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2008年02月29日

大正、渚滑線のはじまり

~紋別を例とした殖民期の鉄道

 この頃の新たな鉄道の敷設には各地での官民あげての期成会の結成と陳情が大きな原動力となったが、ここでは内陸最奥地の渚滑線について述べてみたい。 
 北海道鉄道速成計画図/大正6年
 鉄道と築港 略 実例としての北見は道庁当局の調査によれば網走管内の戸口数は鉄道開通の前後に於て其増加歩合開通前の一割以内に対し開通後は三割弱に達し居り 中略 池田野付牛間鉄道起工の結果利を北見地方に求むる人心の趨向を語るものにして一面生産額増加の趨勢に於ても明治四十四年池田野付牛間鉄道開通の前年即同四十三年より著しく歩合を増加し 中略 鉄道に関する今回の速成計画は鉄道院の計画に係る根室、宗谷、名寄下湧別間の三線を五年丈け繰上げ新に道庁の希望線としての五線を追加し 中略 此鉄道の敷設が殆ど北見集中主義にある事是れなり鉄道院既定計画中の名寄下湧別間は云う迄も莫く北見横貫鉄道と名称すべきものなるが道庁の追加するところの五線中諸(渚)滑サツクル間網走斜里間、美幌相生間は孰も北見線にして他の旭川ルベシベ間亦た北見に向て延伸し聯絡せんとす唯茲に帯広上士幌間が僅かに北見線たらざるのみ去れば今後共拓殖地として道庁が北見に最も重きを置き北見の開拓に努めんとするの方針を有するや疑いを容れず或は今後共北海道の拓殖は北見に在りとするやに認めらる 後略  (北海タイムス/大正5年)

 大正2年に地元の有力者であった岩田宗晴道議が士別-渚滑間の鉄道敷設を提唱したが実現せずにいた。ところが同4年に名寄-湧別間の名寄線敷設運動が起こり、これが有力代議士の支援もあって決定されると、渚滑村では同5年に上興部を経由して札久留、滝上、渚滑に至る路線へ変更するよう全村あげての縦貫鉄道期成会が結成された。

 玆ニ恭シク一書ヲ奉リ
 鐵道院総裁閣下ニ白ス下ニ連署セル吾吾人民ハ名寄下湧別線鐵道予定線路ノ一部變更ヲ行ハレ下渚滑ヨリ渚滑原野ヲ縦貫シ上渚滑ヨリ上藻興部原野ヲ経テ上興部ニ至リ以テ予定線路ニ合スルノ線路ヲ御採用アラン事ヲ請願スルモノニ有 云々  (請願書/大正5年)
 名寄線が全通すると、これにつながる現渚滑線は既定の計画であったが、その分岐点を紋別、渚滑のいずれかにするかで両者の対立が暗流となって渦を巻いた。
当時飯田氏は渚滑駅前に木工場(北見木材KK)を経営しており、その他紋別の有志で渚滑市街に土地を所有する人も多く、中略 名寄線が開通したという事実に幻惑されたというべきか、町の人々は情けないほど冷淡で、飯田への遠慮もあってか、正面切って紋別駅を分岐点と主張する熱意を欠いたことは事実であった。
父はこの点を憂い、時の町長国上国太郎を説き、紋別より二十線道路を通過する新路線を測量し、その比較調査を当局に迫ったが、驚いたことに、これを支援する人々は余りにも少なかった。  (春秋五十年/昭和41年池澤憲一自伝)
 渚滑線開通記念
 このとき滝上の全住民が政友会へ入党し、その入党書を持参して、時の政友会幹部で鉄道院総裁の床次竹次郎へ陳情したと云うエピソードも残っており、期成会の会長には渚滑村長中島繁次郎、副会長に岡本政道のほか滝上側からは宮地勝長、辰田善一郎らが渚滑側は岩田宗晴、飯田嘉吉、奥一道らがいた。
 ここにあるとおり飯田は北見林業界を代表する実力者で手広く木材を商っており、また岩田道議も澱粉製造を行うなど、彼ら自身も内陸滝上との農林産物の輸送は大きな課題であって、実際、流送に頼っていた原木の輸送も渚滑線の開通後には鉄道輸送に切り替えられている。 
                                                               北見大観/昭和9年

 大正7年「網走支庁拓殖概観」には『網走斜里間、美幌相生間、渚滑咲來間の三線は大正十年より起工せらるへきこと〃なれる既定未成線なり 中略 渚滑川流域の原野等豊大なる富源開かれ拓殖の進歩更に著しきものあるへし』とあるも結局は渚滑-滝上間の単独線として、大正12年11月に渚滑線が開通した。
 これによって移民は著しく増加し、また関東大震災後の復興事業によって木材市況が活況を呈したことから原野奥地の開拓は目覚しく進捗した。
                                                  第25回鉄道のお話し

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:25Comments(0)鉄の部屋(軌道・鉄道)