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2017年10月29日

もんべつ沖揚音頭(再)

・昭和23(1948)年   有志による団体がなる。
・昭和38(1963)年   第1回もんべつ流氷まつりで公演。
・昭和47(1972)年   正式に保存会を結成する。
・昭和47(1972)年   市民会館のこけら落としで公演。
・昭和47(1972)年   紋別市補助団体となる。
・昭和59(1984)年   第7回道民芸術郷土芸能際に参加。
~以来、記念行事や流氷まつりで公演。
・平成20(2008)年   作曲家・寺嶋陸也がほぼ原曲どおりに作曲、翌年CD化。
 毎年、公演している「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史がある北海道の冬まつりであり、歴史的地域資産を活用した地域振興である。






◆北海道文化財保護功労者表彰
①目 的
 北海道内の文化財(未指定を含む)について、その保存・保護及び保護思想の普及に関する実践功労を顕彰し、文化財保護の普及に資することを目的とする。
②表 彰
 北海道内の文化財の保護及び保護思想の普及に関し、多年にわたり実践功労のあった者又は団体に文化財保護功労賞を贈り表彰する。
③紋別関連の受賞
・昭和41年 第2回   池澤憲一
・昭和45年 第6回   村瀬真治
・昭和47年 第8回   五十嵐文伍
・昭和59年 第20回  紋別郷土史研究会
・平成26年 第50回  上藻別駅逓保存会
・平成29年 第53回  紋別沖揚音頭保存会
◆推薦者
 山田雅也=紋別市役所、北海道文化財保護協会員(前理事)、北海道史研究協議会員(幹事)、北海道北方博物館交流協会員、北海道産業考古学会員、産業考古学会員(全国)、日本民俗建築学会員ほか。専門は地域史と産業史、北海道の殖産、拓地殖民の歴史に詳しい。
 紋別の水産界では、この数年、災害、不漁と負の話題が多い中、ここで明るい話題をと思い推薦した。保存会の構成員である漁協女性部が本年で60周年、お披露目となる来年(流氷祭り)には、漁協本体が70周年を迎える。

平成二十九年度 北海道文化財保護功労者 郷土芸能紋別沖揚音頭保存会 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われた鮭、鱒、鰊であり、幕末頃に大きな漁獲を可能にする「鰊建網」が開発されると漁労は大型化し、こうして多くの漁夫が必要になった。沖揚音頭は、鰊漁の水揚げから網起こし、汲み出しほか、共同作業の拍子を合せる掛け声唄で、各地の漁場に自然発生した。しかし、昭和三十(一九五五)年頃、全道的に大きな群来が見られなくなり、鰊漁の衰退とともに沖揚音頭も忘れ去られて行く。江差沖揚音頭(道指定無形民俗文化財)、松前沖揚音頭(町指定無形民俗文化財)、神恵内沖揚音頭、浜益沖揚げ音頭などが知られ、ソーラン節もそのひとつである。早くからホタテ貝が名産である紋別市も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)に紋別番屋が置かれて、昭和二十七(一九五二)年を最後に鰊が群来らなくなるまでは、鰊漁が漁業の太宗にあった。この「紋別沖揚音頭」は、〝今野芳太郎″が道南の鰊場から昭和十三(一九三八)年に移り住んで来て歌われるようになったと伝わる。昭和二十三(一九四八)年に今野芳太郎の呼びかけで有志(加藤與志雄、村山喜一郎、畠山寿男、畠山徳一、菅谷武、山田伊佐雄、山田一太郎ほか)らが募り、はじめは民謡愛好的な集団であったらしい。昭和三十五(一九六〇)年に北見で、同三十七(一九六二)年には札幌で披露され、以来、各種の行事で催されるようになった。〝もんべつ流氷まつり″では、昭和三十八(一九六三)年の第一回から継続して演じられている。昭和四十四(一九六九)年は、船などを製作して衣装も新調し、現在の形となって、この頃は自費に寄付金を当てていた。昭和四十七(一九七二)年には、会長・天野一郎、副会長・今野芳太郎として正式な「紋別沖揚音頭保存会」が発足し、市民会館の〝こけら落とし″で公演した。これから会費を徴収して、紋別市補助団体となった。〝オーシコ″の掛け声のもと、出漁、操業、帰港までの漁労を表現している。こうして市内の各種行事で披露されていたが、経年のうちに会員減少から存続が難しくなり、次世代に継承すべく、昭和五十二(一九七七)年に紋別漁業協同組合、漁協婦人部(現女性部)と漁協青年部が加わって再編され、現在に至っている(初代会長に漁協組合長・野村秀男、副会長に保存会・今野芳太郎、漁協青年部長・山田徹夫、漁協婦人部長・能戸トク)。作曲家の寺嶋陸也は、平成二十(二〇〇八)年に「紋別沖揚音頭」をほぼそのままに、合唱組曲『男声合唱のためのオホーツク・スケッチ』を作曲してCD化した。漁場へ行く『舟漕ぎ音頭』、網揚げの『網起し音頭』、汲み出しの『沖揚げ音頭』、網に付いた魚卵を落とす『いやさか音頭』の4曲からなる。 -評価- ○この沖揚音頭は、戦前から長く伝わるもので、漁業者団体自らが保存実演していること。○道東・オホーツク沿岸において、他に沖揚音頭は継承されていないこと(枝幸町に伝承されていたが、現在、活動は休止している)。○「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史があり、毎年、そこで披露されて、このように定期的に公演される例は少ないこと。これらから、非常に貴重なものである。

第430号 文化財保護功労賞・紋別沖揚音頭保存会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月21日

紋別の歴史巡り 3・4/13





(c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年11月2日 大正10年の意見書原本 大正11年の意見書原本 アジア歴史資料センター蔵 請願書副本 滝上町郷土館蔵 ○渚滑線の敷設運動 はじめ大正2(1913)年に地元の有力者であった岩田道議が、宗谷線の士別へぬける路線を提唱、つづいて同5(1916)年に上興部から滝上を経て渚滑に至る路線の開通をめざして「縦貫鉄道期成会」を結成した。滝上から分岐して上川・旭川へ繋ぐ案もあった。そうして滝上全村をあげた鉄道院総裁への請願を経て、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通した。 これで橋や畑に被害をもたらしていた渚滑川の木材流送は廃止され、木材のき損や品質低下は軽減されて、関東大震災後の復興事業で木材業が活況し、また、農産物やでんぷんの生産など、原野奥地の開発は目覚しく発展した。 こども用 元西駅名板と十六号線駅名板 〇黄色い駅接近標 渚滑元西と中渚滑16線には、ひっそりと駅名板が立っています。黄色に黒文字の看板は、正式には「駅接近標」と云い、運転士へ駅が近づいていることを知らせるものです。名寄本線と渚滑線の遺物が少ないなかで、貴重な鉄道遺産です。 ○渚滑線の開設運動 宗谷線の名寄から紋別を経由して北見方面と結ぶ名寄線の敷設が決まると、新たに士別からサクルーを通って渚滑原野を横断する路線の要望が上がり、また、滝上から上川を通って旭川までをつなぐ案もありました(新旭川駅をへて上川までを結ぶ路線をルベシベ線と云い、写真の碑は中越信号所にあります)。 滝上では住民みんなが署名して新路線を要請しましたが、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通しました。その頃ちょうど関東大震災があり、復興に木材が必要とされ、滝上では木材業が景気づき、また、農産物やでんぷん生産など、滝上原野の開発が進みました。昭和11(1936)年から34(1959)年までは、さらに奥地を森林鉄道が走っていました。 渚滑線開通記念絵はがき 筆者蔵 奥東駅の駅接近標 JR北海道オレンジカート 筆者蔵 石北線全通の記念碑
第429号 旧渚滑線の駅接近標      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月12日

紋別の歴史巡り 2/13



(b)渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の薪が欠けてしまい、当時の教頭の立腹は相当なものであったと云う。渚滑小学校と同じものが、広尾町の豊似小学校と芦別市旧野花南小学校にある。近くには天皇・皇后両陛下の「御真影(御写真)」を保管した「奉安殿」も残る。 ○二宮尊徳の教え 本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を模範とする「報徳仕法」も、「戊申詔書」が示されると国家のための国民道徳の強化に用いられるようになった。戦時中は国家主義のイデオロギーとして利用され、昭和15(1940)年の「皇紀二千六百年」を記念する立像の建立が各地に見られた。 ○金属類の供出と応召 戦争が長期化すると金属類が不足して昭和13(1938)年から金属類の「供出」が始まり、同16(1941)年には「金属類回収令」が発せられた。銅像などは「応召」の憂き目に合い、そうして湯たんぽや蛇口、ガスコンロ、水筒、栓抜き、缶詰などが次第に金属製から陶器へと代わって行った。各地に陶製の尊徳像が多く残る所以である。 ○薪を背負った姿の由来 薪を背負う二宮尊徳(金次郎)のイメージは、尊徳の高弟で娘婿となった富田高慶の「報徳記」にあり、明治24(1891)年に幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」の口絵に始まる。明治37(1904)年から修身の国定教科書に掲載され、同44(1911)年には柴刈り、草鞋づくりに励み、手習、読書を学ぶ「二宮金次郎」が文部省唱歌となった。明治43(1910)年に製作されて常に明治天皇の御座所にあったお気に入りの尊徳像も、背中に薪を背負っている。 渚滑小学校の二宮尊徳像 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 こども用 渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 ○二宮尊徳(金次郎)とは 江戸時代の終わり頃に活躍し、「金次郎」として知られます。小田原の裕福な農家に生まれましたが、天災で田畑が荒れ、苦労がたたって両親が早くに亡くなります。金次郎は親類に預けられ、少しを惜しんで一生懸命に働き、空地に種をまき、苗を植えて、勤勉実直、倹約し、『小を積んで大となす』を実践しました。そうして苦難を乗り越えて生家を再建します。 あちこちから経営の再建を頼まれるようになり、武士となり、災害復興や飢饉救済に努め、晩年幕府の役人となって村づくりにいっそう励みました。この教えを「報徳仕法」と云い、質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱え、薪を運びながら勉強する姿は教科書や唱歌となりました。この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘の婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語がたりを書いて、このときのイラストに始まったと云われます。 〇渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 渚滑小学校の「二宮尊徳像」は、昭和12年に寄贈された備前焼で、とても有名な窯元で焼かれたものです。同じところで焼かれたものが、広尾町の豊似小学校と芦別市の旧野花南小学校にあります。 渚滑小学校と同じところで作られたもの 芦別市の野花南小学校 広尾町の豊似小学校 九谷焼 筆者蔵 青銅製 筆者蔵

第428号 二宮尊徳のこと      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月06日

紋別の歴史巡り 1/13



(a)顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 「聖徳太子」は、廃仏派を倒して内乱を鎮めると仏教の興隆に努めて衆生救済に当った。また、三経義疏と呼ばれる経文の解説書を著して自らも講説した。聖徳太子は、救世観音の化身とされ、仏法の教主・法王である。また、百済から高度な建設技術を持つ大工を招いて、四天王寺や法隆寺を建立し、建築・土木を興した聖徳太子は、建築・土木の神とされ、仏師を保護し、工芸美術を振興したので、こうして技能諸職の神となった。聖徳太子に信心し、奉賛する集まりを「太子講」と云う。 ○紋別聖徳太子講 明治41(1908)年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、「孝養太子像」が厨子に奉安されている。毎年9月に建設関係者らが本祭を行い、御守護札を交付する。昔は、夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。 ○240年前の掛軸 この聖徳太子摂政図には、『天明元歳(1781年)奉開眼聖徳太子』とある。静岡県袋井市の真言宗篠ヶ谷山岩松寺から伝わるもので、岩松寺では、大工の棟梁に免許皆伝の秘伝書を与え、太子講の絵賛(掛軸)を発行した。遠江・三河だけではなく、家康に従い下った徳川番匠とも云える江戸大工とも関係が深かった。 ○一万円札の肖像 昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子の紙幣は、55年間に渡って国内の最高額紙幣であった。昭和33(1958)年に登場の一万円札は、大きなインパクトがあり、以来、日本の高度成長時代のお金と富の象徴であった。しかし、昭和59(1984)年に肖像が福沢諭吉に代わり、間もなくやって来たバブル期の象徴は諭吉で、そのバブルが崩壊し、長い不況が続いて聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われた。聖徳太子の肖像も、若い世代には馴染みの薄いものになってしまった。 聖徳太子摂政図(絵讃) 孝養(きょうよう)太子像 最初の一万円札 日銀HPから こども用 顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 ○聖徳太子とは 名前は「廐戸皇子」と云い、推古天皇の摂政となって、それまでの有力な豪族たちの争いをやめさせ、仏教を通じた平和な国づくりのなかで、天皇が中心の強い国を目指しました。「冠位十二階」を設けて有能な人を役人に採用し、「十七条の憲法」を定めて国を治める心構えを説きました。また、隋に使節を派遣し、百済などと交流を深めて、進んだ大陸の制度や技術を積極的に取り入れました。 皇子は、仏教を深く信仰し、広めることに努めて「和国の教主・法王」と呼ばれ、人民の救済に当たったので、救世観音の化身とされます。大きなお寺を幾つも建て、道を開き灌漑用水を引いて建築と土木の基礎を作り上げて、建築や土木で働く人たちの神様と云われるようになりました。 のちにその徳と業績を偲んで「聖徳太子」と呼び、そうして聖徳太子を信仰し、奉賛する集まりを「太子講」と云います。紋別の「太子講」は百年を越え、また、約240年前の古い掛軸が伝わっています。 ○最初の一万円札 奈良県桜井市には、聖徳太子が日本で最初に開いた市場という「三輪の市」が商売繁盛の三輪恵比寿神社となって伝わっています。 さて、最初の一万円札の肖像は聖徳太子で、ふるく昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子のお札は、このときから55年間に渡って日本で一番高額なお札でした。それが昭和59(1984)年に福沢諭吉の肖像に代わり、間もなくやって来たバブル崩壊の長い不況もあって、聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われてしまいました。 お札のモデル 聖徳太子二王子図 聖徳太子御伝 1923年刊
第427号 聖徳太子講    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年09月10日

2017年07月18日

草鹿農場と軌道跡



第414号 鴻紋軌道跡と草鹿邸     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月17日

マルキ号製パンの跡・補追

マルキ号製パン、水谷政次郎のこと。



第412号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 05:15Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2017年07月16日

マルキ号製パンの跡 1


東洋一のマルキ号パン、パン王・水谷政次郎が作り上げた遠軽町丸瀬布のマルキ通りと水谷町。パン王・水谷政次郎の発願による遠軽町丸瀬布の弘政寺と四国八十八カ所。水谷橋。海軍と関係が深かったマルキ号製パンの小麦農場があった紋別市沼の上の水谷集落。近くは水陸飛行場予定地だった、らしい・・・。
第411号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 10:58Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2013年10月30日

ホタテの歴史、猿払、紋別













































 最初期のホタテの利用~むしろ貝殻が目的 栗本鋤雲の「箱館叢記」 /『帆立貝は六ヶ塲所中季子内の濱、又内地南部の東濱にも在れと、繪鞆産の大なるに及はす。又土人西地リイシリ島に出るを第一とすれと、是は其殻の厚くして能く火に耐るを以て、鍋に代ゆるの便を云ふのみ、味の論にあらざるべきか。』/明治12年。 蒔絵ホタテ貝皿/室蘭市民俗資料館 アイヌの蜀台/北大北方民族資料室 ○皿貝とも云われるホタテは、むしろ食器や装飾品とされていた。○戦時中に湧別漁協は、食器の代用品として大量の貝殻を軍へ発送した。 専業的ホタテ漁業のはじまり 村尾元長の北海道漁業志要 『漁具は「ホタテ」八尺と稱するものを用ゐ磯舟一人乘若くは二人乗にて漁す 漁獲は從來其殼を主とし身は鮮にて食用に宛て或は粗製の丸干となし産地に消費せしが近年は之を精製して清國に輸出するに大に聲價あり且つ其大なるものよりは寧ろ小なるものを貴ぶが故に漁業者極めて小なるものを漁するに至る從て其殼は小にして殆と價値なし 産額は年々差異あるは勿論なれども近年の景況を見るに二十四年は乾海扇百四十七石二十五年同上二百八石二十六年同上四百八十八石にて年々增加の傾あり殼も内地に輸出し又室蘭には土産の一として人工を加へて小皿用に造り發賣す』/明治30年 ○ホタテ漁は、明治中期に後志と噴火湾で盛んとなった。 ○最初期の道内各地の漁場開発に石川県人など北陸衆が果した役割は大きい。 ○乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点に道内各地へ回航するようになった。 ○新たに有望となったのがオホーツク海の猿払や紋別であり、また、後に根室地方で潜水漁業が始まった。 ○国後では、明治18年にホタテを確認したが乱獲されてしまい、同24年に漁労を再開して同30年には根室の諸島で潜水漁業が始まった。大正年間から昭和18年頃迄は千葉から多くの潜水夫が出稼ぎに入っていた。 オホーツクでのホタテ漁業1 猿払騒動 猿払は明治24年頃に石川県人が漁場を開発したことに始まる。大正2年の殖民公報に『家族を併せて總計7千人餘商賣其他のもの約二百人あり左の如し』とあるようにたいへんな興隆を見るに至った。しかし、乱獲と密漁から資源は減少し、昭和9年には稚内方面が禁漁とされ、猿払も禁漁になるはずであったが、生活が成り立たないと騒ぎ立てたため、稚内漁協と宗谷漁協から各60隻が着業することになった。これによって深くホタテ漁に関わって来た石川県人が排除されるに至り、道庁、石川県庁を巻き込んだ一大騒動に発展した。これは巧みに川崎船を操る石川県人が疎んじられた結果であるが、また、背景には以前からの宗谷と稚内との対立があり、入会が禁止された後に稚内漁協が石川団体へ名義貸しするという事態も起こり、騒動が激化、結局、石川県人の所有する建物、漁船、漁具その他を猿払漁民に譲渡し、雇われ等の漁労のみに余地を残して入会は全廃され、石川県人の道内おける一大拠点は消滅した。昭和30年代後半にはいよいよ資源が枯渇し、同40年からは全面禁漁とされて「死の海」と云われるようになった。昭和46年以降は村と漁協が10年間の稚貝放流計画を立てて多額の費用を分担し、その効果があって同49年より漁獲が再開されて増養殖事業は軌道に乗った。オホーツクでのホタテ漁業2 紋別八尺 紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云い、これはナマコ漁での混獲と思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、最初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの川崎船であった。また、別の記録では明治26年に青森県人が高島から「八尺」を持てって来て漁を始めたとも云う。大正の中頃には、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪の「紋別八尺」が全道的に知られるようになったが、既に着業間もない明治29年には資源減少が表われるなど、当初から乱獲による好不漁と禁漁を繰り返していた。昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は、同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのがホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別において現在の基礎となる実証的な試験が繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは「4年毎の輪採制」として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定して来た。 紋別八尺/北海道漁具図説/S16年





























第345回 オホーツクのホタテの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:12Comments(0)オホーツクの歴史

2013年07月10日

湧別の煉瓦建築



歴史的景観地域・湧別煉瓦建築群/湧別町 かっては世界のハッカの7割を産出した北見地方。その代表的な産地でハッカ成金を輩出した上湧別村は旧名寄線と湧網線の分岐点でもあり、また、“北限のリンゴ“として良く知られ、現在も湧別地域に倉庫、牛舎、住宅など多くのレンガ建築が残る。藤島倉蔵は、湧別川が運んだ重粘土を利用して煉瓦を製造しようと野幌から職人の熊倉栄松を呼び寄せ、大正7年に「中湧別煉瓦工場」を創立し、大正9年には、栄松に経営を移譲した。昭和16年には渡辺亀助が工場を買い取り、現在は「興農セラミック」へと引き継がれている。






























第354回 湧別地方のレンガ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)オホーツクの歴史

2012年07月07日

北見地方の昔話し1











































































































































































































































































































































 第303回 オホーツク管内の昔話し1 
北見國のあれこれ ◆香るミントの風、北見ハッカの濫觴 開墾が始まったばかりで、交通不便な奥地においては、収穫物としてのハッカの取卸油は運搬がたやすく、また、北見の気候風土にたいへん良く適したことから、この地方に瞬く間に広まりました。こうして世界の産出の大よそ7割を占めるようになった「北見ハッカ」は、当地の開拓期の先鞭となり、昭和40年代まで大いに興隆を見ました。 北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝され、翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山屯田兵村の山形県人・石山伝右衛門によるもので、ここから湧別村へと「渡部精司」が移植したことから、よって以後の道内のハッカは、ほとんどが山形系になった。 渡部は、明治24年に開拓地の選定のためにオホーツク沿岸を探索中、偶々、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生のハッカを発見し、それを試験的に精油したのが「北見ハッカ」の濫觴で、同26年に北見国の湧別に入って栽培を始めた。 それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、既に明治33・4年頃には導入されていたようで、また、明治37年の日露従軍の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息からハッカの話を聞き、戦後に至って永山村から取り寄せた逸話も残っており、北見地方で栽培が広まったひとつの理由に、日露戦争での屯田兵間の情報交換があった。 昭和8年に「北聯薄荷工場(現北見ハッカ記念館)」が創業する以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが、建設され精製されていたことは余り知られていない。 北聯工場が操業開始の頃 網走支庁管内概況/S9年 田中式薄荷蒸留釜 置戸町立郷土資料館蔵 ◆北限のリンゴ、網走地方の苹果栽培 現在は、わずかに観光農園でしか見られない網走管内のリンゴも、かっては道内を代表する一大産地で、農作業は、豊作祈願祭や感謝祭など、地域のコミュニティの場でもありました。北海道のリンゴの始まりは、明治2年に開設された七重村のガルトネル農園(後の七重官園)と云われ、道内最初期の栽培には、元新選組隊士で近藤勇を狙撃したことで有名な阿部隆明が深く関係しています。隆明は維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所詰となり、のちに自らも札幌に果樹園を開いてリンゴの普及に努めました。品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、「北海道果樹協会」の発足では初代理事となりました。 ・網走管内のリンゴ栽培 農業開発が最も遅れた道東北でも、明治7年には根室に官園が設けられて、三県時代の根室県では同18年に「北海道物産共進会」を開催し、七重から苗木を導入して県下の全戸へ奨励している。 網走管内の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を移植したのに始まって同22年にはリンゴも植栽し、この頃は網走郡役所の官吏や周辺者たちが奨励されて試植をしたが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸の範囲であった。しかし、次第に作物としての有用性が認められると、同42年には4万斤・10万円の産額を示すようになる。こうして病害虫の発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展して行った。 網走外三郡農会では、大正9年から網走・野付牛・相内・遠軽・上湧別の5ヶ所に集中指導地を設け、また、昭和8年には、道庁が果樹栽培の奨励地帯を定めて実地指導地を設定、網走管内では上湧別の平野毅が請け負った。 ・呼人のリンゴ 呼人リンゴの発祥は、明治の末、すでに田中牧場の辺りにリンゴ樹があり、その後に植える者も現われて、大正4年には坂野竹次郎が入植して計画的に苗木を植栽した。同6年は早くに植栽していた者たちが苗木の共同購入を行い、こうして同9年には4町5反の呼人リンゴ園が完成した。大正13年には網走果樹栽培実行組合が結成され、呼人に支部が設けられ、昭和5年には坂野果樹園が網走外三郡農会の果樹指導所に指定されて、呼人リンゴが地域の果樹農家の中心となった。 ・上湧別、北限のリンゴ 明治30年に屯田兵が入地したとき、中湧別の先住者・徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これが上湧別のリンゴの濫觴と思われるが、また、土井菊太郎が同27年に入植して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云う。このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、同32年には中隊本部が「倭錦」ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めた。 そして村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化を図り、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになって、気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵村を中心に栽培が広がり、大正後期には上湧別の耕作戸数が全道の約1/4にも及んで、同15年に当地で北海道庁による第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。 この間、大正10年から「湧別名産りんご」のレッテルの使用が始まり、昭和6~9年には道東各所(渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別)でリンゴを駅売りする者も現れた。昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として天皇陛下に品種「祝」を献納し、また、同13年の北海道園芸会主催の第六回園芸作物展覧会では、平野毅が品種「旭」で一等になるなど、本村リンゴの生産は全道で3位に上り最盛期を迎えた。 ・紋別の余市団体 「殖民広報第六十一號/明治44年」では、渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあって、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴの先進地からの再転住者が大量に流入した。 そして土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。 現在の天都山のリンゴ ◆草鹿犀之介氏 昭和2年で、総工費が2万円はかかったというタール黒塗り下見張りの洋館で、いわゆる文化住宅です。洋和室に備えられたペチカなどは、当時の寒冷地対策を良く現していて、1階洋間の変形出窓とそれに連なる屋根は特徴的です。 草鹿犀之介は、明治31年に石川県に生まれる。父は、マルクスを日本国内に始めて紹介した経済学者で、のちに住友家の理事となった草鹿丁卯次郎。実兄は、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの参謀長を務めた草鹿龍之介中将。伯父に判事を経て衆議院議員となった草鹿甲子太郎、従兄に南東方面艦隊司令長官の草鹿任一中将がいる。 盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、大正11年に紋別市元紋別に入り、一農民として自ら大規模な農場を経営、昭和7年に当時としては反産運動へと繋がる紋別で最初の産業組合を発足させ、農民の生活の向上に努めた。昭和5年にはフォードソン・トラクターを購入するなど、畜力や機械力を利用した農業の近代化を図り、また、実習生を積極的に受け入れるなど、農業界と地域に大きく貢献した。旧草鹿農場事務所 ◆中浜万次郎と咸臨丸 1841年(天保12年)に出漁して漂流し、捕鯨船ジョン・ハウランド号に助けられた土佐漁師の万次郎は、米国に渡ってジョン・マンを名乗り、そこで西欧の知識を吸収し、世界の潮流を知りました。日本の開国を誓って帰国した万次郎は、武士となり普請役格・軍艦操練所教授方出役、維新後は開成学校教授となり、坂本龍馬や板垣退助、中江兆民、岩崎弥太らに影響を与えたと云われます。万延元年には遣米使節に参加し、勝海舟・福沢諭吉らと供に咸臨丸に乗船して再び太平洋を渡ります。安政4年に捕鯨指導として箱館奉行所に逗留したことがあり、また、函館戦争の将・榎本武揚の英語の教師でもありました。 咸臨丸は、旧幕軍の軍船として函館戦争に参戦し、維新後の明治2年には開拓使附属の御用船となって、青森~函館間の初めての定期航路船として官公物の輸送に当ったが、同4年9月、入殖を目的とした仙台藩片倉家を乗せて台風のために破砕、木古内町のサラキ岬沖に沈没したのであった。 そして紋別市元紋別には万次郎のお孫さんが入殖し、現在もその一族の方がおられる。中浜明は、明治33年に万次郎の長男、医師の中浜東一郎の三男として東京に生まれた。昭和3年に紋別の山中にある中藻別へ入植し、のち同9年に川下の元紋別へ再転住して酪農を始めた。その故人は京大と東大を卒業したインテリで、戦前、戦中の難しい時代に奉安殿建設の寄付を拒否し、軍用機の献納にも反対して、また、赤レンガのサイロにロシア文字と云ういわゆる左寄りで、特高に目を付けられ部落会長を免職されたりもした。 近所には海軍中将の親族がおり、勿論、仲が良いはずも無く、相主張譲らず、互いに張り合ったとか。しかし、中将の親族が反産運動へ繋がる産業組合を結成し、中浜も加入して牛を飼ったというから面白い。戦後はGHQの命令による奉安殿の取り壊しに異議を唱え、国歌「君が代」にも反対し、万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒトである。 ロシア文字で牧場そして中浜とある ◆帆立貝、あれやこれや 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブがあり、北海道の特産品であるホタテ貝も、すでに幕末には乾貝柱として登場し、明治に入って盛んに中国へ輸出されるようになりました。 蝦夷地を北海道と名付けたことで知られる松浦武四郎は、その頃の寿都のアイヌ人の民話として『たくさんの海扇(ほたて)が、フタを帆にしてやって来た』と記しており、箱館奉行所の栗本鋤雲も、『蝦夷の三絶』のひとつとしてホタテの乾貝柱をあげている。 また、あのペリーが箱館に来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それは後の1857年にJohn.C.Jayによって、学名Patinopecten yessoensisと命名されたが、Yessoensisとは「蝦夷」のことで、“蝦夷の櫛柄の皿のような貝”を意味する。 この皿貝ともいうホタテ貝は、文字どおりアイヌの人たちや開拓民に食器として使われ、その最初期の漁は、装飾品など、むしろ貝殻の利用を目的としたもので、戦時中の湧別漁協では、軍の命令により食器の代用品として、大量のホタテ貝殻を発送した。 さて、明治20年代にホタテ漁が盛んになったのは、今のような黄金色の「白乾(乾貝柱のこと)」の精製が広がったからで、それ以前は、煮たのちにウロなどもそのまま燻乾した「黒乾」だった。今のような「白乾」の精製は、明治12年頃の試作にはじまり、同21~22年頃から本格的に製造されるようになったが、自らも海産物の加工・販売を行っていた小樽の三浦吉郎は、技術を見込まれて水産試験場の技師となり、のちに宗谷に移って「白乾」の製造法を浪花節にして歌い、熱心に指導して回ったことから乾貝柱が宗谷や紋別などの名産品になった。 そうして最初のホタテ漁は後志と噴火湾が盛んであったが、乱獲から資源は急速に減少し、早くも明治後半には小樽を基点として道内の各地へ出稼ぎするようになり、そこで新たに有望となったのが猿払や紋別などのオホーツク海であり、この初期のホタテ漁の中心は小樽を拠点にした石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、大正の中頃には既に「紋別八尺」が広く道内に知られており、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪のホタテ専用の漁具は、今もある小樽の「一鉄鉄工所」が開発したものである。 後年、昭和9年にサロマ湖で開始された採苗試験は同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが網走地方のホタテ増養殖の始まりと云われ、その後、紋別では現在の基礎となる実証的な試験が繰り返され、こうしてオホーツク沿岸がホタテ生産の中心地となって行った。 10枚組20銭で売られた蒔絵ホタテ貝皿 室蘭市民俗資料館蔵/明治初期 紋別前浜の改良川崎船/大正絵はがき  ◆ひと群れの里・遠軽家庭学校 同志神学校を卒業した留岡幸助は教会牧師を経て空知集治監の教誨師となります。このとき非行少年の感化事業の必要性を深く感じて渡米留学すると、帰国後は巣鴨監獄の教誨師、のち警察学校の教授となって、明治32年には巣鴨に「少年救護院東京家庭学校」を創設し、後に遠軽と茅ヶ崎にも分校を設けました。 大正3年に設立された遠軽の「社名淵分校」は、大自然での労働を通じて感化を図ろうとするもので、同年に社名淵と同5年には白滝に計約1千町歩の売払地を得て、キリスト教に独自の報徳思想を取り入れた農場として、理想郷の建設を目指した。 その温情と誠意にあふれた農場は、大正9年迄に小作数が社名淵で50戸、白滝が25戸となり、昭和5年には社名淵産業組合が結成されて、同14年に社名淵が同16年には白滝の全小作約80戸500人を開放したが、後も日曜学校や夏季保育園、冬季学校など、常に地域の中心にあった。 ところで幸助の長男の幸男は内務官僚で、東条内閣では警視総監としてゾルゲ事件に対応し、戦後の昭和21年には北海道長官となったが、どさくさの中でたびたび道職員と衝突し、何も出来ずにたった3ヶ月で辞めてしまい、その後は家庭学校の校長のほか社会事業に尽力した。また、次男の清男は北大教授や北星女短の学長を勤めた。 大正8年に建堂の礼拝堂 ◆湧別屯田兵村と日清戦争 北見地方の屯田兵による開拓の始りは、明治30年に設置された湧別兵村です。「武州丸」で来航した第一次の移民者らは途中、暴風雨に遭遇し、また、湧別に到着後も荒天のため艀付けができないまま、ようやく上陸できたのは3日間後の明治30年5月27日でした。 日露戦争の開戦は、この兵村が解体されて間もない、明治37年2月で、かっては対露・北辺の防人であった屯田兵370余名にも、いよいよ同年8月13日に召集がなされた。 旭川第七師団の満州軍に所属した湧別屯田兵は、もっとも激戦であった二〇三高地の攻防に参戦し、戦死者は従軍の約一割の32名にも及んでいる。そしてロシア極東艦隊との制海権を争ったことで名高い旅順港の閉塞作戦では、屯田兵を運んだ「武州丸」や「武揚丸」が爆破沈設された。 終戦後の明治39年3月12日に旭川で解散・復員した屯田兵たちは天北峠と北見峠に分かれて帰路についたが、このとき二〇三高地を生き抜いた帰還兵たちに悲劇が起こった。それは雪深い北見峠を進む彼らを激しいにわか雨が襲い、ぬかるみに進退極まり遭難、1名が帰らぬ人となった。 さて、遠軽家庭学校には、敵将ステッセルから乃木将軍へ送られたと云う伝説のピアノがある。 明治36年3月の湧別兵村解隊式/湧別兵村誌/T10年 ◆紋別、蟹工船のモデル 今から何十年も昔に見られた風物詩に「カニ拾い」があります。流氷が行ったり来たりの早春の頃、毛ガニがうじゃうじゃと砂浜に上がって、1斗ガンガンでひとつ2つと獲れました。かっては林兼(現マルハ・ニチロ)など、当地でもカニ缶製造が盛んでしたが、戦前・戦後の北洋漁業の一翼をなし、重要な輸出品として外貨獲得に大きく貢献したカニ缶詰は、その大分が洋上で加工され、労働環境は極めて苛酷なものであり、それを描いた小林多喜二の小説『蟹工船』は余りにも有名です。 この頃の蟹工船は、制度上は漁船でなく、工場でもないという曖昧なもので規制が難しく、確かにリンチはあったし、衛生管理や栄養の不足、長時間の労働などから死亡、傷病者を多数出したが、当時の日本社会には人権などという考えは無く、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、この蟹工船が特に特異・突出したものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者たちが虐待とも云える労働搾取にあっていた。 小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかと思われがちだが、そのモデルになった『博愛丸』は日露戦争の時に病院船だったことで広く知られており、たまたま、多喜二が住んでいた小樽へ来航したとき、火災を発生させて大きな話題となっていた。そして悪玉の親分とされる人物は、この船上での蟹缶詰の製造ラインを完成させた蟹工船事業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる非人道的な事件の多くは、他の蟹工船であったことがモチーフとされ、事実にもとづきながらも、特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張して作られた“あくまでプロレタリア作品”である。 さて、「蟹工船・博愛丸」の船主として、そのモデルになった人物が紋別にいた。彼は大正8年に、それまで試行が繰り返されていた船内でのカニ缶の製造ラインを完成させ、以後の同業の勃興を生んだ立役者であり、自らも同12年に蟹工船事業に着手したもので、博愛丸事件が起こったのは同15年である。その後、水産局の役人となっていたが、要請を受けて道内でも2番目という、紋別地方で初めての冷蔵庫の建設に尽力、また、当時、盛んであった海外向けの缶詰製造を当地で手掛けるなど、道内各地の水産業に残した業績は大きく、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云えよう。 病院船時代の博愛丸/出典不明(明治切抜?) ◆オタスの杜とゲンダーヌ この「オタスの杜」とはロシア革命後の北樺太からの日本軍の撤兵に伴い、そこにあった先住民の移転を目的として、昭和元年に幌内川の三角州に建設され、主に「ウイルタ人(オロッコ)」と「ニヴフ人(ギリヤーク)」が暮らしていましたが、また、北樺太からの亡命者「トナカイ王」と呼ばれたヤクート人の有力一族がいました。ここ樺太での「教育所」とは、明治42年に先住民の教育を目的とし、当初はアイヌ人のために開設されましたが、昭和8年にはアイヌ人も戸籍が日本人と同様になり、よって以降はその他の民族が対象となりました。「敷香土人教育所(のち敷香教育所)」の開設は同5年9月で、教師の名前は「川村秀弥」と云います。 ・オタスの杜に暮らす この幌内川の三角州にある集落には電気が無く、春はトッカリを獲り、夏と秋はマスとサケ、冬になると猟に出てトナカイやテンを狩った。女たちはトナカイ皮の財布や敷物を作り、集落内の土産店(半澤写真館)で販売しては現金収入を得ていた。家々にはカラフト犬が何匹もいて、冬はソリを引かして運搬に当てていた。イヌは大切な家族であり、子ども達の良い友達でもある。 幌内川では冬にスケートやソリ、穴釣りでキュウリやカンカイを釣る。いつでも学校が地域の中心であり、お盆や小学校の運動会ではお祭りとして「熊祭」や「丸木舟競争」が行われ、お正月には餅をついたり、宝引をしたりした。時折り町へ出かけては活動写真を見たり、カフェへ行ったりもする。昔は唐風の服装をしていたが、この頃の女たちはまるで洋装のようなロシア風で、また、ニクブンの娘の間では日本様が流行り、白いご飯を食べるなど、ずいぶん日本風となっていた。 ここオタスの学校は、校舎の半分が教室で、残りは住宅となっていて、校長先生の一家が暮らしていた。校長先生は厳しいが、その教育は純粋なもので、住民たちから篤い信頼を受けており、奥さんの女先生はやさしく、女の子に裁縫を教えていた。ランプ生活で自分たちの一生をオタスの為に尽くしてくれた。 ・ウイルタ人・ゲンダーヌ この「オタスの杜」へは汽船おたす丸が通い、そこの住民たちは無料で利用した。夏にはそれに乗って観光客が訪れたりもしていた。ゲンダーヌの日本名は北川源太郎と云い、川村先生の推薦で敷香支庁の職員となり、のち、おたす丸の船長をしていたことがある。 ふつう教育所を卒業すると「敷香土人事務所」の斡旋で、漁場や山仕事などの出稼ぎに出るのが一般的で、官公所へ勤めることは異例であって、ゲンダーヌ自身も誇らしく、また、職場の皆も可愛がってくれた。この頃が平穏で一番幸せだったかも知れない。 昭和17年の夏、彼のもとへ「召集令状」が届いた。『日本人になれる』、強く日本人になりたいと望んでいたゲンダーヌは、ひどく興奮した。戸籍がなく、日本人ではない彼らが、徴兵されるはずもないのに。これによって諜報活動に携わったゲンダーヌは、戦後、日本のスパイとしてソビエトに抑留され、約8年間の重い労役が課された。 ・日本へ、北川源太郎として ゲンダーヌは、昭和30年の春に日本へ引き揚げることになった。接岸しようとする引揚船から見る「日の丸」に感激する一方、帰るべきはここではないという思いが募った。本拠を網走に選んだのは、流氷漂うオホーツク海が故郷の風景に似ているから。網走の大曲はまるでオタスの三角州のようだ。網走に来て、日本国籍を取得した。三十有余年にして日本人・北川源太郎となったが、日本国籍を得るに当たってウイルタであることは伏せた。それが後々になって心のオモシとなった。 土木現業所の臨時雇いとして網走管内を転々とした。紋別の上渚滑で知り合った久保さんが『源ちゃん、源ちゃん』と良く面倒を見てくれて、お盆やお正月に遊びに行ったが、ウイルタであることは話していない。その後、遂に土現には本採用となれず、日雇いの苦しい生活が続いた。軍人恩給もとうとう支給されなかった。先住民は日本兵でないとの見解だった。 昭和50年の秋、養父のゴルゴロが「北海道文化財保護功労者」を受賞した。はじめてウイルタ民族の文化が評価されて、うれしかった。そしてオロッコ会館(ジャッカ・ドフニ)の建設計画が持ち上がる。日本人になろうとし、ウイルタであることを隠しつづけてきた源太郎は、ウイルタのダーヒンニェニ・ゲンダーヌとして生きることを決意するのだった。 地域通信員(幹事) 釣山史 ウイルタの集落/樺太郷土寫真帖/S12年 女先生の授業風景/寫眞週報/S17年 右がおたす丸/戦前絵はがき


  

Posted by 釣山 史 at 04:50Comments(0)オホーツクの歴史

2012年03月01日

歴旅・別海大好き








































































































































    








歴旅を楽しむ 野付通行屋遺跡めぐり 釣山史 別海町の旧奥行臼駅逓所(※1明治四三年に開設した駅逓所は、廃止後も旅館として使用され、厩舎ほかも現存する。駅舎は道有形文化財、古くからの景観を良く保つ)を国史跡とするための報告書の作成を、お手伝いした経緯から、昨春、以前から一度は訪れてみたかった『野付通行屋・番屋跡遺跡』の巡見に参加した。 野付通行屋は、東蝦夷地が松前藩から上地された一七九九年(寛政十一年)に、幕府によって置かれた官営の宿屋であり、いわゆる後の駅逓所のこと、以後、根室地方の各漁場を結ぶ起点として重要な役割を担って行く。前年には、近藤重蔵が『大日本恵登呂府島』の標柱を建て、同年には、高田屋嘉兵衛が択捉航路を開いて、野付は択捉島への渡航地となった。最盛期には、約六十棟もの漁舎が並び、遊郭などの『歓楽街キラク!?』があったとされ、その通行屋としての終焉すらもが不明である謎の多い伝説の地だ(※2標津側のポンニッタイには、幕命により西別から紋別までの警備に当たった会津藩士の墓碑がある)。 前日、あいにくの霧雨のなか、よく聞くアイヌ語地名の伊茶仁、茶志骨(※3伊茶仁とは、イチャン(鮭が産卵する穴)・イ(処)のこと。伊茶仁カリカリウス遺跡は、ポー川史跡自然公園として整備される国史跡の標津遺跡群のひとつ。そして茶志骨とは、チャシ(砦)・コツ(跡)のこと)を経て野付湾のふところに位置する尾岱沼の温泉宿に入る。広漠とした低湿地帯には、こんな天気が似合うと思った。意外と知られていないのは、鳥類の研究で有名な、あのブラキストンが明治二年に道東北を巡り、詳細な紀行文を残しているということ。野付では、ツルやオジロワシについて触れている(※4ブラキストンは、新政府から宗谷で難破した英国艦の調査を依頼されて函館を出港、道東の浜中に上陸すると、そこから海岸沿いに宗谷へ至った。ツルは、特別天然記念物のタンチョウと思われ、また、オジロワシも天然記念物)。約百四十年前に、ブラキストンが通ったであろう路である。温泉は、塩泉の温度が高くやわらかく、思いのほかイイ湯であった。知ってはいたが、名物のゴソガレイの「姿作り」に一瞬たじろぐ。 翌朝、みぞれ・強風のなか、野付半島ネイチャーセンターへ向かう。自然を愛する歴男・歴女、約二十人が集合した。巡見前に石渡学芸員の概要説明を聞く。石渡氏は、地元に残る寛政年間から明治初頭にかけての加賀家文書(※5江戸時代の末期に根室地方のアイヌ語通訳として活躍した加賀一族が残した古文書)を研究しており、本日の先導役だ。 さて、センターから数台の車に分乗し、龍神崎を経て、日ごろは一般車両が進入禁止の砂利道に侵入、通行屋跡までは、片道二km強を歩くことになる。途中、日常では見られない野鳥に出会う。そうして枯野にある大きな窪みは漁舎の跡だ。 さらに砂泥に足を取られながら干潟を行くと、わずかに土塁の痕跡が見て取れた。ここが通行屋の跡だという。以前にも訪れたことがある同道のご婦人によると、この二~三年で明らかに浸食が進んでいるという。もはや干潮のときにしかたどれない状況にある。 この蝦夷地の最奥に残る貴重な遺跡も、あと数年で完全に海中へ没してしまうだろう。平成十五年から十七年にかけては、喫緊の発掘調査が行われ、遺物の一部が資料館に収蔵された(※6収蔵品の中の面白いものに、幕末の箱館で鋳造されたが、全くの不評で短命に終わった『箱館通宝』があり、それでも最奥の根室地方にまで通用していたことが分かる)。 やや高い奥手には、慰霊塔と数基の墓碑が建っている。周辺に点在する小さな穴ぼこは、未発掘だが墓穴であろうとのこと。はるかな昔、この荒涼とした怪外の遠国に埋もれた魂は、如何に故郷を憶うのだろう。  ここから折り返して、砂州の一番高いところをとぼとぼ戻ると洗濯板のような微かな凹凸を発見、それは客土を施された畑の畝跡だった。ハマナスのトゲとげが体に刺さる、それを左右にかわしながら、腰痛持ちには、なかなか辛い道のりをしばらく進む。もう一基の墓碑を左手に見ながら、駅逓所の報告書をまとめられた戸田学芸員と肩を並べて帰路につく。道すがらの荒野に歴史談義の花が咲いた。 目標物も無く、荒野に溶け込むように点在する遺物、遺跡。ひとりでの探索は不可能と思われ、機会を与えて頂いた石渡氏、戸田氏に感謝々で、楽しい一日、ありがとうございました。 追伸 別海町には、そのほか旧標津線を記念した鉄道記念館や旧奥行臼駅があり、旧軍施設や奉安殿、道指定天然記念物の西別湿原ヤチカンバ群落地など、魅力がいっぱい。ぜひとも皆さんに来訪をおススメしたい。 会津藩士の墓碑 オンネ茶志骨  伊茶仁川 別海町のタンチョウ











第294回 別海町の文化遺産         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)オホーツクの歴史

2011年11月05日

札幌発、道東北歴史の旅

歴旅のご提案








































第283回 札幌発、道東北文化財の旅         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 15:22Comments(0)オホーツクの歴史

2011年09月12日

道東北の歴史遺産⑥ 

北海道遺産・オホーツク沿岸の古代遺跡群③


 道史跡・斜里朱円周堤墓(斜里町)と国史跡・白滝遺跡群(遠軽町) 白滝遺跡群(下)/旧石器工房を思わせる湧別技法と呼ばれる特殊な技能集団が黒曜石の原産地「赤石山」を中心に存在した。 斜里朱円周堤墓(上)/「朱円千穴」とも呼ばれる700を超える朱円竪穴住居跡群。ここでは珍しい2連のストーンサークルが見られる。 赤石山八号沢露頭 祝北海道文化財保護協会50周年























平成23年10月22日(土)
 50周年記念講演 「正倉院宝物と光明皇后」
          講師 西山厚 奈良国立博物館学芸部長
 一般の方も聴講できます。


第274回 ストーンサークルと黒曜石        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:30Comments(0)オホーツクの歴史

2011年09月10日

道東北の歴史遺産⑤ 

北海道遺産・オホーツク沿岸の古代遺跡群②

 国史跡の常呂遺跡(北見市)と最寄貝塚(網走市) 最寄貝塚(下)/大正2年に発見され、謎の海洋民族とも呼ばれた大よそ1200年前のオホーツク人の遺跡で、モヨロ人とも呼ぶ。 常呂遺跡(上)/大正13年に発見された遺跡には、擦文・オホーツク文化期を中心とする2500を超える竪穴住居跡や墳墓の窪みがある。 祝北海道文化財保護協会50周年























平成23年10月22日(土)
 50周年記念講演 「正倉院宝物と光明皇后」
          講師 西山厚 奈良国立博物館学芸部長
 一般の方も聴講できます。


第272回 オホーツク人の里           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2011年09月08日

道東北の歴史遺産④

北海道遺産・オホーツク沿岸の古代遺跡群①

道史跡・オムサロ台地竪穴群(紋別市)と道史跡・シブノツナイ竪穴住居跡(湧別町) オムサロ台地竪穴群(左)/オホーツク海に面した段丘にあり、縄文早期からオホーツク文化・擦文、アイヌ時代までの1万年に渡る住居址がある。 シブノツナイ竪穴住居跡(右)/草原に650を超す窪地が一望できる。主に擦文文化期を中心にした大規模遺跡。 祝北海道文化財保護協会50周年























 平成23年10月22日(土)
 50周年記念講演 「正倉院宝物と光明皇后」
          講師 西山厚 奈良国立博物館学芸部長
 一般の方も聴講できます。

 第273回 紋別地方の竪穴群          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2010年10月31日

北見のハッカ(再)

北海道の薄荷栽培





































































香るミントの風~北見ハッカの元祖を追う 開墾が始まったばかりで、交通不便な奥地においては、収穫物としてのハッカの取卸油は運搬がたやすく、また、北見の気候風土にたいへん良く適したことから、この地方に瞬く間に広がって行きました。こうして世界の産出の大よそ7割を占めるようになった「北見ハッカ」は、いったい何時で、誰が最初に栽培したのか?、諸説ふんぷん、その最も有力と云われる人物さえも、その正確な氏名やお墓の所在さえ、分からなくなってしまいました。当地の開拓期の先鞭となり、昭和40年代まで大いに興隆を見たハッカ栽培の元祖を、今、あらためて追ってみます。夏毎に我家の庭には風香るミントの花が咲く。かっては世界の7割強を産出した北海道のハッカも今はわずかに網走管内に見られるだけで、そのほとんどを産出した「北見ハッカ」の濫觴は、実に我が紋別市にあると云う。北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝され、翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山屯田兵村の山形県人・石山伝右衛門によるもので、ここから湧別村へと「渡辺精司」が移植したことから、よって以後の道内のハッカは、ほとんどが山形系になった。この「北見ハッカ」の発祥には諸説があり、「渡辺精司」の氏名もマチマチに伝えられ、また、長い年月のうちに、そのお墓の所在も分からなくなってしまった。河野常吉によるところでは、最初に北見地方へ種苗を移入したのは、同じく湧別村の高橋長四郎と有地護一、腰田兼松らによる明治31年と云い、『渡辺精司を湧別薄荷ノ元祖ト云フモ渡辺ヨリ其苗ノ擴マリシヲ聞カズ』としているのは、調査時の湧別村の主な栽培地は高橋から導入した芭露であって、この時に渡辺は上芭露郵便局長であったから、渡辺の地元では高橋からの導入によるものという河野の誤認であった。さらに湧別村への渡辺の移住も定かではないが、明治26年には湧別原野が開放され、また、「北海道實業人名録」では、前住地に経営する商店の名義を同年12月付で倅の「精一」としており、当時の交通事情ほかを考えると、同26年の秋までには移住していたと推測されるが、有力な記録として同年5月に湧別村へハッカ苗を移植したのだと云う。 本道の薄荷栽培 中略 本道に於て始めて薄荷の栽培を試みたるは今を距ること二十年前及ち明治二十四年頃にして石狩國上川郡永山屯田兵村移住山形縣人石山傳兵衛を以て嚆矢とす越て同二十六年五月福島縣人渡部精司之か苗根の分與を受けて北見國湧別に移植し同國地方に於ける蕃殖の基因をなしたり明治三十年上川郡の産額始めて統計上に上り三十四年に至りて上川は一時休止し北見國湧別を計上し、三十五年に同野付牛並びに上川を示し 略 殖民公報第六十四號/明治45年 そして渡辺が開拓地の選定のためにオホーツク沿岸を探査中、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生のハッカに着目し、それを試験的に精油したのが明治24年のことで、これが「北見ハッカ」の濫觴となって、後に当市でも試験栽培を行ったらしい。それは明治廿五・廿六年紋別郡土地貸下臺帳に『紋別村ヲンネナイ 原野千五百坪 借地人福嶋縣渡邉精司 目的地目畑地 指令明治廿六年三月三日』とあるから、やはり北見入りは、明治26年で間違いないところだろう。さて後年、芭露と並んで「渚滑ハッカ」と云わしめたのは、高橋と共に栽培に専念した湧別村の植松一族が渚滑村(現紋別市)へ再転住し、ハッカの栽培と買付けを行ったからで、その集落には、近年まで通称「ハッカ御殿」いうものが残っていた。それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、既に明治33・4年頃には導入されていて、また、明治37年の日露従軍の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息からハッカの話を聞き、戦後に至って永山村から導入した逸話も残っており、北見地方で栽培が広まったひとつの理由に、日露戦争での屯田兵間の情報交換があった。最後に昭和8年に「北聯薄荷工場(現北見ハッカ記念館)」が創業する以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが、建設され精製されていたことは余り知られていないが、また、年月を経て移転不明となっていた「渡辺精司」の墓所も今はゆかりの上芭露墓地にあり、そこには「渡部家」とあって直系のご子孫は函館市にお住まいである。 明治42年に紋別の上藻別原野へ入った福原浅吉は、鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、人夫の栄養不足によたる脚気に対応するめ、農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。昭和8年に旧紋別町の産業組合が事業を開始した時、藻別川沿線から上鴻之舞、弘道、志文にかけて盛んに作付されていて、その収穫高は全組合産額の凡そ8割に上ったと云う。 旧北聯事務所(北見ハッカ記念館) 当時の北聯薄荷工場 網走支庁管内概況/昭和9年 それまでの3倍の効率を上げた田中式薄荷蒸留釜 置戸町立郷土資料館 現在の仁頃のハッカ 渡部家墓碑 北海道薄荷製造株式会社資料/遠軽町郷土館蔵 北海道/旭川新聞社/昭和15年 検査要覧/北海道農産物 検査所/昭和12年 戦前の大手ハッカ商社の広告 野付牛薄荷検定所・左下、見本の抽出・左上、北工試式ボイラー蒸留機・右上 選別と荷造・左下、圃場の審査・右上 福原政五郎のハッカ油分水器/紋別市立博物館蔵 薄荷畑元祖は祖父よ開拓史 渡部清三著/句集「雪の音」より













第214回 世界を席巻した網走地方の薄荷      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2010年06月05日

網走地方の歴史遺産

~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
 もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
 北海道文化財保護協会
 (Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう


 2泊3日/道内文化財散歩
 《上ノ国、江差》の歴史・文化財めぐり
 日程 平成22年7月16(金)~18(日)


~情報交換会(6月5日総会)資料2/2~魅力いっぱい、オホーツク
 第183号  網走、北見、紋別地方の歴史遺産    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
魅力いっぱい、オホーツク余話・・・わたしの興味、調査研究 網走には「刑務所」と「モヨロ貝塚」、北見には「ハッカ記念館」があり、屯田兵や北光社による開拓や白滝の黒曜石などが良く知られる。それでも道南、道中に比べて歴史的な遺産は少ないというのが、この地方のイメージである。しかし、当地にも魅力的なものはたくさんある!!  戦前・戦中の遺物 戦中に網走は空襲を受け、戦後、紋別もGHQの進駐があったが、各地に築かれたトーチカは、網走だけで8カ所が現存し、旧海軍航空隊司令部が今でも美幌駐屯地の庁舎として使用されて、女満別空港には、幾つもの防空壕が残っている。また、管内では、紋別や遠軽ほかに7棟の奉安殿が確認されている。湧別では、戦時に2個の機雷を民間人に引き回させた挙句に暴発、死者106人、負傷者130人という大惨事となり、このときの破片と慰霊碑が残されている。 浜藻琴のトーチカ 渚滑の奉安殿 アイヌ民族の活動 管内には網走、紋別、美幌にアイヌ協会支部があり、網走や紋別では、イチャルパやカムイチップノミが継続して行われていて、毎年、5月第4日曜日の「美幌峠まつり」では、阿寒の人たちによるアイヌ古式舞踊が披露される。そして平成19年には網走に本格的なチセが復元されて、チセノミが執り行われた。 駅逓終焉の地旧幕時代からこの地あった駅逓は漁場による典型的なもので、明治には中央道路が開削されて12カ所の駅逓を開設したが、これらの経営は、この地方特有のものであった。そして網走管内には、駅逓制度が廃止されたときの最後の7駅のうち、2駅があった駅逓終焉の地でもあり、今でも駅舎3棟と施設1カ所が残っている。 全く知られていない西興部の上藻興部駅逓所 留辺蘂の無華駅逓 紋別地方で活躍したユニークな人物たち ・宮崎簡亮~北海道最初の開拓会社・開進社の中心人物。のち湧別・常呂・佐呂間・渚滑へ入殖した土佐団体を指揮し、その後は実業に転じて湧別村長も務めた。・木村嘉長~渚滑村開祖の人。有名な仁木竹吉を補佐して仁木村をつくりあげが、その頃すでに旧開地と呼ばれていた余市・岩内からの網走管内への再転住は多く、有力な者が多い。・松崎隆一~最新の加工技術に精通していた松崎は、紋別地方で最初の冷蔵庫を設計・建設した。彼は、船内でのカニ缶製造のラインを完成させ、以後の同業の勃興を生んだ立役者であり、自らが着業した蟹工船事業では、「博愛丸事件」を引き起こして「小説・蟹工船」のモデルとなった。・中浜 明~昭和初頭に紋別の山中へ入植して、その時代に奉安殿や軍用機の寄付に反対し、赤レンガのサイロにロシア文字を標した中浜さん。万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒト。 遠軽家庭学校の大正8年建設の礼拝堂、初代校長の息子は終戦直後の北海道庁長官。 秘所中の秘所、網走刑務所の敷地内にある大曲洞窟遺跡。 大正に三馬ゴムを使い人気があった大矢ボッコ、置戸町郷土資料館。 明治2年に、ブラキストンがここを訪れ、記録に残した網走ポンモイの柱状節理。  

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2010年04月04日

網走と紋別、ブラキストンの記録

オホーツク地方を探検したブラキストン、
明治初年の記録(Japan In Yezo)~紋別にも来たブラキストン2


市指定天然記念物「ポンモイ柱状節理」
 英国人のブラキストンは、宗谷で難破した英国艦ラトラー号の調査を新政府から依頼され、明治2年に、自己所有船の「あきんど号」で函館を出港、道東の浜中に上陸すると、そこからオホーツクの海岸沿いに北上し、宗谷へ至る。
 網走では、『この辺りの海岸は、実に美しく、岬が北の方へ突き出して、網走沖に小さな小島が見える。網走港に着く手前に、灰色の変わった断崖、柱状節理がある。』と観察している。
 紋別では、この地域の番屋の差配人と船長の話として、『オホーツク沿岸は、冬には沖合い3~4里は凍るけれども、宗谷海峡は、日本海からの暖流による海流の速さと暖かさで凍らず、あの大量の氷は、樺太沿岸で結氷したものが、冬の北風によって流れ来るもの。』と聞き取りしている。


市史跡「紋別場所・又十番屋御用所跡」と流氷来る現在の紋別港


















第172回 ブラキストンのオホーツク探検    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年11月30日

樺太オタスの杜(改訂)















































































































































オタスの杜 ジャッカ・ドフニ 敷香教育所 米村喜男衛 D・ゲンダーヌ 幌内川の三角州 ウイルタ人 オロッコ ニヴフ人 ギリヤーク トナカイ王 ヤクート人 アイヌ人 敷香土人教育所 川村秀弥 北川源太郎 ニクブン サンダ キーリン ヤクチ 樺太犬 樺太庁 半澤中商店 オタス半澤写真館 先住民の都・楽園 岡田嘉子・杉本良吉 半澤真吉 オタス丸 網走・大曲 ゴルゴロ 静眠の碑 オタス丸



 ~貴重な『おたす丸』の写真を掲載しました(第166回へ)。 


 第161回 樺太の先住民の戦中、戦後     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年11月14日

ストーンサークル

シルバーウィークの旅3/5

◆2連のストーンサークル・朱円周堤墓
 ストーンサークルとは、丸く土堤が囲んだもので石が配置されるなど環状土籬とも云われる。
 昭和23~24年にかけて河野広道によって発掘調査が行われた斜里町の「朱円ストーンサークル」は、同32年に北海道指定文化財となった。
 それは直径が28mと32mの2つのサークルからなる約3千年前の縄文遺跡で、中心部には石積みのお墓があり、土器や石器、石棒、飾り玉などが出土し、また、布と思われるものも発見されている。
 近くのオクシベツ川にあったオクシベツ川遺跡ストーンサークルは、現在、斜里町立知床博物館で復元されている。




































第159回 知床のストーンサークル     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年10月08日

網走刑務所の洞窟

網走の洞窟遺跡

 網走市立郷土博物館では、この9月27日に「網走の史跡めぐり」と称した網走市大曲周辺の巡見を行った。そこで秘所中の秘所、めったにお目にかかれない隠れた遺跡を見学したので紹介する。

 大曲洞窟は、網走刑務所の刑務官舎の裏手、丘陵の岸壁にある海侵食で形成された道内では比較的に大規模な洞窟である。その発見は昭和16年に、テニス場を設営するために囚人が土砂を採取していたところ、忽然と現われた小穴がみるみる大穴となって、このときにモヨロ貝塚を発掘中であった北大の児玉教授が調査に入った。後に昭和39年にも再調査が行われている。
 洞窟の入口の高さは3.5m、幅1.7m、面積が83㎡あり、炉跡から採取された木炭は、約6,800年前との年代測定であり、人工物は土器、石器、骨角器、貝製品と、自然物としては、獣骨、鳥骨、魚骨、貝殻が出土した。
 また、多数の人骨が出土しており、時代によっては住居のほかに墳墓としても使用され、内壁には文様のものも見られるが、それが絵文字か、自然現象によるものかは意見が分かれる。 

 
参考~北方文化研究報告、日本大百科全書





































左から網紋式土器、北筒式土器、石器(石槍)













 第151回 道内ではめずらしい洞窟遺跡  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/





  

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2009年08月14日

北見地方のリンゴ1

北限のリンゴ、北見地方の栽培の始まり
 ~改題・改訂しました


 私の伯母は上湧別の出身で、子どもの頃には寒くなると、よくリンゴを頂いた。今はわずかに観光農園にしか見られない北見地方のリンゴも、昭和40年代前半までは道内を代表する一大産地であった。

◆北見地方のリンゴ栽培
 北見地方の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗を取り寄せたのに始まって、同20年代には盛んにリンゴが奨励されたが、当初の中心はもっぱら網走であり、同43年をピークにブームを迎え、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展して行った。
 網走外三郡農会では、大正9年から網走・野付牛・相内・遠軽・上湧別の5ヶ所に集中指導地を設け、また、昭和8年には、北海道庁が果樹栽培の奨励地帯を定めて実地指導地を設定、網走管内では上湧別の平野毅が請け負った。

天都山の青リンゴ/H21年8月
◆呼人リンゴ
 網走の初期のリンゴ栽培は、台町から潮見にかけてと川向から向陽ケ丘にかけてであったが、後に呼人が盛んとなって現在でも天都山の周辺でリンゴ樹が見られる。
 呼人リンゴの発祥は、明治末年頃には田中牧場の辺りにリンゴ樹が20本位あり、その後に植栽する者も現われて、大正4年には坂野竹次郎が入って計画的に苗木を植え、同6年には早くに植栽していた五十嵐政次郎と外数名が共同して購入し、同9年には4町5反の呼人リンゴ園が完成した。
 大正13年には網走果樹栽培実行組合が結成されが、呼人には支部が設けられ、昭和5年には坂野果樹園が網走外三郡農会の果樹指導所に指定されて、この地方の果樹農家の中心としての呼人リンゴが確立した。

上湧別の早生リンゴ/H21年8月
◆北限の湧別リンゴ
 明治30年に屯田兵が入地したときには中湧別の先住者・徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これが上湧別のリンゴの濫觴と思われるが、また、土井菊太郎が同27年に入植して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云う。
 このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が苗木を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めて、上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、また、同10年からは「湧別名産りんご」のレッテルの使用が始まり、こうして上湧別では屯田兵村を中心に栽培が広がって、大正後期には上湧別の耕作戸数が全道の1/4にも及んで、同15年に当地で北海道庁による第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
 そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として天皇陛下へ献納し、また、同13年の北海道園芸会主催の第六回園芸作物展覧会では、平野毅が品種「旭」を出品して一等となるなど本村リンゴの最盛期を迎えた。


◆新撰組のリンゴ
 さて、この初期のリンゴ栽培には元新撰組隊士が関係する。それは幕末は新撰組に属し、分裂後に近藤勇を狙撃したことで有名な阿部隆明が、維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所へ配属され、明治19年の辞職後に札幌へ果樹園を開いて、苗木の生産と普及に努めたが、品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、北海道果樹協会の発足では中心となり初代理事となった。
 「上湧別村史/大正9年」には『最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して・・・』とあり、寒さに強い「倭錦」はリンゴの初期栽培において重要な品種であった。

 
 第140回 盛んだった網走管内のリンゴ    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2009年05月17日

モヨロのオホーツク人

最後の「モヨロ貝塚発掘成果展」展示説明会へ行く
 (平成21年3月8日)


 大正2年に米村喜男衛氏(現館長の祖父)によって発掘され、昭和11年には国史に指定された「モヨロ貝塚」は、平成15年から同20年にかけて、本格的な再発掘調査が行われ、あらためて考古学上、重要な遺跡であることが確認された。平成21年度からは史跡公園としての整備事業の準備に取り掛かる。
 この私も発掘途中に一度見学させていただき、この説明会への参加も2度目だ。


◆オホーツク文化とは
 竪穴式住居祉や墳墓が確認される集落跡は、時代区分で縄文文化晩期から中世アイヌ期までの生活の痕跡を残す、北海道でも特有なオホーツク沿岸のみに展開された海洋性の文化。
 オホーツク人は大よそ6世紀~12世紀において大きな竪穴式住居に住み、アザラシやトドなどの海獣を狩り、捕鯨を行い、本格的な魚網を用いた漁労も行った「海の狩人」。狩猟ではヒグマやシカを狩り、豚と犬を飼育し、また、特徴的な土器や骨角器、骨や牙を利用した芸術性の高い彫刻を作製して、鉄製品を使用するばかりでは無く、その加工をも行った。

 謎のオホーツク人は遠くサハリンからやって来たのか?

 その生活跡は樺太から利尻・礼文などの北海道の一部の日本海と、オホーツク海沿岸の稚内から根室・北方領土にかけて残り、ほぼ流氷が接岸する地域と一致することから「流氷の民」とも呼ばれる。
 このようにオホーツク人は、特有の文化圏を形成し、北海道では道東北を中心に広く繁栄したが、彼らはいったい誰であったのか?
 ある時、「忽然と消え去ったとも云う謎のオホーツク人」は、宗教や儀礼など、後世の擦紋・アイヌ人と共通するものが多く、次第に地元人と同化して行ったのであろう。


◆再発掘での特出すべき成果
 「モヨロ貝塚」はオホーツク文化早期の6~7世紀から8世紀にかけてののもので、120基以上の墳墓が確認されるが、漁労を主な生業としたオホーツク人は、網走川河口を絶好な船着場としたのであろう。網走では、オホーツク文化の遺物は、モヨロ貝塚を中心としたごく海岸線にしか発見されず、同時代の擦文人との遺跡とは明らかに隔たれており、一定の住み分けがなされていたと考えられる。
 9号住居跡ではまとまったヒグマの骨塚が採掘され、祭壇からは供えた思われる「大麦や粟、黍」が出土して、その大麦は大陸系であることも分かった。
 組み立て式の大きな釣り針と、骨格や牙から作成された創造的な動物像が発掘されたが、中でも大陸系の鉄剣と内地からの蕨手刀が同時に見られることは、南北の交易を語るうえで注目される。そうして興味深いことに8号住居跡からは「海獣を祭ったと考えられるモニュメント」が発見された。


 網走市立郷土博物館資料





























































































図の説明

 解説中の館長     装飾性豊かな彫刻ほか

 釣り針、色いろ     クマの彫刻

 鉄剣とわらび手刀   加工の痕跡があるクジラ骨

 漁網に使われた大型のオモリ





     第124回 モヨロ貝塚    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2009年04月20日

最奥の駅逓・総集編


 ~校正しました。第138回へ移転します。  

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2009年03月14日

網走のマッチ製造業

殖民の始まりとマッチ製軸業 ~先進的だった紋別地方開拓期の林産業


 本道への移住が本格的となり、実際の開拓が始まったばかりの当時においては、むしろ障害であった森林樹木は、一部を自家用に使用するほかはせいぜい薪炭とされる程度で、開墾伐木された樹木のほとんどは焼き払われるか、春の増水時に流出されるかされていた。明治19年に「北海道土地払下規則」が制定されて、殖民地の貸付と処分が具体的に進捗しだすと、同23年に「官有森林原野及び産物特別処分規則」が制定され、道庁による特売が認められるようになって、民間においても林業が注目されるようになり、同30年の「北海道国有未開地処分法」の施行に至って、森林開発が盛んに行われるようになった。

 前略 先ス示す所の利用樹種中カシワは單寧製造業者にトドマツ エゾマツの如き針葉樹は啻に用材として利用するのに止ますして製紙業者に又ドロノキ、ハコヤナギ(一般的には両樹を白楊と云ふ)は燐寸製造業者に此等諸工業奨励保護の一策として 中略 右の内白楊樹拂下は本道に於いて器械を所有し自ら燐寸軸木を製造するものに限り 後略 北海道拓殖要覧/明治36年

 その頃、三井物産創設の益田孝がオークを辞書で引いてナラまたはカシと知り『これは大変だ。北海道では薪炭にするほかないほどたくさんある』と言ったと云い、そのほかドロノ木は火薬の箱に、クルミは銃台、そしてヤチダモは枕木の用材とされた。
 この「北海道国有未開地処分法」では、牧場地の場合は1人につき250万坪が無償で貸与され、成墾後はそのまま無償付与されたことから、単に林木の切り出しのみを目的としたいわゆる「木刈り牧場」が各地に出現するに至った。
 さて、ここでは、その頃の北海道、特に北見地方で大いに勃興した燐寸(マッチ)製軸業に焦点を当てたい。


 ◆道内マッチ工業の勃興
 明治20年頃から急速に発達した国内のマッチ製造業は、神戸を中心とした阪神地方で興隆を見るに至って重要な輸出品となったが、その軸木の原材料となる白楊樹の確保が大きな課題であった。いっぽう、道内では函館懲役場の囚人・玉村治右ヱ門が自ら考究を重ね、明治12年には開拓使がそれを認めて函館燐枝製造所を開設したが、これは採算が取れずにわずか2年後の同14年に廃業となってしまった。
 そして同年には茅部郡や札幌に製軸所が開業したものの発展せずにいたが、明治16年に山田慎が試験的に建設した壮瞥村の軸木工場が好成績を得たことが端緒となり、よって道内各地に工場が開設されて、また、後に同人も邦人で始めてマッチを製造した東京の新隧社と先進地神戸の鳴行社から技術を導入して、網走に大規模な製軸所を操業させた。


○燐寸盛衰記/並木六壷庵/神戸新聞/昭和2年
 略 北海道の軸木工業/東北地方の原料を伐りつくした軸木工業は、漸次に海を越えて北海道松前の地に移って行った。北海道に於ては、明治七年函館囚治監でマッチ製造を開始し、従って軸木の需要があり、これに従って作られたものは白楊樹以外のものであったらしいが、其の品質は佳良ならず、移燃遅緩にして実用には適しなかった。ここに於て明治十年始めて白楊樹を使用して、北海道の製軸業は益々発達したが、何分にも交通不便で販路が拓かれず、後には札幌に個人経営の軸木工場を設置したものもあったが、遂に成功しなかったと云う。
 斯くの如く北海道のマッチ軸木製造工業は、当初その供給を北海道内、殊に函館に於けるマッチ業者のみに限り、従って規模も大なるものではなかった。
 然るに一方内地のマッチ工業は日に日に発展を重ね、内地産の軸木のみにては需要を満たし難く、従って内地のマッチ業者は漸次北海道の天然資源に着眼するようになった。当時マッチ界の中心であった神戸の当業者も、或は彼地の軸木製造業者と特約を結び、又は彼地に資本を投下して軸木工場を経営する等の事が起り、北海道の軸木工業は斯くして従来島内に限られていた供給範囲を本邦全土に拡張し、明治二十年以後に於て急速度の発展を遂ぐるに至った。
 (中略)
 北海道の軸木製造工業は、内地需要の激増するにつれて発達し、就中殷盛を極めたのは明治三十八年以降のことである。当時神戸のマッチ業者も先を争って北海道に赴き軸木供給の途を開くことに腐心した。当時某マッチ会社から派遣された『軸木原木探究者』は栗毛の馬に跨って北海道の原野を跋渉し、宝庫の鍵を探し求めたと云う活動写真もどきの挿話さえもある
 かくして滝川弁三氏の経営した清燧社と良燧社は、日本燐寸軸木会社と連絡して北見国は鐺沸、網走、門(紋)別に工場を設置すれば、日本マッチ会社は十勝の本別、北見の野付牛、湧別に、井上貞次郎氏の天塩土別、十勝都富貴、信取、北見与部村に各々製軸工場を設け尚北見湧別には有名なる柴田友蔵氏あり、釧路に草野某あり、陸奥青森にも著名工場の簇生を見た。
 勿論北海道の軸木原料は白楊樹の外に松材も多く使用され、それ等は或は原木まま内地に移入された、大部分は前記の工場で軸木に製造されたものである。
 今明治四十三年頃の記録によって見るに、原木の値段は室蘭及び釧路線の綿ドロ(太軸用)神戸渡一才(一寸角、長さ十二尺)三銭五厘北見の白楊樹(細軸用)同じく四銭五厘見当で、軸木一千把に要する原木数量は百三十六乃至百四十才である。
 次に北海道は当時の払下値段が尺〆(一尺平方長さ十二尺)三銭五厘乃至六銭五厘と云うべらぼうな安値で、神戸の一才二銭五厘に比較すれば五分の一に該当したのである。尚神戸に於てこれ等の原木を購入して軸木の製造をなすものあり、これは地製屋と呼ばれ、製品も地製軸木と称して北海道産の北海軸と区別されていた。
 以上の如く北海道の軸木業は、明治三十八年頃より四十二年に至る四年間に急激に発展し、同四十三年には製軸工場は全道二十八ヶ所を算したが、やがて供給原木量の不足を感ずるに至り、大正に入って以来は衰退の一途を辿るに至った。 後略

 山田製軸所払下許可地/北海道山林史/昭和28年
 ◆北見林産業の発展
 北見國 第三紀層土として著名なるだけ夫れだけ此樹種の繁生に必適せるは同國の網走地方なり現今道内にては最も盛んに伐採し居れる地方の随一なれど尚ほ紋別、常呂、網走、斜里の四郡に亘りて一百十餘萬石の材積をなし總面積六千萬坪以上に及へり、就中紋別、網走の两郡最も之に富み紋別のみにても三千二百五十餘萬坪の面積中約六十万石の材積あり、網走郡内には二千五百萬坪の面積中約五十万石の材積あり 太陽第五巻第拾八號/明治32年

 この地方の林産工業の始まりは明治24年に網走へ開設された「山田慎」の製軸所であるが、その開業には山田がアトサヌプリの硫黄山経営に携わった経緯から典獄・大井上輝前と親交があり、また、開進社から引き継いだ亀田の農場長に元看守の四元清を登用するなど集治監との関係が深く、同23年には網走分監建設を請負って道東の実情に広く通じていたという背景があった。
 そして、その操業の前年には、網走・止別の白楊樹30万本十ヵ年の払下許可を得ており、これが道内の林木特売の初見であり、それは軌道を用いた大規模なものであった。
 注目するところでは、同じく渚滑村の堀川泰洋も明治30年に渚滑五線から七線までの殖民地に軌道を引き、造材した角材1万石をトロッコで集材したというが、翌年の大洪水で流失してしまい、残念ながら事業は失敗に終わった。
 明治31年「北海道殖民状況報文」によると『當國ニ於テ工業ト稱スヘキハ唯燐寸軸木ノ製造ノミ其材料タル白楊ハ處々ニ在リ殊ニ網走郡紋別郡ニ多シ明治二十四年網走村ニ山田製軸所ノ設アリ同二十七年渚滑村ニ岩田製軸所ノ設アリ 中略 山田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村ニ岩田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村及ヒ澤木村ニ設ケ目下工事中ナリ』とある。


 湧別村
 農業 前略 (明治)同廿八年七月二日九月十五日霜害アリ麥ノ外ハ皆凶作ニシテ 中略 薄資ノ移民食糧ニ究シ渚滑製軸所或ハ屯田兵屋用材の伐採或ハ魚塲等ニ出稼スルモノ少ナカラス 後略
 渚滑村
 工業 岩田製軸所ハ明治廿七年ノ創設ニ係リ近傍ニ在ル白楊樹ヲ伐採シテ燐寸軸木ヲ製ス 中略 職工ハ當地ニテ雇入レタルモノ及ヒ二十九年徳島縣ヨリ募彙セル農民ニテ目下數十人ヲ使用ス伐木ヨリ製造結束ニ至ルマテ悉ク受負法ニ據レリ 北海道殖民状況報文/明治31年       
 渚滑原野状況
 前略 二十七年岩田宗晴なる者製軸所を設立し二十七年製造高七千七百圓に上れり二十九年下原野に於て二十九萬七千二百九十五坪の貸付を得て小作人二十一戸を徳島縣より募集し初年は工場労役に従事せしめ三十年より農耕の傍製軸業に従事せしめたり 後略 殖民広報第十号/明治35年


 ここの「殖民広報第十号」にある通り、岩田は明治29年に郷里から団体移住を募って翌30年には21戸の入殖をみているが、これは「北海道移住民規則」において「団結移住」を20戸以上としていたためで、紋別に於ける団体移住の最初となった。
 このように「山田製軸所」が主に網走分監囚徒を低賃金で労役することを目的としたのに対し、「岩田製軸所」は渚滑・上渚滑原野殖民地の測設以前に開業されて、新開地の開墾の傍ら不要となった伐木を冬季の遊休労働をもって或いは移住定着のつなぎとして操業し、この時代にあって実に60名もの雇用を確保したもので、この地域に与えたものは非常に大きかったが、開拓の先鞭となったこの渚滑工場も、藻別工場の完成によって、わずか3年で閉鎖となった。

 山田製軸所/(同上)白楊材の運搬/網走市史/昭和46年













 ○明治31年末における網走管内の主な製軸所
    名    称   所 在   起  業   職 工  動  力     収   入
  山田製軸所    網走村 明治24年 107人 蒸気機関 116,334.9円
  山田製軸所    藻別村 明治30年 103人 蒸気機関  48,495.15円
  岩田製軸所    藻別村 明治29年  60人 蒸気機関     13,800円
  三東製軸所    澤木村 明治30年  35人 人  力        5,928円
  酒井製軸所    紋別村 明治31年  29人 人  力      4,756.5円
  小松内製軸所   幌内村 明治31年  17人 人  力       2,560円
  斜里軸木製造所 朱圓村 明治30年   7人 人  力         700円
                北海之殖産第百拾壹號、同第百拾貳號/明治32年
            (岩田製軸所/渚滑村/明治27年開業/明治30年閉鎖?)

 明治35年のコムケ湖畔の岩田製軸所/小向の歩み/昭和50年
 そして紋別近辺では前表のほか、明治30年にオムサロへ飯田嘉吉を場長とする神戸製軸工場が操業を開始し、同34年には信田寿之が信部内に工場を建設するなど、紋別地方は一種の製軸ブームとなって、同36年の工業調では売上が「山田34,453円」、「岩田32,560円」、「酒井11,400円」の合計で78,413円ともなり、同35年度紋別村諸統計綴における当時の主力産業であった鰊絞粕38,360円と比較するとき、いかに莫大な収益であったかがうかがえる。
 面白いところでは、工藤常弥は藻別村の山田製軸所の用材の運搬を請け負っていたが、明治34年に濤沸に同工場が新設されたので、同じく伐採を行っていた和田市左ヱ門や高野農場にいた岩田朔太郎ら計7名らとともに止別原野へ移転し、職工兼山田農場の農夫となったもので、また、すでにこの頃には、高野農場が白楊樹の造林を試みていた。
 このように開拓が道東北に及んだばかりの明治30年頃には、この地方はもはや林業の盛業地であり、北海道を代表する木工業の先進地でもあった。



第116回 明治開拓期の網走、紋別のマッチ製軸業。    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/









  

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2009年01月30日

最奥の駅逓(第8回)

   取扱人命令書/書き換えられた看板
 ◆建築標準「武華」と「上モベツ」
 さて、中央道路の沿線には全く同じ造作の駅舎が見られるが、これは明治28年の取扱規定に「建物ハ第一號書ノ標準ニ依ル但土地ノ状況ニ依リ其設計ヲ伸縮スルコトヲ得」とあるように「駅逓所建築標準」なるものがあった。しかし、これは4室しかなく、次第に往来者が増加して利用者が多くなると、実際には与えられた駅舎を増改築したりして、「上モベツ駅逓所」も後に増築され、 また、近隣にはよく似た形式・意匠の駅逓所が現存する。
  駅逓所建築標準/上モベツ駅逓所の改築後の配置図
 開設当初の「上モベツ駅逓所」は伝統的な入母屋型式に渡廊下で外観は下見板を用い、地元の小間場組が請け負って棟梁は吉村竹次郎だった。道庁から5割の補助を受けて昭和9年に建設された増築部分は、和洋折衷の寄木造りで、その資材は鴻之舞金山から提供されたと云い、これは高地の前住地である生田原の徳田裕弥が請け負い、大正14年に開設された丸瀬布のムリイ駅逓所を模したもので、額縁の上げ下げ窓を用い、また、駅舎全体には北海道特有の半紙ガラスが多用された。
  改築前の当初部分と裏側にある上げ下げ窓
 大正9年に開設された留辺蘂の「武華駅逓所」を建築したのは今井米蔵で、昭和6年の増築のときには宮村正一が請け負ったが、宮村は東京での関東大震災の復興事業の経験から一部に吉原風を取り入れたと云う。これは当時の北海道の洋風建築を良く伝えた駅逓建築を代表するものとされるが、同じく後に増築された「上モベツ駅逓所」に非常に似ており、その関係の今後の考証が待たれる。
                無華駅逓所


 第107回 留辺蘂と上モベツの駅逓所  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2008年11月22日

最奥の駅逓(第7回)

◆上モベツ駅逓所と鴻之舞金山
                                                                                 上モベツ駅逓所設置以前の鴻之舞金山
                                                                                       /北海道鉱業誌/大正13年
ウ)鴻之舞の交通と上モベツ駅逓所
 大正6年に鴻之舞金山が住友へ売却されて開発が進捗すると、遠軽に出張所が設けられ、これら金山の資材を運搬するために遠軽の請負業者らが社名淵からの道なき原始林を切り開いた。
 そして大正3年に開設された「遠軽家庭学校」の社名淵農場では同9年までに50戸が入植に入り、学校を中心とした集落を形成した。このことから大正8年にはモベツ部落から金山方面へと続く「上藻別原野道路」が開削されても鴻之舞の主要な輸送は遠軽側で、製錬所の建設計画も当初は社名淵であったもので、同14年には上社名淵へ駅逓所が開設された。
 これら「上モベツ駅逓所」が設置される以前の状況は次のとおりであるが、大正10年に名寄線が開通すると次第に輸送の主力は紋別側へと切り替わって行った。
 「上藻ベツ駅逓所」の高地昇は大正15年2月に受命して5月に現地へ入り、7月には開業したが(告示では同年6月1日開設)、「驛逓協會々報第一號」によると前年には開設予定であったことが分かる。宿泊料は一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。高地は新潟県に生まれ、明治38年に北海道へ移住して神楽村東御料地ほかの各地を転じたのち、生田原を経て「官設駅逓上モベツ駅逓所取扱人」を命ぜられた。
 その後、部落の開発と整備が進み、また、昭和4年には上西音吉が、同7年からは今出新八による紋別までの乗合自動車が運行されて、さらに同15年にバスの運行が開始し、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が始まると、駅逓所は同年をもって廃止された。
 廃駅された取扱人には原始未開地での貢献に報いるべく、明治36年の勅令において駅逓所の財産が無償で付与されることとなったが、これにより高地へ無償付与された主な官有財産は以下の通りである。

 ・宅地 998坪5合1勺  ・駅舎
 ・畑  442㌃  ・牧場 2,130㌃
 ・馬    2頭  ・木材  1万20石

 昭和9年に増築されて廃止後は旅館として同24年まで利用された家屋は、駅逓所建築標準を残した現存する貴重なものである。



第95回上モベツ駅逓所、その7 北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/




  

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2008年10月15日

最奥の駅逓(第6回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり6~網走地方に見る最奥の駅逓

◆上モベツ駅逓所と鴻之舞金山
ア)上藻別部落の形成
 上藻別原野の測設は明治36年であるが、この時の入殖者はなく、同39年の区画地貸付台帳によると10月31日に橋詰保吉のほか9戸、11月20日には円角信孝、旧法第三条貸付地台帳では10月31日に河合美之助のほか18戸と橋詰保吉外9名の名が見られ(重複有り)、実際にはじめて現地へ入ったのは同40年の山崎梅吉であった。
 続いて明治42年の原野増割では福原浅吉のほか数戸が入殖し、翌年には田中万平らが続き、同44年の山崎長美ほか十数戸の土佐団体が入地して部落が成立して、翌年には住民の手により「上藻別特別教授場」が開設された。初代の部落長は田中万平であり、この部落で一番最初に馬車による運搬を始めたと云う。
 このうち福原は鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、栄養不足による脚気に対応するために農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。
イ)鴻之舞金山の始まり
 かっては東洋一と云はれた鴻之舞金山(※)は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ6線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのが始まりで、翌5年に元山大露頭が発見されるに至って、同年、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。
 鴻之舞への入殖は大正5年に大久保馬吉ほか数戸が入地し、翌年には吉田亀吉ら十数戸が入殖、同年に金山が住友へ買山されて本格的に事業が展開されると同7年に製錬所の操業が始まり、同年、上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。
 倶知安内は住友が昭和6年から開発に着手、同じく池澤了は三王鉱山の採鉱を開始したが、同8年には住友へ売山されて社宅数十戸が建設された。
 ※アイヌ語の「ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処」の意。将来の発展を祈念して「鳥王・コウノトリが舞うが如し」と当て字した。

大阪毎日新聞/ 昭和5年
 佐渡のかな山は昔のこと、イマ日本第一の金山は大分県の鯛生、第二が鹿児島県の串木野、第三が北海道の鴻之舞-ところがこの第三の鴻之舞の「キン」が品位においては日本第一、しかも今までの学説を覆す併行鉱脈が十七本も本脈を基準に続々と現れ今後それが幾ら出て来るかわからないという景気のいい話、東台湾においても五十億円の金鉱脈があると横堀博士が発表した、五十億!それがホンマならタイしたものだが台湾総督府当局の調べによるとせいぜい五十万円位の見当、それも砂金だから採算にかなうや否やが頗る疑問とされているので当時博士の視察にあたり案内役だった総督府鉱務課の朝日技手は博士の発表に一驚を喫し元鉱務課長の福留喜太郎氏の如きはウフフフフと笑っている、ところが北海道の方は学界の驚異のうちにカネに糸めをつけぬ住友が禁じ得ない黙笑を続けながら小池技師を総指揮官に二百七八十名の益良夫を使役して掛声いさましくイマ現に掘って、掘って、掘りまくっている
 鴻之舞は北海道北見国紋別郡元紋別町から西南六里半、大正初年のころは殆ど人跡を絶った大森林が続く山また山、ある日一人の杣が今元山と呼ばれるあたりの岩角に腰をかけてお弁当の握り飯、フト傍を見ると石コロからピカリ!眼を射たのが一条の光、そもそもこれが鴻之舞金山の発祥である、杣は物知りにその石コロを見せたやま師の飛躍がはじまった、専門家が鑑定すると「金!」
 許可鉱区は至る処試掘されついにカッチリ掘りあてた大金脈の露頭「千万両々々」と呼び声高く伝えられたのを、住友がポンと投げ出した一百万円で値がきまったのが大正六年、それからというもの人と機械に資本が動き、とうとう年産額黄金二百貫-カネに換算して百万両、銀はその四五倍の量を採取するまでに至った 後略  



 
 大正6年の元山鉱/春秋五十年          現在の上藻別6線沢と黄金橋            網走支庁拓殖概観/大正7年



 第90回上モベツ駅逓所、その6  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2008年10月03日

最奥の駅逓(第5回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり5~網走地方に見る最奥の駅逓

前回(第84回)につづき~駅逓の配置換え

◆黎明期の駅逓
 オ)駅逓の移転・改称
 殖民・開拓の最前線にあった駅逓は、新たな道路が開削され、さらに奥地への入殖が開始されると、しばしば配置が変更された。紋別では中渚滑駅逓所が渚滑28線から同32線へ移転し、近隣では遠軽の野上駅逓が生田原の安国に移転したほか、澤木駅逓が興部へ、上渚滑駅逓所が滝上に移転して、それに伴い改称された。


  




















第87回上モベツ駅逓所、その5  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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