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Posted by さぽろぐ運営事務局 at

2018年05月24日

北海道製麻会社の麻布



北海道製麻会社の麻布 明治20年に創立の『北海道製麻会社』は、同24年から工場の操業を開始した。もっぱら海外に頼る麻製品を国内で生産すべく亜麻を輸入移植して、製繊技術はフランスから導入した。最大の供給先は軍部であり、日清・日露戦争を経て、明治40年に日本製麻会社と合併、帝国製麻会社となる。この札幌工場は、今はなくなった「テイセン ボウル」があったところ。麻布には、“ロイヤル ネイビー”とあり、イギリス軍用に輸出したものか。
第436号 北海道製麻          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:00Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2018年05月04日

道の歴史 講演会

2018年 IPAC主催講演のご案内


 北海道150年、
 北の大地を拓いたさきがけの“みち” 縄文・アイヌ期から近代の“みち”へ





号外         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

2018年03月31日

北の大地を拓いた先駆けの”みち”



北海道150年事業 認定 (講演)北の大地を拓いた先駆けの”みち” ~縄文・アイヌ期から 近代の”みち”へ~ とき 2018年6月15日(金)13:00から ところ 札幌市中央区北2条西7丁目 かでる2・7、大ホール 参加料 無料 主催 IPAC 一般社団法人 建設イノベーション推進機構 問い合せ TEL&FAX 011-731-3750、Mail ipac-info@ipac.or.jp ホームページ URL:http://www.ipac.or.jp/ この講演では、土木技術による社会基盤である“みち”の成り立ちを土木技術史の観点のみならず、考古・歴史などの他の研究分野を含めた時空的広がり・技術横断的な視点から、その背景を多角的に学び、そこから未来志向の動機を醸成することを目的としています。現在の北海道の発展は、明治以降の近代技術による道路・鉄道の整備から始まります。この“みち”づくり構想は、アイヌの人びとや更に先人の縄文期の道を歩んだ松浦武四郎等の蝦夷地調査によります。これら先人が築いた長い“みち”づくりの歴史を辿り、現在と未来の交通路のあり方を考える場とし、各分野の研究成果から明らかになった“みち”の成り立ちを縄文からアイヌ期、近世・近代の各時代を追って、ご専門の先生に解説していただきます。 ○基調講演 佐々木 利和 氏/北海道大学アイヌ・先住民研究センタ-客員教授、文学博士 ・演 題:アイヌの人びとの“みち”のことなど 今では知る人も少なくなりましたが、少し前の国鉄の駅名には、釧路、蘭留、咲来、留辺蘂、札鶴、室蘭、留産などというのがありました(読めますか?)。いずれもある共通なアイヌ語をもつ駅名なのですが、これらを通してアイヌの人びとの“みち”について考えてみたいと思います。 ○講演1 乾 哲也 氏/厚真町教育委員会軽舞遺跡調査整理事務所、学芸員 ・演 題:縄文時代からの北海道内陸ルート“キラキラ土器の道” 北海道胆振管内東部に位置する厚真町には、夕張山地南部からの太平洋に注ぐ二級河川厚真川が町内を南北に流下している。平成14年度より始まった厚真川上流域での厚幌ダム建設事業に伴う埋蔵文化財発掘調査では、出土した縄文土器に含まれている鉱物から富良野盆地ないしは十勝川上流域から運び込まれた土器が多数出土しており、以降、中世アイヌ文化期に至るまで厚真川-鵡川-空知川などの利用した約6,000年間にも続いた内陸ルートが判明しました。 ○講演2 中岡 利泰 氏/えりも町郷土資料館、館長 ・演 題:蝦夷地 北方警備の道 猿留山道 江戸時代18世紀末、蝦夷地周辺、千島列島にはロシア等の外国船が頻出、アイヌとの交易、上陸、襲撃略奪が生じ、江戸幕府は警備拡充の必要に迫られました。寛政十一(1799)年、幕府は蝦夷地を直轄、警備に不可欠な道として海岸線の難所に山道、猿留山道(えりも町)、様似山道(様似町)を開削したのです。伊能忠敬が測量、松浦武四郎が探査、紀行文・絵図から猿留山道の姿をご紹介します。蝦夷地における最初の山道開削は、近藤重蔵が指揮したルベシベツ山道(1798年:広尾町)。 ○講演3 黒岩 裕 氏/札幌市有形文化財、北海道遺産認定物件、旧黒岩家住宅(旧簾舞通行屋)管理者 ・演 題:本願寺街道と簾舞通行屋~歴史と変遷 札幌市と道南を結び山間部を縦断する国道230号線、その原形 は明治4年に完成した「本願寺街道」です。5年には宿泊休憩所として開拓使が簾舞に「通行屋」を開設。しかし6年に「札幌本道」の完成により利用が激減し、忘れ去られる状態に・・・。“歴史は繰り返す”凡そ90年後に札幌と中山峠間の「定山渓国道」改良工事が奇しくも簾舞を基点に、のちに通行屋も文化財となる。道路と古建築の歴史をスライドにして紹介します。 ○講演4 山田 雅也 氏/北海道産業考古学会、北海道文化財保護協会 ・演 題:北海岸と中央道路に見る 最奥の駅逓所 駅逓所は、幕藩時代に会所、運上屋などと呼ばれて宿泊と人馬継立を行っていた。明治5年に『駅逓場』と称して開拓使の官下とされ、駅逓取扱人を配置し、多くは郵便局を兼ねて逓送も行った。最奥の“北海岸(オホーツク海)”では、旧来からの駅逓所が沿岸を結んでいたが、内陸を横断する“中央道路”が開削されると旭川から網走までの間に12の駅逓所が配置された。実際の移民旅行の様子を交え、道東奥地の駅逓所を解説する。 ○講演5 佐藤 卓司 氏/小樽市総合博物館主査、学芸員 ・演 題:開拓の進展を願った“鉄のみち”~北海道官設鉄道 明治時代に入ると北海道開拓使を設置し外国の近代技術を取り入れ開拓を進めます。事業の一つである鉄道建設はアメリカ人による技術指導で石炭輸送を目的に敷設されます。鉄道網は将来、石炭輸送だけではなく人や生活物資の輸送手段として交通の要になることを想定していました。その後、私設鉄道は産炭地や中央部への路線拡大を進めます。一方、道庁鉄道部は田辺朔郎を部長とし上川線、十勝線、釧路線などの路線敷設により開拓を促進します。本講演では北の大地を拓いた鉄路の“みち”について解説します。 開拓使時代の室蘭新道及銭函小樽間新道 ノ開墾実況 北海道道路誌 大正14年刊  瀧ノ上市街  官設駅逓所 渚滑瀧上の分村 大正7年刊
第435 北海道150年 道の歴史         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2018年01月08日

屯田兵の備品箱 レア



日清戦争 屯田兵・臨時第七師団備品箱 明治29年5月、札幌に第七師団が設置され、初代師団長は、永山武四郎少将だった。明治31年12月には全道で徴兵令が施行され、第七師団の鷹栖村への移駐が決定する。そうして明治34年11月の一部完成に伴い、歩兵第26、27、29連隊が先行移転、翌35年10月には司令部が移転した。さて、明治28年3月に日清戦争へ出兵のため、屯田兵による臨時第七師団が編成された。極めて限られた時代の遺物であり、たいへん貴重である。
第434 屯田兵・臨時第七師団備品箱         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年12月16日

郵便ラッパを入手



郵便ラッパと逓送 幕藩時代は会所、運上屋、通行屋などと云い、宿泊と人馬継立を担い、明治5年に「駅逓場」と称して開拓使管下とし、駅逓取扱人を置いた。駅逓の多くは郵便局を兼ね、逓送路線では逓送業務も行った。これは“郵便ラッパ”と云って郵便逓送集配人が獣避けや連絡用に使用したもので、北海道庁の刻印があることから駅逓取扱人の所有だったかと思われる。また、逓送人は、強盗などに備えて“郵便物保護銃”を携帯していた。 大正時代の逓送 『その頃の逓送は、現金などを、駄鞍につけて運ぶ者と、普通小包を馬車で運ぶ者と二種類あって、何れも二人一組でした。用心のためにピストルが渡され、六連発の弾丸を込めて腰に、皮のバンドで下げていました。 中略 汽車の時間表のように、出発到着の時間が定められており、時間に遅れて到着すると、延着理由書を書かされました。夏は延着することはなかったが、冬は吹雪で度々遅れたことがあります。逓送馬は殆ど土産子で、居眠りして落馬し、あぶみから足が外れず、仲間に助けられたこともありました。後略。』 一ノ橋、田所駅逓々送夫、千葉正胤談/西興部村史
第433 郵便ラッパと逓送         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
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2017年11月16日

アイヌ民族文化祭 in 旭川 



第30回 アイヌ民族文化祭に参加して この十一月四日(土)、旭川市民文化会館において北海道アイヌ協会が主催する「アイヌ民族文化祭2017」が開催され、私は、三十回目という節目の折りに初めて参加させて頂いた。さて、文化祭は、北海道アイヌ協会加藤忠理事長の『イランカラプテを北海道のおもてなしの言葉として広め、ユネスコ無形文化遺産であり、国指定重要無形民族文化財であるアイヌ古式舞踏などの鑑賞を通じて、アイヌ民族の自然観、精神世界の理解を深めてもらい、また、アイヌ民族が先住民であるとの認識を高めて、それで多文化共生社会の実現となることを望む。』との挨拶に始まった。アイヌ古式舞踏では、「旭川チカップニアイヌ民族文化保存会」の多くの若手らが、動植物を表したチカプウポポ(鶴の舞)や激しさの余りに心臓破りの踊りと云われるフッタレチュイ(トドマツの踊り)などを披露した。「阿寒アイヌ民族文化保存会」は、今回は小中学生を中心に構成され、チロンヌップリムセ(キツネの踊り)が可愛らしく、クリムセ(弓の舞)は、とっても勇ましいものだった。〝旭川〟と〝阿寒〟の違った鶴の舞が観覧でき、お得気分に浸りながらアイヌ文化が確実に若者たちへ引き継がれて行くことを確信したのだった。続いて国立アイヌ民族博物館設立準備室の内田祐一氏(元帯広百年記念館副館長)による講演「アイヌ文化のなかの自然観」では、自然=カムイ、アイヌモシリとカムイモシリについてのアイヌ民族の自然観が、キタキツネやシマフクロウを題材に語られ、同じカラスでも〝ハシボソガラス〟は賢くエライ神であり、〝ハシブトガラス〟は、ろくでもないものという話に興味を引かれた。そうして二人組みの男性ボーカル・HEAT VOICEと阿寒コタンの若者たちによるトーカリップ(マリモ)体操が会場を盛り上げ、最後にポロ リムセ(輪踊り)が、感動的にフィナーレを飾った。こうして楽しくとても有意義な一日を過ごしたのであった。 フィナーレ みんなで大きな輪をつくって踊りましょう
第432号 アイヌ民族文化祭 in 旭川         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 19:00Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年11月13日

二宮尊徳像と国家主義



あちこちに二宮尊徳像が建てられた理由 昭和10年に中央報徳会、大日本報徳社、全国町村長会、帝国教育会ほかの団体が共同し、全国で『二宮尊徳翁八十年祭』を開催した。ときの内相は、地方官会議において大いに報徳精神を喧伝し、これを契機に各地にたくさんの尊徳像が建立されるようになった。明治41年に『戊申詔書』が渙発され、日露戦争後の個人主義や社会主義の台頭を戒め、勤倹力行して疲弊した地方の再生に当たろうとした。この〝地方改良運動〟を支えたのが「二宮尊徳」の〝報徳仕法〟で、本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱える暮らしを助けるものであったが、この報徳精神を内務行政に取入れたのは、のちに「大日本報徳社」の社長となった〝一木喜徳郎〟が内務次官のときで、こうして国家主義の重要なカテゴリーとなって行った。 昭和12年7月に建立したが、同17年10月に応召され、同18年5月に陶製を再建した。当別町の旧弁華別小学校
第431号 二宮金次郎の像      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月29日

もんべつ沖揚音頭(再)

・昭和23(1948)年   有志による団体がなる。
・昭和38(1963)年   第1回もんべつ流氷まつりで公演。
・昭和47(1972)年   正式に保存会を結成する。
・昭和47(1972)年   市民会館のこけら落としで公演。
・昭和47(1972)年   紋別市補助団体となる。
・昭和59(1984)年   第7回道民芸術郷土芸能際に参加。
~以来、記念行事や流氷まつりで公演。
・平成20(2008)年   作曲家・寺嶋陸也がほぼ原曲どおりに作曲、翌年CD化。
 毎年、公演している「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史がある北海道の冬まつりであり、歴史的地域資産を活用した地域振興である。






◆北海道文化財保護功労者表彰
①目 的
 北海道内の文化財(未指定を含む)について、その保存・保護及び保護思想の普及に関する実践功労を顕彰し、文化財保護の普及に資することを目的とする。
②表 彰
 北海道内の文化財の保護及び保護思想の普及に関し、多年にわたり実践功労のあった者又は団体に文化財保護功労賞を贈り表彰する。
③紋別関連の受賞
・昭和41年 第2回   池澤憲一
・昭和45年 第6回   村瀬真治
・昭和47年 第8回   五十嵐文伍
・昭和59年 第20回  紋別郷土史研究会
・平成26年 第50回  上藻別駅逓保存会
・平成29年 第53回  紋別沖揚音頭保存会
◆推薦者
 山田雅也=紋別市役所、北海道文化財保護協会員(前理事)、北海道史研究協議会員(幹事)、北海道北方博物館交流協会員、北海道産業考古学会員、産業考古学会員(全国)、日本民俗建築学会員ほか。専門は地域史と産業史、北海道の殖産、拓地殖民の歴史に詳しい。
 紋別の水産界では、この数年、災害、不漁と負の話題が多い中、ここで明るい話題をと思い推薦した。保存会の構成員である漁協女性部が本年で60周年、お披露目となる来年(流氷祭り)には、漁協本体が70周年を迎える。

平成二十九年度 北海道文化財保護功労者 郷土芸能紋別沖揚音頭保存会 北海道を代表する北海道らしい魚介類は、古くは「三魚」と云われた鮭、鱒、鰊であり、幕末頃に大きな漁獲を可能にする「鰊建網」が開発されると漁労は大型化し、こうして多くの漁夫が必要になった。沖揚音頭は、鰊漁の水揚げから網起こし、汲み出しほか、共同作業の拍子を合せる掛け声唄で、各地の漁場に自然発生した。しかし、昭和三十(一九五五)年頃、全道的に大きな群来が見られなくなり、鰊漁の衰退とともに沖揚音頭も忘れ去られて行く。江差沖揚音頭(道指定無形民俗文化財)、松前沖揚音頭(町指定無形民俗文化財)、神恵内沖揚音頭、浜益沖揚げ音頭などが知られ、ソーラン節もそのひとつである。早くからホタテ貝が名産である紋別市も、寛政年間(一七八九~一八〇一年)に紋別番屋が置かれて、昭和二十七(一九五二)年を最後に鰊が群来らなくなるまでは、鰊漁が漁業の太宗にあった。この「紋別沖揚音頭」は、〝今野芳太郎″が道南の鰊場から昭和十三(一九三八)年に移り住んで来て歌われるようになったと伝わる。昭和二十三(一九四八)年に今野芳太郎の呼びかけで有志(加藤與志雄、村山喜一郎、畠山寿男、畠山徳一、菅谷武、山田伊佐雄、山田一太郎ほか)らが募り、はじめは民謡愛好的な集団であったらしい。昭和三十五(一九六〇)年に北見で、同三十七(一九六二)年には札幌で披露され、以来、各種の行事で催されるようになった。〝もんべつ流氷まつり″では、昭和三十八(一九六三)年の第一回から継続して演じられている。昭和四十四(一九六九)年は、船などを製作して衣装も新調し、現在の形となって、この頃は自費に寄付金を当てていた。昭和四十七(一九七二)年には、会長・天野一郎、副会長・今野芳太郎として正式な「紋別沖揚音頭保存会」が発足し、市民会館の〝こけら落とし″で公演した。これから会費を徴収して、紋別市補助団体となった。〝オーシコ″の掛け声のもと、出漁、操業、帰港までの漁労を表現している。こうして市内の各種行事で披露されていたが、経年のうちに会員減少から存続が難しくなり、次世代に継承すべく、昭和五十二(一九七七)年に紋別漁業協同組合、漁協婦人部(現女性部)と漁協青年部が加わって再編され、現在に至っている(初代会長に漁協組合長・野村秀男、副会長に保存会・今野芳太郎、漁協青年部長・山田徹夫、漁協婦人部長・能戸トク)。作曲家の寺嶋陸也は、平成二十(二〇〇八)年に「紋別沖揚音頭」をほぼそのままに、合唱組曲『男声合唱のためのオホーツク・スケッチ』を作曲してCD化した。漁場へ行く『舟漕ぎ音頭』、網揚げの『網起し音頭』、汲み出しの『沖揚げ音頭』、網に付いた魚卵を落とす『いやさか音頭』の4曲からなる。 -評価- ○この沖揚音頭は、戦前から長く伝わるもので、漁業者団体自らが保存実演していること。○道東・オホーツク沿岸において、他に沖揚音頭は継承されていないこと(枝幸町に伝承されていたが、現在、活動は休止している)。○「もんべつ流氷まつり」は、さっぽろ雪まつり、旭川冬まつりに次いで歴史があり、毎年、そこで披露されて、このように定期的に公演される例は少ないこと。これらから、非常に貴重なものである。

第430号 文化財保護功労賞・紋別沖揚音頭保存会      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月21日

紋別の歴史巡り 3・4/13





(c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年11月2日 大正10年の意見書原本 大正11年の意見書原本 アジア歴史資料センター蔵 請願書副本 滝上町郷土館蔵 ○渚滑線の敷設運動 はじめ大正2(1913)年に地元の有力者であった岩田道議が、宗谷線の士別へぬける路線を提唱、つづいて同5(1916)年に上興部から滝上を経て渚滑に至る路線の開通をめざして「縦貫鉄道期成会」を結成した。滝上から分岐して上川・旭川へ繋ぐ案もあった。そうして滝上全村をあげた鉄道院総裁への請願を経て、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通した。 これで橋や畑に被害をもたらしていた渚滑川の木材流送は廃止され、木材のき損や品質低下は軽減されて、関東大震災後の復興事業で木材業が活況し、また、農産物やでんぷんの生産など、原野奥地の開発は目覚しく発展した。 こども用 元西駅名板と十六号線駅名板 〇黄色い駅接近標 渚滑元西と中渚滑16線には、ひっそりと駅名板が立っています。黄色に黒文字の看板は、正式には「駅接近標」と云い、運転士へ駅が近づいていることを知らせるものです。名寄本線と渚滑線の遺物が少ないなかで、貴重な鉄道遺産です。 ○渚滑線の開設運動 宗谷線の名寄から紋別を経由して北見方面と結ぶ名寄線の敷設が決まると、新たに士別からサクルーを通って渚滑原野を横断する路線の要望が上がり、また、滝上から上川を通って旭川までをつなぐ案もありました(新旭川駅をへて上川までを結ぶ路線をルベシベ線と云い、写真の碑は中越信号所にあります)。 滝上では住民みんなが署名して新路線を要請しましたが、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通しました。その頃ちょうど関東大震災があり、復興に木材が必要とされ、滝上では木材業が景気づき、また、農産物やでんぷん生産など、滝上原野の開発が進みました。昭和11(1936)年から34(1959)年までは、さらに奥地を森林鉄道が走っていました。 渚滑線開通記念絵はがき 筆者蔵 奥東駅の駅接近標 JR北海道オレンジカート 筆者蔵 石北線全通の記念碑
第429号 旧渚滑線の駅接近標      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年10月12日

紋別の歴史巡り 2/13



(b)渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の薪が欠けてしまい、当時の教頭の立腹は相当なものであったと云う。渚滑小学校と同じものが、広尾町の豊似小学校と芦別市旧野花南小学校にある。近くには天皇・皇后両陛下の「御真影(御写真)」を保管した「奉安殿」も残る。 ○二宮尊徳の教え 本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を模範とする「報徳仕法」も、「戊申詔書」が示されると国家のための国民道徳の強化に用いられるようになった。戦時中は国家主義のイデオロギーとして利用され、昭和15(1940)年の「皇紀二千六百年」を記念する立像の建立が各地に見られた。 ○金属類の供出と応召 戦争が長期化すると金属類が不足して昭和13(1938)年から金属類の「供出」が始まり、同16(1941)年には「金属類回収令」が発せられた。銅像などは「応召」の憂き目に合い、そうして湯たんぽや蛇口、ガスコンロ、水筒、栓抜き、缶詰などが次第に金属製から陶器へと代わって行った。各地に陶製の尊徳像が多く残る所以である。 ○薪を背負った姿の由来 薪を背負う二宮尊徳(金次郎)のイメージは、尊徳の高弟で娘婿となった富田高慶の「報徳記」にあり、明治24(1891)年に幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」の口絵に始まる。明治37(1904)年から修身の国定教科書に掲載され、同44(1911)年には柴刈り、草鞋づくりに励み、手習、読書を学ぶ「二宮金次郎」が文部省唱歌となった。明治43(1910)年に製作されて常に明治天皇の御座所にあったお気に入りの尊徳像も、背中に薪を背負っている。 渚滑小学校の二宮尊徳像 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 こども用 渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 ○二宮尊徳(金次郎)とは 江戸時代の終わり頃に活躍し、「金次郎」として知られます。小田原の裕福な農家に生まれましたが、天災で田畑が荒れ、苦労がたたって両親が早くに亡くなります。金次郎は親類に預けられ、少しを惜しんで一生懸命に働き、空地に種をまき、苗を植えて、勤勉実直、倹約し、『小を積んで大となす』を実践しました。そうして苦難を乗り越えて生家を再建します。 あちこちから経営の再建を頼まれるようになり、武士となり、災害復興や飢饉救済に努め、晩年幕府の役人となって村づくりにいっそう励みました。この教えを「報徳仕法」と云い、質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱え、薪を運びながら勉強する姿は教科書や唱歌となりました。この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘の婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語がたりを書いて、このときのイラストに始まったと云われます。 〇渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 渚滑小学校の「二宮尊徳像」は、昭和12年に寄贈された備前焼で、とても有名な窯元で焼かれたものです。同じところで焼かれたものが、広尾町の豊似小学校と芦別市の旧野花南小学校にあります。 渚滑小学校と同じところで作られたもの 芦別市の野花南小学校 広尾町の豊似小学校 九谷焼 筆者蔵 青銅製 筆者蔵

第428号 二宮尊徳のこと      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/