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2012年02月10日

南極、白瀬の映画と講演

2月20日(月)16:00 紋別市文化会館
*ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊
*100年前の映像と元観測隊員による講演南極 今昔物語 
北見工大・南極OB会 佐々木 正史 氏
紋別市役所水産課 Tel:0158-24-2111(内259)


はじめに 皆さんこんにちは、さて、あの白瀬南極探検隊が南極に上陸して、今年でちょうど100年になります(1912年1月16日)。今回、どうして南極のお話しをすることになったのか・・・、それは我が紋別市と南極観測にはゆかりがあり、それをあらためて皆様に知ってもらい、そしてこれからも語りつないでいきたいと考えたからです。 白瀬矗は占守島で越冬し、また、カムチャッカを探索するなど、のちに当地でも盛んになった北洋漁業の開発に貢献した人物であり、北海道庁の官吏でもありました。 また、以前に市内にあった通称流研(北大低温科学研究所附属流氷研究施設)からは、観測隊に何人もが参加していて、オホーツク流氷科学センターには、第23次隊に参加した石川正雄さんが持ち帰った「南極の石」が展示されています。 そして紋別には、第一次観測隊のソリ犬として活躍し、悪天候のために南極に置き去りとなって死んだ樺太犬「紋別のクマ」がいて、 このように当地と南極との関わりはたいへん深いのです。 この度は、南極観測に参加された元隊員らによる「南極OB会」さまの全面的なバックアップにより、ドキュメント映像「南極記・白瀬南極探検隊」を上映し、元隊員の北見工大・佐々木正史先生には「南極のおはなし」をご講演いただきます。 また、エントランスホールでは、「白瀬とタロ・ジロ、南極写真展、紋別のクマ」を開催しており、皆さまには、楽しいひと時をご堪能いただければと存じます。
◆ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊 日活の前進である「Mパテー商会」は、大隈重信後援会長の依頼により、田泉保直技師を派遣してドキュメント映像「日本南極探検」を撮影した。これは大正天皇ほかの皇族もご上覧になられて、また、白瀬は探検によって負った莫大な負債を返済するため、この映画をたずさえ、全国各地を講演して歩いた。今回の映像は、南極OB会がこれに他資料とナレーションを加えて再構成したものである。
◆ご講演者のご略歴 佐々木 正史(ささき まさふみ) 1970年北海道大学理類入学、さらに工学部機械工学第二学科卒業 1979年北海道大学大学院工学研究科博士後期課程修了、工学博士 同 年日産自動車㈱入社、総合研究所 1989年同 社、総合研究所主任研究員 1999年同 社、総合研究所シニアリサーチエンジニア ~燃費と排気の極限での両立を目的として自動車用ガスタービンエンジンの研究開 発に従事。その後、燃料電池自動車の研究開発に従事。 2000年北見工業大学機械エ学科 教授(現 職) 2003年11月~2005年3月 第45次日本南極地域観測隊越冬隊員 専門・研究内容 熱工学(燃焼工学、伝熱工学)、動力システム(ガスタービン、燃料電池)、大気環境(温暖化物質)~自然エネルギー利用システム、環境、地球温暖化、温暖化物質など。 ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊&特別講演 学びから 夢が生まれる 道民カレッジ連携講座










































第 - 回 紋別市と南極のゆかり         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 18:05Comments(0)郷土の語り

2012年02月08日

南極探検と樺太アイヌ



明治の南極探検6 ○南極探検で活躍した樺太アイヌ
・樺太アイヌの山辺安之助(ヤヨマネクフ)は、樺太千島交換条約により現在の江別に渡って、対雁学校に学んだ。日露戦争では、日本軍に協力してアイヌ人で最初の勲八等瑞宝章を受ける。探検隊の募集のときには富内村の総代で、同族の地位の向上を志した危険を押しての参加だった。
・花守信吉(シシラトカ)は多来加村の総代で、従軍の経験もあり、日本語が話せた。探検では犬ゾリ隊の御者、海豹狩りなど大活躍であったが、帰還後は不遇であった。
・第二次探検へ向けたソリ犬の補充では、山辺と同郷の樺太アイヌである橋村弥八が、シドニーまで樺太犬に随行したが、探検隊には参加できなかった。
・探検では、樺太犬の毛皮のコートと寝袋、アザラシ皮のブーツが非常に重宝したという。
アザラシを仕留めた花守、山辺、柴田ら 出典「南極記・T2年」 花守?流氷を解かして真水にした 出典「南極探検・T2年」





第293回  樺太アイヌの南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 08:14Comments(0)郷土の語り

2012年02月05日

白瀬の一次探検2


明治の南極探検 5 ○シドニーでのキャンプ生活 1 明治44年5月1日にシドニー港へ入り、翌日、白瀬隊長と野村船長は日本領事館を訪問した。隊員らの上陸が許されたのは、さらにその翌日で、この間、斎藤総領事がオーストラリア政府と掛け合っていたのだ。 白豪主義のオーストラリアでの露天生活は、ある意味、南極探検よりも辛かった。特に中国系への排斥は強く、外見が似た日本人も同様に扱われたのである。総領事からは、注意事項が述べられ、不便はあるがくれぐれも日本人としての品位を保つよう要請があった。 領事館は開南丸の案着を外務省へ、白瀬隊長は探検断念を大隈後援会長へ電信した。5月17には、経過報告と資金調達のために野村船長と多田書記長が日本へ向かった。 さて、心配していたとおり、地元のサン新聞は、『予備軍人による探検隊の名を借りた工作船だ』とか、『単なる捕鯨の密漁船で、彼らはまるで猿だ、ゴリラだ』と書きなぐった。 資金に乏しい探検隊の一行らは、露天生活を始めたが、物珍しそうに指差すもの、キャッキャと笑うもの、日常の買いものでは、腐ったものを売りつける、数をごまかす、挙げ句の果てには全く相手にしてくれない。 白瀬隊長などは、中国人と間違われないように軍装で出歩くようになり、それはそれで奇異な光景であった。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」 シドニー野営中 「絵はがき」 野村船長ら開南丸の船員たち





















第292回  白瀬探検隊のシドニーでのキャンプ生活         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 10:58Comments(0)郷土の語り