さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

ログインヘルプ


2017年10月29日

もんべつ沖揚音頭(再)

・昭和23(1948)年   有志による団体がなる。
・昭和38(1963)年   第1回もんべつ流氷まつりで公演。
・昭和47(1972)年   正式に保存会を結成する。
・昭和47(1972)年   市民会館のこけら落としで公演。
・昭和47(1972)年   紋別市補助団体となる。
・昭和59(1984)年   第7回道民芸術郷土芸能際に参加。
~以来、記念行事や流氷まつりで公演。
・平成20(2008)年   作曲家・寺嶋陸也がほぼ原曲どおりに作曲、翌年CD化。
 毎年、公演している「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史がある北海道の冬まつりであり、歴史的地域資産を活用した地域振興である。






◆北海道文化財保護功労者表彰
①目 的
 北海道内の文化財(未指定を含む)について、その保存・保護及び保護思想の普及に関する実践功労を顕彰し、文化財保護の普及に資することを目的とする。
②表 彰
 北海道内の文化財の保護及び保護思想の普及に関し、多年にわたり実践功労のあった者又は団体に文化財保護功労賞を贈り表彰する。
③紋別関連の受賞
・昭和41年 第2回   池澤憲一
・昭和45年 第6回   村瀬真治
・昭和47年 第8回   五十嵐文伍
・昭和59年 第20回  紋別郷土史研究会
・平成26年 第50回  上藻別駅逓保存会
・平成29年 第53回  紋別沖揚音頭保存会
◆推薦者
 山田雅也=紋別市役所、北海道文化財保護協会員(前理事)、北海道史研究協議会員(幹事)、北海道北方博物館交流協会員、北海道産業考古学会員、産業考古学会員(全国)、日本民俗建築学会員ほか。専門は地域史と産業史、北海道の殖産、拓地殖民の歴史に詳しい。
 紋別の水産界では、この数年、災害、不漁と負の話題が多い中、ここで明るい話題をと思い推薦した。保存会の構成員である漁協女性部が本年で60周年、お披露目となる来年(流氷祭り)には、漁協本体が70周年を迎える。

平成二十九年度 北海道文化財保護功労者 郷土芸能紋別沖揚音頭保存会 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われた鮭、鱒、鰊であり、幕末頃に大きな漁獲を可能にする「鰊建網」が開発されると漁労は大型化し、こうして多くの漁夫が必要になった。沖揚音頭は、鰊漁の水揚げから網起こし、汲み出しほか、共同作業の拍子を合せる掛け声唄で、各地の漁場に自然発生した。しかし、昭和三十(一九五五)年頃、全道的に大きな群来が見られなくなり、鰊漁の衰退とともに沖揚音頭も忘れ去られて行く。江差沖揚音頭(道指定無形民俗文化財)、松前沖揚音頭(町指定無形民俗文化財)、神恵内沖揚音頭、浜益沖揚げ音頭などが知られ、ソーラン節もそのひとつである。早くからホタテ貝が名産である紋別市も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)に紋別番屋が置かれて、昭和二十七(一九五二)年を最後に鰊が群来らなくなるまでは、鰊漁が漁業の太宗にあった。この「紋別沖揚音頭」は、〝今野芳太郎″が道南の鰊場から昭和十三(一九三八)年に移り住んで来て歌われるようになったと伝わる。昭和二十三(一九四八)年に今野芳太郎の呼びかけで有志(加藤與志雄、村山喜一郎、畠山寿男、畠山徳一、菅谷武、山田伊佐雄、山田一太郎ほか)らが募り、はじめは民謡愛好的な集団であったらしい。昭和三十五(一九六〇)年に北見で、同三十七(一九六二)年には札幌で披露され、以来、各種の行事で催されるようになった。〝もんべつ流氷まつり″では、昭和三十八(一九六三)年の第一回から継続して演じられている。昭和四十四(一九六九)年は、船などを製作して衣装も新調し、現在の形となって、この頃は自費に寄付金を当てていた。昭和四十七(一九七二)年には、会長・天野一郎、副会長・今野芳太郎として正式な「紋別沖揚音頭保存会」が発足し、市民会館の〝こけら落とし″で公演した。これから会費を徴収して、紋別市補助団体となった。〝オーシコ″の掛け声のもと、出漁、操業、帰港までの漁労を表現している。こうして市内の各種行事で披露されていたが、経年のうちに会員減少から存続が難しくなり、次世代に継承すべく、昭和五十二(一九七七)年に紋別漁業協同組合、漁協婦人部(現女性部)と漁協青年部が加わって再編され、現在に至っている(初代会長に漁協組合長・野村秀男、副会長に保存会・今野芳太郎、漁協青年部長・山田徹夫、漁協婦人部長・能戸トク)。作曲家の寺嶋陸也は、平成二十(二〇〇八)年に「紋別沖揚音頭」をほぼそのままに、合唱組曲『男声合唱のためのオホーツク・スケッチ』を作曲してCD化した。漁場へ行く『舟漕ぎ音頭』、網揚げの『網起し音頭』、汲み出しの『沖揚げ音頭』、網に付いた魚卵を落とす『いやさか音頭』の4曲からなる。 -評価- ○この沖揚音頭は、戦前から長く伝わるもので、漁業者団体自らが保存実演していること。○道東・オホーツク沿岸において、他に沖揚音頭は継承されていないこと(枝幸町に伝承されていたが、現在、活動は休止している)。○「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史があり、毎年、そこで披露されて、このように定期的に公演される例は少ないこと。これらから、非常に貴重なものである。

第430号 文化財保護功労賞・紋別沖揚音頭保存会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月21日

紋別の歴史巡り 3・4/13





(c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年11月2日 大正10年の意見書原本 大正11年の意見書原本 アジア歴史資料センター蔵 請願書副本 滝上町郷土館蔵 ○渚滑線の敷設運動 はじめ大正2(1913)年に地元の有力者であった岩田道議が、宗谷線の士別へぬける路線を提唱、つづいて同5(1916)年に上興部から滝上を経て渚滑に至る路線の開通をめざして「縦貫鉄道期成会」を結成した。滝上から分岐して上川・旭川へ繋ぐ案もあった。そうして滝上全村をあげた鉄道院総裁への請願を経て、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通した。 これで橋や畑に被害をもたらしていた渚滑川の木材流送は廃止され、木材のき損や品質低下は軽減されて、関東大震災後の復興事業で木材業が活況し、また、農産物やでんぷんの生産など、原野奥地の開発は目覚しく発展した。 こども用 元西駅名板と十六号線駅名板 〇黄色い駅接近標 渚滑元西と中渚滑16線には、ひっそりと駅名板が立っています。黄色に黒文字の看板は、正式には「駅接近標」と云い、運転士へ駅が近づいていることを知らせるものです。名寄本線と渚滑線の遺物が少ないなかで、貴重な鉄道遺産です。 ○渚滑線の開設運動 宗谷線の名寄から紋別を経由して北見方面と結ぶ名寄線の敷設が決まると、新たに士別からサクルーを通って渚滑原野を横断する路線の要望が上がり、また、滝上から上川を通って旭川までをつなぐ案もありました(新旭川駅をへて上川までを結ぶ路線をルベシベ線と云い、写真の碑は中越信号所にあります)。 滝上では住民みんなが署名して新路線を要請しましたが、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通しました。その頃ちょうど関東大震災があり、復興に木材が必要とされ、滝上では木材業が景気づき、また、農産物やでんぷん生産など、滝上原野の開発が進みました。昭和11(1936)年から34(1959)年までは、さらに奥地を森林鉄道が走っていました。 渚滑線開通記念絵はがき 筆者蔵 奥東駅の駅接近標 JR北海道オレンジカート 筆者蔵 石北線全通の記念碑
第429号 旧渚滑線の駅接近標      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月12日

紋別の歴史巡り 2/13



(b)渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の薪が欠けてしまい、当時の教頭の立腹は相当なものであったと云う。渚滑小学校と同じものが、広尾町の豊似小学校と芦別市旧野花南小学校にある。近くには天皇・皇后両陛下の「御真影(御写真)」を保管した「奉安殿」も残る。 ○二宮尊徳の教え 本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を模範とする「報徳仕法」も、「戊申詔書」が示されると国家のための国民道徳の強化に用いられるようになった。戦時中は国家主義のイデオロギーとして利用され、昭和15(1940)年の「皇紀二千六百年」を記念する立像の建立が各地に見られた。 ○金属類の供出と応召 戦争が長期化すると金属類が不足して昭和13(1938)年から金属類の「供出」が始まり、同16(1941)年には「金属類回収令」が発せられた。銅像などは「応召」の憂き目に合い、そうして湯たんぽや蛇口、ガスコンロ、水筒、栓抜き、缶詰などが次第に金属製から陶器へと代わって行った。各地に陶製の尊徳像が多く残る所以である。 ○薪を背負った姿の由来 薪を背負う二宮尊徳(金次郎)のイメージは、尊徳の高弟で娘婿となった富田高慶の「報徳記」にあり、明治24(1891)年に幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」の口絵に始まる。明治37(1904)年から修身の国定教科書に掲載され、同44(1911)年には柴刈り、草鞋づくりに励み、手習、読書を学ぶ「二宮金次郎」が文部省唱歌となった。明治43(1910)年に製作されて常に明治天皇の御座所にあったお気に入りの尊徳像も、背中に薪を背負っている。 渚滑小学校の二宮尊徳像 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 こども用 渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 ○二宮尊徳(金次郎)とは 江戸時代の終わり頃に活躍し、「金次郎」として知られます。小田原の裕福な農家に生まれましたが、天災で田畑が荒れ、苦労がたたって両親が早くに亡くなります。金次郎は親類に預けられ、少しを惜しんで一生懸命に働き、空地に種をまき、苗を植えて、勤勉実直、倹約し、『小を積んで大となす』を実践しました。そうして苦難を乗り越えて生家を再建します。 あちこちから経営の再建を頼まれるようになり、武士となり、災害復興や飢饉救済に努め、晩年幕府の役人となって村づくりにいっそう励みました。この教えを「報徳仕法」と云い、質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱え、薪を運びながら勉強する姿は教科書や唱歌となりました。この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘の婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語がたりを書いて、このときのイラストに始まったと云われます。 〇渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 渚滑小学校の「二宮尊徳像」は、昭和12年に寄贈された備前焼で、とても有名な窯元で焼かれたものです。同じところで焼かれたものが、広尾町の豊似小学校と芦別市の旧野花南小学校にあります。 渚滑小学校と同じところで作られたもの 芦別市の野花南小学校 広尾町の豊似小学校 九谷焼 筆者蔵 青銅製 筆者蔵

第428号 二宮尊徳のこと      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月06日

紋別の歴史巡り 1/13



(a)顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 「聖徳太子」は、廃仏派を倒して内乱を鎮めると仏教の興隆に努めて衆生救済に当った。また、三経義疏と呼ばれる経文の解説書を著して自らも講説した。聖徳太子は、救世観音の化身とされ、仏法の教主・法王である。また、百済から高度な建設技術を持つ大工を招いて、四天王寺や法隆寺を建立し、建築・土木を興した聖徳太子は、建築・土木の神とされ、仏師を保護し、工芸美術を振興したので、こうして技能諸職の神となった。聖徳太子に信心し、奉賛する集まりを「太子講」と云う。 ○紋別聖徳太子講 明治41(1908)年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、「孝養太子像」が厨子に奉安されている。毎年9月に建設関係者らが本祭を行い、御守護札を交付する。昔は、夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。 ○240年前の掛軸 この聖徳太子摂政図には、『天明元歳(1781年)奉開眼聖徳太子』とある。静岡県袋井市の真言宗篠ヶ谷山岩松寺から伝わるもので、岩松寺では、大工の棟梁に免許皆伝の秘伝書を与え、太子講の絵賛(掛軸)を発行した。遠江・三河だけではなく、家康に従い下った徳川番匠とも云える江戸大工とも関係が深かった。 ○一万円札の肖像 昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子の紙幣は、55年間に渡って国内の最高額紙幣であった。昭和33(1958)年に登場の一万円札は、大きなインパクトがあり、以来、日本の高度成長時代のお金と富の象徴であった。しかし、昭和59(1984)年に肖像が福沢諭吉に代わり、間もなくやって来たバブル期の象徴は諭吉で、そのバブルが崩壊し、長い不況が続いて聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われた。聖徳太子の肖像も、若い世代には馴染みの薄いものになってしまった。 聖徳太子摂政図(絵讃) 孝養(きょうよう)太子像 最初の一万円札 日銀HPから こども用 顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 ○聖徳太子とは 名前は「廐戸皇子」と云い、推古天皇の摂政となって、それまでの有力な豪族たちの争いをやめさせ、仏教を通じた平和な国づくりのなかで、天皇が中心の強い国を目指しました。「冠位十二階」を設けて有能な人を役人に採用し、「十七条の憲法」を定めて国を治める心構えを説きました。また、隋に使節を派遣し、百済などと交流を深めて、進んだ大陸の制度や技術を積極的に取り入れました。 皇子は、仏教を深く信仰し、広めることに努めて「和国の教主・法王」と呼ばれ、人民の救済に当たったので、救世観音の化身とされます。大きなお寺を幾つも建て、道を開き灌漑用水を引いて建築と土木の基礎を作り上げて、建築や土木で働く人たちの神様と云われるようになりました。 のちにその徳と業績を偲んで「聖徳太子」と呼び、そうして聖徳太子を信仰し、奉賛する集まりを「太子講」と云います。紋別の「太子講」は百年を越え、また、約240年前の古い掛軸が伝わっています。 ○最初の一万円札 奈良県桜井市には、聖徳太子が日本で最初に開いた市場という「三輪の市」が商売繁盛の三輪恵比寿神社となって伝わっています。 さて、最初の一万円札の肖像は聖徳太子で、ふるく昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子のお札は、このときから55年間に渡って日本で一番高額なお札でした。それが昭和59(1984)年に福沢諭吉の肖像に代わり、間もなくやって来たバブル崩壊の長い不況もあって、聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われてしまいました。 お札のモデル 聖徳太子二王子図 聖徳太子御伝 1923年刊
第427号 聖徳太子講    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/