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2017年11月16日

アイヌ民族文化祭 in 旭川 



第30回 アイヌ民族文化祭に参加して この十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、アイヌ民族の自然観、精神世界の理解を深めてもらい、また、アイヌ民族が先住民であるとの認識を高めて、それで多文化共生社会の実現となることを望む。』との挨拶に始まった。アイヌ古式舞踏では、「旭川チカップニアイヌ民族文化保存会」の多くの若手らが、動植物を表したチカプウポポ(鶴の舞)や激しさの余りに心臓破りの踊りと云われるフッタレチュイ(トドマツの踊り)などを披露した。「阿寒アイヌ民族文化保存会」は、今回は小中学生を中心に構成され、チロンヌップリムセ(キツネの踊り)が可愛らしく、クリムセ(弓の舞)は、とっても勇ましいものだった。〝旭川〟と〝阿寒〟の違った鶴の舞が観覧でき、お得気分に浸りながらアイヌ文化が確実に若者たちへ引き継がれて行くことを確信したのだった。続いて国立アイヌ民族博物館設立準備室の内田祐一氏(元帯広百年記念館副館長)による講演「アイヌ文化のなかの自然観」では、自然=カムイ、アイヌモシリとカムイモシリについてのアイヌ民族の自然観が、キタキツネやシマフクロウを題材に語られ、同じカラスでも〝ハシボソガラス〟は賢くエライ神であり、〝ハシブトガラス〟は、ろくでもないものという話に興味を引かれた。そうして二人組みの男性ボーカル・HEAT VOICEと阿寒コタンの若者たちによるトーカリップ(マリモ)体操が会場を盛り上げ、最後にポロ リムセ(輪踊り)が、感動的にフィナーレを飾った。こうして楽しくとても有意義な一日を過ごしたのであった。 フィナーレ みんなで大きな輪をつくって踊りましょう
第432号 アイヌ民族文化祭 in 旭川         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 19:00Comments(0)郷土の語り

2017年10月29日

もんべつ沖揚音頭(再)

・昭和23(1948)年   有志による団体がなる。
・昭和38(1963)年   第1回もんべつ流氷まつりで公演。
・昭和47(1972)年   正式に保存会を結成する。
・昭和47(1972)年   市民会館のこけら落としで公演。
・昭和47(1972)年   紋別市補助団体となる。
・昭和59(1984)年   第7回道民芸術郷土芸能際に参加。
~以来、記念行事や流氷まつりで公演。
・平成20(2008)年   作曲家・寺嶋陸也がほぼ原曲どおりに作曲、翌年CD化。
 毎年、公演している「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史がある北海道の冬まつりであり、歴史的地域資産を活用した地域振興である。






◆北海道文化財保護功労者表彰
①目 的
 北海道内の文化財(未指定を含む)について、その保存・保護及び保護思想の普及に関する実践功労を顕彰し、文化財保護の普及に資することを目的とする。
②表 彰
 北海道内の文化財の保護及び保護思想の普及に関し、多年にわたり実践功労のあった者又は団体に文化財保護功労賞を贈り表彰する。
③紋別関連の受賞
・昭和41年 第2回   池澤憲一
・昭和45年 第6回   村瀬真治
・昭和47年 第8回   五十嵐文伍
・昭和59年 第20回  紋別郷土史研究会
・平成26年 第50回  上藻別駅逓保存会
・平成29年 第53回  紋別沖揚音頭保存会
◆推薦者
 山田雅也=紋別市役所、北海道文化財保護協会員(前理事)、北海道史研究協議会員(幹事)、北海道北方博物館交流協会員、北海道産業考古学会員、産業考古学会員(全国)、日本民俗建築学会員ほか。専門は地域史と産業史、北海道の殖産、拓地殖民の歴史に詳しい。
 紋別の水産界では、この数年、災害、不漁と負の話題が多い中、ここで明るい話題をと思い推薦した。保存会の構成員である漁協女性部が本年で60周年、お披露目となる来年(流氷祭り)には、漁協本体が70周年を迎える。

平成二十九年度 北海道文化財保護功労者 郷土芸能紋別沖揚音頭保存会 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われた鮭、鱒、鰊であり、幕末頃に大きな漁獲を可能にする「鰊建網」が開発されると漁労は大型化し、こうして多くの漁夫が必要になった。沖揚音頭は、鰊漁の水揚げから網起こし、汲み出しほか、共同作業の拍子を合せる掛け声唄で、各地の漁場に自然発生した。しかし、昭和三十(一九五五)年頃、全道的に大きな群来が見られなくなり、鰊漁の衰退とともに沖揚音頭も忘れ去られて行く。江差沖揚音頭(道指定無形民俗文化財)、松前沖揚音頭(町指定無形民俗文化財)、神恵内沖揚音頭、浜益沖揚げ音頭などが知られ、ソーラン節もそのひとつである。早くからホタテ貝が名産である紋別市も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)に紋別番屋が置かれて、昭和二十七(一九五二)年を最後に鰊が群来らなくなるまでは、鰊漁が漁業の太宗にあった。この「紋別沖揚音頭」は、〝今野芳太郎″が道南の鰊場から昭和十三(一九三八)年に移り住んで来て歌われるようになったと伝わる。昭和二十三(一九四八)年に今野芳太郎の呼びかけで有志(加藤與志雄、村山喜一郎、畠山寿男、畠山徳一、菅谷武、山田伊佐雄、山田一太郎ほか)らが募り、はじめは民謡愛好的な集団であったらしい。昭和三十五(一九六〇)年に北見で、同三十七(一九六二)年には札幌で披露され、以来、各種の行事で催されるようになった。〝もんべつ流氷まつり″では、昭和三十八(一九六三)年の第一回から継続して演じられている。昭和四十四(一九六九)年は、船などを製作して衣装も新調し、現在の形となって、この頃は自費に寄付金を当てていた。昭和四十七(一九七二)年には、会長・天野一郎、副会長・今野芳太郎として正式な「紋別沖揚音頭保存会」が発足し、市民会館の〝こけら落とし″で公演した。これから会費を徴収して、紋別市補助団体となった。〝オーシコ″の掛け声のもと、出漁、操業、帰港までの漁労を表現している。こうして市内の各種行事で披露されていたが、経年のうちに会員減少から存続が難しくなり、次世代に継承すべく、昭和五十二(一九七七)年に紋別漁業協同組合、漁協婦人部(現女性部)と漁協青年部が加わって再編され、現在に至っている(初代会長に漁協組合長・野村秀男、副会長に保存会・今野芳太郎、漁協青年部長・山田徹夫、漁協婦人部長・能戸トク)。作曲家の寺嶋陸也は、平成二十(二〇〇八)年に「紋別沖揚音頭」をほぼそのままに、合唱組曲『男声合唱のためのオホーツク・スケッチ』を作曲してCD化した。漁場へ行く『舟漕ぎ音頭』、網揚げの『網起し音頭』、汲み出しの『沖揚げ音頭』、網に付いた魚卵を落とす『いやさか音頭』の4曲からなる。 -評価- ○この沖揚音頭は、戦前から長く伝わるもので、漁業者団体自らが保存実演していること。○道東・オホーツク沿岸において、他に沖揚音頭は継承されていないこと(枝幸町に伝承されていたが、現在、活動は休止している)。○「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史があり、毎年、そこで披露されて、このように定期的に公演される例は少ないこと。これらから、非常に貴重なものである。

第430号 文化財保護功労賞・紋別沖揚音頭保存会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月21日

紋別の歴史巡り 3・4/13





(c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年11月2日 大正10年の意見書原本 大正11年の意見書原本 アジア歴史資料センター蔵 請願書副本 滝上町郷土館蔵 ○渚滑線の敷設運動 はじめ大正2(1913)年に地元の有力者であった岩田道議が、宗谷線の士別へぬける路線を提唱、つづいて同5(1916)年に上興部から滝上を経て渚滑に至る路線の開通をめざして「縦貫鉄道期成会」を結成した。滝上から分岐して上川・旭川へ繋ぐ案もあった。そうして滝上全村をあげた鉄道院総裁への請願を経て、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通した。 これで橋や畑に被害をもたらしていた渚滑川の木材流送は廃止され、木材のき損や品質低下は軽減されて、関東大震災後の復興事業で木材業が活況し、また、農産物やでんぷんの生産など、原野奥地の開発は目覚しく発展した。 こども用 元西駅名板と十六号線駅名板 〇黄色い駅接近標 渚滑元西と中渚滑16線には、ひっそりと駅名板が立っています。黄色に黒文字の看板は、正式には「駅接近標」と云い、運転士へ駅が近づいていることを知らせるものです。名寄本線と渚滑線の遺物が少ないなかで、貴重な鉄道遺産です。 ○渚滑線の開設運動 宗谷線の名寄から紋別を経由して北見方面と結ぶ名寄線の敷設が決まると、新たに士別からサクルーを通って渚滑原野を横断する路線の要望が上がり、また、滝上から上川を通って旭川までをつなぐ案もありました(新旭川駅をへて上川までを結ぶ路線をルベシベ線と云い、写真の碑は中越信号所にあります)。 滝上では住民みんなが署名して新路線を要請しましたが、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通しました。その頃ちょうど関東大震災があり、復興に木材が必要とされ、滝上では木材業が景気づき、また、農産物やでんぷん生産など、滝上原野の開発が進みました。昭和11(1936)年から34(1959)年までは、さらに奥地を森林鉄道が走っていました。 渚滑線開通記念絵はがき 筆者蔵 奥東駅の駅接近標 JR北海道オレンジカート 筆者蔵 石北線全通の記念碑
第429号 旧渚滑線の駅接近標      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月12日

紋別の歴史巡り 2/13



(b)渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の薪が欠けてしまい、当時の教頭の立腹は相当なものであったと云う。渚滑小学校と同じものが、広尾町の豊似小学校と芦別市旧野花南小学校にある。近くには天皇・皇后両陛下の「御真影(御写真)」を保管した「奉安殿」も残る。 ○二宮尊徳の教え 本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を模範とする「報徳仕法」も、「戊申詔書」が示されると国家のための国民道徳の強化に用いられるようになった。戦時中は国家主義のイデオロギーとして利用され、昭和15(1940)年の「皇紀二千六百年」を記念する立像の建立が各地に見られた。 ○金属類の供出と応召 戦争が長期化すると金属類が不足して昭和13(1938)年から金属類の「供出」が始まり、同16(1941)年には「金属類回収令」が発せられた。銅像などは「応召」の憂き目に合い、そうして湯たんぽや蛇口、ガスコンロ、水筒、栓抜き、缶詰などが次第に金属製から陶器へと代わって行った。各地に陶製の尊徳像が多く残る所以である。 ○薪を背負った姿の由来 薪を背負う二宮尊徳(金次郎)のイメージは、尊徳の高弟で娘婿となった富田高慶の「報徳記」にあり、明治24(1891)年に幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」の口絵に始まる。明治37(1904)年から修身の国定教科書に掲載され、同44(1911)年には柴刈り、草鞋づくりに励み、手習、読書を学ぶ「二宮金次郎」が文部省唱歌となった。明治43(1910)年に製作されて常に明治天皇の御座所にあったお気に入りの尊徳像も、背中に薪を背負っている。 渚滑小学校の二宮尊徳像 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 こども用 渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 ○二宮尊徳(金次郎)とは 江戸時代の終わり頃に活躍し、「金次郎」として知られます。小田原の裕福な農家に生まれましたが、天災で田畑が荒れ、苦労がたたって両親が早くに亡くなります。金次郎は親類に預けられ、少しを惜しんで一生懸命に働き、空地に種をまき、苗を植えて、勤勉実直、倹約し、『小を積んで大となす』を実践しました。そうして苦難を乗り越えて生家を再建します。 あちこちから経営の再建を頼まれるようになり、武士となり、災害復興や飢饉救済に努め、晩年幕府の役人となって村づくりにいっそう励みました。この教えを「報徳仕法」と云い、質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱え、薪を運びながら勉強する姿は教科書や唱歌となりました。この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘の婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語がたりを書いて、このときのイラストに始まったと云われます。 〇渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 渚滑小学校の「二宮尊徳像」は、昭和12年に寄贈された備前焼で、とても有名な窯元で焼かれたものです。同じところで焼かれたものが、広尾町の豊似小学校と芦別市の旧野花南小学校にあります。 渚滑小学校と同じところで作られたもの 芦別市の野花南小学校 広尾町の豊似小学校 九谷焼 筆者蔵 青銅製 筆者蔵

第428号 二宮尊徳のこと      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月06日

紋別の歴史巡り 1/13



(a)顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 「聖徳太子」は、廃仏派を倒して内乱を鎮めると仏教の興隆に努めて衆生救済に当った。また、三経義疏と呼ばれる経文の解説書を著して自らも講説した。聖徳太子は、救世観音の化身とされ、仏法の教主・法王である。また、百済から高度な建設技術を持つ大工を招いて、四天王寺や法隆寺を建立し、建築・土木を興した聖徳太子は、建築・土木の神とされ、仏師を保護し、工芸美術を振興したので、こうして技能諸職の神となった。聖徳太子に信心し、奉賛する集まりを「太子講」と云う。 ○紋別聖徳太子講 明治41(1908)年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、「孝養太子像」が厨子に奉安されている。毎年9月に建設関係者らが本祭を行い、御守護札を交付する。昔は、夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。 ○240年前の掛軸 この聖徳太子摂政図には、『天明元歳(1781年)奉開眼聖徳太子』とある。静岡県袋井市の真言宗篠ヶ谷山岩松寺から伝わるもので、岩松寺では、大工の棟梁に免許皆伝の秘伝書を与え、太子講の絵賛(掛軸)を発行した。遠江・三河だけではなく、家康に従い下った徳川番匠とも云える江戸大工とも関係が深かった。 ○一万円札の肖像 昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子の紙幣は、55年間に渡って国内の最高額紙幣であった。昭和33(1958)年に登場の一万円札は、大きなインパクトがあり、以来、日本の高度成長時代のお金と富の象徴であった。しかし、昭和59(1984)年に肖像が福沢諭吉に代わり、間もなくやって来たバブル期の象徴は諭吉で、そのバブルが崩壊し、長い不況が続いて聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われた。聖徳太子の肖像も、若い世代には馴染みの薄いものになってしまった。 聖徳太子摂政図(絵讃) 孝養(きょうよう)太子像 最初の一万円札 日銀HPから こども用 顕正寺の古い掛軸~紋別聖徳太子講 ○聖徳太子とは 名前は「廐戸皇子」と云い、推古天皇の摂政となって、それまでの有力な豪族たちの争いをやめさせ、仏教を通じた平和な国づくりのなかで、天皇が中心の強い国を目指しました。「冠位十二階」を設けて有能な人を役人に採用し、「十七条の憲法」を定めて国を治める心構えを説きました。また、隋に使節を派遣し、百済などと交流を深めて、進んだ大陸の制度や技術を積極的に取り入れました。 皇子は、仏教を深く信仰し、広めることに努めて「和国の教主・法王」と呼ばれ、人民の救済に当たったので、救世観音の化身とされます。大きなお寺を幾つも建て、道を開き灌漑用水を引いて建築と土木の基礎を作り上げて、建築や土木で働く人たちの神様と云われるようになりました。 のちにその徳と業績を偲んで「聖徳太子」と呼び、そうして聖徳太子を信仰し、奉賛する集まりを「太子講」と云います。紋別の「太子講」は百年を越え、また、約240年前の古い掛軸が伝わっています。 ○最初の一万円札 奈良県桜井市には、聖徳太子が日本で最初に開いた市場という「三輪の市」が商売繁盛の三輪恵比寿神社となって伝わっています。 さて、最初の一万円札の肖像は聖徳太子で、ふるく昭和5(1930)年の百円札に始まった肖像が聖徳太子のお札は、このときから55年間に渡って日本で一番高額なお札でした。それが昭和59(1984)年に福沢諭吉の肖像に代わり、間もなくやって来たバブル崩壊の長い不況もあって、聖徳太子の商売繁盛のイメージは失われてしまいました。 お札のモデル 聖徳太子二王子図 聖徳太子御伝 1923年刊
第427号 聖徳太子講    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年09月15日

滝上町の教育勅語謄本

      滝上町の郷土館に残る本物の教育勅語謄本、奉安棚もあるそうな。



第425号 教育勅語謄本     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 21:26Comments(0)郷土の語りお年寄りへ

2017年09月10日

2017年09月03日

手本は二宮金次郎


文部省唱歌「二宮金次郎」 柴刈り繩なひ草鞋(わらぢ)をつくり、親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 九谷焼、青銅製 二宮金次郎(尊徳)のこと この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語を書いて、このときのイラストに始まったと云われます。金次郎の孫の「二宮尊親」は、福島県下の困窮民の活路を新天地の北海道に求めようと明治29年に北海道各地を視察・探検し、開墾地を十勝の牛首別原野(現豊頃町)に選定しました。翌年には自ら15戸を率いて入殖し、10年後には、移住戸数160戸958人、開墾地844町歩の一大農場を形成しました。

第423号 二宮金次郎(尊徳)のこと     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 04:16Comments(0)郷土の語りお年寄りへ

2017年08月13日

月形町の神社にあった最古級の奉安殿


 月形小学校の火災で類焼し、遷座した樺戸神社へ移設されていた奉安殿は、その神社の再遷座で失われたのである。
開校百周年記念誌より 小学校へ積極的に御真影が下賜され始めたばかりの明治28年5月(1895年)、北海道樺戸郡の月形小学校(月形町)が出火し、御真影と教育勅語を焼失したことは大きな驚きであった。北海道内で初めてのことかもしれない。 同校は、同30年(1897年)に再建された際に煉瓦造の独立棟を建設、同年、松前郡吉岡小学校(福島町)も煉瓦造を建設した。こうして、あちこちで煉瓦造の奉安殿が建築されるようになり、独立棟の建築は、むしろ本州よりも北海道が積極的であった。 道内で最古かと思われる月形小学校の奉安殿は、戦後も樺戸神社に移設されて残されていたが、昭和45年の須部都川築堤工事に伴い移転となり、やむなく取り壊されたことは、惜しむべきである。残念。
第422号 北海道で最古の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:50Comments(0)郷土の語り

2017年08月05日

北海道の捕鯨業の嚆矢


明治33年の留萌捕鯨場の景 北海道の捕鯨業の嚆矢、伊藤一隆が関係した大日本帝国水産会社のこと。石川県士族の斉藤知一が、明治17年に胆振国の室蘭・有珠の両郡、翌18年は後志国岩内郡で捕鯨を試みたが、鯨を恵比寿神と信奉する地元漁民の妨害に合い、同20年に天塩国羽幌へ転じた。明治21年には、国策によって設立された大日本帝国水産会社(のち帝国水産会社)が、根室・千島沿海でラッコ・オットセイ猟、捕鯨を試み、のち石狩国での許可を得て、また、羽幌での斉藤の事業を引き継いだ。こうして北海道内でも本格的な捕鯨が見られることになった。
第421号 北海道の捕鯨業の嚆矢     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 13:39Comments(0)郷土の語り

2017年07月26日

寄鯨伝説と近年の漂着例


紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。知床ウトロの伝説に云う。昔、岩島に住むオロッコ人が、通りかかるアイヌ人に上から投石してホトホト困っていた。岩島高くにいるオロッコ人は手強く、そこでアイヌ方は一計を案じ、夜中に海草でクジラの形を作り、魚を置いた。朝になって群がる鳥を見たオロッコ人たちは、岸に鯨が寄ったと思い、喜び勇んで岩島から下り、駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻め、こうしてオロッコ人は全滅してしまった。同様の話しが枝幸、浦幌ほかにあり、“寄り鯨”に関係する伝説は、全道のあちこちに散見される。鯨は貴重な資源であった。当地にも、紋別空港を横切ってオホーツク海に注ぐ小河川にフンベ(鯨)オマ(居る)ナイ(川)という寄り鯨の川がある(図2)。近年、クジラの漂着が増加していると感じるが、生息数増の兆しなのか?
第420号 寄鯨伝説と近年の漂着例     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:40Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2017年07月26日

集落名に見る母村

~北海道号線の由来

集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度で、これにより土地の正確な位置や面積が簡単に分かるようになった。アメリカやカナダでは、開拓時代の18世紀後半から19世紀前半にかけて各州ごとに東西南北に基準線を設け、実際の土地測量に基づいた碁盤目状の土地割を行い、それを細分して入殖者に与えるタウンシップ制を取った。さて、北海道の開拓使時代の屯田兵や移民募集への直接保護政策は北海道庁の設置を見てからは誘導保護へと転換され、明治19年には殖民地選定事業が始まり、明治22年からは区画測設によって殖民地区画図を調製した。こうして北米のタウンシップ制に倣い、殖民地ごとに基線を定めてそれに並行する2線、3線…、基線に直行する号線、2号、3号…を設けて、入殖者1戸に基本5町が与えられた。旧開地や網走、紋別など早くから漁業開発が進んだ沿岸地域を除いて、新開地の本格的な開拓が始まったのは、明治30年に北海道国有未開地処分法が定められ、大地籍地の処分が積極的に行われるようになってからで、本州の各地から団体移住者が入殖するようになる。全くの原野を切り開いた内陸地においては、村を立てるにあたって殖民地の区画測設がなされ、まずは官公所や学校地、神社地などが区割りされ、例えば神官なども公募された。新たな集落では、常呂町土佐や訓子府町秋田、釧路市鳥取などのように出身地名が引き継がれ、佐呂間町栃木は、あの足尾鉱毒事件の被害者たちが入殖した土地である。そうして芦別市や沼田町などは、富山県の門徒衆が多く入ったので聖徳太子講が持ち込まれ、越中獅子舞が残っており、また、岩見沢市栗沢町には、郷里の越中礪波郡から分祀された礪波神社がある。また、紋別市の漁民の間では、庄内由来の龍王講が信奉されて120年を越えると云う。 佐呂間町栃木団体の記念碑
第419号 北海道の開拓号線     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:17Comments(0)郷土の語り

2017年07月24日

マルキ号製パンの跡 2


マルキ号製パン 水谷農場の跡を追った 西足寄の農場は、秘湯・芽登温泉のさらに奥地の高原にあった。現・足寄町旭ヶ丘。 遠隔地のうえに起伏が大きい低温地帯で、当然、失敗に終わった。 水谷政次郎が生涯を終えた小清水町の泉地区、今でも一族が暮らす。 きれいに区画された雄大な小麦畑に水谷橋はある。
第418号 マルキ号製パン、水谷農場     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:39Comments(0)郷土の語り

2017年07月20日

青函連絡船概史


青函連絡船概史 青函の定期航路は、文久元年8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復した。維新後は、旧幕軍の軍艦咸臨丸が、開拓使付属船となって青函航路の輸送に当り、他に幕府から引き継がれた船に薩摩藩から献上された洋式軍艦昌平丸がある。開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有し、明治6年には、スクーナー型の木造船弘明丸が、函館~青森、函館~大湊の定期航路を始めて、後に森・室蘭へと延長された。ほかの著名船には、玄武丸(黒田丸)や矯龍丸(ケプロン丸)などがある。○青函連絡船の始まり/国鉄による青函連絡船は、明治41年3月7日の比羅夫丸の就航に始まり、日本郵船で7時間はかかったものが4時間台になった。○車両航送が始まる/北海道の開発が進むと青函航路の増強が望まれ、大正3年に艀船「車運丸」による航走が始まって、同14年8月1日から貨車を直積み出来るようになった。○空襲で全滅/昭和20年7月14日に「翔鳳丸」「飛鸞丸」ほかが、翌日にも「第一青函丸」が、8月10日は代替船「亜庭丸」が米軍機に撃沈され、全13隻が炎上または沈没して全滅した。○洞爺丸台風/戦後復興の象徴として“海峡の女王”とも呼ばれ、昭和天皇の御召船にもなった「洞爺丸」であったが、昭和29年9月26日の台風15号で漂流・転覆、国内最大級の海難事故となった。○青函連絡船の終焉/貨物は昭和46年に旅客が同48年をピークに減少し、同63年に青函トンネルが供用を開始すると3月13日の運行を最後に青函連絡船は廃止された。最終便は、函館側が羊蹄丸、青森が八甲田丸だった。 比羅夫丸 田村丸 開航記念絵葉書 この時に工マークが定められた。 稚泊・青函の両航路を走った亜庭丸 転覆した洞爺丸
第415号 青函連絡船の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2017年07月18日

草鹿農場と軌道跡



第414号 鴻紋軌道跡と草鹿邸     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月17日

マルキ号製パンの跡・補追

マルキ号製パン、水谷政次郎のこと。



第412号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 05:15Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2017年07月16日

マルキ号製パンの跡 1


東洋一のマルキ号パン、パン王・水谷政次郎が作り上げた遠軽町丸瀬布のマルキ通りと水谷町。パン王・水谷政次郎の発願による遠軽町丸瀬布の弘政寺と四国八十八カ所。水谷橋。海軍と関係が深かったマルキ号製パンの小麦農場があった紋別市沼の上の水谷集落。近くは水陸飛行場予定地だった、らしい・・・。
第411号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 10:58Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2017年07月04日

知床三堂例大祭


知床三堂祭 6月25日に斜里町の知床三堂祭に参加した。法隆寺の大野管長、京都仏教会の有馬理事長ほか、お歴々を拝顔し、有りがたい読経と説法にあずかった。地元を愛する佐野博さんと故・立松和平さんとの友情に始まった三堂祭、日本の伝統文化に基いた地域づくり、地方発信の典型例である。豪雨、超低温のなか、四百名は超える参加があった。7/17に日経系TVで放映される。 北海道文化遺産活用活性化実行委員会聖徳太子講調査班(北海道文化財保護協会)
第410号 北海道文化財保護協会の太子講調査追補     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 20:32Comments(0)北海道の文化郷土の語り

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 1/3 『鴻之舞』は、アイヌ語の(ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処)に将来の発展を祈念し、(鳥王コウノトリが舞うが如し)と、発見者らによって名付けられた。本年は、大正六年に住友鴻之舞鉱業所が開所して百周年にあたり、紋別市ではさまざまなイベントが予定されている。さて、ここでは鉱業所の開所までの前史について述べる。○鴻之舞の出願競争 さて、大正六年に買山し、後に住友財閥の大躍進を呼んだ東洋一の大金山は、同三年に上藻別六線沢で鉱床が発見され、翌年、元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正五年には元山大露頭が発見され、飯田嘉吉を組合長として操業を開始したのであるが、そこにはまるで小説まがいの鉱区出願競争があった。沖野永蔵と羽柴義鎌は、大正五年三月十三日に試掘許可を得た。これまで秘密裏に運んでいたのだが、沖野が不在中、万事に派手好きな羽柴が一席やってしまった。しかし、招待者は、気もそぞろに緊迫し、祝宴半ばに解散となった。先年には、八十士砂金騒動と呼ばれる騒乱を起こした面々である。さて、飯田組は、翌早朝、最寄りの社名淵駅(遠軽)まで馬車を馳せ、その日は野付牛(北見)に泊まり、翌朝に札幌へ向った。一方、古屋組も早々に札幌へ走ったが、途中、野付牛の駅頭で双方がばったり、互いに相手方の素早さに驚きながら、そ知らぬ顔で汽車に乗った。結局、金にものを言わせた飯田組が主だった鉱業代書人を買収して、相手方の動きを封じ、先手を打って沖野組鉱区の包囲出願に成功したと云う。 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル 北海道鐄業誌/大正13年 現在の上藻別六線沢 元山大露頭跡
第409号 住友鴻之舞鉱業所100周年 1     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 2/3 ○紋別のゴールドラッシュ 枝幸に始まった東洋のクロンダイクは、紋別の八十士や鴻之舞、沼の上と相次ぐ金鉱の発見へ繋がった。八十士砂金鉱/枝幸砂金を採り尽くして四散した山師のひとりが、手で掬えるだけの砂金に出くわしたのは、明治三八年の師走で、尾行までした出願採鉱の争いでは、紋別組と山形組(山形勇三郎)が鋭く対立、これに湧別組が加わった。この騒動では逮捕者を出し、鉱山監督署が介入して共同経営に落ち着いて、大正八年には住友へ売山された。鴻之舞金山/一般に伝わる発見の端緒は、知識があった今堀喜三郎が上藻別を有望とみて沖野に探鉱を委ね、大正三年の六線沢の金鉱発見となったが、このときは低品位で事業化しなかった。同四年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金があると聞き、羽柴と探鉱を続け、翌五年には地理に明るい鳴沢弥吉の協力を求めて、ついに「元山大露頭」を発見した。さて、そもそも沖野へ話したのは、いったい誰か? 丸瀬布町史によると、明治二七年頃に上川近文コタンから渡ってきたアイヌ人の布施イタキレが、ある鉱山師に上藻別の沢で米粒大の砂金が採れると話したところ、共同しようと云われて案内したが、自分を除いた共同経営となり、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。はてさて、操業までの出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か…。沼の上金山/新たな金鉱発見に沸くなか、燐寸用材を伐採する黒川ほか六名が、有望な転石を発見したのが大正五年三月である。翌年には今掘と飯田を加えて試掘の許可を得たが、鴻之舞を知る今掘らは見劣りを感じ、後の大漁を逃がす結果となった。大正十一年には栖原角兵衛の所有に移って高品位な鉱床の発見となり、のちに三菱鉱業が買収して、金鉱整備令後も硅酸鉱として休山せずに操業した。
第408号 住友鴻之舞鉱業所100周年 2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 3/3 ○鴻之舞の売山 相争う不利益と各自の資金不足から、ここに沖野・羽柴・今掘(以上沖野組)、飯田・池澤亨・岩倉梅吉(以上飯田組)に発見の功労者として鳴沢と橘光桜を加えた八人衆の匿名組合が発足した。しかし、余りの大規模さと鉱山長となった吉田久太郎の資金の使いっぷりに事業費に窮した組合は、日立鉱山と幌別鉱山へ露頭下の高品位な鉱石を三万円で売り、急場をしのいだ。こうして日本一の大金山の発見は、たちまち中央の知るところとなり、結局、九十万円をポンと出した住友に売山され、これら発見からの裏表は山師たちの伝説となり、一攫千金を得た八人衆も悲喜交々の後日譚を残すことになった。 百周年記念事業/紋別市 最初の精練所 昭和10年頃 売山契約書 特別展 鉱山開山100周年 開山100周年記念式典 開山100周年記念祝賀会 札幌交響楽団念コンサート 鉱山開山100周年・講演会
第407号 住友鴻之舞鉱業所100周年 3     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年05月10日

網走の捕鯨船


この5/1~5/8に紋別港に寄港した小型のキャッチャーボート 日本の小型捕鯨船の許可船は9隻があり、実際の稼動はうち5隻で、網走海域の業者(水揚げは網走市のみ) は、下道水産(正和丸15.2㌧)、三好捕鯨(第七勝丸32㌧)が、国際捕鯨委員会(IWC)の対象外となっている歯クジラ類のツチクジラを年に各船2頭づつ捕獲してきた。
 水産庁は、「新北西太平洋鯨類科学調査計画案」において、2017年度~2028年度の網走沿岸域でのミンククジラの捕獲調査による目標捕獲頭数を年47頭(調査開始から6年後に中間評価を実施)とした。1986年にIWCによって商業捕鯨が禁止された髭クジラ類のミンククジラ、網走市での捕鯨は、1987年が最後だった。さて、ツチクジラは、クジラ独特の臭味が強く、赤味は酸化しやすく直ぐに真っ黒になり、焼くと硬くなる。いっぽう、ミンククジラの赤身は刺身用になり、尾の身(霜降りの部位のこと)は超高級品として寿司ネタなどになる。かっては紋別市でも「大洋漁業㈱(現マルハニチロ)」や「極洋捕鯨㈱(現極洋)」が、小型捕鯨を行っていたが、1976年の水揚げを最後に見られなくなった。それは捕鯨船団が行う海上解体が違反操業として一斉摘発されたことによる。陸上解体では、操業効率が悪く、採算性に劣っていた。今またミンククジラの商業捕鯨が認められ、また、より需要も高まれば、紋別市での解体場の設置、水揚げと捕鯨の復活があるかもしれない。
第406号  キャッチャーボート      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年04月16日

三平汁と石狩鍋




〇身近な伝統食 先だって某観光ホテルに宿泊したときに「三平汁」と称してサケ汁を客に提供していた。味噌仕立てか、そうでないかは別にして、サケは「石狩鍋」であり、『本来の三平汁は、漬けたニシン(冷温に保てなかった昔は、生が傷んで酸味があり、また、保存用に付け込んだ)を使いますヨ』と、そっと教えてあげた。 さて、サケの伝統食と云うと塩サケだが、薄塩の「新巻」と「塩引」とは違う。「塩引」を何度も手返して漬け直し、熟成させたのが「山漬」だ。近年の健康志向で塩辛いものは敬遠されがちだが、聞くところによると網走の業者では、「山漬」の生産が追いつかない時もあるらしい。別海町西別の「山漬」は、徳川将軍家へ献上され、戦前は、カムチャッカの「あけぼの印(ニチロ)」の塩サケが有名だった。 明治30年頃の開拓の手引書に『春ニシンと、若ブキを一緒に煮て食べると美味しい。』とあり、湧別の入殖者が、越冬の食料に困り、川でチカを獲って食べたところ、『臭くて見てくれは悪いが、とても美味だった。』と伝えている。また、厳冬期に湖沼で釣れるオオマイ(大きなコマイのこと)の鍋は、たいへん美味しく、身近で当り前なところに伝統食は引き継がれている。昔は、この辺りの浜の労働者が、ホタテ貝柱(乾貝柱)を煮熟したときの残り汁をオニギリにつけて食べたりもした。 戦前の塩サケの製造 鮭鱒聚苑/s17年
第404号  三平汁と塩サケ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2016年10月05日

鴻之舞金山のお話し

また、講演します。今度は、金山のお話し。



第―号外 鴻之舞金山のお話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/ 
  

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2016年09月30日

紋別聖徳太子講


誇るべき伝統文化の継承、顕正寺の聖徳太子講 ~無形民俗文化財調査が行われる/紋別市 この28日に道文化財保護協会、道建築士会の4名が、紋別聖徳太子講組合(紋別建設業協会)の協力を得て、100年を越えて顕正寺に伝わる紋別聖徳太子講の文化財調査を行った。文化庁の「文化遺産を活いかした地域活性化事業」の一環で、北海道文化遺産活用活性化実行委員会(道文化財保護協会、道建築士会、NPOれきけん)は、昨年から太子講の調査を始めて、また、市内では旧上藻別駅逓所や草鹿邸の簡易耐震診断なども行っている。太子講とは、聖徳太子が広く仏教の興隆に努めたので、親鸞は、太子を教主とした。親鸞は、救世観音(太子は化身とされる)の夢告を得て浄土宗祖・法然の専修念仏門に帰依し、太子が、浄土系、特に浄土真宗で尊ばれる。これに対し、民間信仰では、太子が、大寺院の建設のために木工、土工、紙漉きほかを振興したので、大工や鳶ほかの技能諸職の神となった。これら聖徳太子を奉賛するのが太子講である。当地では、明治41年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、孝養太子像が厨子に奉安されている。この太子像の面は凛として彩色が華やかで、厨子は非常に精巧立派であり、天明元年の太子画もある。昔は、大工など技能職たちによって夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。この日の参拝者は講中40数名で、オホーツク管内では、ほかに滝上町や網走市、美幌町などの建設業団体が、同様の太子講を行っている。太子講は、大正10年から11年にかけた聖徳太子の遠忌千三百年祭に発するものが多く、紋別市では、それよりも15年ほど遡り、道内では古い伝承である。本堂には国宝・知恩院から貸与された屋根瓦が展示されていて、地元にいながら、まだまだ知らないことに驚かされた。紋別聖徳太子講は、他に誇るべき伝統文化であり、末永く継承され、文化遺産を活いかした地域活性化の一助となることを期待する。
第400号 紋別の太子講     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2016年09月19日

士別市 教信寺の象さん 


士別市 教信寺の木鼻は象さん 北海道で象鼻は余り見かけない 左右の形も違う

第399号 象さん、ゾウさん     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2015年08月28日

冬のはきもの


つま子 清水町郷土史料館 でんぷん靴 芦別市星の降る里 百年記念館 大矢ボッコ靴 置戸町郷土資料館 冬のはきもの ・わらぐつとゴム長靴 琴似屯田兵は、西南の役の近代軍装にあって、白脚絆にわらじという異様な出で立ちであった。明治25年の屯田兵志願者心得に官給品は脚絆・足袋・わらじとあり、最初期の軍装は「わらじ」と「つま子」が標準だった。さて、昔は雪が深いときは「カンジキ」を使い、また、わらで作った長ぐつ、「深わら靴」を履いたりした。ゴム長靴は明治からあったが、この頃のゴム底は冬は固くなってすべりやすく、作業の時やたくさん歩くときは「つま子」と云うわらの靴を履いたりした。また、明治の後半には都会で丈の高い「雪下駄」が使われるようになり、下駄の歯には爪がついていた。一般のひとがゴム靴を履くようになったのは、日本でも加硫技術が浸透し出した大正中期以降で、昭和に入って安価なゴム靴が出回るようになり、劣化防止の打粉を施したゴム靴は、北海道では、俗に「でんぷん靴」と呼ばれていた。ゴム長靴は、今もある大正8年創業の小樽の「三馬ゴム」が有名である。 ・置戸町指定文化財「大矢ボッコ靴」 大正時代に置戸の「大矢足袋工場」では、ズック靴に「北海道護謨(のちの三馬ゴム)」のゴム底を張り、「大矢ボッコ靴」として売り出した。これは防寒ボッコ靴、開墾靴として東北から樺太まで広く通販され、使いやすいと評判になり、山仕事には欠かせない大ヒット商品になった。後に札幌市豊平区へ転出して「大矢ゴム」を設立し、さらに東京へと進出したが戦災で焼失したという。
第384号  靴の話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年06月14日

滝上町の奇岩壁


・北海道地質百選 滝西−雄柏−上立牛の平行岩脈群 マンモス岩・ロウソク岩・屏風岩・夫婦岩・狐山など、浮島峠を越えた滝上町滝西から紋別市上立牛にかけて、尖塔状の山が幾つも見える。 特に滝上三区をまたぐ林道と町道づたいの岩崖にはワクワク感がいっぱい。
第375号  滝上町の奇岩壁     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年02月11日

イモ版・香川軍男




























私の博物館コレクション イモ版画家 香川軍男展 ~汽車とアイヌ文様が大好きだった少年 北方圏国際シンポジウム協賛行事 とき 平成25年2月11日~2月24日 ところ 紋別市立博物館市民ホール 主催 北海道文化財保護協会員 山田雅也 ◆もんべつ育ちの版画家・香川軍男 大正4年7月5日、豊頃町大津に生まれる。父は鉄道員だった。平成14年9月18日死去、享年87歳。 ジャガイモを使ったいわゆる「イモ版」で有名な故・香川軍男さんは、当地の小学校に入学し、少年時代を過ごしたという。汽車を描くのが大好きな男の子だった。 近所にはアイヌ人の集落(元紋別コタン)があり、アイヌの子ども達との遊びの中で、自然とアイヌ文様に触れ、そして強く魅かれたと云う。これが美に目覚めた始まりだったかも知れない。 香川さんの作品は、イモ版という限られた空間のなかで、一見、無骨にも見える力強い刻線は繊細でもあり、川上澄生の知遇を得て、棟方志功に絶賛された。 ここでは彼がイモ版に傾倒するきっかけとなった年賀状作品を中心に紹介する。 『いも版AINU帖』あとがき 過去茫々、尋常小学校のとき、コタンからかよっているともだちの持っていた、文様を焼き火箸でつけたガッケ(竹を割ってつくった遊び道具)が欲しかった。ほんとうにいいものだった。彼はどうしているだろうか。 1点づつですが、次のアーティストも紹介します。 鴻之舞で暮らしたモンキー・パンチ モンキー・パンチ(本名:加藤一彦)は、昭和12年に浜中町の漁師の家に生まれた。 アメリカン・コミックスに強い影響を受けて漫画を描き始め、貸本出版社でのアルバイトを経て昭和40年に本格デビュー、同42年から「ルパン三世」の連載を始めて代表作となる。 峰不二子は初恋のヒト、次元大介は親友がモデルと云われ、こよなく故郷を愛する漫画家である。幼少の頃の数年間を鴻之舞で過ごした。 鉄道官舎に生まれた手島圭三郎 昭和10年に現在の紋別市上渚滑町下渚滑駅官舎で生まれる。 北海道学芸大学札幌校を卒業し、中学校の教師を経て昭和52年に版画家として独立、同57年に「しまふくろうのみずうみ」で「絵本にっぽん賞」ほか多数を受賞し、以後、数々の賞に輝く。 ほかの






第337回   紋別にゆかりの版画家           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2012年03月15日

ホタテの2番汁

◆ホタテエキスの濃縮技術は紋別地方から(改)

 さて、カキの効能は古くから知られていて『ひとつぶ300メートル』のCMは有名だ。大正8年に江崎利一はカキエキスからグリコーゲンを抽出し、同10年に『栄養菓子グリコ』として創業を開始した。
 同じく栄養価の高いホタテをどうにか活用できないか?。北海道水産試験場稚内支場は、昭和9年のエリザ・クラブ商会頓別工場での予備試験をかわきりに、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための製造試験を開始した。
 昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、
 ①煮汁腐敗防止の試験
 ②製造法の試験
 ③グリコーゲン含有量簡易鑑別法の試験
 ④調味料に関する試験
を行い、このときの真空蒸留濃縮法は、現在へと受け継がれている。
 つづいて昭和11には、湧別の北洋水産工業㈱で製造したサンプルを薬品会社数社に発送して協力を仰いだ。
 間もなく既製の真空蒸発鍋が開発されたこともあり、ホタテエキスの濃縮事業が各地で行われるようになって、紋別では昭和11年に創業の昭和産業㈱が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売している。
 これらの多くは主に栄養剤とされ、また、調味料にも利用されたが、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のお土産として、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。




第296回 ほたてエキス          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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