さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2008年02月13日

人魚を捕えて食らう

~明治の文献に見る人魚のお話し


 明治24年の北水協会報告第六拾六號に「人魚を捕る」という興味深い漁業時事が掲載されている。「北水協会」とは札幌農学校第一期卒の伊藤一隆が道庁の初代水産課長として発足させた水産団体で、会長に伊藤が事務局には同じく官吏の村尾元長がいた。とても面白い記事なのでここに挙げる。
                                         
                                                               第12回北水協会

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 23:13Comments(0)古書籍・古本

2008年02月13日

北見のハッカ

~薫るミントの風、「北見ハッカ」のはじまり

 夏毎に我家の庭には風薫るミントの花が咲く。かっては世界の7割強を産出した北海道のハッカも今は僅かに網走管内に見られるだけで、そのほとんどを産出した「北見ハッカ」の端緒は実に紋別市にあると云う。
 北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝されて翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山兵村の山形県人石山伝右衛門で、さらにここから渡辺精司が湧別村へ移入したことから、よって以後の道内薄荷はほとんどが山形系となった。
 この「北見ハッカ」の発祥には諸説があり、河野常吉によると明治31年に永山兵村から移入した同じく湧別村の高橋と有地、腰田らがそれと云い、『渡辺精司を湧別薄荷ノ元祖ト云フモ渡辺ヨリ其苗ノ擴マリシヲ聞カズ』としているのは、この調査時の湧別村の主な栽培地は高橋から導入した芭露であって、この時には渡辺は上芭露郵便局長にあったから、渡辺の地元では高橋からの導入によるものという河野の誤認であった。
 さらに湧別村への渡辺の転住も定かではないが、明治26年には湧別原野が開放され、また翌27年2月発行の「北海道實業人名録」では前住地に経営する商店の名義を11月付で倅の「精一」としており、当時の交通事情ほかを考えると少なくとも、同26年秋頃までには移住していたと推測される。                   (置戸町郷土資料館のハッカ釜)

 殖民公報第六十四號/明治45年
 本道の薄荷栽培 中略 本道に於て始めて薄荷の栽培を試みたるは今を距ること二十年前及ち明治二十四年頃にして石狩國上川郡永山屯田兵村移住山形縣人石山傳兵衛を以て嚆矢とす越て同二十六年五月福島縣人渡部精司之か苗根の分與を受けて北見國湧別に移植し同國地方に於ける蕃殖の基因をなしたり明治三十年上川郡の産額始めて統計上に上り三十四年に至りて上川は一時休止し北見國湧別を計上し、三十五年に同野付牛並びに上川を示し 後略 
 
 北見繁栄要覧/大正元年     
 そして渡辺が開拓地の選定のために北海岸を探査中、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生薄荷に着目、それを試験的に精油したのが明治24年で、これが「北見ハッカ」の濫觴であり、後に藻別村でも栽培を試みた。後年、芭露と並び「渚滑ハッカ」と云わしめたのは、高橋と共に栽培に専念した植松一族が渚滑村(現紋別市)へ再転住し、ハッカの栽培と買付けを行ったためであるが、その渚滑には近年まで当時の通称「ハッカ御殿」というものがあった。
 それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、この頃に屯田兵を通じて湧別から移植され、また別に広く伝播した理由のひとつに日露戦争の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息から薄荷の話を聞き、戦後に至って永山村から導入し成功したのが大きなきっかけであったとも云う。
 最後に昭和8年「北聯薄荷工場(北見ハッカ記念館)」の創業以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが建設され精製されていたことは余り知られていないが、また年月を経て移転不明となっていた「渡辺精司」の墓所も今はゆかりの上芭露墓地にあり、そこには「渡部」とあって直系は函館市にお住まいである。

 野付牛町に於ける北聯薄荷工
 昭和9年(網走支庁管内概況)









第11回北見ハッカのはじまり

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:09Comments(0)オホーツクの歴史