さぽろぐ

  文化・芸能・学術  |  その他北海道

新規登録ログインヘルプ


2017年04月16日

三平汁と石狩鍋




〇身近な伝統食 先だって某観光ホテルに宿泊したときに「三平汁」と称してサケ汁を客に提供していた。味噌仕立てか、そうでないかは別にして、サケは「石狩鍋」であり、『本来の三平汁は、漬けたニシン(冷温に保てなかった昔は、生が傷んで酸味があり、また、保存用に付け込んだ)を使いますヨ』と、そっと教えてあげた。 さて、サケの伝統食と云うと塩サケだが、薄塩の「新巻」と「塩引」とは違う。「塩引」を何度も手返して漬け直し、熟成させたのが「山漬」だ。近年の健康志向で塩辛いものは敬遠されがちだが、聞くところによると網走の業者では、「山漬」の生産が追いつかない時もあるらしい。別海町西別の「山漬」は、徳川将軍家へ献上され、戦前は、カムチャッカの「あけぼの印(ニチロ)」の塩サケが有名だった。 明治30年頃の開拓の手引書に『春ニシンと、若ブキを一緒に煮て食べると美味しい。』とあり、湧別の入殖者が、越冬の食料に困り、川でチカを獲って食べたところ、『臭くて見てくれは悪いが、とても美味だった。』と伝えている。また、厳冬期に湖沼で釣れるオオマイ(大きなコマイのこと)の鍋は、たいへん美味しく、身近で当り前なところに伝統食は引き継がれている。昔は、この辺りの浜の労働者が、ホタテ貝柱(乾貝柱)を煮熟したときの残り汁をオニギリにつけて食べたりもした。 戦前の塩サケの製造 鮭鱒聚苑/s17年
第404号  三平汁と塩サケ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:28Comments(0)郷土の語り

2016年10月05日

鴻之舞金山のお話し

また、講演します。今度は、金山のお話し。



第―号外 鴻之舞金山のお話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/ 
  

Posted by 釣山 史 at 21:13Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2016年09月30日

紋別聖徳太子講


誇るべき伝統文化の継承、顕正寺の聖徳太子講 ~無形民俗文化財調査が行われる/紋別市 この28日に道文化財保護協会、道建築士会の4名が、紋別聖徳太子講組合(紋別建設業協会)の協力を得て、100年を越えて顕正寺に伝わる紋別聖徳太子講の文化財調査を行った。文化庁の「文化遺産を活いかした地域活性化事業」の一環で、北海道文化遺産活用活性化実行委員会(道文化財保護協会、道建築士会、NPOれきけん)は、昨年から太子講の調査を始めて、また、市内では旧上藻別駅逓所や草鹿邸の簡易耐震診断なども行っている。太子講とは、聖徳太子が広く仏教の興隆に努めたので、親鸞は、太子を教主とした。親鸞は、救世観音(太子は化身とされる)の夢告を得て浄土宗祖・法然の専修念仏門に帰依し、太子が、浄土系、特に浄土真宗で尊ばれる。これに対し、民間信仰では、太子が、大寺院の建設のために木工、土工、紙漉きほかを振興したので、大工や鳶ほかの技能諸職の神となった。これら聖徳太子を奉賛するのが太子講である。当地では、明治41年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、孝養太子像が厨子に奉安されている。この太子像の面は凛として彩色が華やかで、厨子は非常に精巧立派であり、天明元年の太子画もある。昔は、大工など技能職たちによって夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。この日の参拝者は講中40数名で、オホーツク管内では、ほかに滝上町や網走市、美幌町などの建設業団体が、同様の太子講を行っている。太子講は、大正10年から11年にかけた聖徳太子の遠忌千三百年祭に発するものが多く、紋別市では、それよりも15年ほど遡り、道内では古い伝承である。本堂には国宝・知恩院から貸与された屋根瓦が展示されていて、地元にいながら、まだまだ知らないことに驚かされた。紋別聖徳太子講は、他に誇るべき伝統文化であり、末永く継承され、文化遺産を活いかした地域活性化の一助となることを期待する。
第400号 紋別の太子講     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 06:43Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2016年09月19日

士別市 教信寺の象さん 


士別市 教信寺の木鼻は象さん 北海道で象鼻は余り見かけない 左右の形も違う

第399号 象さん、ゾウさん     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 13:20Comments(0)郷土の語り

2015年08月28日

冬のはきもの


つま子 清水町郷土史料館 でんぷん靴 芦別市星の降る里 百年記念館 大矢ボッコ靴 置戸町郷土資料館 冬のはきもの ・わらぐつとゴム長靴 琴似屯田兵は、西南の役の近代軍装にあって、白脚絆にわらじという異様な出で立ちであった。明治25年の屯田兵志願者心得に官給品は脚絆・足袋・わらじとあり、最初期の軍装は「わらじ」と「つま子」が標準だった。さて、昔は雪が深いときは「カンジキ」を使い、また、わらで作った長ぐつ、「深わら靴」を履いたりした。ゴム長靴は明治からあったが、この頃のゴム底は冬は固くなってすべりやすく、作業の時やたくさん歩くときは「つま子」と云うわらの靴を履いたりした。また、明治の後半には都会で丈の高い「雪下駄」が使われるようになり、下駄の歯には爪がついていた。一般のひとがゴム靴を履くようになったのは、日本でも加硫技術が浸透し出した大正中期以降で、昭和に入って安価なゴム靴が出回るようになり、劣化防止の打粉を施したゴム靴は、北海道では、俗に「でんぷん靴」と呼ばれていた。ゴム長靴は、今もある大正8年創業の小樽の「三馬ゴム」が有名である。 ・置戸町指定文化財「大矢ボッコ靴」 大正時代に置戸の「大矢足袋工場」では、ズック靴に「北海道護謨(のちの三馬ゴム)」のゴム底を張り、「大矢ボッコ靴」として売り出した。これは防寒ボッコ靴、開墾靴として東北から樺太まで広く通販され、使いやすいと評判になり、山仕事には欠かせない大ヒット商品になった。後に札幌市豊平区へ転出して「大矢ゴム」を設立し、さらに東京へと進出したが戦災で焼失したという。
第384号  靴の話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:43Comments(0)郷土の語り

2015年06月14日

滝上町の奇岩壁


・北海道地質百選 滝西−雄柏−上立牛の平行岩脈群 マンモス岩・ロウソク岩・屏風岩・夫婦岩・狐山など、浮島峠を越えた滝上町滝西から紋別市上立牛にかけて、尖塔状の山が幾つも見える。 特に滝上三区をまたぐ林道と町道づたいの岩崖にはワクワク感がいっぱい。
第375号  滝上町の奇岩壁     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:13Comments(0)郷土の語り

2013年02月11日

イモ版・香川軍男




























私の博物館コレクション イモ版画家 香川軍男展 ~汽車とアイヌ文様が大好きだった少年 北方圏国際シンポジウム協賛行事 とき 平成25年2月11日~2月24日 ところ 紋別市立博物館市民ホール 主催 北海道文化財保護協会員 山田雅也 ◆もんべつ育ちの版画家・香川軍男 大正4年7月5日、豊頃町大津に生まれる。父は鉄道員だった。平成14年9月18日死去、享年87歳。 ジャガイモを使ったいわゆる「イモ版」で有名な故・香川軍男さんは、当地の小学校に入学し、少年時代を過ごしたという。汽車を描くのが大好きな男の子だった。 近所にはアイヌ人の集落(元紋別コタン)があり、アイヌの子ども達との遊びの中で、自然とアイヌ文様に触れ、そして強く魅かれたと云う。これが美に目覚めた始まりだったかも知れない。 香川さんの作品は、イモ版という限られた空間のなかで、一見、無骨にも見える力強い刻線は繊細でもあり、川上澄生の知遇を得て、棟方志功に絶賛された。 ここでは彼がイモ版に傾倒するきっかけとなった年賀状作品を中心に紹介する。 『いも版AINU帖』あとがき 過去茫々、尋常小学校のとき、コタンからかよっているともだちの持っていた、文様を焼き火箸でつけたガッケ(竹を割ってつくった遊び道具)が欲しかった。ほんとうにいいものだった。彼はどうしているだろうか。 1点づつですが、次のアーティストも紹介します。 鴻之舞で暮らしたモンキー・パンチ モンキー・パンチ(本名:加藤一彦)は、昭和12年に浜中町の漁師の家に生まれた。 アメリカン・コミックスに強い影響を受けて漫画を描き始め、貸本出版社でのアルバイトを経て昭和40年に本格デビュー、同42年から「ルパン三世」の連載を始めて代表作となる。 峰不二子は初恋のヒト、次元大介は親友がモデルと云われ、こよなく故郷を愛する漫画家である。幼少の頃の数年間を鴻之舞で過ごした。 鉄道官舎に生まれた手島圭三郎 昭和10年に現在の紋別市上渚滑町下渚滑駅官舎で生まれる。 北海道学芸大学札幌校を卒業し、中学校の教師を経て昭和52年に版画家として独立、同57年に「しまふくろうのみずうみ」で「絵本にっぽん賞」ほか多数を受賞し、以後、数々の賞に輝く。 ほかの






第337回   紋別にゆかりの版画家           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:30Comments(0)郷土の語り

2012年03月15日

ホタテの2番汁

◆ホタテエキスの濃縮技術は紋別地方から(改)

 さて、カキの効能は古くから知られていて『ひとつぶ300メートル』のCMは有名だ。大正8年に江崎利一はカキエキスからグリコーゲンを抽出し、同10年に『栄養菓子グリコ』として創業を開始した。
 同じく栄養価の高いホタテをどうにか活用できないか?。北海道水産試験場稚内支場は、昭和9年のエリザ・クラブ商会頓別工場での予備試験をかわきりに、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための製造試験を開始した。
 昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、
 ①煮汁腐敗防止の試験
 ②製造法の試験
 ③グリコーゲン含有量簡易鑑別法の試験
 ④調味料に関する試験
を行い、このときの真空蒸留濃縮法は、現在へと受け継がれている。
 つづいて昭和11には、湧別の北洋水産工業㈱で製造したサンプルを薬品会社数社に発送して協力を仰いだ。
 間もなく既製の真空蒸発鍋が開発されたこともあり、ホタテエキスの濃縮事業が各地で行われるようになって、紋別では昭和11年に創業の昭和産業㈱が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売している。
 これらの多くは主に栄養剤とされ、また、調味料にも利用されたが、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のお土産として、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。




第296回 ほたてエキス          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:13Comments(0)郷土の語り

2012年03月04日

イモ版・香川


予告:釣山コレクション、香川軍男の原点 昨年度は、以前より行ってみたいと思っていた「野付通行屋遺跡」を訪問、自費制作による絵葉書を作成し、また、長年、やりたかった地元に関係する南極講演が開催できた。 さて、ことしの目標であるが、北海道文化財保護協会で、紋別市の旧鴻之舞金山を巡見しようとの案が持ち上がり、実現されることを心待ちに準備を進めている。そうしてもうひとつは、当地で育った北海道を代表する版画家・香川軍男展の開催である。 彼は果敢な少年期を当地で過ごしたもので、それを知った数年前から着々と準備を進めていたもので、ちょっとした展覧会に耐えうる程度の作品は取り揃えた。数十点はあろうか、デッサン、燐票?(蔵書票代わりであろう) 、手作りの私家本、そして香川の原点である薯版年賀状に、『いもほりの記』自筆原稿ほかの数々で、中には発行番号の無いサイン本があり、贈呈されたものであろう。 秋から年末の間をめざしたい。 香川は『いも版AINU帖』あとがきで、 過去茫々、尋常小学校のとき、コタンからかよっているともだちの持っていた、文様を焼き火箸でつけたガッケ(竹を割ってつくった遊び道具)が欲しかった。ほんとうにいいものだった。彼はどうしているだろうか。 …と語っている。























第295回 イモ版・香川軍男          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 12:05Comments(0)郷土の語り

2012年02月10日

南極、白瀬の映画と講演

2月20日(月)16:00 紋別市文化会館
*ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊
*100年前の映像と元観測隊員による講演南極 今昔物語 
北見工大・南極OB会 佐々木 正史 氏
紋別市役所水産課 Tel:0158-24-2111(内259)


はじめに 皆さんこんにちは、さて、あの白瀬南極探検隊が南極に上陸して、今年でちょうど100年になります(1912年1月16日)。今回、どうして南極のお話しをすることになったのか・・・、それは我が紋別市と南極観測にはゆかりがあり、それをあらためて皆様に知ってもらい、そしてこれからも語りつないでいきたいと考えたからです。 白瀬矗は占守島で越冬し、また、カムチャッカを探索するなど、のちに当地でも盛んになった北洋漁業の開発に貢献した人物であり、北海道庁の官吏でもありました。 また、以前に市内にあった通称流研(北大低温科学研究所附属流氷研究施設)からは、観測隊に何人もが参加していて、オホーツク流氷科学センターには、第23次隊に参加した石川正雄さんが持ち帰った「南極の石」が展示されています。 そして紋別には、第一次観測隊のソリ犬として活躍し、悪天候のために南極に置き去りとなって死んだ樺太犬「紋別のクマ」がいて、 このように当地と南極との関わりはたいへん深いのです。 この度は、南極観測に参加された元隊員らによる「南極OB会」さまの全面的なバックアップにより、ドキュメント映像「南極記・白瀬南極探検隊」を上映し、元隊員の北見工大・佐々木正史先生には「南極のおはなし」をご講演いただきます。 また、エントランスホールでは、「白瀬とタロ・ジロ、南極写真展、紋別のクマ」を開催しており、皆さまには、楽しいひと時をご堪能いただければと存じます。
◆ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊 日活の前進である「Mパテー商会」は、大隈重信後援会長の依頼により、田泉保直技師を派遣してドキュメント映像「日本南極探検」を撮影した。これは大正天皇ほかの皇族もご上覧になられて、また、白瀬は探検によって負った莫大な負債を返済するため、この映画をたずさえ、全国各地を講演して歩いた。今回の映像は、南極OB会がこれに他資料とナレーションを加えて再構成したものである。
◆ご講演者のご略歴 佐々木 正史(ささき まさふみ) 1970年北海道大学理類入学、さらに工学部機械工学第二学科卒業 1979年北海道大学大学院工学研究科博士後期課程修了、工学博士 同 年日産自動車㈱入社、総合研究所 1989年同 社、総合研究所主任研究員 1999年同 社、総合研究所シニアリサーチエンジニア ~燃費と排気の極限での両立を目的として自動車用ガスタービンエンジンの研究開 発に従事。その後、燃料電池自動車の研究開発に従事。 2000年北見工業大学機械エ学科 教授(現 職) 2003年11月~2005年3月 第45次日本南極地域観測隊越冬隊員 専門・研究内容 熱工学(燃焼工学、伝熱工学)、動力システム(ガスタービン、燃料電池)、大気環境(温暖化物質)~自然エネルギー利用システム、環境、地球温暖化、温暖化物質など。 ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊&特別講演 学びから 夢が生まれる 道民カレッジ連携講座










































第 - 回 紋別市と南極のゆかり         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 18:05Comments(0)郷土の語り

2012年02月08日

南極探検と樺太アイヌ



明治の南極探検6 ○南極探検で活躍した樺太アイヌ
・樺太アイヌの山辺安之助(ヤヨマネクフ)は、樺太千島交換条約により現在の江別に渡って、対雁学校に学んだ。日露戦争では、日本軍に協力してアイヌ人で最初の勲八等瑞宝章を受ける。探検隊の募集のときには富内村の総代で、同族の地位の向上を志した危険を押しての参加だった。
・花守信吉(シシラトカ)は多来加村の総代で、従軍の経験もあり、日本語が話せた。探検では犬ゾリ隊の御者、海豹狩りなど大活躍であったが、帰還後は不遇であった。
・第二次探検へ向けたソリ犬の補充では、山辺と同郷の樺太アイヌである橋村弥八が、シドニーまで樺太犬に随行したが、探検隊には参加できなかった。
・探検では、樺太犬の毛皮のコートと寝袋、アザラシ皮のブーツが非常に重宝したという。
アザラシを仕留めた花守、山辺、柴田ら 出典「南極記・T2年」 花守?流氷を解かして真水にした 出典「南極探検・T2年」





第293回  樺太アイヌの南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 08:14Comments(0)郷土の語り

2012年02月05日

白瀬の一次探検2


明治の南極探検 5 ○シドニーでのキャンプ生活 1 明治44年5月1日にシドニー港へ入り、翌日、白瀬隊長と野村船長は日本領事館を訪問した。隊員らの上陸が許されたのは、さらにその翌日で、この間、斎藤総領事がオーストラリア政府と掛け合っていたのだ。 白豪主義のオーストラリアでの露天生活は、ある意味、南極探検よりも辛かった。特に中国系への排斥は強く、外見が似た日本人も同様に扱われたのである。総領事からは、注意事項が述べられ、不便はあるがくれぐれも日本人としての品位を保つよう要請があった。 領事館は開南丸の案着を外務省へ、白瀬隊長は探検断念を大隈後援会長へ電信した。5月17には、経過報告と資金調達のために野村船長と多田書記長が日本へ向かった。 さて、心配していたとおり、地元のサン新聞は、『予備軍人による探検隊の名を借りた工作船だ』とか、『単なる捕鯨の密漁船で、彼らはまるで猿だ、ゴリラだ』と書きなぐった。 資金に乏しい探検隊の一行らは、露天生活を始めたが、物珍しそうに指差すもの、キャッキャと笑うもの、日常の買いものでは、腐ったものを売りつける、数をごまかす、挙げ句の果てには全く相手にしてくれない。 白瀬隊長などは、中国人と間違われないように軍装で出歩くようになり、それはそれで奇異な光景であった。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」 シドニー野営中 「絵はがき」 野村船長ら開南丸の船員たち





















第292回  白瀬探検隊のシドニーでのキャンプ生活         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 10:58Comments(0)郷土の語り

2011年12月24日

白瀬探検隊と北海道のゆかり


明治の南極探検 5 北海道にゆかりの白瀬南極探検隊員 北方開発に貢献し、北海道庁の官吏でもあった『白瀬矗』が南極に上陸してちょうど100年(1912年1月16日)、そのほか北海道にゆかりの者がいた。それは北海道人の陸上隊員・吉野(前述)と野村船長らである。  開南創刊号・S14年 ①白瀬隊長、道庁時代のエピソード 白瀬は、明治35年10月から約2年ばかり、北海道庁の教育課にあったが、このときのエピソードを記したのが「北海魔境・雷電峠決死旅行(探検世界・明治42年)」である。 それは岩内支庁において、翌朝8時に実施の教員試験問題が届いていないという緊急事態が発生し、白瀬は急きょ、札幌を発したが、険しい稲穂峠の麓に至った時には、すでに午後8時となっていた。山中では羆と出くわし、潜んでいた白瀬を踏んで乗り越えて行ったとか、死美人と遭遇したとか…。 このとき無事に試験問題を送達し得た白瀬は、報奨されている。 ②野村船長、北海道とのゆかり 野村直吉船長は、流氷の中で北前船を操船した経験を生かしたいと南極探検に応募した。父も兄も北前船の船頭で、隊員の募集の時には、直吉本人も函館の兄のもとで船乗りをしていた。雇主の能登の西村屋は、幕末から厚岸と函館に支店を置いて廻船問屋として活躍していた。 日露戦争では軍用船の窮地を救い勲章を授与されており、冷静沈着、すぐれた技術と判断力を兼ね備えていた。小さな開南丸での大航海は、英国地理学協会で称賛されている。 また、第2次探検際に厳寒の海中で海豹と格闘した柴田兼治郎水夫は、郡司成忠らと千島・カムチャッカへ渡った経験があった。









































第290回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:00Comments(0)郷土の語り

2011年12月23日

白瀬隊長毒殺未遂


明治の南極探検4 ○白瀬隊長暗殺未遂事件 「吠える40度、狂う50度、叫ぶ60度」と云われる暴風圏において、たった204㌧の開南丸は、まるで漂う木の葉のようだった。南氷洋では、危うく氷塊に押しつぶされるところだった。 南極大陸に到達するという目標を失った隊員たちは、緊張の糸が切れたのか体調を崩すものも多く現れ、そして船員と陸上員とが対立するようになる。何事も軍隊式の白瀬にも不満だった。 こうして起こったのが「白瀬隊長暗殺未遂事件」で、白瀬を毒殺して探検を切り上げ、そのまま本国へ引き揚げようと謀ったが、それを察知した山辺と花守が白瀬に伝えて事なきを得た。記録には残されていないが、白瀬自身が近親者に語ったもので、信ぴょう性は高い。 再起を計った第2次探検では、隊員の入れ替えが行われており、これと関係しているのかも知れない。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」


























第289回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 09:19Comments(0)郷土の語り

2011年12月10日

白瀬の一次探検1


明治の南極探検 3 ◆樺太イヌ受難 赤道が近づくにつれて気温はぐんぐんと上がった。2月5日には、樺太イヌ3頭が死んで水葬にした。19日に北回帰線に達すると気温はますます上昇、明治43年12月29日、ついに南半球に入った。望遠鏡に赤線を引いて赤道が見えるとハシャイで云った。 炎天直下、米が傷み、缶詰までもが腐ってガスが発生した。そして北国育ちの樺太イヌが、バタバタと死んでいった。 3月3日には、「たろう」と「じろう」の2頭だけになり、27日にはとうとう「たろう」だけとなった。結局、ソリ用に集められた30頭のうち、29頭が死んでしまった。犬係の樺太アイヌ、山辺と花村は我子を失ったようで、その落胆ぶりは非常に大きかった(戦後の第一次観測隊に参加したタロとジロの名前は、これにちなむ)。 ◆いよいよ南極海、第一次探検 明治44年2月8日にニュージーランドのウエリントン港に入り、3日間、滞在して燃料と食料を補給した。そこを11日に出港、17日にはペンギンを捕えて、白瀬隊長はご満悦だった。25日にオーロラを見る。28日に初めて氷山に遭遇した。 いよいよ3月3日に南極圏へ突入した。この頃から氷塊、氷山が絶え間なく漂流するようになる。6日にはついに南極大陸を見とめて、一同、狂喜する。8日、目を覚ますと開南丸は大氷崖に沿って進んでいた。流氷の少ないところを進んで行くが、時折りゴリゴリと船体に氷が当たる。10日の夜、幹部会を開いて、このまま大陸に進み、適地に越冬隊を残して船を退避させ、解氷期を待って再来して回収することを確認した。 3月12日には、とうとう氷塊に阻まれて前進することが出来なくなった。このままでは、結氷のため今来た航路も塞がれてしまう。やむなく後進、南緯74度16分、東経172度7分であった。 ようやく14日には氷野を脱し、別地点への上陸を模索したが、次々と現れる氷塊に船は思うように進まないうえ、さらに吹雪が襲って来た。同日の夕食後、野村船長は、これ以上の前進は不可能であり、一度、オーストラリアに戻って解氷期を待ち、再起を図ろうと提案、東京からの出港の出遅れは如何ともしがたく、もはや結氷期に入っていた。無念!! 出典「南極探検・T2年」 花村(左)と山辺 出典「山岳第年第二号・S12年」 第二次探検のとき


























第288回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:13Comments(0)郷土の語り

2011年11月27日

白瀬、南極へ


明治の南極探検 2 ◆千島の探検 『白瀬矗』は子供のころから利発でヤンチャ、北極探検を夢見ていた。まずは手始めに千島の探検を企画していたところ、「郡司成忠」の千島開発の計画を聞き、これに参加することにした。白瀬は、明治26年3月20日に隅田川築堤を発った郡司ら「報効義会」の一行と函館で合流した。そこから民間船に便乗し、国境の占守島へ向かったが、途中、渡島を拒まれ、目的を果たせずにいたところ、偶々、軍艦磐城の協力を得て、ようやく8月31日に占守島へ上陸した。白瀬らは、占守島を根拠に3島に分かれて2回の越冬を試み、カムチャッカを探検し、千島北部の資源の豊かさを確認するなど大きな成果をあげた一方、支援が途絶えたことで、捨子古丹島の9名が全滅したほか、死亡者が13名という悲惨な結果に終わった。 ◆南極探検へ 苛酷な条件を生き抜いた白瀬は、ますます自信を深めていたが、アメリカ人のピアリーが北極点に達したと知ると、目標を南極探検に変更した。各所に探検への支援を働きかけ、政府援助の約束を得たが、結局、資金の融通は無いまま、一番の課題であった探検船も北方探検の同胞であった報効義会の新造船・「第二報効丸」を買取ることになった。この第二報効丸に補助の蒸気エンジンを取り付け、船体には鋼板を張り付けて、東郷元帥が『開南丸』と命名した。いよいよ出港することになり、明治43年11月28日には、芝浦で五万人とも云われる壮行会が催され、翌29日に華々しく品川を出港した。 出典「郡司大尉・S14年」 白瀬らを占守島へ運んだ軍艦磐城 同左 郡司海軍大尉 出典「開南創刊号・S14年」 大隈翁の壮行演説 出典「アサヒグラフ新年特大号・S31年」 開南丸 出典「開南創刊号・S14年」 後列右から白瀬隊長・野村船長


























第286回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 11:25Comments(0)郷土の語り

2011年11月23日

南極に渡った北海道人



明治の南極探検 郡司成忠と伴に北方開発に貢献し、北海道庁の官吏でもあった『白瀬矗』が南極に上陸して百年を迎える。研究者の間では、樺太アイヌの二名が最終地点の南緯八〇度五分、西経一五六度三七分に至ったことは良く知られているが、この探検に北海道人の『吉野義忠』がいたことは、ほとんど忘れ去られている。 吉野は、明治二一年九月一七日に香川県丸亀市に生まれる。明治三三年に北海道の増毛町に移住し、大正七年には室蘭へ転籍しており、この間の詳しい動向は、もはや全くの不明である。 日本人の海外進出、特に苦学生を支援するために創設された日本力行会の会員であった若き早大生は、世界を夢見て白瀬南極探検隊の被服係として参加、明治四五年一月一六日に白瀬、武田、三井所、村松、吉野、山辺(樺太アイヌ)、花守(樺太アイヌ)の7名で上陸し、吉野と村松は根拠地隊として南緯七八度三三分、西経一六四度二二分にテントを張って気象観測を行った。 後に渡米して皿洗いからホテル事業を興し、戦後の南極観測再開の時には、ロサンゼルスからエールを送っている。 占守島に於ける白瀬中尉 出典「郡司大尉・S14年 」探検船開南丸は、北方開発で使用された第二報効丸だった。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」 右から二人目が吉野 出典「南極探検・T2年」 明治45年1月28日最終到達点で日章旗を掲げる白瀬隊長 出典「山岳第三十一年第二号・S12年」
























第285回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 11:40Comments(0)郷土の語り

2011年06月12日

お百度石

雨竜神社の百度石

 雨竜町は明治22年に華族組合農場が開かれたのに始まり、のち蜂須賀、戸田、町村の3農場に引き継がれた。蜂須賀家にゆかりの雨竜神社にある明治39年に建立の御百度参りの「百度石」、時折り時代劇に出てくるネ。北海道では、めずらしいかも…。
















第249回 お百度参りの石柱         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/




  

Posted by 釣山 史 at 21:57Comments(0)郷土の語り

2011年04月06日

アイヌ文化の伝承

 吉田菊太郎は、明治29年にチロットコタン=白人古潭(現幕別町千住)の酋長の家に生まれる。若い頃、違星北斗と「アイヌ一貫同志会」を結成して売薬の行商をしながら道東を巡ったという。
 自らの反省のもと、禁酒を誓い、昭和4年に「白人矯風会」を結成してアイヌ人の生活改善活動を開始し、昭和15年には、祖先の文化を残そうと「北海道アイヌ文化保存協会」を組織して器物の収集を始めた。

◆蝦夷文化考古館
 その後、いつの間にか消えて行っている民族の生活道具や伝来の宝物を本格的に保存しようと収蔵館の建設を決意。散逸するアイヌ人の器物と寄付金の提供を願い、広く道内各地、東京方面と奔走し、昭和34年12月に「蝦夷文化考古館」は落成した。
 平成5年2月に盗難に合い、エムシやパスイ、トゥキなど、展示品のおおよそ1/4が失われるという危難に見舞われたが、陣羽織など、今もなお貴重な品々が展示されている。

〒089-0563
 ・開 館:午前10時から午後4時まで
 ・休 館:毎週火曜(祝日の場合はその翌日、年末年始)
 ・入 館:無料
 ・ところ:北海道中川郡幕別町字千住114番地の1
                   ℡0155-56-4899




















第234回 アイヌ資料館        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:47Comments(0)郷土の語り

2011年03月07日

北海道とオホーツク海

 ○北海道ができた日、北海道とは それまでエゾ地(エゾとはアイヌの人たちのこと)と呼ばれていたものを、1869年(明治2年)の8月15日に北海道とし、11ヶ国を置きました。 北海道とは、北の加伊(カイ=この国に生まれたもの、自分たち)という意味で、それに、すでに使われていた地方名の「東海道」とか、「南海道」とかにならって、「北海道」ということにしました。 ○オホーツク海 ロシア語で、シベリヤのオホータ川にある町という意味からオホーツクといいます。また、江戸時代には、和人(日本人)は、稚内から知床までを北海岸といって、明治になってからは、オコツク海などと呼んでいました。 ○紋別市のこと 紋別は、アイヌ語で「モウ・ペツ」=「静かな・川」という意味です。昭和29年7月1日に3つの町と村がひとつになって、紋別市となりました。ホタテやサケがたくさん取れ、そしてカニの輸入が日本一など、水産業(漁師さん)とそれらの加工業、そして酪農業(牛飼いさん)が盛んで、ガリンコ号やオホーツクタワーなどの観光にも力を入れています。かっては東洋一の大金山があったことでも知られています。






























































 第229回 アムール河とオホーツク海、北海道の名前の由来        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 12:10Comments(0)郷土の語り

2011年01月07日

もんべつの前浜

なんで、もんべつの海産物は、おいしいの? お魚と漁業の種類は? ◆世界の3大漁場 世界の3大漁場のひとつの北西太平洋に含まれるのがオホーツク海で、その豊かな海で最も流氷が南にやって来るのが紋別です。 つまり、図に見るように宗谷海峡から回った南からの暖かい海流と、北からの冷たい海流がぶつかり合うのが、北海道のオホーツク沿岸で、そこにはいろいろな種類のお魚が集まります。 特に流氷の下に発生するアイスアルジーというコケ(藻)は、いろいろなプランクトンや微生物を育てて、それらを食べるお魚にとっては、豊かで暮らしやすいところなのです。お魚もおいしいエサをたくさん食べて、おいしく育ちます。 そしてこの流氷のために、冬の間が休漁となることで、自然とお魚を獲りすぎないようにしているのです。 ◆前浜で獲れるお魚 ・沖合い底引き網漁では、ズワイガニやボタンエビなどの甲殻類とアカガレイなどのカレイ類、スケソウダラ、ニシンなど。 ・底建網漁では、ホッケやクロガシラガレイ、イカなど。 ・ケタ網漁は、ホタテガイやホッキガイなど。 ・さし網漁が、マガレイやニシンなど。 ・定置網によるサケ・マス漁。 ・そのほか籠漁によるケガニ漁や船外機船でのコンブ漁、そしてコムケ湖やシブノツナイ湖のホクカイシマエビやシジミ漁など。 ホタテガイやケガニとタラバガニ、スケソウダラ、ニシンなどは北海道ならではの魚介類で、ホタテガイの乾貝柱の生産は、日本でもオホーツク沿岸が中心で、また、スケソウダラを主な材料とする「すり身などの練り製品」は、全国のおおよそ1/4から1/3が紋別産です。
  第224回 紋別前浜のお魚と漁法      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 21:39Comments(0)郷土の語り

2010年12月11日

サンゴソウの話し

天然記念物が自然的に消滅した例
 その昔、牡蠣島にあったアッケシソウの群落

もんべつコムケ湖のサンゴソウ

 もんべつでは馴染み深い「サンゴソウ(アッケシソウ)」も、その生息域は限られ、希少種(R)に指定されている。汽水域の低湿地帯という、特殊な条件から、道内では、主にオホーツク海沿岸にある湖沼群(そのほかサロマ湖、能取湖、厚岸湖、春国岱など)に群生する。
 明治24年に宮部金吾博士によって厚岸の牡蠣島で発見されたことから「アッケシソウ」と命名され、大正10年には国指定の天然記念物となったが、その後の十勝沖地震やチリ沖地震の津波などによる地形の変化でほぼ水没して群生が消滅、おしくも平成6年には指定解除となってしまった。
 そのほかに道指定天然記念物として、サロマ湖畔鶴沼のアッケシソウ群落が指定されている。


第221回 文化財としてのサンゴソウ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:16Comments(0)郷土の語り

2010年12月09日

丹頂の保護(再)

タンチョウヅルのお話し
天然のタンチョウのつがい ツルがいるから鶴居村 特別天然記念物 ~絶滅危惧種(En)タンチョウの保護活動 まずは「天然記念物」とは…? 記念物とは次の文化財の総称で、①貝塚や古墳、城跡など歴史上、または学術上の価値が高いもの。 ②庭園や峡谷、海、山などの名勝地で、芸術上または鑑賞上の価値が高いもの。 ③動植物と地質鉱物で学術上の価値の高いもの。 このうち天然記念物とは「学術上において貴重な日本の自然を記念する③のこと」を云い、それを有する、その地域を含めたものです。これに指定されると採捕・採取と開発行為が規制されて、その保全と回復の対策がなされるようになります。 古くはアイヌの人々に「サルルンカムイ」と敬われた湿原の神鳥「タンチョウ」は明治25年に保護鳥に指定されましたが、明治末期には開発と乱獲から絶滅したかと思われていました。 大正に入り、地元の猟師がタンチョウを見たとの情報から道庁が調査を行い、大正13年に釧路湿原で約20羽が確認され、昭和10年には「天然記念物」となり、「釧路国丹頂鶴保護会」が結成されて、同27年は「特別天然記念物」に指定されました。 その後の昭和25年に阿寒町の山崎定次郎氏が畑に寄ったタンチョウへの餌付けに成功し、また、鶴居村では同27年の冬に登校途中の幌呂小学校の児童が弱ったタンチョウを発見して新井田準次郎校長と子どもらがそれを保護し、デントコーンを餌付けしました。 同年の大寒波によるタンチョウの餓死では、全国から飼料と義捐金が贈られ、昭和37年からは下雪裡小学校の武藤良治校長が農作物への被害を防ぎながらのタンチョウの保護活動を通じ、教育的な指導を始めたのでした。 こうして、これらをきっかけとした地元住民あげての保護活動によって、最初の昭和27年の一斉調査では、たったの33羽であったものが、現在では1千羽以上が確認されるようになりました。 この「釧路市丹頂鶴自然公園」は、昭和33年に5羽のタンチョウをもって開園し、同45年には「自然ふ化」に、2年後には「人工ふ化」に成功して、以来、増殖に努めて放鳥を続けて来ました。今では、釧路湿原のほかにウトナイ湖や石狩川でも見られるようになり、サロベツや網走でも繁殖が確認されています。道外では、民話「鶴の恩返し」の発祥と云われる山形県や秋田県のほか、最近では宮城県や山口県でも発見されて、話題となりました。 先日の12月5日には、「阿寒国際ツルセンター」において、タンチョへの給餌を始めて60周年を記念し、これまでの保護活動を後世に伝えるために「タンチョウ感謝祭」が開催されました。












































第220回 ツルのお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 03:23Comments(0)郷土の語り

2010年11月20日

もんべつの魚

~紋別の魚

 今年の夏が暑かったせいか、10月18日には大よそ2千尾の『ブリ』で大漁になった。今や、シイラやマンボウもめづらしいものではなくなった。
  





















































































第219回 もんべつの魚      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/












  

Posted by 釣山 史 at 20:49Comments(0)郷土の語り

2010年11月11日

北の忠臣蔵

『北海道義士祭』北泉岳寺

 初代・皆上正学住職の意思を継いだ2代が、東京芝高輪の泉岳寺へ再三に渡り赤穂浪士の墓碑の設置を懇請、昭和27年に「北海道四十七義士霊地建設世話人会」が結成されて、翌28年2月4日(四十七士切腹の日)に「北泉岳寺」の寺名を頂いて、昭和31年には大石内蔵助ほか四十七士のお墓の土をもらい受けて分霊し、入魂祭を行って砂川市に新たなお墓を建立した。
 毎年、討ち入りの12月14日には、砂川市と滝川市の檀家が交互に『北海道義士祭』をとり行い、墓前祭の後に赤穂浪士四十七士に扮して砂川市内をパレードする。


堀部安兵衛               大石主税                大石内蔵助






















第217回 忠臣蔵の寺      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)郷土の語り

2010年11月04日

紋別の水産

現在の紋別の水産界の事情

 紋別のホタテとカニ 紋別はホタテのまちと云うけれど、産出量は全道でも7~8%でしかなく、青森ほか東北を含めた全国でみると、ほんの少しでしかない。しかして、白干しと云われる乾貝柱は、オホーツク沿岸にしかなく、中国向けを中心とした乾貝ホタテや玉冷(冷凍貝柱)の多くが紋別産である。 毛ガニのまちと云いがちであるが、全道での位置はこの程度であり、また一見、ズワイガニが突出しているようでも輸入には比べものにならず、むしろタラバガニが特徴的と云えよう。4年連続の輸入ガニ・日本一であったが、海外事情に左右される輸入物には、リスクがあり、本年は前年対比で約1/2の輸入量にとどまっている。 かっては全道に知られた高級魚のもんべつマガレイも、消費者の嗜好、流通・販売業者のニーズの変化などから価格が下落し、今や他のカレイよりも安くなってしまった。 ブランド魚・もんべつマガレイ 道内の主な水産都市の比較 紋別の漁獲量額は、全道で凡そ10番前後である。よって当地の特徴は、量額ではなく、むしろ漁業者の収入の高さにあり、また、まちの規模に比べて、一定規模の加工場数が多いことにある。これは漁業者の兼業が禁止され、漁業と商工業とが分離されながら共存共栄してきた結果であり、早くから大手資本が進出したことによる。 確かに、水産加工場の数と従業員数は漸減しているけれども、長引く景気の低迷の中では、むしろ安定しているとも云える。加工場は慢性的な人手不足にあるのが実態で、雇用確保のための通年雇用も、流氷のための冬期休漁があっては難しい。 紋別の水産加工場の推移 国内のすり身の生産量(社:日本冷凍食品協会)と紋別市の状況(市水産課)  当地はかっては、有数の焼竹輪や蒲鉾の生産地であったが、現在は、冷凍すり身の産出で全国の1/4~1/3を占める。この主原料であるスケソウの価格は、カニと同様に国際的な漁獲変動や為替の影響を強く受け、むしろ海外事情によって決定される。















































第215回 もんべつを代表するホタテ、カニ、カレイ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 20:59Comments(0)郷土の語り

2010年05月25日

手づくり郷土賞

詳しく解説しています。次号へ校正、転載。

第181号  鴻之舞資料館が手作り郷土賞    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:41Comments(0)郷土の語り

2010年05月19日

渚滑の大平公園

ようやくオホーツクに春
~昔なつかしい公園に桜

 天候がすぐれない日がつづき、晴れてもなかなか気温が上がらなかったオホーツク地方も、ようやく滝上の芝ザクラ、上湧別のチューリップが開花し、当紋別市街の桜も咲き始めた。
 さて、ここでは年配者にはなつかしい大平公園の名残り桜を紹介する。



荒れ果てた公園          老木が咲く              池の跡













鴻之舞から移設された住友の社宅
















第179号 忘れ去られた公園    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:47Comments(1)郷土の語り

2010年05月16日

釧路・なつかし館が復活

盗難から復活!!  洲崎町なつかし館『蔵』
 ~市民手作りの私設資料館

 釧路市の中野吉次さんが長年に渡って収集したコレクション、明治から昭和にかけての民具や看板など、約3万点を集めた市民手作りの資料館が盗難にあった。中野館長が、冬期休館中の2月18日に蔵へ点検に入ったところ、収蔵品の昭和初期のアイロンや蓄音機などが大量に盗まれていたと云う。
 今シーズンの開館が心配されたが、「空き巣被害で、歴史の灯火を消したくない」と、市民団体「洲崎町なつかし館『蔵』を再生させる会」(高橋忠一会長)が、荒らされた蔵を整理し、痛んだ外壁も真っ白に塗り直して、この5月9日のオープンにこぎつけた。
 なつかし館は、中野館長が友人と平成元年から開設していた「木材町なつかし館」を、大正4年に建築された現在地の蔵へ移転して、あらためて平成16年にオープンしたもので、以前に私の目を引いた太平洋炭鉱の広告、ケロヨン・サトコちゃんや時代物ものの乳母車は、大丈夫だったのだろうか。









第178号 がんばれ私設資料館    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 09:32Comments(0)郷土の語り

2010年04月25日

消えゆく霧笛

むせぶ夜霧に鳴く霧笛

 第176号へ移転しました。



第174号 全廃された港町の風物詩    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 08:37Comments(0)郷土の語り