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2016年10月05日

鴻之舞金山のお話し

また、講演します。今度は、金山のお話し。



第―号外 鴻之舞金山のお話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/ 
  

Posted by 釣山 史 at 21:13Comments(0)紋別の歴史

2016年09月30日

紋別聖徳太子講


誇るべき伝統文化の継承、顕正寺の聖徳太子講 ~無形民俗文化財調査が行われる/紋別市 この28日に道文化財保護協会、道建築士会の4名が、紋別聖徳太子講組合(紋別建設業協会)の協力を得て、100年を越えて顕正寺に伝わる紋別聖徳太子講の文化財調査を行った。文化庁の「文化遺産を活いかした地域活性化事業」の一環で、北海道文化遺産活用活性化実行委員会(道文化財保護協会、道建築士会、NPOれきけん)は、昨年から太子講の調査を始めて、また、市内では旧上藻別駅逓所や草鹿邸の簡易耐震診断なども行っている。太子講とは、聖徳太子が広く仏教の興隆に努めたので、親鸞は、太子を教主とした。親鸞は、救世観音(太子は化身とされる)の夢告を得て浄土宗祖・法然の専修念仏門に帰依し、太子が、浄土系、特に浄土真宗で尊ばれる。これに対し、民間信仰では、太子が、大寺院の建設のために木工、土工、紙漉きほかを振興したので、大工や鳶ほかの技能諸職の神となった。これら聖徳太子を奉賛するのが太子講である。当地では、明治41年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、孝養太子像が厨子に奉安されている。この太子像の面は凛として彩色が華やかで、厨子は非常に精巧立派であり、天明元年の太子画もある。昔は、大工など技能職たちによって夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。この日の参拝者は講中40数名で、オホーツク管内では、ほかに滝上町や網走市、美幌町などの建設業団体が、同様の太子講を行っている。太子講は、大正10年から11年にかけた聖徳太子の遠忌千三百年祭に発するものが多く、紋別市では、それよりも15年ほど遡り、道内では古い伝承である。本堂には国宝・知恩院から貸与された屋根瓦が展示されていて、地元にいながら、まだまだ知らないことに驚かされた。紋別聖徳太子講は、他に誇るべき伝統文化であり、末永く継承され、文化遺産を活いかした地域活性化の一助となることを期待する。
第400号 紋別の太子講     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 06:43Comments(0)紋別の歴史

2014年04月29日

上藻別駅逓保存会結成10周年記念


鴻之舞100年、上藻別駅逓保存会結成10周年記念講演(予告) とこき:6月28日(土)午後1時30分 ところ:紋別市立博物館 講演者:北海道大学名誉教授、NPO法人れきけん代表理事 角 幸博 酪農学園大学教授、北海道産業考古学会会長 山田大隆 北海道建築士会北広島支部長、北海道北方博物館交流協会理事 関川修司 その他:駅逓、鴻之舞金山ほか現地見学会あり ~詳細は追ってご案内します。 以前から駅逓跡を活用した地域活動をという動き・計画はあった。しかし、屋根が朽ち、床が抜けるという惨状に行き詰りをみせたとき、この土地にゆかりのヒトたちが参集した。平成16年秋に有志5人が立ち上がり、『上藻別駅逓保存会』を結成、手弁当に自己資金を集い、こうして半年に渡る手作業による修復の後、平成17年春に蘇った。 バスに乗ったお年寄りの団体がやって来る。古道具に触れて興味津々の子ども達がいる。手作りのトロッコとツリーハウスに親子が歓声をあげる。旧駅逓所は、この地域の出身者の心の拠所であり、子どもらの学習の場ともなって、博物館の原点、全くの民間人の手による「体験型の活きた資料館」として根付いている。 ~鴻之舞金山の始まり 鴻之舞金山は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ6線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正5年には元山大露頭が発見されて、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。鴻之舞とは、アイヌ語の「ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処」の意に将来の発展を祈念して「鳥王・コウノトリが舞うが如し」と当て字したものである。 大正6年に金山が住友へ買山されて本格的に事業展開されると翌7年には製錬所の操業が始まり、同8年には上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。 ~鴻之舞の交通と上モベツ駅逓所 住友の飛躍をもたらした鴻之舞金山は、かっては東洋一と云はれた大金山で、その玄関口に位置するのが『旧上藻別駅逓所』である。住友へ売山されて開発が進捗し出すと遠軽に出張所が設けられ、資材を運搬するために社名淵からの道なき原始林を切り開いた。そして大正3年に開設された遠軽家庭学校が集落を形成したことで上藻別原野道路が開通しても鴻之舞の主要な交通は遠軽側で、同14年には上社名淵へ駅逓所が開設された。しかし、大正10年に名寄線が開通すると次第に輸送の主力は紋別側へと切り替わって行った。 『上藻ベツ駅逓所』の高地昇は大正15年2月に受命して5月に現地へ入り、7月には開業したが(告示では同年6月1日開設)、「驛逓協會々報第一號」によると前年には開設予定であったことが分かる。宿泊料は、一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。部落の開発と整備が進み、昭和4年からは紋別間の乗合自動車が始まり、さらに同15年にバスの運行が開始して、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が着工すると、駅逓所は同年をもって廃止された。 その後、同24年まで旅館として利用された家屋は、「駅逓所建築標準」を残す貴重なもので、開設当初部は伝統的な入母屋式に下見板を用い、昭和9年に道庁から5割補助を受けた増築部分は、和洋折衷の寄木造りじ額縁の上げ下げ窓で駅舎全体には北海道特有の半紙ガラスが多用されている。























第353回 鴻之舞100年      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年01月01日

冷食の始まり



祝 紋別市制と水産冷食60年 旧紋別町と渚滑村、上渚滑村が合併して紋別市となり、60周年ですが…、今様の水産冷食の始まりは紋別市から!! ~紋別のスケソウ加工 戦時の水産統制は昭和15年に始まった。沖合底曳船で大量・安価に供給されるスケソウは傷みやすかったが、これを加工原料に大量生産、大量輸送を可能とした“焼竹輪”は、代表的な配給水産物となった。しかし、市場流通が改善し、昭和25年に統制が解除されると焼竹輪の製造は急速に衰退してしまう。それに替って大いに活況したのがスキミ加工であり、昭和30~40年代には紋別が全国生産量の7割強を占めるに至った。また、おりしも昭和29年に『学校給食法』が公布され、簡易に大量の調理が出来る新たな食品として“フィッシュ・スティック”が登場した。昭和29年に大洋漁業㈱紋別工場ではコンタクトフリーザーを導入して竹輪からフィッシュ・ブロックの生産へと転換し、これを材料にフィッシュ・スティックの生産を国内で最初に開始した。このフィッシュ・スティックとは、スケソウフィレーなどをコンタクトフリーザーでブロック状に圧縮凍結したものを切断し、パン粉を付けて冷凍したもので、家庭用水産冷凍食品の走りである。 そして新技術の冷凍すり身の本格生産は、昭和35年の網走・斜里・余市に始まるが、翌年に日露漁業㈱紋別工場が新方式の水晒しタンクを設置したことで技術が確立し、瞬く間に主要な水産加工品となって行った。北海道紋別市 釣山史 (産業考古学会員、北海道文化財保護協会員)


































第347回 冷凍白身フライの事始め      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2013年08月06日

旧紋別駅


(上)旧紋別駅の立面図と現在の宗谷線士別駅 旧紋別駅と士別駅は同じ設計です。当時の図面を見ると、たぶん電車を模したのでしょう。

























第360回 旧紋別駅      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  
タグ :旧紋別駅

Posted by 釣山 史 at 06:57Comments(0)紋別の歴史

2013年07月19日

旧紋別駅の貨車移動機



















北見市SL広場

旧紋別駅の貨車移動機 この協三工業株式会社製のDB12型貨車移動機は、昭和50年に紋別駅構内の専用として配置され、遠洋・沖合漁業の最盛期に鮮魚の積み出しに活躍した。紋別駅ホームは3番線があり、貨物ホームへの貨物側線が2本あった。同57年には相内駅へと配置転換されて同59年に廃車となる。現在の士別駅が旧紋別駅と同じ設計だという。 大正10年 3月25日  国鉄名寄東線として開業する。 大正10年10月5日 全線開通し名寄線、その後名寄本線となる。 昭和43年10月1日 コンテナ基地となる。 昭和59年2月 1日 貨物と荷物の取扱いを廃止する。 平成元年5月1日 JR名寄本線が廃線となる。 昭和40年頃 昭和35年頃












































第357回 紋別駅の貨物用移動機      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年04月05日

紋別漁協青年部の歴史



紋別漁業協同組合青年部の来歴 昭和7年に青年団結成の機運が起こり、昭和8年4月に「蔭浜青年団」が、同9年には「前浜青年団」が発足、これらが同10年に「紋別漁業青年団」に大同団結された。このとき最初の社会貢献活動は夜警だった。 青年団は当初から自立自営をうたい、昭和9年にはホタテの漁業権が与えられ、雇いから水揚げ、乾貝柱の製造までを一貫して行うという画期的なもので、これを財源として同年から千葉県勝浦の漁村道場に団員を送り、翌11年には紋別漁業青年団自習道場・北鯤寮を設立するなど研鑽に励み、この年の陸軍特別大演習に際しては、天皇陛下へホタテ貝柱献上の栄誉を得た。昭和12年には女子部が出来て岩内の婦女実務学寮へ女子を派遣した。このように紋別の漁業青年団の活動には目を見張るものがあったが、戦中・戦後の混乱の中で活動は次第に停滞してしまう。 戦後に至って昭和28年頃より再び青年団活動が活発となる。昭和29年にはホタテの採苗試験を試みた。この外海でのホタテ採苗は、紋別が最初であり、翌年には青年団が漁船を新造し、ニシン沖刺網、サンマ棒受網、タラバ刺網の試験を行った。そして昭和33年にはあらためて漁業研修所を開設する。 青年団は、ここまで自立自営を掲げた任意の団体であったが、昭和30年代後半から青年活動も漁協組織としてすべきとの考えが広がり、同38年に全道青年連が組織されると、当地でも同じく青年団を解散して、同40年3月9日に漁協青年部を結成、同42年4月には、正式に組合組織としての紋別漁業協同組合青年部となった。以後、流氷まつりや港まつりへのイベント参加や経年に渡る港湾清掃活動のほか、各種試験事業に協力している。 主なもの 昭和43年 コンブ延縄式養殖実験の開始 昭和44年 ワカメ養殖実験の開始 昭和52年 シブノツナイ湖でのシジミ試験操業ほか、 近来は植樹活動のほか、 平成24年 第57回 全道青年・女性漁業者交流大会での発表 平成23年から市内小学生へ向けた「食育講座・ぎょぎょうを学ぶ」の開催など、 積極的な活動を展開している。 要領 一.われら、漁村青年としての使命を自覚し視野を拡げ知識の向上に努め、近代的漁村人たらんことを期する。 二.われらは、協同組合の本質を理解し、漁業協同組合運動の実践者たらんことを期する。 三.われらは、協同組合精神に立脚し勤労と理知と団結力を結集して理想漁村の建設を期する。*紋別漁業協同組合青年部青年部 発足は昭和40年3月9日 組合組織として昭和42年4月 *現在、部員が39名、部長 松井謙典(まつい けんすけ) 漁港愛護活動となる港湾清掃活動は、いつからかはハッキリしないが、昭和48年には行っている。




































第340回   紋別漁協青年部の歴史           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:17Comments(0)紋別の歴史

2013年02月20日

紋別沖底船と流通のお話し



第28回北方圏国際シンポジウム・オホーツク海と流氷『ふるさとの海』 いつも先駆けて来た当地の沖底船(紙上講演) もんべつブランドの起こり 釣山史/産業考古学会員、紋別市役所水産課 ○もんべつマガレイがブランドとなった理由 道庁では、にわかに勃興した底びき網機船を、夏枯れに対応した通年操業とするため、大正9年から翌10年にかけてオホーツク海の漁場探査を行い、同12年と14年にはトロール試験を実施して、新開の北見漁場へと誘導した。 紋別では、大正12年に小樽から松田鉄蔵の機船「第三寅丸」が回航して盛んにマガレイを大漁し、鮮魚は貨車積みにして主に旭川方面へ販売した。こうして小樽・室蘭・留萌などからも多くの機船が回航するようになり、紋別を根拠地にマガレイを多獲し、戦前の底引き網でのカレイ漁は全道でダントツだった。しかし、季節的に大漁されるマガレイは価格が不安定であり、この頃は、船主自らが東京へ送ったりもしたが、うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損という有り様だった。 この鮮魚での出荷には、その前提となる冷蔵施設が必要であり、大正年間には、もはや2つの製氷池があり、昭和6年の調査では、製氷池が6経営体14箇所、貯氷庫が21棟あり、また、同年、全道でも2番目の当時としては最新式の冷蔵庫が稼動し、戦前には既に5つの冷凍工場を有する一地方では稀に見る生産基地となっていた。 そうして昭和5年に全国的な国鉄の大改革があり、貨物列車の高速化が図られると、殊に昭和10年に開場し貨物列車が直接乗り入れられるようになった築地市場へは、”鮮魚特急”と呼ばれた冷蔵貨車で大量にマガレイを発送し、このように冷凍・冷蔵技術の積極的な導入や箱詰めの工夫など、鮮魚の流通に向けた努力は、そのほか小田原や札幌などへの地方出荷となり、後の「もんべつマガレイ」の産地ブランド化へと繋がって行った。 紋別市場にて ○どうして紋別がズワイガニの流通拠点であるのか? カニ漁はタラバガニが大正13年に解禁してタラバ缶の製造が大いに活況したが、わずか2年で獲り尽くと禁漁を繰り返すようになり、昭和に入って毛ガニへと移行した。そして毛ガニ缶も昭和40年前後から次第に土産用の姿煮ガニ、冷凍ガニへとなる。 ズワイガニは昭和30年代に入り、わずかに漁獲され出していたが、当地でマイナーであったズワイガニが、中国・北陸地方で「松葉ガニ」や「越前ガニ」と呼ばれて高級魚であると知ると積極的な魚場の開発を展開、同39年からは沖合底びき船へとズワイガニ漁は拡大した。 このように道内の他地域よりもいち早く、ズワイガニの消流システムが出来上がったことで、輸入が中心となった現在においても(むしろ既存のシステムに乗せるため紋別へ陸揚げする)、いまだに流通拠点の地位にある。 ○紋別のボタンエビは隠れた名産品 現在、ボタンエビと呼ばれるものの多くはトヤマエビである。当地では、以前からエビ漁が行われていたが、鮮度落ちがしやすく、わずか1~2日で白く変色してしまうため、消費地から遠隔にある紋別は価格面で不利にあった。 そこで野村漁業㈱が昭和48年の沖合底びき船の新造に合わせ、他地域に先駆けて冷凍機を搭載し、船上での即冷を始めたところ次第に価格も安定したので、地元他船もこれに習い、こうして“もんべつ船凍エビ”は評判になって行った。現在も高級料亭やホテルに根強い定評がある。































第338回   もんべつマガレイ           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2012年08月12日

港と船の写真展2

紋別・私の博物館コレクション、港と船の写真展
「写真(絵)でつづる紋別港の歴史と北海道にゆかりの船たち」

 この8月4日から8日の間、「航海練習船・日本丸」の紋別寄港に併せて市立博物館において歴史写真展を開催しました。

第二部: 紋別港の歴史風景




















































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































































私の博物館コレクション、港と船の写真展 「写真(絵)でつづる紋別港の歴史と北海道にゆかりの船たち」 この8月4日から8日の間、「航海練習船・日本丸」の紋別寄港に併せて市立博物館において歴史写真展を開催しました。 第二部: 紋別港の歴史風景 明治43年の築港計画図 戦前の航路図(明治39年測量図) 川崎船による帆立船団(大正末?) 天覧活動写真の一コマ 貴重、藤野家の汽船・伊吹丸、遠くに見えるは郵船の釧路丸 明治末の紋別港全景 新鋭の改良・川崎船が見える モッコ担ぎ、鰊の水揚げ 工事中、ケーソンの沈設 竣工後、北見水産㈱缶詰工場の景 昔の造船所、木造船の時代、紋別造船㈱ ニシン最後の群来 寺崎の手繰船、第七早取丸と第八早取丸 昔の海水浴場、戦前、現在の北浜海岸 昔の海水浴場、戦後間もない頃、現在の港町5・6丁目海岸 結氷した船揚場 荷捌き風景 漁船ひしめく第一船溜 竣工間もない頃の旧市場 手前はマルハの第十三忠洋丸 サンマ船で賑わった頃 戦後、紋別港の変遷 遠洋・沖底、華やかな頃 第十七日東丸の出航 回航した沖底船団 昔の水産加工 戦前に興隆を見たタラバ缶詰の製造 毛ガニ(?)缶詰の加工風景 焼竹輪は昭和30年頃までたいへん盛んだった。写真は紋別食品工業所 昭和30・40年代に生産、日本一を誇ったスキミ干しの作業風景 ◆築港前の紋別港 オンネナイ川から望む ニシン干し場 紋別築港の建設 ◆紋別港桟橋問題 非常にめずらしい築港中の写真 ◆初代・巡視船そらち ◆赤灯台と霧笛 竣工後の紋別港 灯台と巡視船 着任したばかりの巡視船そらち 設置直後の霧笛 ◆機船底曳網漁船の勃興 北洋船の出航、下段は大成丸 北防波堤のマルハ船 ◆二百カイリ時代、減船へ 沖底船が最盛期の頃 露天のセリ風景、手前は第十五大洋丸 ◆捕鯨の終焉 クジラを引く捕鯨船 北浜にあったクジラ解体場 祭りの風景 港まつりでの遊覧船、第一晴昴丸 厳島祭神の御渡 昭和32年の魚霊祭 紋別港を根拠地とした機船底曳網漁業許可船名簿



































第306回  もんべつの港と船の写真展          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2012年03月22日

北洋操業と霧笛のお話し(改)

        
 ◆遠洋・沖底が華やかな頃のお話し
~非常に危険だった昔の北洋操業
戦後に日本の遠洋漁業が解禁されたのは昭和27年で、紋別では同30年、31年には北洋カムチャッカ海域のサケ・マス漁業船団の中継基地となり、また、同じく同30年からは「日米水産」と「極洋捕鯨」のタラ延縄漁船の根拠地ともなった。そして旧ソ連のベーリング海域などでの底曳試験操業が開始されたのが昭和32年である。
遠洋・沖底漁業が華やかしい頃、濃霧などで視界が利かないときに「ぼー、ぼうー」と鳴った港町の風物詩は何処へ行ったか?
 悲願であった紋別築港が竣工したのが昭和6年、これに併せて北防波堤に紅白色の灯台が設けられた。築港以前には、今の造船所のあたりには岩礁と浅瀬があり、そこには一本松が建てられて、松印と呼ばれて航行の目印となっていたと云う。
昭和29年には北防波堤灯台が改修されて赤色灯の通称赤灯台となり、翌30年10月1日には、紋別市によってモーターサイレン式5馬力の霧笛が、灯台に付設され、さらに翌年には海上保安部へと移管された。
さて、当時、弁天町にあった松田水産所属の『丸高丸・177㌧、17人乗り』は、昭和34年3月6日9時頃、僚船へ『天気すこぶる晴朗で波静か、順調な航行を続けている』との通信を最後に消息を絶った。「丸高丸」は前年に進水したばかりの新造の北洋底曳試験船だった。
 その後に遺留品などの手がかりも全くなく、行方不明から四十九日が経った4月26日には報恩寺において小笠原俊英船長、高橋亮一漁労長ほか乗組員の合同慰霊祭がしめやかに執り行われた。
 この前月には大洋漁業の「第十七明石丸・73㌧、15人乗り、鍋谷精司船長」がカムチャッカ南端のブレスブ沖で沈没しており、「丸高丸」は皮肉にも1年前にはカムチャッカ沖で遭難したタラ延縄漁船「第十二大黒丸・132㌧、18人乗り、阿部喜一船長」の最後の無線を受け取った僚船であり、また、この昭和34年には当地へ巡視船「そらち」が配備されたのであった。

























第298回 遠洋漁業、沖合底曳漁業が再開した頃          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2012年03月18日

ブラキストン、オホーツクを探検

◆紋別にも来たブラキストン(改)  
 さて、意外と知られていないのは、鳥類の研究で有名な、あのブラキストンが明治二年に道東北を巡り、詳細な紀行文を残しているということ。ブラキストンは、新政府から宗谷で難破した英国艦の調査を依頼されて所有船あきんど号で函館を出港、道東の浜中に上陸すると、そこから海岸沿いに宗谷へ至った。
 こうして途中の紋別を通過、彼の記録では当時の紋別場所について、『岩礁が風波を多少防ぐ程度の少し引っ込んだ湾とは言えないくらいのもので、漁場には大きな住宅と役所が1軒づつ、それをアイヌ人の小屋が取り囲んでおり、この時は和船一艘が沖泊めされていた。』とあり、番屋の差配人と船長の話しでは、『オホーツク沿岸は、冬には沖合い3~4里は凍るけれども、宗谷海峡は、日本海からの暖流による海流の速さと暖かさで凍らず、あの大量の氷は、樺太沿岸で結氷したものが、冬の北風によって流れ来るもの…、斜里と紋別の経営は採算が取れないが、他に非常に利益のある標津場所があり、どこか一カ所を放棄すると全てを召し上げられてしまう(山田寿兵衛の請負)。』と聞き取りしている。
 このときの船長は、外国船での経験があり、また、案内人のアイヌの青年は、ヒゲをそり、日本風の髪形をしてカナ文字を書いたとしている。




第297回 ブラキストンの話し(再)          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2011年06月16日

紋別の草鹿邸

旧・草鹿犀之介邸 昭和2年で、総工費が2万円はかかったというタール黒塗り下見張りの洋館でいわゆる文化住宅。洋和室に備えられたペチカなどは、当時の寒冷地対策を良く現しており、1階洋間の変形出窓とそれに連なる屋根は特徴的。草鹿犀之介は、明治31年に石川県に生まれる。父は、マルクスを日本国内に始めて紹介した経済学者で、のちに住友家の理事となった草鹿丁卯次郎。実兄は、真珠湾攻撃、ミッドウェー海戦などの参謀長を務めた草鹿龍之介中将。伯父に判事を経て衆議院議員となった草鹿甲子太郎、従兄に南東方面艦隊司令長官の草鹿任一中将がいる。盛岡高等農林学校(現岩手大学農学部)を卒業後、大正11年に紋別市元紋別に入り、一農民として自ら大規模な農場を経営、昭和7年に当時としては反産運動へと繋がる紋別で最初の産業組合を発足させ、農民の生活の向上に努めた。昭和5年にはフォードソン・トラクターを購入するなど、畜力や機械力を利用した農業の近代化を図り、また、実習生を積極的に受け入れるなど、農業界と地域に大きく貢献した。
























































第250回 紋別の美しい洋館         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2010年10月25日

カニとホタテの話し

オホーツクもんべつの食育
 紋別のカニとホタテ(まとめ)





































































オホーツク三大ガニのまち 今から何十年も昔に見られた紋別の風物詩に「カニ拾い」がある。流氷が去って漁が始まる3月から4月の頃に、「毛ガニ」がうじゃうじゃ砂浜に上がって来て、1斗ガンガンでひとつ2つとたくさん獲れた。紋別地方では大正5年から缶詰製造が試みられ、翌年からはカニ缶用に盛んにカニ漁が行われたが、それはもっぱら移出用の「タラバガニ」で、小型の「毛ガニ」は商品価値に劣った。当地でも「タラバ缶」が造られるようになったのは大正13年のことで、これが紋別での本格的な缶詰製造の始まりである。しかし、乱獲からタラバガニの資源が急激に減少してたびたび禁漁になると、「毛ガニかご」が開発されて、昭和10年頃からは「毛ガニ缶」も作られるようになり、その後の昭和40年頃からは姿の「煮ガニ」や「活ガニ」へと変って、今では「毛ガニ」も高級品となった。「ズワイガニ」は、昭和30年代に沿岸で若干が漁獲されていたが、地元ではほとんど食べられず、同39年から主に道外向けに沖合底びき網船が漁を本格的化し、沖合、そして遠洋へと拡大して、道内他地域に比べても早くに毛ガニに代わるカニ缶として盛んに加工されるようになった。さて、カニ缶の製造と云えば「小説・蟹工船」が良く知られるが、「蟹工船・博愛丸」の船主として、そのモデルとなった人物が紋別にいた。彼は大正8年に、それまで試行が繰り返されていた船内でのカニ缶の製造ラインを完成させ、以後の同業の勃興を生んだ立役者であり、自らも同12年に蟹工船事業に着手したもので、博愛丸事件が起こったのは、大正15年である。その後、水産局の役人となっていた昭和4年に、地元の要請を受けて道内でも2番目という、紋別地方で初めての冷蔵庫の建設に尽力、また、当時、盛んであった海外向け缶詰製造を当地で手掛けるなど、道内各地の水産業に残した業績は大きく、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云えよう。6月22日は『カニの日』 6月22日は「カニ座の初日」で、五十音順ではカは6番目、ニが22番目だからだそうだ。さて、紋別では流氷が去り、毛ガニとタラバガニ漁が始ると春の訪れで、そして当地は、ズワイガニを中心としたカニの輸入が、4年連続日本一の『カニのまち』である。紋別漁協は、毛ガニに『北海道・オホーツク紋別』のタグを取り付けて品質を保障し、『洞爺湖サミット』ではディナーにも使用されて話題となった。 紋別のタグ付き毛ガニ もんべつの帆立貝~当地のホタテ漁の歴史 北海道を代表とする北海道らしい魚介類としては、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンや「俵もの」と呼ばれる中国向けのいりこ、干あわび、コンブなどがあり、北海道の特産品であるホタテも、すでに幕末には干貝柱として登場し、明治に入って盛んに中国へ輸出されて現在に至っている。蝦夷地を北海道と名付けたことで知られる松浦武四郎が、その頃の寿都のアイヌ人の民話として『たくさんの海扇(ほたて) が、フタを帆にしてやって来た』と記しており、箱館奉行所の栗本鋤雲も、「蝦夷の三絶」のひとつとしてホタテの干貝柱をあげている。また、あのペリーが箱館に来航したとき、珍しいとホタテの貝殻をアメリカに持ち帰って、それは後の1857年にJohn.C.Jayによって、学名 Patinopecten yessoensisと命名されたと云い、yessoensis とは「蝦夷」のことで、蝦夷櫛皿貝=北海道の櫛柄の皿のような貝を意味する。さて、一説に紋別では明治13年頃、盛んにホタテを漁獲したと云うが、これはナマコ漁での、混獲によるものと思われ、専業的にホタテ漁が始められたのは同25年からであり、この初期のホタテ漁の中心は小樽方面から廻航した石川県人などの北陸衆で、川崎船によるものだった。また、別の記録では『明治26年、青森県人・握味久之助が高島から八尺を持てってきて漁を始めた』ともあって、こうしてホタテ漁は北見地方を代表する一大漁業となり、昭和10年の当地での水揚げ15,691㌧は、戦後の長い間、日本記録であった。しかし、ホタテ漁は当初から乱獲などで、好不漁と禁漁を繰り返し、昭和9年にサロマ湖で開始した採苗試験は同11年から大掛かりなものとなって、これを「地まき」したのが管内のホタテ増養殖の始まりであり、その後、紋別では現在の基礎となる実証的な試験が何度も繰り返された。そうして昭和49年、50年には休漁にして稚貝を本格的に放流し、同51年からは4年毎の輪採制として再開されて、このようにホタテ漁は次第に増産・安定した。最後に大正の中頃には既に「紋別八尺」が広く知られていて、それまでの爪の長いマグワ桁網とジョレンとを組み合わせた5本爪のホタテ専用の鉄製漁具は、今もある小樽の「一鉄鉄工所」が開発したものである。 北見國紋別郡内漁業實況/北水協會報告第七拾七號/明治26年 北海道漁業冩眞帖/昭和12年 ホタテ桁網(通称:八尺) タウリン 食育のすすめ 魚食のすすめ 総合学習 ホタテの歴史 カニの歴史 




































第213回 紋別の漁業を知ろう      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2010年09月23日

今の鴻之舞金山

オホーツクで最大の産業遺産

 ~現在の廃鉱、旧市街地の様子です。



※産業考古学会全国大会で、旧鴻之舞金山の資料(パンフ等)を配布します。当日は、一般の方も参加できます。

(北海道)産業考古学会・全国大会

【全国大会】
10月9日(土) 9:00~19:30
特別講演、シンポジウム、一般研究発表、懇親会

【見学会】
10月10日(日) 8:30~18:00
バス見学会(江別市、富良野町、芦別市、三笠市の産業遺産)
▽オプショナルツア-(マイクロバス見学会)    
10月11日(月) 札幌市北海道開拓記念館、北大札幌農学校遺産見学、小樽市港湾鉄道遺産見学
10月12日(火) 室蘭市の日本製鋼所、新日鉄室蘭工場見学          

【会場】
北海道江別市文京台緑町582 酪農学園大学         



第206回 廃墟、東洋一の金山      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 10:10Comments(0)紋別の歴史

2010年08月17日

沖底船と加工業

第199回 沖合底びき網漁船と水産加工業の変遷      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/






























































































































































































































































































戦前の紋別港 当時、最新鋭だった松田冷蔵庫 戦後、間もない頃の小手繰船 昭和32年頃、出港の景、霧笛 沖底船の水揚げ、春ホッケ、追いニシン 日本山海名産圖/江戸時代の手繰漁、200年前のカレイ小手繰漁 カレイは、海岸から約120キロメートル位の沖合いで捕り、そこは鰈場と云って若狭、越前、敦賀の漁師たちは手繰網を使う。海の深さは、だいたい90メートルである。 紋別を例とした沖合底びき漁船と水産加工の歴史 §1.機船底びき網漁業の興り 1沖合底びき網漁業の勃興  ~動力船の登場 単に「機船」と呼ぶとき、それは「底びき網漁船」のことを示すが、我国における近代的な沖合底びき網漁業は、明治36年に輸入された機船トロールに始まると云う、底びき網漁業は平安末期の1087年の記録『能登浦領内ノ事』に「北ハカレイ引ヲ定也」とあり、若狭湾では、寛文期以前から「沖手繰による鰈引き」が盛んであった。 この若狭湾での明治43年の試験操業は失敗に終わったが、続いて大正2年に島根県で始まった沖手繰は、漸次、成績を上げると四国地方、そして日本海の各地へと広まった。 北海道では、明治38年の室蘭での試験操業が最初と云われ、同41年には8隻の底びき網機船があったとも云う。後年、同漁業の中心地となった小樽では、大正元年に始めて試みられたが、この時には定着しなかった。 後に道内において継続的な経済操業に至ったのは大正の中期以降の小樽や函館であり、大正9年の底びき網機船の登録は、小樽100、岩内10、函館4、室蘭33、釧路52、根室3、宗谷1、留萌12の計215隻であったが、実際の操業は100隻程度だった。 道庁では、この様ににわかに勃興した底びき網機船を、夏枯れに対応した通年操業とするため、大正9年から翌10年にかけてオホーツク海の漁場調査を行い、同12年と14にはトロール試験を実施して、新開の北見漁場へと誘導した。 2紋別でのはじまり ~第三寅丸の回航 紋別では、明治36年頃から無動力の川崎船によるカレイ小手繰が行われていて、大正年間には紋別の一本松から興部の砂留の間で2~3隻が操業していたと云うが、加工・流通の未発達な時代にあっては振るわなかった。 当地での最初の動力船は、紋別漁協が大正3年に導入したホタテ監視船であったが、数年後には、それを高嶋春松が購入して、紋別~湧別間の輸送を行いながらマガレイ漁をはじめたと云い、これが網走管内の底びき網機船の始まりであった。 こうして紋別でも漁業近代化の波が現れ、大正12年には小樽から松田鉄蔵の機船「第三寅丸」が回航してマガレイを大漁し、鮮魚は主に旭川方面へ販売して、あとはカマボコや魚粕などに加工した。また、同年に地元では伴田惣十郎が機船2隻を建造し、翌年には操業を始めた。 3紋別水産界の発展 ~近代的水産業の現れ
前述の以降は、夏枯れ対策として小樽・室蘭・留萌からも多くの機船が回航し、紋別を根拠地に常時15・6隻以上が、主に雄武から興部沖の浅いところで35~50㍍、深いところでは60~80㍍の範囲でマガレイを大漁したが、昭和15年頃までの地元の登録船は、松田2、伴田2、浜田・上森・太田が各1の計7隻で一定した。 昭和11年の千島も含めた全漁獲高では、紋別が全道市町村中で第5位にあり、その内のカレイ漁は3位で、底引き網での同漁はダントツの1位であった。 当時は、既に地元の仲買人はいたが(大正4年に紋別魚市場が開設)、大きな取引は主に小樽の問屋衆で占められていて、季節的に大漁されるマガレイなどは、価格が不安定であり、この頃には、底びき網の船主が大きなカレイは自ら東京へ送ったりもしたが、うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損という有り様だった。 この鮮魚の出荷には、その前提となる冷蔵庫が必要であり、すでに大正年間には2つの貯氷庫があり、昭和5年には松田鉄蔵と松崎隆一による全道でも2番目の当時としては最新式の冷蔵庫が建設されたが、築地市場への鮮魚特急と呼ばれた冷蔵貨車は、その台数が限られており、昭和14年に「北海道機船底曳網漁業水産組合紋別支部」が発足し、同じく「紋別機船底曳網漁業出荷組合」を結成して、共同での発送を行った。 これら機船底びき網漁業によるマガレイ漁と、それにかかる冷凍・冷蔵技術の導入など、鮮魚流通に向けた努力は、築地や小田原、札幌などへの地方出荷となり、後の「もんべつマガレイ」ほか、地元海産物の産地ブランドへと繋がって行く。 §2.機船底びき網漁業の転換と戦後の加工業 1底びき網漁業の濫立と停滞 ~沿岸漁業の荒廃 特に北海道では、昭和初期に急激な漁船数の増加を見たが、これは単に底びき網機船の隻数が増えたのであり、漁船自体の大型化は伴わずに密漁が横行し、それは資源の乱獲と沿岸漁業者との紛争を招くことになり、戦時の燃油・資材の不足もあって中型の底びき網機船自身も採算が取れない状況に陥ってしまった。 当地においても、マガレイのほかに昭和2年頃からはアブラザメ漁も始めてはいたが、同8年頃から特にカレイ類の資源減少が現れ、同12年からはタラ、スケソウを漁獲するようになり、これらの加工はサメヒレなどの乾物と一部が練物とされたほかは、主に魚油や魚粕とした。 こうして遂に昭和5年には「機船底曳網漁業取締規則」が改定され、規制の強化が図られることになったが、戦時の食料確保と徴用船への対応から規制は次第に緩慢となり、結局、これらによって漁業制度は崩壊してしまう。
いっぽう、昭和16年からの統制経済は脱仕込ともなり、食糧不足の中で一定の価格が維持されたことから、小規模漁業者の負債は整理され、また、それまで廉価であったホッケが脚光をあびるようになるなどの副産物を生んだ。 しかし、戦後に至って食料不足がいっそう深刻化すると、乱獲による資源の減少は著しいものとなり、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなるなど、かえって漁獲効率が高い小手繰船を増加させ、密漁船が横行するという悪循環となってしまった。 2底びき網漁業の戦後処理 ~小中底びき船の整理 小型機船底びき網漁業(小手繰船)は、昭和19年に10㌧未満を限り合法としたが、実際には20㌧前後も黙認され、さらに戦後に千島海域を失った底びき船が入り込んで沿岸資源の減少が深刻となり、沿岸漁業との摩擦が拡大されると、底びき船は、より沖合への出漁を余儀なくされ、沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋へと船の大型化・近代化が図られるようになったが、沖合底びき網漁業の採算は難しく、後にそれは北洋操業へと転換して行く。 昭和23年に、35㌧未満が35㌧へ、35㌧から40㌧未満は40㌧に、そして40㌧から45㌧未満が45㌧への増トンを認めて、実測との補正を行い、同25年には北海道庁が、小手繰船の整理と無許可船の根絶を図るため、小手繰網漁船の許可船4隻に対して1隻の中型底びき網漁船への転換と、無許可船は8隻から1隻の中型底びき網漁船への転換を指導した。 昭和26年における紋別根拠の中型機船底びき網漁業の登録数(入会、2箇所登録有り)は61隻あり、その船籍は紋別(21)、網走(9)、函館(8)、根室(6)、小樽(5)、東京(5)、興部(3)、湧別(3)、雄武(1)とあり、主要な経営主としては、東京の日東水産㈱が6隻、小樽の松田関連の5隻(大成2、辰蔵2、松田漁業1)などがあった。この年には機船底びき網の15㌧未満を小型、それ以上から60㌧までが中型と定められ、のち北海道と東北に限り、木船75㌧、鋼船85㌧までとされた。 3機船漁業の転換 ~漁船の大型化、より沖合いへ 昭和27年にマッカーサーラインが撤廃され、戦後の日本の遠洋漁業が解禁された。昭和29年には『沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋』への政策が固まり、それまで地方で行われていた新開漁場の開発が国の事業となり、ベーリング海域などで遠洋底びき試験操業が開始されて、同30年から紋別へも水揚されるようになると、同32年には紋別船も出漁を開始した。 昭和31年には、これら新開漁場への出漁や他の漁業との兼業など、季節的に沖合底びき網漁業を行わない船の増トンが認められ、このような経緯の中で当地を主な根拠地とする昭和26年の操業船が48隻であったものが、同35年には35隻に減少した一方で、70㌧以上が5隻出現した。昭和36~38年にかけては全道で沖合底びき網漁業を大減船し、一部を北洋底びき網漁業へ転換。紋別では6隻が減船し、うち1隻が転換した(北転船と云う)。 そうして昭和37年からは船員の労働環境の改善を目的とした96㌧型への増トンが図られると、漁船の大型化は急激に進行し、この間、沖合底びき網漁業は、北海道で最も安定した漁業となっていたが、昭和30年代末をピークに漁獲量が下向を示し、同40年代に入って徐々に漁価が低下しだすと、人手不足もあいまって深刻な経営不振に陥ってしまった。紋別でも昭和43年の着業者は21事業者、24隻となっていた。 こうした状況下で打開策とされたのが『124㌧型船』への移行と『オッタートロール』の導入であり、それは全く画期的なものであったことから漁船の大型化は加速した。まずは124㌧型船への移行であるが、これに伴ない網揚げが船尾方式となり、二層甲板ともなったことから、操業効率と積載量は格段に増し、安全性も高まった。次にオッタートロールについては、省力化による人員の削減と操業可能な海域の拡大が図られたことが挙げられ(オッタートロールは、かけまわしに比べて人員が2~3名少なくて済み、また、網口を一定に開いて保てるため、長く引くことができて早く底に沈むなど、駆け上がりや深い底にも対応が出来る)、このオッタートロールを導入したのは、昭和45年の宗谷と紋別に始まり、同47年には、地元で14隻が操業している。 しかし、紋別での124㌧型への移行は、他地域よりも立ち遅れ、遠くまで出漁が出来ずに生産性も低く、よって市では沿岸漁業の保護からも沖合化を促進するため、昭和45年に建造資金の利子補給を決定し、漁協も翌年から3ヵ年の大型化計画を立てて、同49年までには、全ての底びき船が124㌧型となった。 こうして当地では、より沖合い漁場への遠隔化が図られ、昭和40年代にはズワイガニ漁が盛んとなり、同代後半にはイカナゴが多獲されるようになると水揚げは上昇に転じたが、昭和30年代後半からの不振と度重なる増トンによる借入金は、経営を圧迫した。 4紋別における戦後加工 ~加工用多獲魚の時代
戦中から漁獲対象は、高級なマガレイやタラなどから、次第に他の多獲魚へと比重を移し、質より量へとなって行く。 昭和25年の紋別の機船底びき網漁業による漁獲割合を見ると、スケソウが48.7%、ホッケは30.7%、サメ11.6%、タラ3.9%、カレイが3.1%であり、その中心は、戦前の平ものから加工原料となる丸ものへと明らかに転じている。このうちホッケは、昭和18年頃からロウソクボッケを漁獲対象としたが、統制解除の同24年以降には盛んに加工原料として用いられるようになる。 紋別の水産加工については、戦後早くに冷凍事業が開始され、また、フィッシュミールの加工が始まって、缶詰製造が復活するなどがあったが、何よりも盛んだったのは昭和20年代末頃からのスキミ加工で、同30年代には全国生産の7割強を占めるに至ったが、同24年頃からは既に開きスケソウも盛んであった。 戦中・戦後に大量に生産された焼竹輪などの練製品は、昭和20年代中頃から次第に衰えて、竹輪は同31年で姿を消したが、同35年に網走水試よって「冷凍すり身」の技術が開発され、短期間で主要な加工品となって行った(詳細後述)。また、フィッシュミールが急増したのは、同45年以降であり、同じく飼料用の冷凍イカナゴが量産されるようになった。 ズワイガニは、昭和30年代に沿岸で若干は漁獲されていたが、同39年からは道内他地域に比べても早くに本格的化され、沖合、そして遠洋へと拡大し、毛ガニに代わるカニ缶として盛んに加工されるようになった。 こうして機船底びき網漁業での主要は、スケソウとホッケに移り、イカナゴの登場もあって、水産加工業と結びつくと戦前同様に当地の産業界をリードしたが、現在に続くズワイガニの流通拠点としての性格は、このときに始まったと思われる。 §3.オイルショックと二百カイリ規制
1ふたつのオイルショック ~表面化した魚離れ 昭和48年に起こった第4次中東戦争に伴う第1次オイルショックと、同54年のイラン革命による第2次オイルショックは、単に燃油の高騰だけではなく、これ以降の漁業資材ほかの経常的な経費を押し上げ、魚価は乱高下して、漁業経済を混乱させた。 まずは第1次オイルショックであるが、このときは10月半ばから年末迄のわずか2ヶ月弱の間に、原油価格が大よそ4倍にまで上昇し、石油関連はもちろん、それ以外のあらゆる物価も高騰して、国内に猛烈なインフレーションが巻き起こった。しかし、当地では、魚価の上昇があり、翌49年と50年が好漁であったこともあって、また、漁場も比較的に近い地の利があり、他地域に比べては、小さな被害に止まった。 つづいての第2次オイルショックは、原油価格1バレルが、13ドルから32ドルまでに高騰、しかし、前回の教訓から国内経済は冷静に対応し、このときも魚価の上昇が見られたので、短期的には大きな混乱とはならなかったが、この2つのオイルショックを経て、以前に比べてコストは大きく上昇し、特に遠洋漁業への影響は、大きなものであった(沖合との兼業あり)。 そして何より、むしろ問題となるのは、実質的な可処分所得が減少する中での相対的な魚価高であり、静かに進行していた魚離れが、これによって大きく顕在化することになる。 2二百カイリ時代 ~専管水域の設定 米ソの漁業規制は、次第に強化されてはいたが、昭和52年に相ついで米ソ両国が、200カイリ漁業専管水域を宣言し、これに我国も対抗して水域を設定したことで、漁業は200カイリ規制の時代へと入る。3月末日には、ソ連(ロシア)200カイリ水域から退去することとなり、これまでの北洋海域からの撤退を余儀なくされた。 これらにより米・ソ水域とベーリング公海などの対日割当や操業海域は縮小され、同年、全国で沖合い底びき網漁船50隻を減船することになり、うち北海道で計37隻減、紋別では2隻減(建造替えを当てたので実質1隻の減)となり、沖合底びき網漁業は17隻体制となった。 この年は魚価高もあり、どうにか乗り切ることが出来たが、翌年にはほとんどの漁船が赤字に転落し、それに事業継続者には、減船共補償金約2千数百万の負担が加わって、経営は非常に逼迫した。 3主要魚種の変遷 ~冷凍すり身の功罪 それまでは鮮度が低下しやすく、蒲鉾などの練物にも向いていないと云われて、もっぱら「開き」などの乾物や塩蔵にするほかなかった「スケソウ」であったが、昭和35年に北水試のグループによって、まったく新しい加工としての「冷凍すり身」が開発(昭和38年に特許出願登録)されたことは、水産練り製品の一大発展へとつながった。 当時の業界では、以西での蒲鉾などの練物用原料が不足しており、また、魚肉ハム・ソウセージとも結びついて、「冷凍すり身(陸上すり身)」の生産は急速に広まった。昭和40年には、大手の日本水産㈱が洋上の加工船による「冷凍すり身(洋上すり身)」の生産を開始し、翌年には大洋漁業㈱が洋上すり身へ乗り出して、さらに生産量は急増し、以後のスケソウの消流を支えることになった。 このうちの洋上すり身については、昭和62年で米国の対日漁獲割当が廃止と決まり、それにかわって日米JV船からの洋上買付けが行われるようになったが、これも平成3年には廃止されて、現在は日米JVによる洋上すり身加工へとなり、この洋上での鮮度が高く、良質なすり身が大量に日本国内へ流入したことで、陸上すり身の価格が低下し、これがスケソウ価格の低迷の一因ともなり、近年は、漁獲量が比較的に安定したホッケのすり身加工が増えている。 また、主に飼料用として冷凍加工される「オオナゴ」は、当市でも「オッタートロール」を中心にピーク時で約4万トンを水揚げしたが、海域の規制と資源の減少から激減し、この直近では平成19年が約850㌧、平成20年3㌧、平成21年は約1,500㌧と低迷している。 そして地元産のズワイガニも、この10年間では、平成12年の1,015㌧をピークに、ここ数年は300㌧内外にとどまっており、もちろん、資源の低下はあっても安価なロシアからの輸入ガニに押されてのものである。 4規制強化と沖合漁業の忍従時代 ~沖合い底びき漁船の大減船と現況 さらに昭和60年に米国が、日本のベーリング海での操業停止を通告、同62年までには、米国の対日漁獲割当が廃止となって、このような米・ソ(ロシア)200カイリ水域での漁業規制の強化に伴い、我国の北洋漁業は、伝統的な漁場からの撤退、縮小を余儀なくされ、一時期は公海での操業も禁止されるなどもあり、昭和61年の国際減船では、道内の沖合い底びき網漁船が161隻から88隻となり、このときも前回同様の共補償が実施され、平成10年からは基幹漁業総合再編推進事業によって、順次、縮減されて現在は全道48隻体制となっている。 当市においても昭和63年に母船式サケ・マス漁が終結し、平成6年を最後に入会での沖合い底びき網漁業が、同11年には遠洋漁業が終焉して、地元根拠の沖合い底びき網漁業も昭和60年と翌61年の大減船を経て9隻体制となり、また、このときに道内ではじめての沖合い底びき網漁業の減船倒産が当地で発生、この間に漁船の更新期に迫られて新造船を建造するなどもあって、現在は、160㌧型を中心とした「オッタートロール」は2隻、「かけまわし」が2隻の計4隻が非常に厳しい操業を強いられている。 その後のバブル崩壊を経て、今また当市の沖合い底びき網漁船は、更新期を迎えているが、もっとも新しい船で昭和63年の建造であり、古いものでは30年目を迎え、近々では、数年前に短期的な豊漁と魚価高はあったものの、第3次オイルショックとも云われる石油製品の異常な高騰と、流通、為替を含めたいっそうの国際化から来る魚価の乱高下、リーマンショック以降の極度の経済停滞などから体力を喪失し、特に「オッタートロール」は不振を極めて、代船の建造は難しい状況にある。 しかし、ロシア国内でのさらなる漁業規制の強化は、カニ輸入の漸減として現われ、また、水産物価格の国際市場での混乱、日本の「買い負け」を考えるとき、特に多獲魚の国内での加工用原料としての重要度は、ますます増すばかりであって、漁業と加工を合わせた水産業を基盤とする当市においては、沖合い底びき網漁業を維持することが直近の重要課題と云える。 このように目まぐるしく変わる国内外の漁業環境の変化に対応した政策に翻弄されながらも、沖合い底びき網漁業は、紋別市の産業界の基盤となり、その後もリードしながらマチの発展に大きく寄与して来た。

  

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2010年06月12日

浜のまち・紋別

ホタテとカニのまち
概略 紋別の水産界






浜のまち、もんべつ ◆紋別市の概要 我が紋別市は、流氷砕氷船ガリンコ号や氷海展望塔オホーツクタワーで知られる、遠くアムールから流氷がやって来るマチ。冷涼で低湿な北海道内では比較的に穏やかな気候に恵まれ、道内でも早くから漁場として開け、その豊かな漁場に支えられた漁業を中心に、大自然を活かした『農林漁業のまち』として発展して来た。漁業はタダ獲るだけの漁業から育てる漁業へと転換し、共業化も進んでホタテやサケ・マスを主に漁業生産の安定化が図られ、農業では、道東でもいち早くに製酪が行われた地域であり、今は大規模な製乳工場がある一大酪農地帯として、林業は、開拓時代の黎明期には幾つものマッチ軸工場があった林産工業の先進地で、現在は、当市が中心となって日本一の森林認証エリアを形成する、森から海へと連携した『海と大地の恵み』からなる1次産業を基盤とした食料供給基地である。また、かっては東洋一の金山と呼ばれた住友鴻之舞金山があり、世界を席巻した北見ハッカの濫觴の地でもある。そしてオホーツク海のほぼ中央に位置する紋別港は、『重要港湾』に指定され、移出入のみならず水産物を中心とした海外との重要な貿易港でもあり、水産加工場などへの海外からの研修生も多く、国際的な経済交流と流通の拠点であり、また、流氷が到来する南限の地域として、これらを活用した観光開発や氷海研究、環境問題にも力を注いでいる。◆漁業のまち 紋別市は、以前は定置網や沖合底曳、北洋漁業など、大きな資本を要する大型漁業が盛んであって、それに伴い早くから先進的な加工・流通がなされて来た。反面、沿岸漁業は零細な者が多く、仕込みによる商業資本に支配されながら、ホタテやカニなど、繰り返す好不漁に悩まされていた。 昭和初期に他を先駆けて「漁業者=漁業に従事する者」との漁民運動が起こり、組合員の整理を断行、このことは現在でも「兼業は禁止」として受け継がれている。戦前戦後の紋別水産界においては、有力代議士であった松田鉄蔵と最新の加工技術に熟練し、元水産庁の役人でもあった松崎隆一の両人が、当地に与えた影響は非常に大きく、また、後のニチロや大洋漁業となる大手資本が早くから進出したことが、今の紋別産業界の基礎を築いたと云え、戦後間もなく、全国初の水産モデル地区に指定され、地元水産3組合が合併して組織の強化が図られ、また、重点的に国からの資金と援助を受けると、次々に最新の施設を整備して、昭和30年代前半までには、全国でも稀に見る近代的な水産都市が形成された。その後の200海里規制以降の漁業規制の強化は、遠洋・沖合の大型漁業の衰退をもたらし、資源の急激な減少もあって、かっては凡そ40隻はあった大型船が、今ではたった4隻にまで減少、主に加工とされる「スケソウ」などの多獲魚の水揚げが激減し、それは加工業の業態の変化ともなり、今はロシア産の輸入ガニに頼る加工が盛んとなった(4年連続、カニ輸入日本一)。不安定であった沿岸漁業は、その後、「ホタテ、さけ・ます」を中心とした増養殖へと転換し、この増養殖が全水揚げの6割強を示すようになって、また、ホタテ漁やさけ定置網の共業化・共同化もあり、漁業経営は次第に安定して来た。そして流通・加工においても消費者が強く望む「食の安心・安全」に応えた衛生と鮮度が高度に管理される「HACCP」への対応により、競争力のアップを図っているところである。◆紋別ゆかりの人物・・・・・・●水産関係者 ☆歴史上の人物 ●藤野四郎兵衛~漁場主(又十番屋)  ●宮崎簡亮~開拓使官吏(開進社・社長)  ●木村嘉長~仁木竹吉の補佐役(仁木町を建設)  ●岡村文四郎~開拓者、参議院議員  ●松田鉄蔵~企業家、代議士  ●松崎隆一~企業家(カニ工船のモデル)  ●中浜 明~入植者(万次郎の孫)  ●草鹿犀之助~産業組合の設立者(ミッドウエイ開戦参謀の一族)  ●D・ゲンダーヌ~サハリン先住民族文化の伝承者 ☆文化芸能、スポーツ 半澤 中~写真家(オタス写真館主)  ●本庄陸男~プロレタリア作家  ●香川軍男~いも版画家  ●手島圭三郎~絵本作家  ●堀川 真~絵本作家  ●あべさゆり~漫画家 ●モンキーパンチ~漫画家 ●長谷川初範~俳優 ●勝浦 修~プロ棋士 ●宮川 泰~作曲家 ●田中利明~卓球世界チャンプ ☆その他 ●堀 達也~元北海道知事  ●佐野法充~現民主党北海道連・幹事長
◆昭和35年ころ                           ◆昭和40年ころ














第185号 紋別の水産・概史    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
 

   

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2010年03月02日

オホーツクのカレイ漁の歴史

§ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
                             北海道文化財保護協会々員 釣山 史

 それでは最初に皆様へ、お断りを申し上げます。
 このお話しの中で、特に「○○年」については、元資料によって差異があり、この場合は、当時に近いより古い資料を引用し、または、水産試験場などの公的文書を優先するように心がけましたが、ハッキリしないものもあり、ただし、紋別関連については地元の市史に従いました。
 また、『沖合い底びき網漁』については「沖手繰」「小手繰」「小型底びき網」など、その時代と地域で区分・区別は難しく、解説中では併用していますので、ご容赦ねがいます。


 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く
 江戸時代のオヒョウ漁から近代機船漁業の勃興、昔の加工と流通について

―と云うことですが、

 さて、皆さんはカレイの王様は、何ガレイだと思いますか?
 かっては、このオホーツク海でもたくさん捕れた「幻のマツカワ」が道南で復活し、今では「王鰈」としてブランドとなって商標登録がなされていますが、ある意味、やはり私は「オヒョウ」がカレイの中での鰈だと思っています。
 なんせあのデカサと云ったら…、私が子どもの頃には、タタミ大のものもあって、たった2~3匹で小型のトラックがいっぱいになったのを記憶しています。
 本旨の「マガレイ」ではありませんが、まずは「オヒョウ漁」についてお話しをしたいと思います。

◆江戸時代から有名だった紋別のカレイ漁
―それでは江戸時代の図2を見て頂きたい。
 多少のニュアンスは違いますが、現代的に意訳すると『オホーツクの紋別・斜里ではオヒョウを獲るが、2メートル近いものもあって、この辺りの一番の食料である。富山のタコや滋賀のナマズに勝る名産かも知れない』と蝦夷地を北海道と名づけたことで知られる松浦武四郎さんが云っています。そして図3では「紋別」の欄に「オヒョウ」が描かれていて、この「蝦夷土産道中寿五六」は、贈答用とされ、包装紙としても用いられたもので、たくさん市中に出回ったと考えられます。
 明治に入ると後に紋別に定住した「岩田宗晴」が、同25年に網走と斜里の沖合でオヒョウを大漁して大儲けしたと云い、その時の道庁の実地調査でも好結果となり、紋別も含めたオホーツクで、オヒョウ漁が一大ブームとなります。また、明治末期には沙留の「大多喜長蔵」が道庁の補助を得て、冷蔵船と冷蔵倉庫での試験操業を行い、一定の成果を上げました。
―このように昔から紋別地方の「お化けガレイ」はたいへん有名だったのです。
 そうして※2にあるように三漁(サケ・マス・ニシン)につづいて、紋別ではカレイがたくさん獲れていたようで、また、多獲されたオヒョウは冷凍技術が発達するまでは、食膳用にスキ身やソボロ、カマボコなどに加工され、根室などでは缶詰として輸出されたりもしました。

◆動力船の進出とカレイ漁~たくさん獲れて、始末に困ったマガレイ
 資料1から3に見られますように、道庁では大正9年、10年、同12年、14年と繰り返して北見地方の漁場の探査を行い、有望な新開場として、紋別地方への「底びき網機船」の入会を積極的に誘導しました。それは大正中期に一気に勃興した機船漁業を、日本海ほかの夏枯れに対応した通年操業とするためで、紋別地方は他の地域が薄漁の季節でもたくさんマガレイが獲れたからです。
 地元では明治の末期頃から川崎船による小手繰漁が行われていましたが、鮮魚での消費には限りがあり、大正9年には、網走管内で最初の動力漁船となる「高嶋春松の大正丸」がマガレイ漁を始めましたが、無動力と合わせた手繰船の着業者は数人程度と、今ひとつ振るわないものでした。
 それが度重なる道庁の調査に触発されて、大正12年に小樽から「松田鉄蔵の第三寅丸」が廻航し(大正期の資料3に寅丸の記述が見られます)、マガレイを大漁すると、翌年には地元の新造2隻をはじめ、道内各地から底びき網機船が入会し、にわかに活況を見るに至りました。しかし、保存設備が未熟な当時にあっては、鮮魚での出荷には限界があり多くは〆粕とされて、食膳用としては、カマボコに加工される程度でした。

◆保存と流通技術の進歩
 この「第三寅丸」が当地で着業した時には、既に名寄線が開通しており、冷蔵車両(冷蔵車、図6を参照して下さい)もあって、※7のとおり、当初は水揚げしたマガレイの全てを旭川へ出荷していましたが、大正9年には伴田貯氷庫が建設されていて、そのほか川氷などを使った氷蔵が建てられ(表3と4です)、また、昭和5年には松田によって本格的な冷蔵庫が建設されて(※8の設計者は蟹工船のモデルとなった松崎隆一です)、底びき網機船の船主たちは共同出荷のための組合を結成して限りある冷蔵車両を共用し、遠くは東京までへ出荷するようになりましたが、施氷されただけの多くの鮮魚は『うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損と云う有り様』でした。
 このように季節的に一時に大漁されるマガレイの価格は非常に不安定であり、流通過程での痛みを少しでも軽減しようと、マガレイを箱に縦詰めしたり工夫を重ねましたが、紋別では昭和4年頃から「トロ函」を使用するようになり、品質の向上に努めたので、操業は次第に安定するようになります。
 この動力船による漁獲のピークは昭和4・5年頃ですが、その後は漸次減少しても、それでも表2の「昭和11年北海道漁業現勢」によりますと、全道の中で紋別の底びき網漁でのマガレイの漁獲はダントツの1位でした。
 さて、※9にありますとおり、ちょうどその頃の昭和10年には「東京市場(今の築地です)」が新しくなり、この時に市場に国鉄の駅が設けられて、「鮮魚特急」と呼ばれる生鮮品の速達化が図られたのですが、表5のとおり、当地でも戦前には4軒の魚介冷凍工場があり、また、地元では昭和12年から盛んに「焼カレイ」が作られるようになります。

◆小手繰船からの転換、カレイ刺し網漁へ
 のちの戦中戦後の混乱期は、食料の増産の必要もあって、漁業制度が崩壊し、動力船のほか小型船ももっぱら漁獲効率の高い小手繰漁を行ったので、戦後に至って漁業資源は急激に減少してしまい、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなって、これらから特に沿岸漁業での新たな展開が必要となりました。
 そうして昭和33年からは「カレイ刺し網漁」が行われるようになり、これによって漁獲されたカレイが、より丁寧に選別されることになります。

◆まとめ
 ①オヒョウ漁など、紋別のカレイ漁は古くから有名だった。
 ②道庁が紋別海域へ底引き船を誘導し入会させたので、それがいっそうの宣伝となった。
 ③実際、他地域が薄漁の季節でもたくさん獲れた。
 ④当地でのマガレイ漁の勃興期が、流通の発達期と一致した。
 ⑤早くから品質の向上に努めていた。

―このようにして、「もんべつマガレイ」は広く知られるようになったと考えられます。

   
   第168回 もんべつマガレイの歴史    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

資料・図以下、










































































































































































































  

Posted by 釣山 史 at 22:44Comments(0)紋別の歴史

2009年12月13日

昔の紋別港

戦前紋別の漁業と水産加工










































明治 大正 戦前 紋別港 紋別漁港 紋別の漁業 紋別の水産 紋別の水産加工 昔の漁業 昔の水産業 昔の紋別港 戦前の紋別港 戦前の加工場 ホタテ漁業 川崎船 紋別漁協 紋別水産会 昔の紋別の写真






































第164回 昔の紋別の浜     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年12月06日

南極犬・紋別のクマ(改訂)

 南極犬物語り ~もんべつにもいた南極犬 タロとジロ 昭和31年11月に砕氷観測船「宗谷」で出発した第一次隊に参加し、悪天候のため南極の昭和基地に置き去りとなったカラフト犬「タロとジロ」の生存が確認されたのは同34年1月、日本中に大きな感動を与えた。 その後も皆に愛され活躍したジロも昭和35年に南極で、タロが同45年に引退先の北大で死亡し、はく製となったジロの遺体は国立科学博物館にタロは北大に保存され、また、東京タワーには「南極観測で働いたカラフト犬の記念像」がある。 この第一次隊の最初のカラフト犬による犬ゾリ訓練犬38頭のうち、南極観測に参加したのはアカ、アンコ、クロ、比布のクマ、風連のクマ、紋別のクマ、ゴロ、ジャック、シロ、ジロ、シロ子、タロ、テツ、デリー、トム、ペス、ベック、ポチ、札幌のモク、深川のモク、ミネ、リキの22頭。トム、ミネ、札幌のモクは病気や怪我で途中帰還し、タロとジロの兄弟サブロは訓練中の稚内で死亡した。その時の訓練所は遠く樺太を望む今の稚内公園で、園内には「南極観測樺太犬記念碑・樺太犬供養塔」がある。 モンベツのクマと網走での訓練 ときには先導犬もつとめた「モンベツのクマ」はきかん坊で、傷が絶えなかった。赤い右目に黒い左目、そして白い胸毛が特徴で、ほかの犬が疲れたときに力を発揮した、いかにもカラフト犬らしい犬。「風連のクマ」・「比布のクマ」、「深川のモク」とは兄弟で、タロとジロとの伯父にあたる。 稚内市での訓練は有名だが、この網走管内においても、先発隊が昭和31年1月16日に網走湖の女満別側へ入り、雪上飛行機と雪上車の訓練がなされ、続いて同月24日迄に濤沸湖に入った総員28名は、翌25日から2月15日までの間、同湖の網走側に「南極の家」を建設して総合訓練を行ったが、この4日には、砕氷観測船「宗谷」の要員による酷寒の根室を南極と見たてた耐寒訓練が行われていた。 さて、網走での訓練隊がカラフト犬を募集していることを新聞で知り、稚内などで買い求めていると聞いた紋別市の目時一也君(当時12才)と弟の春也君(同10才)は両親と相談し、『自分の愛犬をぜひ連れていってほしい』と犬ゾリ隊の編成に奔走する西堀副隊長へ手紙を書いた。このときモンベツのクマは生後1年1ヶ月のまだ幼犬であったが、毎日ソリを引いては、坂道でもたくさんのお米を軽々と引き上げたそうだ。




















 第162回 南極に行った、目時さんのクマ     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年11月22日

万次郎の子孫、ここにあり(改訂)


去る平成18年8月24日に「湧別町文化センターさざ波」にて劇団四季ファミリー・ミュージカル『ジョン万次郎の夢』が公演され満員好評の幕であった。あらすじは土佐の漁師万次郎が漂流し助けられた捕鯨船で渡米、そこで西欧の知識を吸収して世界の潮流を知った万次郎は、鎖国日本の開国を誓って帰国、万延元年には遣米使節として勝海舟・福沢諭吉らと供に咸臨丸に乗船して再び太平洋を渡るのであった。ところでこのお話し、その後の北海道の開拓に深く関係していることを知る者は少ない。まずは万次郎について、実は湧別町に隣接する紋別市元紋別には万次郎のお孫さんが入殖し、現在もその一族がおられる。その故人は京大と東大を卒業したインテリで、戦前、戦中の難しい時代に奉安殿建設の寄付を拒否し、軍用機の献納にも反対して、また、赤レンガのサイロにロシア文字と云ういわゆる左寄りで、特高に目を付けられ部落会長を免職されたりもした。近所には海軍中将さんの親族がおり(同じく今も一族がおられる)、勿論、仲が良いはずも無く、相主張譲らず、互いに張り紙をし合ったとかしないとか。しかし、中将さんの親族が反産運動へ繋がる産業組合を結成し、中浜さんも加入して牛を飼ったというから面白い。また、幕末の安政4年には、万次郎自身も北方開発のための捕鯨指導として箱館奉行所に逗留したことがあり、そして函館戦争の将・榎本武揚の英語の教師でもあった。続いて咸臨丸のお話し。函館戦争では旧幕軍の軍船として参戦し、維新後の明治2年には開拓使附属の御用船となって、青森・函館間の初めての定期航路として官公物の輸送に当ったが、同4年9月、入殖を目的とした仙台藩片倉家を乗せて台風のため破砕、木古内町のサラキ岬沖合に沈没したのであった。これらについて上演の前後に多少の紹介でも・・・と期待もしたが、知ってか知らずか、その話は無くチョッと残念、地域の文化情報の発信の大切さを改めて認識したのであった。明治33年にジョン万次郎の長男、医師の中浜東一郎の三男として東京に生まれた中浜明さんは、昭和3年に紋別の山奥にある中藻別へ入植しました。昭和7年には産業組合(農協の前身)が組織されたことから、同9年に川下の元紋別へ再転住し、組合に加入して酪農を始めましたが、当時は生乳ではなく、手回しのセパレータでクリームとして酪連工場へ納品しました。戦前は「奉安殿」の建設に反対し、戦後はGHQの命令による、その取り壊しに異議をとなえて、国歌「君が代」にも反対した中浜さん、万次郎じいさんの教えが『官僚にだけは絶対になるな』だったと云う、反骨のヒトです。



 第160回 万次郎の子孫     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年07月02日

先進的な紋別の漁業

◆紋別の漁業と水産加工の概要
 戦前紋別の水産加工場
 紋別市は、以前は定置網や沖合底曳、北洋漁業など、大きな資本を要する大型漁業が盛んであって、それに伴い早くから先進的な加工・流通がなされて来た。反面、沿岸漁業は零細な者が多く、仕込みによる商業資本に支配されながら、ホタテやカニなど、繰り返す好不漁に悩まされていた。
 昭和初期に他を先駆けて「漁業者=漁業に従事する者」との漁民運動が起こり、組合員の整理を断行、このことは現在でも「兼業は禁止」として受け継がれている。
 戦前戦後の紋別水産会においては、有力代議士であった松田鉄蔵と最新の加工技術に熟練し、元水産庁の役人でもあった松田隆一の両人が、当地に与えた影響は非常に大きく、また、後のニチロや大洋漁業となる大手資本が早くから進出したことが、今の紋別水産会の基礎を築いたと云える。
 戦後間もなく、全国初の水産モデル地区に指定され、地元水産3組合が合併して組織の強化が図られ、また、重点的に国からの資金と援助を受けると、次々に最新の施設を整備して、昭和30年代前半までには、全国でも稀に見る近代的な水産都市が形成された。
 その後の200海里規制以降の漁業規制の強化は、遠洋・沖合の大型漁業の衰退をもたらし、資源の急激な減少もあって、かっては凡そ40隻はあった大型船が、今ではたった4隻にまで減少、主に加工とされる「スケソウ」などの多獲魚の水揚げが激減し、それは加工業の業態の変化ともなり、今はロシア産の輸入ガニに頼る加工が盛んとなった(3年連続、カニ輸入日本一)。
 不安定であった沿岸漁業は、その後、「ホタテ、さけ・ます」を中心とした増養殖へと転換し、この増養殖が全水揚げの6割強を示すようになって、また、ホタテ漁やさけ定置網の共業化・共同化もあり、漁業経営は安定して来た。
 しかし、近年、慢性的となったホタテ貝毒の発生による生貝の出荷規制や頻発する大型低気圧が原因の漁業災害は、大きな課題であった。
 このことから紋別漁協では平成5年にトンネルフリーザーを導入し、同15年にはさらに増設、ホタテの冷凍加工による消流の促進を図り、また、平成19年から20年にかけては、時化の影響が少ない、さらに沖合へ新たなホタテ漁場を造成した。
 また、この3月には新市場が完成し、消費者が強く望む「食の安心・安全」に応えた衛生と鮮度が高度に管理される「HACCP」対応型により、漁獲物の競争力のアップを図ったところである。
 クジラを牽引しながら引き揚げるマルハ大洋漁船
 いっぽう近年は沖合漁業も非常に不安定で、大型底曳船による漁獲は、主な仕向けが加工場とあって、地場産業に与える影響は大きいが、何よりその老朽船の更新が進まないのが、大きな課題である。
 さてここでは、北海道を代表する一大水産都市となった我らが故郷について、余り知られていない、或いは忘れ去れてしまった紋別水産界の歴史を、年表から読み解くとする。
 ・ホタテ漁はいつから始まったのか?
 ・もんべつマガレイはいつから有名になったのか?
 ・クジラ漁の始まりとその終焉について、
 ・紋別にいた小説「蟹工船」のモデル、
 ・紋別に起こった漁民解放運動、・・・・・・・・・・etc
.

◆紋別水産界の歴史
 2009年3月6日改訂























































































































 





第133回 紋別の水産業界の歴史  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

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2009年04月16日

鴻之舞金山の発見

◆鴻之舞の真の発見者は?

 住友鴻之舞鉱業所事業案内/昭和10年

 枝幸ウソタンナイとペイチャンに始まったゴールドラッシュは東洋のクロンダイクと呼ばれ、それは紋別八十士の砂金鉱と鴻之舞金山の発見へとつながって行く。



 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル/北海道鐄業誌/大正13年
   

 一般に伝えられるところでは、知識があった今堀喜三郎は上モベツが有望とみて、同士の沖野永蔵に探鉱をゆだね、これが大正3年の六線沢での金鉱の発見となったが、このときは品位が低く操業に至らなかった(のちの三王鉱山)。
 大正4年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金が見られるという話を聞き、友人の羽柴義鎌とで探索を続け、翌5年には地元の地理に詳しい鳴沢弥吉の協力を得て、ついに「元山大露頭」を発見したと云う。


 さて、そもそも沖野へ話をしたのはいったい誰か?

 丸瀬布町史によると、明治27年頃に上川の近文コタンから渡ってきたアイヌ人の「布施イタキレ」は丸瀬布金山や遠軽瀬戸瀬に住したが、探鉱に長じており、金山橋鉱(金湧橋)は彼の発見によるものであった。
 その後、上湧別屯田に世話になっていたとき、ある鉱山師に上モベツの沢で米粒大の砂金が採れると教えたところ、共同でやろうということから案内をしたが、自分を除いた共同経営となり、後に住友へ売山されて、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。


 はてさて、金山の操業までの鉱区の出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か・・・。 


第121回 鴻之舞の本当の発見者    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

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2009年04月10日

新聞に見る鴻之舞の閉山

~鴻之舞鉱業所の閉鎖

 この3月で休刊となった紋別の地元紙・オホーツク新聞(旧紋別新聞)に鴻之舞金山の閉山と鴻小、鴻中の閉校を見る。

























































第120回 鴻之舞の閉山    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年04月02日

渚滑村のりんご

余市からの転住者が多かった渚滑村


 以前は「北限のリンゴ」として名を馳せた上湧別や「呼人リンゴ」として広く知られた網走も、今はわずかに観光農園でしか見られなくなった。
 網走管内での果樹の栽培は、最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗各3、4本を取り寄せたのに始まって、同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
 これらの果樹栽培の奨励では明治24年に網走郡外三郡へリンゴ外450本が下付され、翌25年にもリンゴ200本との記録があり、同20年代には移植が盛んに試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹30本を植えて盛んに苗木の生産と配布を行い、また、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したとも云い、特徴的なものとして網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生であった。
 こうして明治33年には紋別郡でも産出されるようになったが、初期の栽培の中心はもっぱら網走であり、同42年に4万斤・10万円の産額を示して産出量が同43年をピークにブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少したが、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
 「殖民広報第六十一號/明治44年」では渚滑村の木村嘉長について『明治十二年仁木竹吉の團體に加盟し余市郡仁木村に移住し農業及び商業に從事したるも意の如くならす二十六年五月轉して北見國紋別村に至り 中略 結果所有耕地三十町歩に達し小作を入れ苹果を栽培し一箇年數百餘圓の純益を見るに至れり』とあり、また、同書に豊村品藏の『余市及長萬部地方にある同縣人五十戸を糾合して余市團體と名つけ三十年七十餘萬坪の貸付を得て相共に移着し』ともあり、渚滑村へは明治30年代の前半までに、リンゴ栽培の先進地から再転住者が大量に流入した。
 この頃には同じくリンゴの栽培に熱心だった中湧別から種苗業者が渚滑村に入り、リンゴ、ナシ、ウメ、サクランボなどの苗木を商ったといい、植栽した苗が明治30年代末頃から結実するようになると、土地に適合したのか、10年位は世話いらずに量産し、当時としては相当の産額を示すようになって、上湧別町穴田資料に見られるように大正期には渚滑方面にも、ふたつのリンゴ組合が設立されたが、経年の後に病害虫がまん延して、おしくも全滅してしまった。


第118回 もんべつでも栽培していたリンゴ    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年03月06日

紋別にも来たブラキストン

奇才ブラキストンの記録に見るもんべつ


 英国人で元軍人のブラキストンは、多才と云うよりは奇才な人物である。1861年には揚子江を探検して、その記録はロイヤルメダルを受賞した。同年に商社員として来箱すると、1864年には日本最初の蒸気機関による製材所を開設し、さらに翌年、3隻の帆船を使った貿易を始めたが、その一隻は「あきんど(商人)号」と云った。
 維新後の明治6年からは函館と大間を結ぶ津軽海峡の定期航路を運航し、幕末よりあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計なども行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒であった。
 そして後年、彼の名を一躍、世界に知らしめたのは野鳥の研究で、津軽海峡を挟んで、北海道と本州では鳥類や哺乳類の分布が違うという、いわゆるブラキストン・ラインの発見で、面白いところでは、明治13年にスポンサーとなり帆船競争を行ったと云い、これは船の改良を奨励するものだったが、同24年の「北水協会報告第六十七号」に『英人ブラキストン氏考案漁船ノ図』なるものがある。
 また、1861年には日本国内で初めてスケートをしたとされ、後にお役所から「ゲロリやそりで坂をすべってはケガ人が出てあぶないので止めるように」という御触書も出ており、これを記念して12月25日が「スケートの日」だそうだ。
 さて、この間の明治2年には、新政府から前年に難破した英国艦ラトラー号の調査を依頼され、函館を「あきんど号」で出港して浜中に上陸し、そこからオホーツク海岸沿いに北上して宗谷へ至った。
 こうして途中で紋別を通過、彼の記録では当時の紋別場所について、『岩礁が風波を多少防ぐ程度の少し引っ込んだ湾とは言えないくらいのもので、漁場には大きな住宅と役所が1軒づつ、それをアイヌ人の小屋が取り囲んでおり、この時は和船一艘が沖泊めされていた。会所の差配人によると、斜里と紋別の経営は採算が取れないが、他に非常に利益のある標津場所があり、どこか一カ所を放棄すると全てを召し上げられてしまう。』とあり、これは山田寿兵衛の請負によるもので、また、『案内人の若いアイヌ人はヒゲをそり、日本風の髪形をしてカナ文字を書いた』ともある。

 紙幣か証券か、発禁となったブラキストン証券/新撰北海道史/昭和12年







第115回 オホーツクをめぐったブラキストン    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年02月28日

危険だった北洋漁業

「丸高丸」の遭難
~非常に危険だった昔の北洋操業


 その頃の出漁風景
 戦後に日本の遠洋漁業が解禁されたのは昭和27年で、紋別では同30年、31年には北洋カムチャッカ海域のサケ・マス漁業船団の中継基地となり、また、同じく同30年からは「日米水産」と「極洋捕鯨」のタラ延縄漁船の根拠地ともなった。そして旧ソ連のベーリング海域などでの底曳試験操業が開始されたのが昭和32年である。
 この頃の本道では機関故障ほか、毎年、800件前後の海難事故があり、特に昭和30年代の前半には、当紋別が関係する大型事故が連続した。
 当時、弁天町にあった松田水産所属の『丸高丸・177㌧、17人乗り』は、昭和34年3月6日、午後6時30分頃に「カムチャッカ東側南端で操業を終えて港航中」との連絡の後、続いて同日9時頃、漁場より80マイルほど南下した付近で僚船へ『天気すこぶる晴朗で波静か、順調な航行を続けている』との通信を最後に消息を絶った。
 最初は拿捕あるいは故障による漂流とも考えられたが、その後に遺留品などの手がかりも全くないまま、行方不明から四十九日が経ち、4月26日に松田水産常務の松田祐二氏ほかの関係者が報恩寺へ参集して、小笠原俊英船長、高橋亮一漁労長ほか乗組員の合同慰霊祭がしめやかに執り行われた。
 この前月の2月26日には大洋漁業の「第十七明石丸・73㌧、15人乗り、鍋谷精司船長」がカムチャッカ南端のブレスブ沖で沈没したばかり。
 「丸高丸」は前年に進水したばかりの新造の北洋底曳試験船で、皮肉にも前年の2月28日に同じくカムチャッカ沖で遭難したタラ延縄漁船「第十二大黒丸・132㌧、18人乗り、阿部喜一船長」の最後の無線を受けた僚船であり、また、この昭和34年に当地へ巡視船「そらち」が配備されたのであった。


第114回 危険だった北洋操業    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2009年02月26日

ブランドまがれいの背景(再)

 (再々改訂) 第168回オホーツクのカレイ漁の歴史に移転しました。

 「ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的背景を解く」~オホーツク海の底引き網機船とマガレイ漁の歴史です。


 第113回 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

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2009年02月21日

明治・大正の紋別港

衆目を集めたもんべつの桟橋問題
 ~明治・大正の紋別海運事情



 紋別港全景/北見之富源/明治45年
 ◆明治の北海道海運と紋別港

 慶応元年(1865年)にはブラキストンが清国貿易・国内輸送と沿岸の航路を開いて、箱館戦争の際には物資を輸送したと云うが、本道と本州を結ぶ定期航路は明治2年(1869年)に開拓史附属の「咸臨丸」と「昇平丸」が官公物の輸送を行ったのに始まり、同6年には附属「弘明丸」が青函航路の一般輸送を開始した。国鉄の「比羅夫丸」による青函航路の運航は同41年からである。
 補助航路による民間運航は明治12年に開拓史が三菱(後の日本郵船)の青函航路へ補助したのに始まり、同18年には農商務省が日本郵船に対して横浜-函館間、函館-根室間、小樽-宗谷間と国後・択捉・北見地方ほかへの航行を命令し、逓信省は同じく同21年に日本郵船へ補助を開始した。
 この頃には小樽-網走線、函館-網走線などの定期航路のほか、補助によらないその他の不定期船もあり、紋別では明治25年に藤野家が廻漕業を始めて汽船「芳野丸」が運航したほか、「伊吹丸」「玄洋丸」「蛟竜」などが有り、それまでにも日本型船「清松丸」「三寶丸」を年に数回、江差・福山、函館から回航していた。
 昭和19年の紋別町史では、この汽船「芳野丸」の初入港の様子を『最初沖合遠く水平線上を走る船影を見、次いで汽笛を聞いたので、土人等は大いに驚き、ウエンヒラリの海岸に蝟集して男女圓陣を作り、泣くが如く又怒るが如く船影を望み糾號し、又は踊る者もあり、漸次船體に近づき、辨天岬まで移動して心得したか解散した』と伝えている。
 そして北海道庁補助航路の小樽-稚内間の運航が明治33年10月より、稚内-網走間は同34年5月からいづれも日本郵船によって開始され、小樽を起点に増毛、稚内、枝幸、雄武、紋別、湧別、常呂、網走を連絡していた。日本郵船の所有船としては「貫効」「玄武」「青龍」「北見丸」などがある。
 明治26年には時の内務大臣井上馨が北海道を巡視するため、軍艦「浪速」が紋別港に入港したと云い、この時の艦長は、あの東郷平八郎(このとき大佐)、そして同じく日露戦争で活躍する後の海軍大将・加藤寛治がいた。


 紋別港修築計画ノ概要/明治43年?
 ◆紋別港桟橋問題

 紋別本陣前ハ西北ヲ負テ東南ヲ一面ニ受ル、且澗形一切ナシ。弁天社前磯ヨリ東ニ突出、拾二三丁沖迄海底一円ノ暗礁ナリ、土地不案内ノ者可謹可恐トコロナリ。八丁ニ懸リ澗トシ但七尋ナリ、海岸ハ砂カブリ十三丁、沖辺ハ八尋、過日英艦半日程滞碇ト云。秋蘭ノ未可恐難場ナリ 後略/北見州経験誌/松本十郎/明治4年

 築港以前の紋別港は、ここにあるとおりで、今の造船所のあたりには岩礁と浅瀬があり、そこには一本松が建てられて、松印と呼ばれて航行の目印となっていた。
 この頃の紋別港は「港」とは名ばかりで大型船は沖留めされ、明治25年に藤野家が自前船の回航に合わせた廻漕業をはじめ、同27年には高野庄六が開業して、艀船を使った荷捌が行われたが、その船付場までは浅く、危険なうえに物資が波をかぶって海水に浸るなど大きな課題であった。
 明治39年には海軍水路部が沿岸を測量したが、これを契機に港湾修築の機運が高まり、取り分け速成を望む商業界の高野派(高野庄六、飯田嘉吉、岩倉梅吉)は、劇場・東亭において桟橋建設の大演説会を挙行、対して古屋派(古屋憲英)は時期尚早として慎重な対応を求めたが、明治40年12月には大型木材船・第一共栄丸が暴風により沈没したことから、さらに村を2分する一大対立となった。


 ●絞別桟橋問題(架設反対側の意見)
 北見国紋別港にては一昨年時の村長他沢亨氏の主唱にて桟橋架設の議あるに対し古屋氏等之れに反対側の発表せる架設反対理由なるもの左の如し
 一、木造桟橋の流氷抵抗力に対して疑念を有し昨年吾人主張者となり道庁より技術員の派遣を要請し完全なる試験抗の建設を建議したるに理事者の納むる所となり数百金を投して竣成したるに一回の流氷にて主要なる抗木を破砕せられ為めに其設計を変更したるは技術員にも亦耐氷の信念無きを証するを得べし是其一成
 一、工事費に付いては最初理事者の説明に依れば内務省所管地方低資金の貸付を受くるものにして年率は年利三朱内外のものを使用し 中略 今日に至りては低利資金と関係なきものとして某会社より年利一割の資金を得て事業を遂行せんとすと即ち全工費一万六千円及雑費を一千円として五千円の補助金を扣除するも村債一万二千円の利子に対し年収を以て充つるも尚二百円の不足を生ずるに非らずや況んや年々の修繕費及管理費を要するに於ておや元金償却の如き百年河清を俟つに異なる所なし是其二也
 一、前略 前説と異なり破壊せられたる場合は使用料徴収不可能なりと言明せり然らば一両年にして破壊せんか全部村税の負担に依らざる可らず是三也
 一、前略 漁業は唯一の生産力にして之れか豊凶は直接村経済を左右す人或は曰わん紋別港農産物輸出は年々五十万円に達するにあらずやと然も該農産物の全部は殆んど隣村渚滑村或は湧別村の算出に非ずや是隣人の資を算るものなり而るに比年海に豊漁なく村民の疫弊今日より甚しきはなし当村一ケ年全般の歳出入八千円内外ならうに昨秋村長更迭に際し後任者に対し滞納村税五千余円を引継ぎたりと聞く 中略 村財政の窮迫推するに難からず此際危険なる本工事の如きは累を百年に胎すものと謂わさるべからず之其四也
 以上列挙したる理由に依り吾人は反対の意を表するものにして感情により村の平和を□るものなりとの言者為にする所ある誣罔の言にして名を一村平和の美名に借り言論を抑圧せんと欲する耳然て吾人も干潮時荷役の不便を除去することに対し研究を怠るものにあらんや我紋別港には一部弁天岬に接し天恵の湾形を有し四囲暗礁に包まれ僅かに中央部少許の切れ間を有し干潮時に於ても優に水深捨尺を保つ処あり是れ多少加工せば四時安全なるを得而して工費は僅かに五分の一を以て足るべし技術家の調査を望む止まさる所にして屡々之れか提言を理事者及議員に試みたるも既に議決したるものにして自己等の体面に関すと放言して耳を傾くるものなし村政の枢機に参する者にして偏見斯くの如し豈に村民に忠実なりと云うを得んや村政の前途転た憂慮に堪えさる也(下畧)/北海タイムス/大正2年


 この対立は大よそ5年間にも及び、この間の明治40年と同43年には道庁が調査に入るなど、機が熟したと見た時の池沢亨村長は、同44年に村会へ桟橋架設を提案したが村会は鋭く対立、収拾如何ともしがたい状況に陥り、池沢村長は更迭されて湧別村へ転出してしまった。
 これについては翌年には村会へ再び上程されて、今回は採択を見たものの、結局、予算措置が出来ないままに桟橋問題はお流れとなり、のちに避難港としての修築運動へと変わったが、港湾計画は網走との激しい争奪合戦となり、網走管内のみならず全道から衆目を集めるところとなった。
 そうして網走との争奪戦に敗れた後の大正8年には、今度は住民が一致した「紋別築港期成会」の結成となり、漁港の築港へと変更されて、また、前後数度の測量調査と大正10年には試験工事により突堤が建設されたことなどもあって、同11年にはようやく道庁(当時は国)の予算化となり、翌年から工事が開始されて、昭和6年にとうとう完成に至った。

 築港中の紋別港/北海道大観/大正15年


第111回 初期の紋別港建設    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/









  

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2008年08月07日

もんべつのカレイ

紋別のカレイ(校正)  

○動力船の導入とカレイ
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させて、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航し、動力船での漁が急増したが、この時はマガレイが大量に漁獲された。
 当初、松田は川氷を使って施氷していたが、大正14年に氷池をはじめ、昭和4年には道内でも数番目という冷蔵庫を建設して、大きいものは道内外に鮮魚として発送し、小さいカレイは蒲鉾にした。また、「焼きガレイ」の加工を目的とし、昭和13年には「紋別加工組合」が発足した。
 後にマガレイがオホーツク海を中心として全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わって、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このように古くから大量に「もんべつマガレイ」は流通し、これらによって広く知られるようになったと思われる。
 以上のように「紋別マガレイ」は有名となって都市部の消費地では高値で取引されようになったが、実際に紋別ではヒレグロが一番多く漁獲され、平成17年で781㌧と全道の30%を占め、次にアカガレイが246㌧、マガレイ161㌧とつづいて全種・総量で1,462㌧が水揚げされて、これは網走管内の45%にも及ぶ。ヒレグロとアカガレイは冬がおいしく主に底びき網と刺し網で漁獲され、マガレイは春は水っぽく、おいしいのは秋以降で、底建網と刺し網により漁獲される。
 マガレイは大きく分けると道北の日本海で産卵し、そのまま成長するものと、オホーツク海へ回遊して成長し、また、日本海へもどる2群があるが、比率の高かったオホーツク海育ちは年々減少傾向にあるようだ。

○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年には沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


第73回もんべつマガレイ(再)

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2008年07月31日

もんべつのサケ・マス

~紋別の鮭鱒漁業の歴史

 サケ・マス漁では古くから干物や塩蔵が行われたが、昔は塩の確保が難しく、大漁のときには加工できずに漁を中止した。筋子の生産は明治5年に見られ、同27年からは高野漁場で燻製がつくられた。
 明治18年にオホーツク沿岸で最初の漁協となる「紋別鮭漁業組合」が発足し、同25年に渚滑川へ監守を置いた。ふ化事業は昭和13年に人工ふ化場を藻別川に開設したが2年で閉鎖となり、現在の下渚滑への設置は同25年である。このようにサケ・マスは早くから資源管理がなされて来た。
 戦後に至って昭和30年からは紋別が北洋サケ・マスの中継基地となったが、後に漁業規制が強化され、同63年に母船式漁が終結し、平成5年には公海上が全て禁漁となった。
 現在では沿岸での「さけ定置網漁業」と「ます小型定置網漁業」が行なわれて、普通のサケはシロザケのことを云い、概ね4年で回帰して、メジカやケイジは珍重され、また、カラフトマスは2年性で「オホーツクサーモン」のブランド名で知られている。

                                              大正12年に大西真平組合長の紋別鮭鱒養殖水産組合が設置した湧別川の捕獲場とふ化場/昭和9年頃
 

第70回紋別のサケ・マス漁とその加工
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