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2017年09月15日

滝上町の教育勅語謄本

      滝上町の郷土館に残る本物の教育勅語謄本、奉安棚もあるそうな。



第425号 教育勅語謄本     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 21:26Comments(0)郷土の語りお年寄りへ

2017年09月10日

もんべつ沖揚音頭


もんべつ沖揚音頭 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われたサケ、マス、ニシンであり、昭和30(1955)年頃に大きな群来が見られ無くなるまで、ニシン漁が道内沿岸漁業の太宗であった。幕末頃から大きな漁獲を可能にする「鰊建網」が開発されて、漁業が大型化されると多くの漁夫が必要になった。沖揚音頭は、ニシン漁の水揚げから網起こし、汲み出しほか、共同作業の拍子を合せた掛け声唄で、各地の漁場に自然発生して見られる。江差沖揚音頭(道指定無形民俗文化財)、松前沖揚音頭(町指定無形民俗文化財)、神恵内沖揚音頭などがあり、ソーラン節もその一種である。古くからホタテ貝が名産で知られる紋別市も、寛政年間(1789~1801年)に紋別番屋が置かれ、昭和27(1952)年でニシンの群来が見られ無くなるまでは、当地もニシン漁が漁業の中心にあった。この「もんべつ沖揚音頭」は、昭和13(1938)年に道南のニシン場から「今野芳太郎」が移り住んで来て歌われるようになったと伝わる。昭和27(1952)年頃、今野芳太郎の呼びかけに有志が募り、昭和35(1960)年に北見で、同37(1962)年には札幌で披露され、以来、各種の慶事・行事で催されるようになった。〝もんべつ流氷まつり″では、第1回の昭和38(1963)年から継続して演じられている。昭和44(1969)年に船等を製作し、衣装を新調して統一し、現在の形となり、昭和47(1972)年には会長天野一郎、副会長今野芳太郎として正式に「紋別市沖揚音頭保存会」が発足した。こうして市内行事で披露されていたが、経年のうちに会員減少から存続が難しくなり、次世代に継承すべく、昭和52(1977)年に紋別漁業協同組合、漁協婦人部(現女性部)と漁協青年部が加わって再編されて現在に至っている。「もんべつ沖揚音頭」は、〝おーしこ″の掛け声のもと、出漁、操業、帰港までの漁労を表現している。道内の各地に伝わる沖揚音頭であるが、道東、オホーツク沿岸で伝承されるものは見られない。また、全道的に見ても積極的に保存継承され定期的に公演されているものは少ない。毎年、公演している「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史がある北海道の冬まつりであり、歴史的地域資産として活用され、地域振興に貢献している。第55回もんべつ流氷まつり(2017/2/12)
第424号 もんべつ沖揚音頭     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年09月03日

手本は二宮金次郎


文部省唱歌「二宮金次郎」 柴刈り繩なひ草鞋(わらぢ)をつくり、親の手を助(す)け弟(おとと)を世話し、兄弟仲よく孝行つくす、手本は二宮金次郎。 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 九谷焼、青銅製 二宮金次郎(尊徳)のこと この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語を書いて、このときのイラストに始まったと云われます。金次郎の孫の「二宮尊親」は、福島県下の困窮民の活路を新天地の北海道に求めようと明治29年に北海道各地を視察・探検し、開墾地を十勝の牛首別原野(現豊頃町)に選定しました。翌年には自ら15戸を率いて入殖し、10年後には、移住戸数160戸958人、開墾地844町歩の一大農場を形成しました。

第423号 二宮金次郎(尊徳)のこと     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 04:16Comments(0)郷土の語りお年寄りへ

2017年08月13日

月形町の神社にあった最古級の奉安殿


 月形小学校の火災で類焼し、遷座した樺戸神社へ移設されていた奉安殿は、その神社の再遷座で失われたのである。
開校百周年記念誌より 小学校へ積極的に御真影が下賜され始めたばかりの明治28年5月(1895年)、北海道樺戸郡の月形小学校(月形町)が出火し、御真影と教育勅語を焼失したことは大きな驚きであった。北海道内で初めてのことかもしれない。 同校は、同30年(1897年)に再建された際に煉瓦造の独立棟を建設、同年、松前郡吉岡小学校(福島町)も煉瓦造を建設した。こうして、あちこちで煉瓦造の奉安殿が建築されるようになり、独立棟の建築は、むしろ本州よりも北海道が積極的であった。 道内で最古かと思われる月形小学校の奉安殿は、戦後も樺戸神社に移設されて残されていたが、昭和45年の須部都川築堤工事に伴い移転となり、やむなく取り壊されたことは、惜しむべきである。残念。
第422号 北海道で最古の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:50Comments(0)郷土の語り

2017年08月05日

北海道の捕鯨業の嚆矢


明治33年の留萌捕鯨場の景 北海道の捕鯨業の嚆矢、伊藤一隆が関係した大日本帝国水産会社のこと。石川県士族の斉藤知一が、明治17年に胆振国の室蘭・有珠の両郡、翌18年は後志国岩内郡で捕鯨を試みたが、鯨を恵比寿神と信奉する地元漁民の妨害に合い、同20年に天塩国羽幌へ転じた。明治21年には、国策によって設立された大日本帝国水産会社(のち帝国水産会社)が、根室・千島沿海でラッコ・オットセイ猟、捕鯨を試み、のち石狩国での許可を得て、また、羽幌での斉藤の事業を引き継いだ。こうして北海道内でも本格的な捕鯨が見られることになった。
第421号 北海道の捕鯨業の嚆矢     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 13:39Comments(0)郷土の語り

2017年07月26日

寄鯨伝説と近年の漂着例


紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。知床ウトロの伝説に云う。昔、岩島に住むオロッコ人が、通りかかるアイヌ人に上から投石してホトホト困っていた。岩島高くにいるオロッコ人は手強く、そこでアイヌ方は一計を案じ、夜中に海草でクジラの形を作り、魚を置いた。朝になって群がる鳥を見たオロッコ人たちは、岸に鯨が寄ったと思い、喜び勇んで岩島から下り、駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻め、こうしてオロッコ人は全滅してしまった。同様の話しが枝幸、浦幌ほかにあり、“寄り鯨”に関係する伝説は、全道のあちこちに散見される。鯨は貴重な資源であった。当地にも、紋別空港を横切ってオホーツク海に注ぐ小河川にフンベ(鯨)オマ(居る)ナイ(川)という寄り鯨の川がある(図2)。近年、クジラの漂着が増加していると感じるが、生息数増の兆しなのか?
第420号 寄鯨伝説と近年の漂着例     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:40Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2017年07月26日

集落名に見る母村

~北海道号線の由来

集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度で、これにより土地の正確な位置や面積が簡単に分かるようになった。アメリカやカナダでは、開拓時代の18世紀後半から19世紀前半にかけて各州ごとに東西南北に基準線を設け、実際の土地測量に基づいた碁盤目状の土地割を行い、それを細分して入殖者に与えるタウンシップ制を取った。さて、北海道の開拓使時代の屯田兵や移民募集への直接保護政策は北海道庁の設置を見てからは誘導保護へと転換され、明治19年には殖民地選定事業が始まり、明治22年からは区画測設によって殖民地区画図を調製した。こうして北米のタウンシップ制に倣い、殖民地ごとに基線を定めてそれに並行する2線、3線…、基線に直行する号線、2号、3号…を設けて、入殖者1戸に基本5町が与えられた。旧開地や網走、紋別など早くから漁業開発が進んだ沿岸地域を除いて、新開地の本格的な開拓が始まったのは、明治30年に北海道国有未開地処分法が定められ、大地籍地の処分が積極的に行われるようになってからで、本州の各地から団体移住者が入殖するようになる。全くの原野を切り開いた内陸地においては、村を立てるにあたって殖民地の区画測設がなされ、まずは官公所や学校地、神社地などが区割りされ、例えば神官なども公募された。新たな集落では、常呂町土佐や訓子府町秋田、釧路市鳥取などのように出身地名が引き継がれ、佐呂間町栃木は、あの足尾鉱毒事件の被害者たちが入殖した土地である。そうして芦別市や沼田町などは、富山県の門徒衆が多く入ったので聖徳太子講が持ち込まれ、越中獅子舞が残っており、また、岩見沢市栗沢町には、郷里の越中礪波郡から分祀された礪波神社がある。また、紋別市の漁民の間では、庄内由来の龍王講が信奉されて120年を越えると云う。 佐呂間町栃木団体の記念碑
第419号 北海道の開拓号線     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:17Comments(0)郷土の語り

2017年07月24日

マルキ号製パンの跡 2


マルキ号製パン 水谷農場の跡を追った 西足寄の農場は、秘湯・芽登温泉のさらに奥地の高原にあった。現・足寄町旭ヶ丘。 遠隔地のうえに起伏が大きい低温地帯で、当然、失敗に終わった。 水谷政次郎が生涯を終えた小清水町の泉地区、今でも一族が暮らす。 きれいに区画された雄大な小麦畑に水谷橋はある。
第418号 マルキ号製パン、水谷農場     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:39Comments(0)郷土の語り

2017年07月20日

青函連絡船概史


青函連絡船概史 青函の定期航路は、文久元年8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復した。維新後は、旧幕軍の軍艦咸臨丸が、開拓使付属船となって青函航路の輸送に当り、他に幕府から引き継がれた船に薩摩藩から献上された洋式軍艦昌平丸がある。開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有し、明治6年には、スクーナー型の木造船弘明丸が、函館~青森、函館~大湊の定期航路を始めて、後に森・室蘭へと延長された。ほかの著名船には、玄武丸(黒田丸)や矯龍丸(ケプロン丸)などがある。○青函連絡船の始まり/国鉄による青函連絡船は、明治41年3月7日の比羅夫丸の就航に始まり、日本郵船で7時間はかかったものが4時間台になった。○車両航送が始まる/北海道の開発が進むと青函航路の増強が望まれ、大正3年に艀船「車運丸」による航走が始まって、同14年8月1日から貨車を直積み出来るようになった。○空襲で全滅/昭和20年7月14日に「翔鳳丸」「飛鸞丸」ほかが、翌日にも「第一青函丸」が、8月10日は代替船「亜庭丸」が米軍機に撃沈され、全13隻が炎上または沈没して全滅した。○洞爺丸台風/戦後復興の象徴として“海峡の女王”とも呼ばれ、昭和天皇の御召船にもなった「洞爺丸」であったが、昭和29年9月26日の台風15号で漂流・転覆、国内最大級の海難事故となった。○青函連絡船の終焉/貨物は昭和46年に旅客が同48年をピークに減少し、同63年に青函トンネルが供用を開始すると3月13日の運行を最後に青函連絡船は廃止された。最終便は、函館側が羊蹄丸、青森が八甲田丸だった。 比羅夫丸 田村丸 開航記念絵葉書 この時に工マークが定められた。 稚泊・青函の両航路を走った亜庭丸 転覆した洞爺丸
第415号 青函連絡船の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:30Comments(0)郷土の語り

2017年07月18日

草鹿農場と軌道跡



第414号 鴻紋軌道跡と草鹿邸     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月17日

マルキ号製パンの跡・補追

マルキ号製パン、水谷政次郎のこと。



第412号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 05:15Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2017年07月16日

マルキ号製パンの跡 1


東洋一のマルキ号パン、パン王・水谷政次郎が作り上げた遠軽町丸瀬布のマルキ通りと水谷町。パン王・水谷政次郎の発願による遠軽町丸瀬布の弘政寺と四国八十八カ所。水谷橋。海軍と関係が深かったマルキ号製パンの小麦農場があった紋別市沼の上の水谷集落。近くは水陸飛行場予定地だった、らしい・・・。
第411号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 10:58Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史

2017年07月04日

知床三堂例大祭


知床三堂祭 6月25日に斜里町の知床三堂祭に参加した。法隆寺の大野管長、京都仏教会の有馬理事長ほか、お歴々を拝顔し、有りがたい読経と説法にあずかった。地元を愛する佐野博さんと故・立松和平さんとの友情に始まった三堂祭、日本の伝統文化に基いた地域づくり、地方発信の典型例である。豪雨、超低温のなか、四百名は超える参加があった。7/17に日経系TVで放映される。 北海道文化遺産活用活性化実行委員会聖徳太子講調査班(北海道文化財保護協会)
第410号 北海道文化財保護協会の太子講調査追補     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 20:32Comments(0)北海道の文化郷土の語り

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 1/3 『鴻之舞』は、アイヌ語の(ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処)に将来の発展を祈念し、(鳥王コウノトリが舞うが如し)と、発見者らによって名付けられた。本年は、大正六年に住友鴻之舞鉱業所が開所して百周年にあたり、紋別市ではさまざまなイベントが予定されている。さて、ここでは鉱業所の開所までの前史について述べる。○鴻之舞の出願競争 さて、大正六年に買山し、後に住友財閥の大躍進を呼んだ東洋一の大金山は、同三年に上藻別六線沢で鉱床が発見され、翌年、元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正五年には元山大露頭が発見され、飯田嘉吉を組合長として操業を開始したのであるが、そこにはまるで小説まがいの鉱区出願競争があった。沖野永蔵と羽柴義鎌は、大正五年三月十三日に試掘許可を得た。これまで秘密裏に運んでいたのだが、沖野が不在中、万事に派手好きな羽柴が一席やってしまった。しかし、招待者は、気もそぞろに緊迫し、祝宴半ばに解散となった。先年には、八十士砂金騒動と呼ばれる騒乱を起こした面々である。さて、飯田組は、翌早朝、最寄りの社名淵駅(遠軽)まで馬車を馳せ、その日は野付牛(北見)に泊まり、翌朝に札幌へ向った。一方、古屋組も早々に札幌へ走ったが、途中、野付牛の駅頭で双方がばったり、互いに相手方の素早さに驚きながら、そ知らぬ顔で汽車に乗った。結局、金にものを言わせた飯田組が主だった鉱業代書人を買収して、相手方の動きを封じ、先手を打って沖野組鉱区の包囲出願に成功したと云う。 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル 北海道鐄業誌/大正13年 現在の上藻別六線沢 元山大露頭跡
第409号 住友鴻之舞鉱業所100周年 1     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 2/3 ○紋別のゴールドラッシュ 枝幸に始まった東洋のクロンダイクは、紋別の八十士や鴻之舞、沼の上と相次ぐ金鉱の発見へ繋がった。八十士砂金鉱/枝幸砂金を採り尽くして四散した山師のひとりが、手で掬えるだけの砂金に出くわしたのは、明治三八年の師走で、尾行までした出願採鉱の争いでは、紋別組と山形組(山形勇三郎)が鋭く対立、これに湧別組が加わった。この騒動では逮捕者を出し、鉱山監督署が介入して共同経営に落ち着いて、大正八年には住友へ売山された。鴻之舞金山/一般に伝わる発見の端緒は、知識があった今堀喜三郎が上藻別を有望とみて沖野に探鉱を委ね、大正三年の六線沢の金鉱発見となったが、このときは低品位で事業化しなかった。同四年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金があると聞き、羽柴と探鉱を続け、翌五年には地理に明るい鳴沢弥吉の協力を求めて、ついに「元山大露頭」を発見した。さて、そもそも沖野へ話したのは、いったい誰か? 丸瀬布町史によると、明治二七年頃に上川近文コタンから渡ってきたアイヌ人の布施イタキレが、ある鉱山師に上藻別の沢で米粒大の砂金が採れると話したところ、共同しようと云われて案内したが、自分を除いた共同経営となり、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。はてさて、操業までの出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か…。沼の上金山/新たな金鉱発見に沸くなか、燐寸用材を伐採する黒川ほか六名が、有望な転石を発見したのが大正五年三月である。翌年には今掘と飯田を加えて試掘の許可を得たが、鴻之舞を知る今掘らは見劣りを感じ、後の大漁を逃がす結果となった。大正十一年には栖原角兵衛の所有に移って高品位な鉱床の発見となり、のちに三菱鉱業が買収して、金鉱整備令後も硅酸鉱として休山せずに操業した。
第408号 住友鴻之舞鉱業所100周年 2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 3/3 ○鴻之舞の売山 相争う不利益と各自の資金不足から、ここに沖野・羽柴・今掘(以上沖野組)、飯田・池澤亨・岩倉梅吉(以上飯田組)に発見の功労者として鳴沢と橘光桜を加えた八人衆の匿名組合が発足した。しかし、余りの大規模さと鉱山長となった吉田久太郎の資金の使いっぷりに事業費に窮した組合は、日立鉱山と幌別鉱山へ露頭下の高品位な鉱石を三万円で売り、急場をしのいだ。こうして日本一の大金山の発見は、たちまち中央の知るところとなり、結局、九十万円をポンと出した住友に売山され、これら発見からの裏表は山師たちの伝説となり、一攫千金を得た八人衆も悲喜交々の後日譚を残すことになった。 百周年記念事業/紋別市 最初の精練所 昭和10年頃 売山契約書 特別展 鉱山開山100周年 開山100周年記念式典 開山100周年記念祝賀会 札幌交響楽団念コンサート 鉱山開山100周年・講演会
第407号 住友鴻之舞鉱業所100周年 3     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年05月10日

網走の捕鯨船


この5/1~5/8に紋別港に寄港した小型のキャッチャーボート 日本の小型捕鯨船の許可船は9隻があり、実際の稼動はうち5隻で、網走海域の業者(水揚げは網走市のみ) は、下道水産(正和丸15.2㌧)、三好捕鯨(第七勝丸32㌧)が、国際捕鯨委員会(IWC)の対象外となっている歯クジラ類のツチクジラを年に各船2頭づつ捕獲してきた。
 水産庁は、「新北西太平洋鯨類科学調査計画案」において、2017年度~2028年度の網走沿岸域でのミンククジラの捕獲調査による目標捕獲頭数を年47頭(調査開始から6年後に中間評価を実施)とした。1986年にIWCによって商業捕鯨が禁止された髭クジラ類のミンククジラ、網走市での捕鯨は、1987年が最後だった。さて、ツチクジラは、クジラ独特の臭味が強く、赤味は酸化しやすく直ぐに真っ黒になり、焼くと硬くなる。いっぽう、ミンククジラの赤身は刺身用になり、尾の身(霜降りの部位のこと)は超高級品として寿司ネタなどになる。かっては紋別市でも「大洋漁業㈱(現マルハニチロ)」や「極洋捕鯨㈱(現極洋)」が、小型捕鯨を行っていたが、1976年の水揚げを最後に見られなくなった。それは捕鯨船団が行う海上解体が違反操業として一斉摘発されたことによる。陸上解体では、操業効率が悪く、採算性に劣っていた。今またミンククジラの商業捕鯨が認められ、また、より需要も高まれば、紋別市での解体場の設置、水揚げと捕鯨の復活があるかもしれない。
第406号  キャッチャーボート      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2017年04月16日

三平汁と石狩鍋




〇身近な伝統食 先だって某観光ホテルに宿泊したときに「三平汁」と称してサケ汁を客に提供していた。味噌仕立てか、そうでないかは別にして、サケは「石狩鍋」であり、『本来の三平汁は、漬けたニシン(冷温に保てなかった昔は、生が傷んで酸味があり、また、保存用に付け込んだ)を使いますヨ』と、そっと教えてあげた。 さて、サケの伝統食と云うと塩サケだが、薄塩の「新巻」と「塩引」とは違う。「塩引」を何度も手返して漬け直し、熟成させたのが「山漬」だ。近年の健康志向で塩辛いものは敬遠されがちだが、聞くところによると網走の業者では、「山漬」の生産が追いつかない時もあるらしい。別海町西別の「山漬」は、徳川将軍家へ献上され、戦前は、カムチャッカの「あけぼの印(ニチロ)」の塩サケが有名だった。 明治30年頃の開拓の手引書に『春ニシンと、若ブキを一緒に煮て食べると美味しい。』とあり、湧別の入殖者が、越冬の食料に困り、川でチカを獲って食べたところ、『臭くて見てくれは悪いが、とても美味だった。』と伝えている。また、厳冬期に湖沼で釣れるオオマイ(大きなコマイのこと)の鍋は、たいへん美味しく、身近で当り前なところに伝統食は引き継がれている。昔は、この辺りの浜の労働者が、ホタテ貝柱(乾貝柱)を煮熟したときの残り汁をオニギリにつけて食べたりもした。 戦前の塩サケの製造 鮭鱒聚苑/s17年
第404号  三平汁と塩サケ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:28Comments(0)郷土の語り

2016年10月05日

鴻之舞金山のお話し

また、講演します。今度は、金山のお話し。



第―号外 鴻之舞金山のお話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/ 
  

Posted by 釣山 史 at 21:13Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2016年09月30日

紋別聖徳太子講


誇るべき伝統文化の継承、顕正寺の聖徳太子講 ~無形民俗文化財調査が行われる/紋別市 この28日に道文化財保護協会、道建築士会の4名が、紋別聖徳太子講組合(紋別建設業協会)の協力を得て、100年を越えて顕正寺に伝わる紋別聖徳太子講の文化財調査を行った。文化庁の「文化遺産を活いかした地域活性化事業」の一環で、北海道文化遺産活用活性化実行委員会(道文化財保護協会、道建築士会、NPOれきけん)は、昨年から太子講の調査を始めて、また、市内では旧上藻別駅逓所や草鹿邸の簡易耐震診断なども行っている。太子講とは、聖徳太子が広く仏教の興隆に努めたので、親鸞は、太子を教主とした。親鸞は、救世観音(太子は化身とされる)の夢告を得て浄土宗祖・法然の専修念仏門に帰依し、太子が、浄土系、特に浄土真宗で尊ばれる。これに対し、民間信仰では、太子が、大寺院の建設のために木工、土工、紙漉きほかを振興したので、大工や鳶ほかの技能諸職の神となった。これら聖徳太子を奉賛するのが太子講である。当地では、明治41年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、孝養太子像が厨子に奉安されている。この太子像の面は凛として彩色が華やかで、厨子は非常に精巧立派であり、天明元年の太子画もある。昔は、大工など技能職たちによって夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。この日の参拝者は講中40数名で、オホーツク管内では、ほかに滝上町や網走市、美幌町などの建設業団体が、同様の太子講を行っている。太子講は、大正10年から11年にかけた聖徳太子の遠忌千三百年祭に発するものが多く、紋別市では、それよりも15年ほど遡り、道内では古い伝承である。本堂には国宝・知恩院から貸与された屋根瓦が展示されていて、地元にいながら、まだまだ知らないことに驚かされた。紋別聖徳太子講は、他に誇るべき伝統文化であり、末永く継承され、文化遺産を活いかした地域活性化の一助となることを期待する。
第400号 紋別の太子講     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 06:43Comments(0)郷土の語り紋別の歴史

2016年09月19日

士別市 教信寺の象さん 


士別市 教信寺の木鼻は象さん 北海道で象鼻は余り見かけない 左右の形も違う

第399号 象さん、ゾウさん     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

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2015年08月28日

冬のはきもの


つま子 清水町郷土史料館 でんぷん靴 芦別市星の降る里 百年記念館 大矢ボッコ靴 置戸町郷土資料館 冬のはきもの ・わらぐつとゴム長靴 琴似屯田兵は、西南の役の近代軍装にあって、白脚絆にわらじという異様な出で立ちであった。明治25年の屯田兵志願者心得に官給品は脚絆・足袋・わらじとあり、最初期の軍装は「わらじ」と「つま子」が標準だった。さて、昔は雪が深いときは「カンジキ」を使い、また、わらで作った長ぐつ、「深わら靴」を履いたりした。ゴム長靴は明治からあったが、この頃のゴム底は冬は固くなってすべりやすく、作業の時やたくさん歩くときは「つま子」と云うわらの靴を履いたりした。また、明治の後半には都会で丈の高い「雪下駄」が使われるようになり、下駄の歯には爪がついていた。一般のひとがゴム靴を履くようになったのは、日本でも加硫技術が浸透し出した大正中期以降で、昭和に入って安価なゴム靴が出回るようになり、劣化防止の打粉を施したゴム靴は、北海道では、俗に「でんぷん靴」と呼ばれていた。ゴム長靴は、今もある大正8年創業の小樽の「三馬ゴム」が有名である。 ・置戸町指定文化財「大矢ボッコ靴」 大正時代に置戸の「大矢足袋工場」では、ズック靴に「北海道護謨(のちの三馬ゴム)」のゴム底を張り、「大矢ボッコ靴」として売り出した。これは防寒ボッコ靴、開墾靴として東北から樺太まで広く通販され、使いやすいと評判になり、山仕事には欠かせない大ヒット商品になった。後に札幌市豊平区へ転出して「大矢ゴム」を設立し、さらに東京へと進出したが戦災で焼失したという。
第384号  靴の話し     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年06月14日

滝上町の奇岩壁


・北海道地質百選 滝西−雄柏−上立牛の平行岩脈群 マンモス岩・ロウソク岩・屏風岩・夫婦岩・狐山など、浮島峠を越えた滝上町滝西から紋別市上立牛にかけて、尖塔状の山が幾つも見える。 特に滝上三区をまたぐ林道と町道づたいの岩崖にはワクワク感がいっぱい。
第375号  滝上町の奇岩壁     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2013年02月11日

イモ版・香川軍男




























私の博物館コレクション イモ版画家 香川軍男展 ~汽車とアイヌ文様が大好きだった少年 北方圏国際シンポジウム協賛行事 とき 平成25年2月11日~2月24日 ところ 紋別市立博物館市民ホール 主催 北海道文化財保護協会員 山田雅也 ◆もんべつ育ちの版画家・香川軍男 大正4年7月5日、豊頃町大津に生まれる。父は鉄道員だった。平成14年9月18日死去、享年87歳。 ジャガイモを使ったいわゆる「イモ版」で有名な故・香川軍男さんは、当地の小学校に入学し、少年時代を過ごしたという。汽車を描くのが大好きな男の子だった。 近所にはアイヌ人の集落(元紋別コタン)があり、アイヌの子ども達との遊びの中で、自然とアイヌ文様に触れ、そして強く魅かれたと云う。これが美に目覚めた始まりだったかも知れない。 香川さんの作品は、イモ版という限られた空間のなかで、一見、無骨にも見える力強い刻線は繊細でもあり、川上澄生の知遇を得て、棟方志功に絶賛された。 ここでは彼がイモ版に傾倒するきっかけとなった年賀状作品を中心に紹介する。 『いも版AINU帖』あとがき 過去茫々、尋常小学校のとき、コタンからかよっているともだちの持っていた、文様を焼き火箸でつけたガッケ(竹を割ってつくった遊び道具)が欲しかった。ほんとうにいいものだった。彼はどうしているだろうか。 1点づつですが、次のアーティストも紹介します。 鴻之舞で暮らしたモンキー・パンチ モンキー・パンチ(本名:加藤一彦)は、昭和12年に浜中町の漁師の家に生まれた。 アメリカン・コミックスに強い影響を受けて漫画を描き始め、貸本出版社でのアルバイトを経て昭和40年に本格デビュー、同42年から「ルパン三世」の連載を始めて代表作となる。 峰不二子は初恋のヒト、次元大介は親友がモデルと云われ、こよなく故郷を愛する漫画家である。幼少の頃の数年間を鴻之舞で過ごした。 鉄道官舎に生まれた手島圭三郎 昭和10年に現在の紋別市上渚滑町下渚滑駅官舎で生まれる。 北海道学芸大学札幌校を卒業し、中学校の教師を経て昭和52年に版画家として独立、同57年に「しまふくろうのみずうみ」で「絵本にっぽん賞」ほか多数を受賞し、以後、数々の賞に輝く。 ほかの






第337回   紋別にゆかりの版画家           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2012年03月15日

ホタテの2番汁

◆ホタテエキスの濃縮技術は紋別地方から(改)

 さて、カキの効能は古くから知られていて『ひとつぶ300メートル』のCMは有名だ。大正8年に江崎利一はカキエキスからグリコーゲンを抽出し、同10年に『栄養菓子グリコ』として創業を開始した。
 同じく栄養価の高いホタテをどうにか活用できないか?。北海道水産試験場稚内支場は、昭和9年のエリザ・クラブ商会頓別工場での予備試験をかわきりに、従来、廃棄されていた乾貝柱の製造工程で発生する二番煮汁から、グリコーゲンを抽出するための製造試験を開始した。
 昭和10年は、北海道漁業缶詰㈱紋別工場において、
 ①煮汁腐敗防止の試験
 ②製造法の試験
 ③グリコーゲン含有量簡易鑑別法の試験
 ④調味料に関する試験
を行い、このときの真空蒸留濃縮法は、現在へと受け継がれている。
 つづいて昭和11には、湧別の北洋水産工業㈱で製造したサンプルを薬品会社数社に発送して協力を仰いだ。
 間もなく既製の真空蒸発鍋が開発されたこともあり、ホタテエキスの濃縮事業が各地で行われるようになって、紋別では昭和11年に創業の昭和産業㈱が「帆立貝煮汁濃縮液」として販売している。
 これらの多くは主に栄養剤とされ、また、調味料にも利用されたが、昭和10年頃の北見物産協会のパンフレットに北見のお土産として、常呂と紋別の「帆立センベイ」をあげており、ひょっとしてホタテエキスを使っていたのかも知れない。




第296回 ほたてエキス          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2012年03月04日

イモ版・香川


予告:釣山コレクション、香川軍男の原点 昨年度は、以前より行ってみたいと思っていた「野付通行屋遺跡」を訪問、自費制作による絵葉書を作成し、また、長年、やりたかった地元に関係する南極講演が開催できた。 さて、ことしの目標であるが、北海道文化財保護協会で、紋別市の旧鴻之舞金山を巡見しようとの案が持ち上がり、実現されることを心待ちに準備を進めている。そうしてもうひとつは、当地で育った北海道を代表する版画家・香川軍男展の開催である。 彼は果敢な少年期を当地で過ごしたもので、それを知った数年前から着々と準備を進めていたもので、ちょっとした展覧会に耐えうる程度の作品は取り揃えた。数十点はあろうか、デッサン、燐票?(蔵書票代わりであろう) 、手作りの私家本、そして香川の原点である薯版年賀状に、『いもほりの記』自筆原稿ほかの数々で、中には発行番号の無いサイン本があり、贈呈されたものであろう。 秋から年末の間をめざしたい。 香川は『いも版AINU帖』あとがきで、 過去茫々、尋常小学校のとき、コタンからかよっているともだちの持っていた、文様を焼き火箸でつけたガッケ(竹を割ってつくった遊び道具)が欲しかった。ほんとうにいいものだった。彼はどうしているだろうか。 …と語っている。























第295回 イモ版・香川軍男          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2012年02月10日

南極、白瀬の映画と講演

2月20日(月)16:00 紋別市文化会館
*ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊
*100年前の映像と元観測隊員による講演南極 今昔物語 
北見工大・南極OB会 佐々木 正史 氏
紋別市役所水産課 Tel:0158-24-2111(内259)


はじめに 皆さんこんにちは、さて、あの白瀬南極探検隊が南極に上陸して、今年でちょうど100年になります(1912年1月16日)。今回、どうして南極のお話しをすることになったのか・・・、それは我が紋別市と南極観測にはゆかりがあり、それをあらためて皆様に知ってもらい、そしてこれからも語りつないでいきたいと考えたからです。 白瀬矗は占守島で越冬し、また、カムチャッカを探索するなど、のちに当地でも盛んになった北洋漁業の開発に貢献した人物であり、北海道庁の官吏でもありました。 また、以前に市内にあった通称流研(北大低温科学研究所附属流氷研究施設)からは、観測隊に何人もが参加していて、オホーツク流氷科学センターには、第23次隊に参加した石川正雄さんが持ち帰った「南極の石」が展示されています。 そして紋別には、第一次観測隊のソリ犬として活躍し、悪天候のために南極に置き去りとなって死んだ樺太犬「紋別のクマ」がいて、 このように当地と南極との関わりはたいへん深いのです。 この度は、南極観測に参加された元隊員らによる「南極OB会」さまの全面的なバックアップにより、ドキュメント映像「南極記・白瀬南極探検隊」を上映し、元隊員の北見工大・佐々木正史先生には「南極のおはなし」をご講演いただきます。 また、エントランスホールでは、「白瀬とタロ・ジロ、南極写真展、紋別のクマ」を開催しており、皆さまには、楽しいひと時をご堪能いただければと存じます。
◆ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊 日活の前進である「Mパテー商会」は、大隈重信後援会長の依頼により、田泉保直技師を派遣してドキュメント映像「日本南極探検」を撮影した。これは大正天皇ほかの皇族もご上覧になられて、また、白瀬は探検によって負った莫大な負債を返済するため、この映画をたずさえ、全国各地を講演して歩いた。今回の映像は、南極OB会がこれに他資料とナレーションを加えて再構成したものである。
◆ご講演者のご略歴 佐々木 正史(ささき まさふみ) 1970年北海道大学理類入学、さらに工学部機械工学第二学科卒業 1979年北海道大学大学院工学研究科博士後期課程修了、工学博士 同 年日産自動車㈱入社、総合研究所 1989年同 社、総合研究所主任研究員 1999年同 社、総合研究所シニアリサーチエンジニア ~燃費と排気の極限での両立を目的として自動車用ガスタービンエンジンの研究開 発に従事。その後、燃料電池自動車の研究開発に従事。 2000年北見工業大学機械エ学科 教授(現 職) 2003年11月~2005年3月 第45次日本南極地域観測隊越冬隊員 専門・研究内容 熱工学(燃焼工学、伝熱工学)、動力システム(ガスタービン、燃料電池)、大気環境(温暖化物質)~自然エネルギー利用システム、環境、地球温暖化、温暖化物質など。 ドキュメント映像 南極記・白瀬南極探検隊&特別講演 学びから 夢が生まれる 道民カレッジ連携講座










































第 - 回 紋別市と南極のゆかり         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2012年02月08日

南極探検と樺太アイヌ



明治の南極探検6 ○南極探検で活躍した樺太アイヌ
・樺太アイヌの山辺安之助(ヤヨマネクフ)は、樺太千島交換条約により現在の江別に渡って、対雁学校に学んだ。日露戦争では、日本軍に協力してアイヌ人で最初の勲八等瑞宝章を受ける。探検隊の募集のときには富内村の総代で、同族の地位の向上を志した危険を押しての参加だった。
・花守信吉(シシラトカ)は多来加村の総代で、従軍の経験もあり、日本語が話せた。探検では犬ゾリ隊の御者、海豹狩りなど大活躍であったが、帰還後は不遇であった。
・第二次探検へ向けたソリ犬の補充では、山辺と同郷の樺太アイヌである橋村弥八が、シドニーまで樺太犬に随行したが、探検隊には参加できなかった。
・探検では、樺太犬の毛皮のコートと寝袋、アザラシ皮のブーツが非常に重宝したという。
アザラシを仕留めた花守、山辺、柴田ら 出典「南極記・T2年」 花守?流氷を解かして真水にした 出典「南極探検・T2年」





第293回  樺太アイヌの南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2012年02月05日

白瀬の一次探検2


明治の南極探検 5 ○シドニーでのキャンプ生活 1 明治44年5月1日にシドニー港へ入り、翌日、白瀬隊長と野村船長は日本領事館を訪問した。隊員らの上陸が許されたのは、さらにその翌日で、この間、斎藤総領事がオーストラリア政府と掛け合っていたのだ。 白豪主義のオーストラリアでの露天生活は、ある意味、南極探検よりも辛かった。特に中国系への排斥は強く、外見が似た日本人も同様に扱われたのである。総領事からは、注意事項が述べられ、不便はあるがくれぐれも日本人としての品位を保つよう要請があった。 領事館は開南丸の案着を外務省へ、白瀬隊長は探検断念を大隈後援会長へ電信した。5月17には、経過報告と資金調達のために野村船長と多田書記長が日本へ向かった。 さて、心配していたとおり、地元のサン新聞は、『予備軍人による探検隊の名を借りた工作船だ』とか、『単なる捕鯨の密漁船で、彼らはまるで猿だ、ゴリラだ』と書きなぐった。 資金に乏しい探検隊の一行らは、露天生活を始めたが、物珍しそうに指差すもの、キャッキャと笑うもの、日常の買いものでは、腐ったものを売りつける、数をごまかす、挙げ句の果てには全く相手にしてくれない。 白瀬隊長などは、中国人と間違われないように軍装で出歩くようになり、それはそれで奇異な光景であった。 出典「白瀬中尉探検記・S17年」 シドニー野営中 「絵はがき」 野村船長ら開南丸の船員たち





















第292回  白瀬探検隊のシドニーでのキャンプ生活         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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2011年12月24日

白瀬探検隊と北海道のゆかり


明治の南極探検 5 北海道にゆかりの白瀬南極探検隊員 北方開発に貢献し、北海道庁の官吏でもあった『白瀬矗』が南極に上陸してちょうど100年(1912年1月16日)、そのほか北海道にゆかりの者がいた。それは北海道人の陸上隊員・吉野(前述)と野村船長らである。  開南創刊号・S14年 ①白瀬隊長、道庁時代のエピソード 白瀬は、明治35年10月から約2年ばかり、北海道庁の教育課にあったが、このときのエピソードを記したのが「北海魔境・雷電峠決死旅行(探検世界・明治42年)」である。 それは岩内支庁において、翌朝8時に実施の教員試験問題が届いていないという緊急事態が発生し、白瀬は急きょ、札幌を発したが、険しい稲穂峠の麓に至った時には、すでに午後8時となっていた。山中では羆と出くわし、潜んでいた白瀬を踏んで乗り越えて行ったとか、死美人と遭遇したとか…。 このとき無事に試験問題を送達し得た白瀬は、報奨されている。 ②野村船長、北海道とのゆかり 野村直吉船長は、流氷の中で北前船を操船した経験を生かしたいと南極探検に応募した。父も兄も北前船の船頭で、隊員の募集の時には、直吉本人も函館の兄のもとで船乗りをしていた。雇主の能登の西村屋は、幕末から厚岸と函館に支店を置いて廻船問屋として活躍していた。 日露戦争では軍用船の窮地を救い勲章を授与されており、冷静沈着、すぐれた技術と判断力を兼ね備えていた。小さな開南丸での大航海は、英国地理学協会で称賛されている。 また、第2次探検際に厳寒の海中で海豹と格闘した柴田兼治郎水夫は、郡司成忠らと千島・カムチャッカへ渡った経験があった。









































第290回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

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