔から紋別地方の「お化けガレイ」はたいへん有名だったのです。
 そうして※2にあるように三漁(サケ・マス・ニシン)につづいて、紋別ではカレイがたくさん獲れていたようで、また、多獲されたオヒョウは冷凍技術が発達するまでは、食膳用にスキ身やソボロ、カマボコなどに加工され、根室などでは缶詰として輸出されたりもしました。

◆動力船の進出とカレイ漁~たくさん獲れて、始末に困ったマガレイ
 資料1から3に見られますように、道庁では大正9年、10年、同12年、14年と繰り返して北見地方の漁場の探査を行い、有望な新開場として、紋別地方への「底びき網機船」の入会を積極的に誘導しました。それは大正中期に一気に勃興した機船漁業を、日本海ほかの夏枯れに対応した通年操業とするためで、紋別地方は他の地域が薄漁の季節でもたくさんマガレイが獲れたからです。
 地元では明治の末期頃から川崎船による小手繰漁が行われていましたが、鮮魚での消費には限りがあり、大正9年には、網走管内で最初の動力漁船となる「高嶋春松の大正丸」がマガレイ漁を始めましたが、無動力と合わせた手繰船の着業者は数人程度と、今ひとつ振るわないものでした。
 それが度重なる道庁の調査に触発されて、大正12年に小樽から「松田鉄蔵の第三寅丸」が廻航し(大正期の資料3に寅丸の記述が見られます)、マガレイを大漁すると、翌年には地元の新造2隻をはじめ、道内各地から底びき網機船が入会し、にわかに活況を見るに至りました。しかし、保存設備が未熟な当時にあっては、鮮魚での出荷には限界があり多くは〆粕とされて、食膳用としては、カマボコに加工される程度でした。

◆保存と流通技術の進歩
 この「第三寅丸」が当地で着業した時には、既に名寄線が開通しており、冷蔵車両(冷蔵車、図6を参照して下さい)もあって、※7のとおり、当初は水揚げしたマガレイの全てを旭川へ出荷していましたが、大正9年には伴田貯氷庫が建設されていて、そのほか川氷などを使った氷蔵が建てられ(表3と4です)、また、昭和5年には松田によって本格的な冷蔵庫が建設されて(※8の設計者は蟹工船のモデルとなった松崎隆一です)、底びき網機船の船主たちは共同出荷のための組合を結成して限りある冷蔵車両を共用し、遠くは東京までへ出荷するようになりましたが、施氷されただけの多くの鮮魚は『うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損と云う有り様』でした。
 このように季節的に一時に大漁されるマガレイの価格は非常に不安定であり、流通過程での痛みを少しでも軽減しようと、マガレイを箱に縦詰めしたり工夫を重ねましたが、紋別では昭和4年頃から「トロ函」を使用するようになり、品質の向上に努めたので、操業は次第に安定するようになります。
 この動力船による漁獲のピークは昭和4・5年頃ですが、その後は漸次減少しても、それでも表2の「昭和11年北海道漁業現勢」によりますと、全道の中で紋別の底びき網漁でのマガレイの漁獲はダントツの1位でした。
 さて、※9にありますとおり、ちょうどその頃の昭和10年には「東京市場(今の築地です)」が新しくなり、この時に市場に国鉄の駅が設けられて、「鮮魚特急」と呼ばれる生鮮品の速達化が図られたのですが、表5のとおり、当地でも戦前には4軒の魚介冷凍工場があり、また、地元では昭和12年から盛んに「焼カレイ」が作られるようになります。

◆小手繰船からの転換、カレイ刺し網漁へ
 のちの戦中戦後の混乱期は、食料の増産の必要もあって、漁業制度が崩壊し、動力船のほか小型船ももっぱら漁獲効率の高い小手繰漁を行ったので、戦後に至って漁業資源は急激に減少してしまい、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなって、これらから特に沿岸漁業での新たな展開が必要となりました。
 そうして昭和33年からは「カレイ刺し網漁」が行われるようになり、これによって漁獲されたカレイが、より丁寧に選別されることになります。

◆まとめ
 ①オヒョウ漁など、紋別のカレイ漁は古くから有名だった。
 ②道庁が紋別海域へ底引き船を誘導し入会させたので、それがいっそうの宣伝となった。
 ③実際、他地域が薄漁の季節でもたくさん獲れた。
 ④当地でのマガレイ漁の勃興期が、流通の発達期と一致した。
 ⑤早くから品質の向上に努めていた。

―このようにして、「もんべつマガレイ」は広く知られるようになったと考えられます。

   
   第168回 もんべつマガレイの歴史    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

資料・図以下、










































































































































































































  

Posted by 釣山 史 at 22:44Comments(0)紋別の歴史