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2009年03月22日

本庄陸男のこと

本庄一家と我が一族とのえにし


 明治28年に北海道へ渡った佐賀県士族の本庄一興の六男として、同38年に当別町太美(ロイズ工場敷地内に記念碑あり)に生まれた陸男は、戊辰戦争に敗れて当別へ入り、その開拓に苦闘した伊達主従をモデルとして昭和14年に小説「石狩川」を著わして一躍脚光を浴び、第八回芥川賞の候補にも挙がったが、出版直後に35才の若さで早世した。この「石狩川」は築地小劇場で舞台化され、戦後の昭和31年には東映映画「大地の侍」として上映され、太美の堤防敷地には文学碑「石狩川」がある。
 本庄家は当別では、営農をしながら小間物店を経営し、地区部長など地域で活躍したが、売掛金が回収できずに商売に行き詰り、大正2年には再起のために上渚滑和訓辺へ再転住し、あらたに開墾をはじめたが、生活は非常に苦しいものだった。
「石狩川・初版」昭和14年
 陸男は地元の学校を卒業し、渚滑村役場の臨時雇いを経て上渚滑小学校の代用教員となったが、向学心から樺太へ出稼ぎし、その資金をもって青山師範学校を卒業すると東京で教師となったが、プロレタリア活動に傾倒して免職となってしまい、実際、彼は共産党員であったが長く秘密とされていた。
 教員時代は夏休み、冬休みには帰省したといい、昭和3年には上渚滑での生活を題材とした「北の開墾地」を発表して、和訓辺には暮らした家屋が近年まで残っていた。
陸男墓碑/西辰寺
 さて、余談ではあるが筆者の一族も当別からの再転住であり、同じく上渚滑に住まいしたが、陸男の兄と私のオジはいっしょに働き、父が甥と知り合いで、私も他の親族と同じ職場で働いたことがあり、陸男の初期の作品「開墾地」は筆者一族が入殖した当別村の茂平沢を描いたと思われるが、斯く言う我一族も商売につまづいての再起組である。 
 この郷土を代表する文学作家の貴重な資料も、貸し出されたまま、回収されずに散逸してしまったことは非常に残念である。
関係した雑誌/右は陸男が編集長だった人民文庫


第117回 本庄陸男について    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 23:42Comments(0)読書と北海道文学

2009年03月14日

網走のマッチ製造業

殖民の始まりとマッチ製軸業 ~先進的だった紋別地方開拓期の林産業


 本道への移住が本格的となり、実際の開拓が始まったばかりの当時においては、むしろ障害であった森林樹木は、一部を自家用に使用するほかはせいぜい薪炭とされる程度で、開墾伐木された樹木のほとんどは焼き払われるか、春の増水時に流出されるかされていた。明治19年に「北海道土地払下規則」が制定されて、殖民地の貸付と処分が具体的に進捗しだすと、同23年に「官有森林原野及び産物特別処分規則」が制定され、道庁による特売が認められるようになって、民間においても林業が注目されるようになり、同30年の「北海道国有未開地処分法」の施行に至って、森林開発が盛んに行われるようになった。

 前略 先ス示す所の利用樹種中カシワは單寧製造業者にトドマツ エゾマツの如き針葉樹は啻に用材として利用するのに止ますして製紙業者に又ドロノキ、ハコヤナギ(一般的には両樹を白楊と云ふ)は燐寸製造業者に此等諸工業奨励保護の一策として 中略 右の内白楊樹拂下は本道に於いて器械を所有し自ら燐寸軸木を製造するものに限り 後略 北海道拓殖要覧/明治36年

 その頃、三井物産創設の益田孝がオークを辞書で引いてナラまたはカシと知り『これは大変だ。北海道では薪炭にするほかないほどたくさんある』と言ったと云い、そのほかドロノ木は火薬の箱に、クルミは銃台、そしてヤチダモは枕木の用材とされた。
 この「北海道国有未開地処分法」では、牧場地の場合は1人につき250万坪が無償で貸与され、成墾後はそのまま無償付与されたことから、単に林木の切り出しのみを目的としたいわゆる「木刈り牧場」が各地に出現するに至った。
 さて、ここでは、その頃の北海道、特に北見地方で大いに勃興した燐寸(マッチ)製軸業に焦点を当てたい。


 ◆道内マッチ工業の勃興
 明治20年頃から急速に発達した国内のマッチ製造業は、神戸を中心とした阪神地方で興隆を見るに至って重要な輸出品となったが、その軸木の原材料となる白楊樹の確保が大きな課題であった。いっぽう、道内では函館懲役場の囚人・玉村治右ヱ門が自ら考究を重ね、明治12年には開拓使がそれを認めて函館燐枝製造所を開設したが、これは採算が取れずにわずか2年後の同14年に廃業となってしまった。
 そして同年には茅部郡や札幌に製軸所が開業したものの発展せずにいたが、明治16年に山田慎が試験的に建設した壮瞥村の軸木工場が好成績を得たことが端緒となり、よって道内各地に工場が開設されて、また、後に同人も邦人で始めてマッチを製造した東京の新隧社と先進地神戸の鳴行社から技術を導入して、網走に大規模な製軸所を操業させた。


○燐寸盛衰記/並木六壷庵/神戸新聞/昭和2年
 略 北海道の軸木工業/東北地方の原料を伐りつくした軸木工業は、漸次に海を越えて北海道松前の地に移って行った。北海道に於ては、明治七年函館囚治監でマッチ製造を開始し、従って軸木の需要があり、これに従って作られたものは白楊樹以外のものであったらしいが、其の品質は佳良ならず、移燃遅緩にして実用には適しなかった。ここに於て明治十年始めて白楊樹を使用して、北海道の製軸業は益々発達したが、何分にも交通不便で販路が拓かれず、後には札幌に個人経営の軸木工場を設置したものもあったが、遂に成功しなかったと云う。
 斯くの如く北海道のマッチ軸木製造工業は、当初その供給を北海道内、殊に函館に於けるマッチ業者のみに限り、従って規模も大なるものではなかった。
 然るに一方内地のマッチ工業は日に日に発展を重ね、内地産の軸木のみにては需要を満たし難く、従って内地のマッチ業者は漸次北海道の天然資源に着眼するようになった。当時マッチ界の中心であった神戸の当業者も、或は彼地の軸木製造業者と特約を結び、又は彼地に資本を投下して軸木工場を経営する等の事が起り、北海道の軸木工業は斯くして従来島内に限られていた供給範囲を本邦全土に拡張し、明治二十年以後に於て急速度の発展を遂ぐるに至った。
 (中略)
 北海道の軸木製造工業は、内地需要の激増するにつれて発達し、就中殷盛を極めたのは明治三十八年以降のことである。当時神戸のマッチ業者も先を争って北海道に赴き軸木供給の途を開くことに腐心した。当時某マッチ会社から派遣された『軸木原木探究者』は栗毛の馬に跨って北海道の原野を跋渉し、宝庫の鍵を探し求めたと云う活動写真もどきの挿話さえもある
 かくして滝川弁三氏の経営した清燧社と良燧社は、日本燐寸軸木会社と連絡して北見国は鐺沸、網走、門(紋)別に工場を設置すれば、日本マッチ会社は十勝の本別、北見の野付牛、湧別に、井上貞次郎氏の天塩土別、十勝都富貴、信取、北見与部村に各々製軸工場を設け尚北見湧別には有名なる柴田友蔵氏あり、釧路に草野某あり、陸奥青森にも著名工場の簇生を見た。
 勿論北海道の軸木原料は白楊樹の外に松材も多く使用され、それ等は或は原木まま内地に移入された、大部分は前記の工場で軸木に製造されたものである。
 今明治四十三年頃の記録によって見るに、原木の値段は室蘭及び釧路線の綿ドロ(太軸用)神戸渡一才(一寸角、長さ十二尺)三銭五厘北見の白楊樹(細軸用)同じく四銭五厘見当で、軸木一千把に要する原木数量は百三十六乃至百四十才である。
 次に北海道は当時の払下値段が尺〆(一尺平方長さ十二尺)三銭五厘乃至六銭五厘と云うべらぼうな安値で、神戸の一才二銭五厘に比較すれば五分の一に該当したのである。尚神戸に於てこれ等の原木を購入して軸木の製造をなすものあり、これは地製屋と呼ばれ、製品も地製軸木と称して北海道産の北海軸と区別されていた。
 以上の如く北海道の軸木業は、明治三十八年頃より四十二年に至る四年間に急激に発展し、同四十三年には製軸工場は全道二十八ヶ所を算したが、やがて供給原木量の不足を感ずるに至り、大正に入って以来は衰退の一途を辿るに至った。 後略

 山田製軸所払下許可地/北海道山林史/昭和28年
 ◆北見林産業の発展
 北見國 第三紀層土として著名なるだけ夫れだけ此樹種の繁生に必適せるは同國の網走地方なり現今道内にては最も盛んに伐採し居れる地方の随一なれど尚ほ紋別、常呂、網走、斜里の四郡に亘りて一百十餘萬石の材積をなし總面積六千萬坪以上に及へり、就中紋別、網走の两郡最も之に富み紋別のみにても三千二百五十餘萬坪の面積中約六十万石の材積あり、網走郡内には二千五百萬坪の面積中約五十万石の材積あり 太陽第五巻第拾八號/明治32年

 この地方の林産工業の始まりは明治24年に網走へ開設された「山田慎」の製軸所であるが、その開業には山田がアトサヌプリの硫黄山経営に携わった経緯から典獄・大井上輝前と親交があり、また、開進社から引き継いだ亀田の農場長に元看守の四元清を登用するなど集治監との関係が深く、同23年には網走分監建設を請負って道東の実情に広く通じていたという背景があった。
 そして、その操業の前年には、網走・止別の白楊樹30万本十ヵ年の払下許可を得ており、これが道内の林木特売の初見であり、それは軌道を用いた大規模なものであった。
 注目するところでは、同じく渚滑村の堀川泰洋も明治30年に渚滑五線から七線までの殖民地に軌道を引き、造材した角材1万石をトロッコで集材したというが、翌年の大洪水で流失してしまい、残念ながら事業は失敗に終わった。
 明治31年「北海道殖民状況報文」によると『當國ニ於テ工業ト稱スヘキハ唯燐寸軸木ノ製造ノミ其材料タル白楊ハ處々ニ在リ殊ニ網走郡紋別郡ニ多シ明治二十四年網走村ニ山田製軸所ノ設アリ同二十七年渚滑村ニ岩田製軸所ノ設アリ 中略 山田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村ニ岩田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村及ヒ澤木村ニ設ケ目下工事中ナリ』とある。


 湧別村
 農業 前略 (明治)同廿八年七月二日九月十五日霜害アリ麥ノ外ハ皆凶作ニシテ 中略 薄資ノ移民食糧ニ究シ渚滑製軸所或ハ屯田兵屋用材の伐採或ハ魚塲等ニ出稼スルモノ少ナカラス 後略
 渚滑村
 工業 岩田製軸所ハ明治廿七年ノ創設ニ係リ近傍ニ在ル白楊樹ヲ伐採シテ燐寸軸木ヲ製ス 中略 職工ハ當地ニテ雇入レタルモノ及ヒ二十九年徳島縣ヨリ募彙セル農民ニテ目下數十人ヲ使用ス伐木ヨリ製造結束ニ至ルマテ悉ク受負法ニ據レリ 北海道殖民状況報文/明治31年       
 渚滑原野状況
 前略 二十七年岩田宗晴なる者製軸所を設立し二十七年製造高七千七百圓に上れり二十九年下原野に於て二十九萬七千二百九十五坪の貸付を得て小作人二十一戸を徳島縣より募集し初年は工場労役に従事せしめ三十年より農耕の傍製軸業に従事せしめたり 後略 殖民広報第十号/明治35年


 ここの「殖民広報第十号」にある通り、岩田は明治29年に郷里から団体移住を募って翌30年には21戸の入殖をみているが、これは「北海道移住民規則」において「団結移住」を20戸以上としていたためで、紋別に於ける団体移住の最初となった。
 このように「山田製軸所」が主に網走分監囚徒を低賃金で労役することを目的としたのに対し、「岩田製軸所」は渚滑・上渚滑原野殖民地の測設以前に開業されて、新開地の開墾の傍ら不要となった伐木を冬季の遊休労働をもって或いは移住定着のつなぎとして操業し、この時代にあって実に60名もの雇用を確保したもので、この地域に与えたものは非常に大きかったが、開拓の先鞭となったこの渚滑工場も、藻別工場の完成によって、わずか3年で閉鎖となった。

 山田製軸所/(同上)白楊材の運搬/網走市史/昭和46年













 ○明治31年末における網走管内の主な製軸所
    名    称   所 在   起  業   職 工  動  力     収   入
  山田製軸所    網走村 明治24年 107人 蒸気機関 116,334.9円
  山田製軸所    藻別村 明治30年 103人 蒸気機関  48,495.15円
  岩田製軸所    藻別村 明治29年  60人 蒸気機関     13,800円
  三東製軸所    澤木村 明治30年  35人 人  力        5,928円
  酒井製軸所    紋別村 明治31年  29人 人  力      4,756.5円
  小松内製軸所   幌内村 明治31年  17人 人  力       2,560円
  斜里軸木製造所 朱圓村 明治30年   7人 人  力         700円
                北海之殖産第百拾壹號、同第百拾貳號/明治32年
            (岩田製軸所/渚滑村/明治27年開業/明治30年閉鎖?)

 明治35年のコムケ湖畔の岩田製軸所/小向の歩み/昭和50年
 そして紋別近辺では前表のほか、明治30年にオムサロへ飯田嘉吉を場長とする神戸製軸工場が操業を開始し、同34年には信田寿之が信部内に工場を建設するなど、紋別地方は一種の製軸ブームとなって、同36年の工業調では売上が「山田34,453円」、「岩田32,560円」、「酒井11,400円」の合計で78,413円ともなり、同35年度紋別村諸統計綴における当時の主力産業であった鰊絞粕38,360円と比較するとき、いかに莫大な収益であったかがうかがえる。
 面白いところでは、工藤常弥は藻別村の山田製軸所の用材の運搬を請け負っていたが、明治34年に濤沸に同工場が新設されたので、同じく伐採を行っていた和田市左ヱ門や高野農場にいた岩田朔太郎ら計7名らとともに止別原野へ移転し、職工兼山田農場の農夫となったもので、また、すでにこの頃には、高野農場が白楊樹の造林を試みていた。
 このように開拓が道東北に及んだばかりの明治30年頃には、この地方はもはや林業の盛業地であり、北海道を代表する木工業の先進地でもあった。



第116回 明治開拓期の網走、紋別のマッチ製軸業。    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/









  

Posted by 釣山 史 at 20:12Comments(0)オホーツクの歴史

2009年03月06日

紋別にも来たブラキストン

奇才ブラキストンの記録に見るもんべつ


 英国人で元軍人のブラキストンは、多才と云うよりは奇才な人物である。1861年には揚子江を探検して、その記録はロイヤルメダルを受賞した。同年に商社員として来箱すると、1864年には日本最初の蒸気機関による製材所を開設し、さらに翌年、3隻の帆船を使った貿易を始めたが、その一隻は「あきんど(商人)号」と云った。
 維新後の明治6年からは函館と大間を結ぶ津軽海峡の定期航路を運航し、幕末よりあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計なども行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒であった。
 そして後年、彼の名を一躍、世界に知らしめたのは野鳥の研究で、津軽海峡を挟んで、北海道と本州では鳥類や哺乳類の分布が違うという、いわゆるブラキストン・ラインの発見で、面白いところでは、明治13年にスポンサーとなり帆船競争を行ったと云い、これは船の改良を奨励するものだったが、同24年の「北水協会報告第六十七号」に『英人ブラキストン氏考案漁船ノ図』なるものがある。
 また、1861年には日本国内で初めてスケートをしたとされ、後にお役所から「ゲロリやそりで坂をすべってはケガ人が出てあぶないので止めるように」という御触書も出ており、これを記念して12月25日が「スケートの日」だそうだ。
 さて、この間の明治2年には、新政府から前年に難破した英国艦ラトラー号の調査を依頼され、函館を「あきんど号」で出港して浜中に上陸し、そこからオホーツク海岸沿いに北上して宗谷へ至った。
 こうして途中で紋別を通過、彼の記録では当時の紋別場所について、『岩礁が風波を多少防ぐ程度の少し引っ込んだ湾とは言えないくらいのもので、漁場には大きな住宅と役所が1軒づつ、それをアイヌ人の小屋が取り囲んでおり、この時は和船一艘が沖泊めされていた。会所の差配人によると、斜里と紋別の経営は採算が取れないが、他に非常に利益のある標津場所があり、どこか一カ所を放棄すると全てを召し上げられてしまう。』とあり、これは山田寿兵衛の請負によるもので、また、『案内人の若いアイヌ人はヒゲをそり、日本風の髪形をしてカナ文字を書いた』ともある。

 紙幣か証券か、発禁となったブラキストン証券/新撰北海道史/昭和12年







第115回 オホーツクをめぐったブラキストン    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 22:51Comments(0)紋別の歴史