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2008年02月20日

日本キリスト教会による洞爺の孤児院

~北海道の開拓と社会事業 1

◆伊達教会と北海孤児院
 さて、浦臼の聖園農場や今金のインマヌエルなど、殖民期におけるキリスト教集団の果たした役割は大きいが、中でも伊達士族団による「胆振伊達教会」は特異な例に挙げられる。それは信徒となった旧亘理領主の伊達邦成と元家老で郡長の田村顕允が後に地元神社の祭神となったほか、道内で最初の児童福祉施設である「北海孤児院」を建設したことによる。
 明治19年に結成し、翌年には献堂を終えた教会が孤児院の建設を計画していたところ、同24年10月に濃尾地震が発生した。12月に現地へ入った林竹太郎牧師はその遺児十数名を連れ帰り、地元孤児らと集団生活を始める。協力者には伊達主従のほか、東北学院長の押川方義や室蘭病院長赤城信一らがおり、林を院長に虻田村字セタイトシマモイに荘厳な院舎を建築し、明治28年には洞爺湖畔の未開地600町歩へ小作数十戸が入植した。
 それは孤児院を農場での収益により経営しようとしたものであったが、明治33年の記録では虻田村字ニナルカの牧場で、牧草地一万五千坪、放牧地三十万三千八百坪、畑地一万五千坪、他に三万坪の土地があり、雄雌で24頭の馬が飼育され、児童は多いときで24・5人が収容され、同年には林の奔走により仁成香尋常小学校が設置された。
 当初は開墾伐採された木材の販売が好調であったが、それが終了すると収入は小作料のみとなり、その後の事業にも次第に行き詰って、また有力支援者の転出や死亡と神道の国教化政策もあり次第に教会は孤立化して行く。明治37年には拓銀の競売となり、廃院されてしまった。
 現在は伊達幼稚園として復活した孤児院も、このように存続期間が短く、また、その後の教会活動の長い不振もあって余り広くは知られていないが、この北見紋別にも関係人がいたことから紹介する。
 水戸士族の島竹(片野)貫一は明治29年に国内最初の民間鉄道である日本鉄道会社へ入社、同31年には退職して「北海孤児院」の教育係として来道した。明治32年に渚滑原野へ入り、翌33年には駅逓取扱人を命ぜられて北見紋別へと転じたが、当時は胆振が牧畜の先進地であって、孤児院牧場もあったことから駅逓経営に必要な馬の取扱いと駅員としての経験が買われたと考える。
(第19回歴史と郷土/19~21北海道の開拓と社会事業)
                                                                  

Posted by 釣山 史 at 21:56Comments(0)北海道の歴史

2008年02月20日

樺太・オタス写真館の新発見

~半澤絵はがきの見分け方

 「半澤中」が撮影した樺太の貴重な作品群は、「知床博物館研究報告20号」に詳しく、また、北大の写真集「明治大正の北海道」に一部リスト化されていて、絵はがきなどの販売写真は約100点にも及ぶと云う。
 撮影者と時期、場所がほぼ特定され、また、「オタスの杜」にあった写真館は、他に比べて当時の先住民の様子をより自然に残していることから、民族学の研究には非常に貴重なものである。そこで筆者は古書店などの店頭でも簡単に識別できる台紙による区分法を開発した。大きく分けると次の4種となる。

 右上/目印はスワンマークであるが、判別の決め手は「半」を意匠化した「丸にY印」である。右下/「POST CARD」の文字に注目、トレードマークの「丸にY印」。左上/「POST CARD」と中央下部に右記と違うスワンマークが描かれている。左下/同じ「POST CARD」だけ、「郵便はがき」の字体と写真の彩色、カットも微妙に違いがある。
 右の写真はもっとも有名なものだが、上記の台紙いづれにも見られるものである。
 これにより下記が新たな半澤写真と確認されたが、上はめずらしい組写真で、下には「庄内商店」とある。




                                                    第18回オタスの写真
関連:第7回「オタスの杜の教育所と写真館」あり

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:54Comments(0)樺太・千島の歴史