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2017年07月26日

寄鯨伝説と近年の漂着例


紋別を例に見る近年の鯨類漂着 ◆古代人の里にクジラ寄る 平成20年4月、紋別市渚滑町川向の海岸に体長約8メートルのミンククジラの死骸が上がった(図1)。年齢は不明だが十分な大きさの♀の成獣で、頭部には擦れた跡があり、後尾付近には切り傷と何かに打たれた跡(スクリューの羽形様)があって、船と衝突して死んだものと考えられた。近くはオホーツク文化・擦文時代を代表するオムサロ遺跡があり、古代の里に思わぬ寄り鯨となった。知床ウトロの伝説に云う。昔、岩島に住むオロッコ人が、通りかかるアイヌ人に上から投石してホトホト困っていた。岩島高くにいるオロッコ人は手強く、そこでアイヌ方は一計を案じ、夜中に海草でクジラの形を作り、魚を置いた。朝になって群がる鳥を見たオロッコ人たちは、岸に鯨が寄ったと思い、喜び勇んで岩島から下り、駆けて来たところを待ち伏せしていたアイヌ人が攻め、こうしてオロッコ人は全滅してしまった。同様の話しが枝幸、浦幌ほかにあり、“寄り鯨”に関係する伝説は、全道のあちこちに散見される。鯨は貴重な資源であった。当地にも、紋別空港を横切ってオホーツク海に注ぐ小河川にフンベ(鯨)オマ(居る)ナイ(川)という寄り鯨の川がある(図2)。近年、クジラの漂着が増加していると感じるが、生息数増の兆しなのか?
第420号 寄鯨伝説と近年の漂着例     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月26日

集落名に見る母村

~北海道号線の由来

集落名と神事や寺行事に見る母村 道内の市町村に必ず残る地名に○線○号(条丁目)があり、集落名に出身母村名を引き継ぐものが多い。今の土地割の基本となった明治時代の殖民地区画図を見ると集落(町並み)の成り立ちが分かり、その集落の神事や寺行事などに出身母村の伝統を見ることが出来る。古くは大宝律令による中央集権的律令国家が成立して行く過程で、土地を碁盤の目のように区画整理したのが条里制度で、これにより土地の正確な位置や面積が簡単に分かるようになった。アメリカやカナダでは、開拓時代の18世紀後半から19世紀前半にかけて各州ごとに東西南北に基準線を設け、実際の土地測量に基づいた碁盤目状の土地割を行い、それを細分して入殖者に与えるタウンシップ制を取った。さて、北海道の開拓使時代の屯田兵や移民募集への直接保護政策は北海道庁の設置を見てからは誘導保護へと転換され、明治19年には殖民地選定事業が始まり、明治22年からは区画測設によって殖民地区画図を調製した。こうして北米のタウンシップ制に倣い、殖民地ごとに基線を定めてそれに並行する2線、3線…、基線に直行する号線、2号、3号…を設けて、入殖者1戸に基本5町が与えられた。旧開地や網走、紋別など早くから漁業開発が進んだ沿岸地域を除いて、新開地の本格的な開拓が始まったのは、明治30年に北海道国有未開地処分法が定められ、大地籍地の処分が積極的に行われるようになってからで、本州の各地から団体移住者が入殖するようになる。全くの原野を切り開いた内陸地においては、村を立てるにあたって殖民地の区画測設がなされ、まずは官公所や学校地、神社地などが区割りされ、例えば神官なども公募された。新たな集落では、常呂町土佐や訓子府町秋田、釧路市鳥取などのように出身地名が引き継がれ、佐呂間町栃木は、あの足尾鉱毒事件の被害者たちが入殖した土地である。そうして芦別市や沼田町などは、富山県の門徒衆が多く入ったので聖徳太子講が持ち込まれ、越中獅子舞が残っており、また、岩見沢市栗沢町には、郷里の越中礪波郡から分祀された礪波神社がある。また、紋別市の漁民の間では、庄内由来の龍王講が信奉されて120年を越えると云う。 佐呂間町栃木団体の記念碑
第419号 北海道の開拓号線     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:17Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年07月24日

マルキ号製パンの跡 2


マルキ号製パン 水谷農場の跡を追った 西足寄の農場は、秘湯・芽登温泉のさらに奥地の高原にあった。現・足寄町旭ヶ丘。 遠隔地のうえに起伏が大きい低温地帯で、当然、失敗に終わった。 水谷政次郎が生涯を終えた小清水町の泉地区、今でも一族が暮らす。 きれいに区画された雄大な小麦畑に水谷橋はある。
第418号 マルキ号製パン、水谷農場     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:39Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年07月22日

御真影奉安殿










第417号 御真影と奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月20日

青函連絡船概史


青函連絡船概史 青函の定期航路は、文久元年8月に青森の滝屋が箱館定飛脚問屋の取次を始めたのに始まる。江戸と箱館を結ぶ定飛脚が2と7の日の月6度を往復した。維新後は、旧幕軍の軍艦咸臨丸が、開拓使付属船となって青函航路の輸送に当り、他に幕府から引き継がれた船に薩摩藩から献上された洋式軍艦昌平丸がある。開拓使は、汽船14隻、帆船15隻を保有し、明治6年には、スクーナー型の木造船弘明丸が、函館~青森、函館~大湊の定期航路を始めて、後に森・室蘭へと延長された。ほかの著名船には、玄武丸(黒田丸)や矯龍丸(ケプロン丸)などがある。○青函連絡船の始まり/国鉄による青函連絡船は、明治41年3月7日の比羅夫丸の就航に始まり、日本郵船で7時間はかかったものが4時間台になった。○車両航送が始まる/北海道の開発が進むと青函航路の増強が望まれ、大正3年に艀船「車運丸」による航走が始まって、同14年8月1日から貨車を直積み出来るようになった。○空襲で全滅/昭和20年7月14日に「翔鳳丸」「飛鸞丸」ほかが、翌日にも「第一青函丸」が、8月10日は代替船「亜庭丸」が米軍機に撃沈され、全13隻が炎上または沈没して全滅した。○洞爺丸台風/戦後復興の象徴として“海峡の女王”とも呼ばれ、昭和天皇の御召船にもなった「洞爺丸」であったが、昭和29年9月26日の台風15号で漂流・転覆、国内最大級の海難事故となった。○青函連絡船の終焉/貨物は昭和46年に旅客が同48年をピークに減少し、同63年に青函トンネルが供用を開始すると3月13日の運行を最後に青函連絡船は廃止された。最終便は、函館側が羊蹄丸、青森が八甲田丸だった。 比羅夫丸 田村丸 開航記念絵葉書 この時に工マークが定められた。 稚泊・青函の両航路を走った亜庭丸 転覆した洞爺丸
第415号 青函連絡船の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:30Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年07月17日

海の日は明治丸の歴史

函館港に停泊中の景


〝明治丸〟は政府が英国に発注し、明治8年に横浜へ回航した灯台船。豪華なサロンを備える鋼船で、灯台業務だけではなく、御召船や外交などの重要用務にも使われた。明治9年の奥羽・北海道御巡幸の帰路、函館を発した明治丸は無事、7月20日に横浜へ安着し、これを記念したのが「海の記念日(海の日)」である。
第413号 海の日は明治丸の歴史     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:34Comments(0)北海道の歴史

2017年07月17日

マルキ号製パンの跡・補追

マルキ号製パン、水谷政次郎のこと。



第412号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月16日

マルキ号製パンの跡 1


東洋一のマルキ号パン、パン王・水谷政次郎が作り上げた遠軽町丸瀬布のマルキ通りと水谷町。パン王・水谷政次郎の発願による遠軽町丸瀬布の弘政寺と四国八十八カ所。水谷橋。海軍と関係が深かったマルキ号製パンの小麦農場があった紋別市沼の上の水谷集落。近くは水陸飛行場予定地だった、らしい・・・。
第411号 マルキ号製パンの跡     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月04日

知床三堂例大祭


知床三堂祭 6月25日に斜里町の知床三堂祭に参加した。法隆寺の大野管長、京都仏教会の有馬理事長ほか、お歴々を拝顔し、有りがたい読経と説法にあずかった。地元を愛する佐野博さんと故・立松和平さんとの友情に始まった三堂祭、日本の伝統文化に基いた地域づくり、地方発信の典型例である。豪雨、超低温のなか、四百名は超える参加があった。7/17に日経系TVで放映される。 北海道文化遺産活用活性化実行委員会聖徳太子講調査班(北海道文化財保護協会)
第410号 北海道文化財保護協会の太子講調査追補     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 20:32Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 1/3 『鴻之舞』は、アイヌ語の(ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処)に将来の発展を祈念し、(鳥王コウノトリが舞うが如し)と、発見者らによって名付けられた。本年は、大正六年に住友鴻之舞鉱業所が開所して百周年にあたり、紋別市ではさまざまなイベントが予定されている。さて、ここでは鉱業所の開所までの前史について述べる。○鴻之舞の出願競争 さて、大正六年に買山し、後に住友財閥の大躍進を呼んだ東洋一の大金山は、同三年に上藻別六線沢で鉱床が発見され、翌年、元山口之沢で転石を採取したのに始まる。大正五年には元山大露頭が発見され、飯田嘉吉を組合長として操業を開始したのであるが、そこにはまるで小説まがいの鉱区出願競争があった。沖野永蔵と羽柴義鎌は、大正五年三月十三日に試掘許可を得た。これまで秘密裏に運んでいたのだが、沖野が不在中、万事に派手好きな羽柴が一席やってしまった。しかし、招待者は、気もそぞろに緊迫し、祝宴半ばに解散となった。先年には、八十士砂金騒動と呼ばれる騒乱を起こした面々である。さて、飯田組は、翌早朝、最寄りの社名淵駅(遠軽)まで馬車を馳せ、その日は野付牛(北見)に泊まり、翌朝に札幌へ向った。一方、古屋組も早々に札幌へ走ったが、途中、野付牛の駅頭で双方がばったり、互いに相手方の素早さに驚きながら、そ知らぬ顔で汽車に乗った。結局、金にものを言わせた飯田組が主だった鉱業代書人を買収して、相手方の動きを封じ、先手を打って沖野組鉱区の包囲出願に成功したと云う。 大正四年秋鐄脈露頭ヲ發見シ、同年十二月飯田嘉吉氏外一名ニテ試掘出願ヲナセシガ、翌年一月偶然鐄區東南ノ一角ニ於テ極メテ有望ナル鐄脈ヲ發見シ、俄カニ世評ニ上ル 北海道鐄業誌/大正13年 現在の上藻別六線沢 元山大露頭跡
第409号 住友鴻之舞鉱業所100周年 1     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 2/3 ○紋別のゴールドラッシュ 枝幸に始まった東洋のクロンダイクは、紋別の八十士や鴻之舞、沼の上と相次ぐ金鉱の発見へ繋がった。八十士砂金鉱/枝幸砂金を採り尽くして四散した山師のひとりが、手で掬えるだけの砂金に出くわしたのは、明治三八年の師走で、尾行までした出願採鉱の争いでは、紋別組と山形組(山形勇三郎)が鋭く対立、これに湧別組が加わった。この騒動では逮捕者を出し、鉱山監督署が介入して共同経営に落ち着いて、大正八年には住友へ売山された。鴻之舞金山/一般に伝わる発見の端緒は、知識があった今堀喜三郎が上藻別を有望とみて沖野に探鉱を委ね、大正三年の六線沢の金鉱発見となったが、このときは低品位で事業化しなかった。同四年に沖野は、さらに上流の谷間の沢に有望な砂金があると聞き、羽柴と探鉱を続け、翌五年には地理に明るい鳴沢弥吉の協力を求めて、ついに「元山大露頭」を発見した。さて、そもそも沖野へ話したのは、いったい誰か? 丸瀬布町史によると、明治二七年頃に上川近文コタンから渡ってきたアイヌ人の布施イタキレが、ある鉱山師に上藻別の沢で米粒大の砂金が採れると話したところ、共同しようと云われて案内したが、自分を除いた共同経営となり、『シャモにだまされた』と憤慨していたと云う。はてさて、操業までの出願競争もあって、ことの真偽はいったい何か…。沼の上金山/新たな金鉱発見に沸くなか、燐寸用材を伐採する黒川ほか六名が、有望な転石を発見したのが大正五年三月である。翌年には今掘と飯田を加えて試掘の許可を得たが、鴻之舞を知る今掘らは見劣りを感じ、後の大漁を逃がす結果となった。大正十一年には栖原角兵衛の所有に移って高品位な鉱床の発見となり、のちに三菱鉱業が買収して、金鉱整備令後も硅酸鉱として休山せずに操業した。
第408号 住友鴻之舞鉱業所100周年 2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年07月01日

住友鴻之舞鉱業所100周年


住友鴻之舞鉱業所100周年 ~紋別のゴールドラッシュ 3/3 ○鴻之舞の売山 相争う不利益と各自の資金不足から、ここに沖野・羽柴・今掘(以上沖野組)、飯田・池澤亨・岩倉梅吉(以上飯田組)に発見の功労者として鳴沢と橘光桜を加えた八人衆の匿名組合が発足した。しかし、余りの大規模さと鉱山長となった吉田久太郎の資金の使いっぷりに事業費に窮した組合は、日立鉱山と幌別鉱山へ露頭下の高品位な鉱石を三万円で売り、急場をしのいだ。こうして日本一の大金山の発見は、たちまち中央の知るところとなり、結局、九十万円をポンと出した住友に売山され、これら発見からの裏表は山師たちの伝説となり、一攫千金を得た八人衆も悲喜交々の後日譚を残すことになった。 百周年記念事業/紋別市 最初の精練所 昭和10年頃 売山契約書 特別展 鉱山開山100周年 開山100周年記念式典 開山100周年記念祝賀会 札幌交響楽団念コンサート 鉱山開山100周年・講演会
第407号 住友鴻之舞鉱業所100周年 3     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年06月23日

マルキ号パンと海軍飛行場


マルキ号パンと海軍飛行場  我が紋別市には東洋一と云われたものが二つあった。ひとつは、かの住友鴻之舞金山であり、そしてマルキ号パンの農場である。マルキ号パン(水谷パン)は、創業者の香川県人・水谷政次郎が、あのアンパンで有名な木村屋と出会ったことによる。後に日本で初めてイースト菌の製造販売に成功し、大坂を拠点に、これまた日本で初めての本格的なチェーンストアを形成して、東洋のパン王と呼ばれた。大正六年にはドイツ人捕虜二名を借り受けて、製パン技術を伝習したという逸話がある。そして政次郎が目指したのが小麦の自給であり、北海道の各地に○キ水谷農場を開設して機械を使った大規模で近代的な営農を行った。また、海軍に依頼されてセレベス島に農場を開く計画もあった。かっての千歳空港には、○キ水谷農場があったもので、海軍の接収に合い、その移転補償費をもって昭和十六年に紋別町沼の上の民有未墾地二百四十町歩を買い上げて八戸を入れた。しかし、土地が悪く、同十八年には自作農へと開放し、こうして水谷集落の名が残った。さて、戦中の紋別町民が献納した愛国紋別号の写真には水陸飛行場予定地とある。そこは戦後に民政飛行場となり、長くYSが飛んでいた。代替地の水谷集落に隣接し、これら何がしかの関係があったのではないか。また、長女の婿の清重が隣町の湧別屯田の出であり、紋別高等小学校に通ったともいう。マルキ号パンは、丸瀬布や小清水のマチづくりに貢献し、石北線の敷設運動にも大きな力を与えたもので、しかして道内の歴史上で取り上げられることは少なく、いずれの機会に詳しく紹介したい。
第406号  海軍とマルキ号パン      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:07Comments(0)北海道の歴史紋別の歴史

2017年05月11日

御真影奉安殿


煉瓦建築物の一様態 さて御真影奉安殿と教育勅語の研究は、仲間からはマニアックと云われるが、昨年の民俗建築学会での講演は、まずまずの好評価で研究成果として認められ、近々に論文集が刷り上る。これは建築の視点で奉安殿の歴史を語るもので、煉瓦に関する話しも出て来る。積極的に御真影が下付されるようになって間もない明治28年に月形小学校が御真影と教育勅語を焼失させた。関係の驚きは大きかったようで、多分、北海道内で初めての事だったのだろう。そうして明治30年に月形小学校の奉安殿は煉瓦造となり、それから吉岡小学校(福島町))など、あちこちで煉瓦造の奉安殿が建築されるようになる。こうして独立棟の建築は、むしろ本州よりも北海道が積極的で、早い時代の奉安殿には煉瓦造が多かったようだコンクリート造が全国一般となるのは、関東大震災後の大正末期以降である。大正12年建築の中湧別神社にある奉安殿
第405号  北海道の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 20:32Comments(0)北海道の歴史古民家・古建築

2017年04月16日

三平汁と石狩鍋




〇身近な伝統食 先だって某観光ホテルに宿泊したときに「三平汁」と称してサケ汁を客に提供していた。味噌仕立てか、そうでないかは別にして、サケは「石狩鍋」であり、『本来の三平汁は、漬けたニシン(冷温に保てなかった昔は、生が傷んで酸味があり、また、保存用に付け込んだ)を使いますヨ』と、そっと教えてあげた。 さて、サケの伝統食と云うと塩サケだが、薄塩の「新巻」と「塩引」とは違う。「塩引」を何度も手返して漬け直し、熟成させたのが「山漬」だ。近年の健康志向で塩辛いものは敬遠されがちだが、聞くところによると網走の業者では、「山漬」の生産が追いつかない時もあるらしい。別海町西別の「山漬」は、徳川将軍家へ献上され、戦前は、カムチャッカの「あけぼの印(ニチロ)」の塩サケが有名だった。 明治30年頃の開拓の手引書に『春ニシンと、若ブキを一緒に煮て食べると美味しい。』とあり、湧別の入殖者が、越冬の食料に困り、川でチカを獲って食べたところ、『臭くて見てくれは悪いが、とても美味だった。』と伝えている。また、厳冬期に湖沼で釣れるオオマイ(大きなコマイのこと)の鍋は、たいへん美味しく、身近で当り前なところに伝統食は引き継がれている。昔は、この辺りの浜の労働者が、ホタテ貝柱(乾貝柱)を煮熟したときの残り汁をオニギリにつけて食べたりもした。 戦前の塩サケの製造 鮭鱒聚苑/s17年
第404号  三平汁と塩サケ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:28Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2017年02月16日

留萌のニシン漁場


北海道文化財保護協会講演会 2017/2/8 留萌のニシン漁労 国史跡・旧留萌佐賀家漁場 積丹の斉藤や紋別の金平など、明治・大正期に鰊場で活躍した青森県人が多い。留萌の佐賀家も下北の人で、青森ヒバを扱う商人であった。大佐賀家は、一八四四(弘化一)年に礼受に漁場を置き、群来が見られなくなる一九五七(昭和三二)年まで、百年を越えて一所を経営したもので、番屋、網蔵、船蔵、干場、稲荷社など、漁場の景観を良く残して国史跡となり、また、当時の漁労・加工具をままに伝えて、国重要有形民俗文化財は、三四七五点にも及ぶ。和食文化が世界無形遺産となり、現在、北前航路のうち、函館・松前から敦賀までを日本遺産に指定しようとする構想があり、北海道の鰊文化が、あらためて見直され、弁財船の出発点であるオロロンラインが注目されることを期待する。

第403号  留萌のニシン漁場      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 07:54Comments(0)北海道の歴史

2016年11月20日

顕正寺の古い掛軸、紋別太子講

二百年以上前の掛軸

紋別では、明治四十一年に大工たちが浄土宗顕正寺に太子堂を建立して太子講祭が始まった。昭和二十七年に寄進を受けた皇太子の掛軸には、「天明元歳(一七八一年)奉開眼聖徳太子」と記されている。静岡県袋井市の真言宗篠ヶ谷山岩松寺から伝わったもので、岩松寺では、大工の棟梁に対して、免許皆伝の秘伝書を与え、太子講の絵讃(掛軸)を発行した。遠江・三河だけではなく、家康に従って下った江戸大工とも関係が深かったと云い、寄進者は、このいずれかの系譜の者であろう。 遠州から伝来の聖徳太子絵讃 紋別市の顕正寺 太子堂にて

第401号 紋別の太子講2     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 08:37Comments(0)北海道の歴史

2016年09月19日

士別市 教信寺の象さん 


士別市 教信寺の木鼻は象さん 北海道で象鼻は余り見かけない 左右の形も違う

第399号 象さん、ゾウさん     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 13:20Comments(0)北海道の歴史郷土の語り

2016年09月09日

北海道の御真影奉安殿


日本民族建築学会 第80回研究会 北海道の御真影奉安殿 釣山史 山田雅也 2016/9/24/土 15:00~17:00法政大学デザイン工学部 参加費500円 (学生無料) 小学校に建つ御真影奉安殿/昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション 頭を上げるとコツンとやられて、御真影や教育勅語に正対したこともない児童たちは80才となり、当時の混乱もあって記録や記憶が曖昧となった。本物の詔書類の鑑定もままならず、りっぱで荘厳な奉安殿も忘れ去られようとしており、また、限界集落が進行するなかで、奉安殿と詔書類の現存調査を行い、当時の様子をレジュメにまとめた。レジュメには30ほどの現存する奉安殿と奉安庫を掲載して、その保存の様態を紹介する。
第―号外 北海道の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年06月17日

北海道開拓と門徒衆


北海道開拓と聖徳太子信仰 北見市のキリスト教団や滝上町の黒住教団による開拓は知られるが、浄土真宗門徒が語られることは少ない。親鸞は聖徳太子を教主とし、その徳や業績を賛美したのが太子講式であり、門徒衆が結束した講は、宗教としてだけではなく、地域共同体を形成し、これを母体に団体が入殖すると太子信仰を持ち込んだ。明治中期頃までの北海道開拓には北陸人が多く、また、漁業従事者の寄留・出稼ぎも多かった。松前藩は、一宗一派の政策をもって浄土真宗は東本願寺としたが、幕府が蝦夷地を直轄すると西本願寺の開教が認められ、佐幕派の東本願寺は維新後にひどく危機感を抱き、新政府に恭順を示して蝦夷地開拓を出願した。沼田町では、富山県の門徒団体が入殖に入り、雨竜本願寺農場を開いたが、同町のほか同じ地方の雨竜町・北竜町・幌加内町に太子信仰がある。十勝では、晩成社のほか富山県人や岐阜県人が入ったが、職人が祀る聖徳太子像を受けて晩成社が堂宇を建立し、これは東本願寺帯広別院の嚆矢となった。芦別市では、石川県と富山県から団体が入り、郷里から聖徳太子像が持ち込まれて太子堂が立つ。さて、聖徳太子は、百済から高度な建築技術を導入し、工芸美術を奨励して大規模寺院を建設したので、むしろ大工や鳶職らの職能神である太子講が馴染み深いが、太子堂や太子碑は、聖徳太子一千三百年御忌に建てられたのもが多い。帯広建設業協会の孝養太子像

第395号   門徒の開拓    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 06:10Comments(0)北海道の歴史

2016年05月25日

釧路の聖徳太子講


 釧路聖徳太子講の最大の見せ所は、例大祭での鳶職による纏い振りと梯子乗りである。釧路では、明治40年に釧路大工職組が組織され、2年後に釧路聖徳太子講を創立した。大正元年には、浄土真宗本願寺派本行寺が経堂を聖徳太子堂と改称して講中に開放し、尊像は孝養太子像である。建築関連業種の技能研修や親睦の場になっており、活動は非常に活発である。例大祭では宗派を問わず、仏教各宗協和会が参加するという。
第394号   釧路の太子講    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 20:22Comments(0)北海道の歴史

2015年10月05日

聖徳太子信仰、番外編


旭川市、眞久寺の六角堂 聖徳太子が、この地を訪れた際、護持仏の如意輪観音が、『この地で衆生救済に当たりたい』と夢枕に立ち、創建されたのが紫雲山頂法寺で『六角堂』と云う。六角堂には、太子が沐浴したとする池の跡があり、そこに小野妹子が開祖の宿坊があったので『池坊』と呼ばれ、朝夕に花を供え伝えて生花が広まった。住職が代々、池坊の家元を務める。明治25年開基の旭川市の眞久寺は、池坊の興隆を図るため、大正14年に京都の頂法寺を模した六角堂を建立し、本尊如意輪観音菩薩の分身を受けた。
第388号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 19:17Comments(0)北海道の歴史

2015年10月02日

聖徳太子信仰3


聖徳太子は、仏法を広めるための寺院建設のため、百済から多くの大工らを招いて高度な技術を導入し、また、日本最古の取水施設を建設したので、建築・土木・建具や家具ほか職人達の職能神となり、道路や治水の守神ともなった。これらがいわゆる「太子講」である。 滝上建設業協会が尊崇する太子宮/滝上神社 上川水力発電所の太子碑
第387号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:05Comments(0)北海道の歴史

2015年09月06日

聖徳太子信仰2


網走市の聖徳太子信仰 網走市の例大祭は、大正10年の聖徳太子御忌千三百年に永専寺で始まり、現在は太子堂が網走神社の隣接地へ移転して仏式と神式の両方による。また、市内には聖徳太子の石碑が2つあり、丸万では道路工事の完成を記念して大正8年に木柱を建立したが経年をへて倒壊、昭和50年に石柱を再建した。実豊も道路開通を記念した石碑であり、施工業者が集落の要望に応えて昭和25年に奉祀し、のちに現在地へ移転した。 築95年という聖徳太子堂 網走神社 孝養太子像/同上 網走市丸万 網走市実豊
第386号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年09月01日

聖徳太子信仰1


聖徳太子信仰、太子講と太子堂 北海道内の歴史的遺産を巡るなか、今回、注目したのが聖徳太子信仰である。戦前は、たいへん盛んであったようだが、大工や左官たちの職能神であるがゆえ、一般人には馴染みが薄く、道内では、いったいどのようにどのくらいが伝承されているのだろうか。 湧別町・光華神社の太子堂 昭和六年に新道開削の安全を祈願した石柱を建立、のちに現在地へ移転し、六角堂を建設して太子孝養像を奉納した。 士別神社の聖徳神社 大正一四年に建立の聖徳神社には、手置帆請神(たおきほおいのかみ)と彦狭知神(ひこさしりのかみ)が合祀される。手置帆請神と彦狭知神の二柱は木工(工業)の祖神とされ、聖徳太子は建築の神である。
第385号  太子信仰     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年07月16日

又十藤野家


又十藤野の遺産 近江の四代四郎兵衛の次男・喜兵衛は、天明元年に福山(松前)の親族へ奉公にあがり、寛政十二年に独立して回漕業を興す。屋号を柏屋、家印は又十とした。はじめて文化三年に余市場所を請負い、後に宗谷・斜里、国後、根室、利尻・礼文など、蝦夷地の漁場の大よそ四分の一を経営する一大場所請負人となり、藤野漁場では鮭小舌網、鰊角網を開発するなど、漁業上の大変革をもたらした。最初、福山に本店、箱館を支店としたが、後年、箱館を本店とし、蝦夷地の各所に支店や出張所を置いて、明治に入ってからは白木屋と称して小間物店を開業、道東奥地の商店の先駆けとなった。明治の中期以降、次第にオホーツク沿岸の漁場が不振に陥ると、北洋のカムチャッカへ進出し、道内の各地に牧場を開設するなど事業の多角化を図ったが、家運の回復とならず、大正五年には全事業を休止するに至り、一部農場の小作経営を残して、本拠の近江へ引き上げてしまった。分家の藤野辰次郎が開拓使から引き継いだ藤野別海缶詰所は有名である。道内各地、殊に道東開発に大きく貢献した藤野家の跡を追う。 旧藤野家網走漁業店 望楼など外観は当時を偲ばせる。 旧藤野家迎賓館 明治二八年に建築の建物は、網走神社の社務所として残る。 斜里駅逓跡 運上屋から始まった駅逓は昭和四年まで続いた。 松前の熊野神社に建立の祈願柱(左)。 斜里神社に天保五年に奉納された石灯篭(右)。 旧藤野別海缶詰所 外装は新しいが、躯体部分の多くが当時のもの。 鷹栖の藤野農場跡(住吉神社) 明治四一年に大阪の住吉大社から分霊された御神霊旧藤野社宅。明治四一年に函館に建築の社宅(左右2棟)

第378号  又十藤野家の遺産     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年03月07日

著名な蟹工船

缶詰のお話し、補足


◆小林多喜二の蟹工船のモデル・博愛丸 博愛社(現日本赤十字社)がイギリスで建造し、昭憲皇后(明治天皇妃)が命名した。戦時の病院船として、広く国民に知られ、平時には日本郵船が旅客船として使用した。大正15年には林兼(旧マルハ)へ売却されて蟹工船となり、小林多喜二の蟹工船のモデルとなる。以後、漁業会社を転々、昭和20年6月18日、千島の幌筵島を出港したところを米潜水艦アポゴンによって撃沈された。 ◆移民船として活躍した笠戸丸 笠戸丸は、日露戦争のときに旅順で被弾し、拿捕されたロシア船で、明治41年に最初のブラジル移民を運び、大正14年には最後のハワイ移民を輸送した。のちに日本水産の蟹工船として活躍し、昭和20年8月9日、カムチャッカのウトカ沖でソ連軍に拿捕され爆沈する。北原ミレイの石狩挽歌の一節に“沖を通るは笠戸丸 わたしゃ涙でニシン曇りの空を見る”とある。 ◆敵艦隊見ゆ、日露海戦を勝利に導いた信濃丸 日露戦争で徴用された日本郵船の信濃丸は、バルチック艦隊を発見し、「敵第二艦隊見ゆ」の第一報を打電して勝利に導いた。同船で永井荷風が北米へ渡り、孫文が日本へ亡命し、水木しげるを南方へ送って大岡正平が復員した。この間、太平洋漁業や日魯漁業で蟹工船、魚糧工船として活躍、二つの戦役を生き延びた不沈船は、戦後、青函航路を走ったこともあり、寿命を全うしてスクラップになった。
第371号 蟹工船、いろいろ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2015年01月12日

スキーと磯焼け


寒中お見舞い申し上げます。戦後70年、流氷がより、よりよりトッカリも顔を出し、寒さもより厳しき折り、昨年よりも、より良い年でありますよう、心よりご祈念いたします。皇紀二六七五年吉日 ○スキーと磯焼け 本道のスキーの始まりは、明治39年にイギリスの外交官が、札幌の軍人に贈ったとも同41年に札幌農学校のコラー先生が生徒に教えたとも云う。後の明治45年にレルヒ少佐が、第七師団でも指導したが、このときはストックが1本だった。2本ストックのスキーは、大正3年にノルウエーから帰った同大の遠藤吉三郎先生が生徒に指導したことで札幌に広まり、また、明治26年頃?に出稼漁夫がカムチャッカから持ち帰ったストー(先住民のスキー)で遊んだと明治のエッセイスト・河合裸石が語っている。さて、吉三郎先生は、初めて「磯焼け」を定義した日本海藻学の先駆者のひとりで、昨年、京大白浜水族館で、100年前に博士が撮影した大量のガラス乾板が見つかり話題となった。写真集「海藻寫眞帖」ほかの原版はきわめて貴重である。本市2月の北方圏国際シンポジウムでは、希望者に「海藻減少に関する注意(明治36年)」と「海藻磯焼調査報告(明治41年)」の写しを差し上げます。 越前高田の1本ストック・スキー 釣山史(紋別市水産課員、北海道文化財保護協会員)
第370号 北海道のスキーの歴史      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年11月26日

戦前の鮮魚流通【再】






§カレイ漁に見る戦前の鮮魚流通 オホーツクの紋別と斜里では、夏にひがな一日釣りをしてオヒョウを捕る。約1.8㍍もの大きいものもいて、この辺りの土地のヒトの一番の食糧である。富山名産のタコ、滋賀のナマズに勝るかもしれない。 蝦夷訓蒙図彙 蝦夷土産道中寿五六 紋別で産出されるカレイ類は広く市場で知られ、特にマガレイは早くから「もんべつガレイ」と呼ばれて珍重されて来た。いったい、いつ頃からどのようにして有名になったのか? その歴史的背景に戦前の鮮魚流通を見る。 ①江戸時代から知られた巨大魚~オヒョウ 昔は畳大もあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六」に紹介されている。アイヌ人にトバや塩乾として食べられていた。。明治一八年に国後から網走に移住したサラビヤなるアイヌ人が、沖合三里の延縄漁でオヒョウを多獲し、この地方が非常に好漁場であることが分かった。 ○明治二五年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オホーツク海のオヒョウ漁が一大ブームとなった。 ○明治四一~四五年にかけては、沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵庫による操業も試みられて動力船の使用も検討された。 ②動力船の進出~たくさん獲れて困ったカレイ 一説に我が国の機船底びき網漁業は、明治四二年の室蘭での試験に始まると云い、実際に道内で経済操業に至ったのは大正中頃の小樽や函館であり、大正九年の小型底びき網機船の登録は、小樽一〇〇、岩内一〇、函館四、室蘭三三、釧路五二、根室三、宗谷一、留萌一二の計二一五隻であったが、うち操業船は百隻程度で、道庁では、にわかに勃興した小型底びき網機船を夏枯れに対応した通年操業とするため、新開の北見漁場へと誘導した。 『漁況及漁場 紋別~枝幸間 今回調査ノ結果ニ依レバ、此区間ハ有数ノ真鰈漁場トス。即チ枝幸正東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬付近海深五十尋(尋=約一、八㍍)内外一帯ハ清浄ナル細砂底ニシテ、当今夏期ニ於テハ真鰈ノ密集地帯ニシテ、巾三浬内外・長三十浬以上ニ亘ル此ノ地帯内ニアリテハ、一網真鰈五六箱及至十四五箱ノ漁獲アリ、其ノ区域ノ広汎ニシテ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ。略 鮮魚トシテ処理シ得バ、二三十隻ノ発動機船ヲ操業セシムルモ敢テ過多ナルヲ覚エザランモ、現在ハ勿論将来交通輸送ノ便完整セラルルモ其大量ノ鮮魚輸送覚束ナク、内地輸送モ亦不可能事ニシテ 後略』/北見沿岸手繰網漁場探検報告/T9年 『無尽の魚族・宝の海 略 三洋丸は二百十七噸、小型の汽船であるが無線電信、電力の装置もあって六月から十月一ぱい北見沿岸一帯の漁場調査の為めトロール試験をなしつ〵ある。 略 紋別沖合にては真鰈一網十箱以上の大収穫で蟹の繁殖著しく油鮫の棲息も夥しい。四、五十艘の発動機船で幾十年漁獲しても無尽であるといって好い。紋別の斯の大漁場に距離の最近を占め沿岸の最中央に位し、鉄道は稚内網走に比較して中央市場に近く鮮魚輸送の利便あり、経済物資も都合よろしく、漁業の根拠地として絶好の所である。漁港完成の一日も速かならん事は海田開発漁業振興の為め緊急である。漁具修繕の鍛冶屋無き事と魚類の保管輸送に使用する製氷工場冷蔵庫の設備の欠乏せるは遺憾である 略 明年は十二、三艘の発動機が来紋活動し、愈々北海漁業勃興の好機に入るであろう 後略』/北海タイムス/T12年9月15日 枝幸紋別間 略 今回調査ノ結果ニ依レバ枝幸北東ヨリ紋別北東ニ至ル距岸十浬附近海深五六十尋内外一帯ハ細砂底ニシテ夏季ニ於テハ眞鰈ノ密集地帯ニシテ幅二、三浬内外長三十浬以上ニ亘ル廣汎ナル面積ヲ有セリ殊ニ枝幸、紋別ノ中間ニ於ケル雄武沖ヲ中心トシテ密集セリ一時間曳網十箱(トロール箱)内外ノ漁獲アリ他魚ノ交リナキ他ニ此ヲ見ザル好漁場ナリ今夏紋別根據トシテ小樽ヨリ廻航シ來リタル手繰漁船寅丸(十五噸)ノ出漁シ居ルヲ見レバ出漁毎ニ曳網二回ニシテ眞鰈ヲ滿船シ歸港スルノ狀態ナリ 後略』/大正十四年度施行 南オコツク海海底漁場調査報告/昭和2年 ○紋別では、明治三十六年頃から川崎船によるカレイ小手繰漁(小型底びき網船)が行われて、大正年間には二~三隻が操業していたと云われる。 ○北見東部四郡の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正三年春に本州で建造した「紋別丸五㌧一〇馬力のホタテ監視船だったが故障が多く、これを高嶋春松が譲り受けて、紋別~湧別間の輸送を行いながら大正九年にはマガレイ漁を始めたと云う。 ○大正一二年には松田鉄蔵(後の代議士)が機船「第三寅丸一五㌧一五馬力」を廻航させ、また、地元では同年に伴田惣十郎が機船二隻を建造して(紋別丸一九㌧三〇馬力)、翌年から操業を始めた。道庁による漁場調査の際、その接遇に当たったのが伴田組合理事であった。 ○これ以降、夏枯れ対策として小樽・室蘭・留萌から多くの動力船が廻航し、紋別を拠点に常時一五~一六隻以上が、主に雄武から興部沖の浅い所で水深三五~五〇㍍、深いところで六〇~八〇㍍の範囲でマガレイを大漁した。 ○昭和一一年の千島も含めた全漁獲高では、紋別が全道の市町村中第五位にあり、そのうちカレイ漁は三位で、底びき網でのカレイ漁は断トツであった。 ③鮮度保持と流通技術の進歩~流通販売の努力 『其の他漁獲物は大鮃九、六三〇貫、鮊一二九三〇貫、カレイ単価は延縄の一円に対し沖曳は三〇銭の安値なり。』/大正一五年紋別町農林統計 『從來搾粕本位なりしも近來輸送機關の發展に伴ひ冬期は遠く相州小田原及東京の市場に搬出し蒲鉾原料及日用食膳に供せらる〵に至れり』/北海道水産一覧/大正七年 当時は、既に地元仲買人はいたが(大正四年に紋別魚市場が開設)、大きな取引は主に小樽の問屋衆で占められていて、季節的に大漁されるマガレイは、価格が非常に不安定であり、底びき船主が直接、東京へ送ったり、粕に炊いたりしていた。 小樽などの先進地では、大正中期にカレイなどの内地出荷が始まっていたが、生鮮食品を生産段階から途切れることなく低温保持し流通させるコールドチェーンの本格的な試みは、大正九年に森町に大型冷凍冷蔵施設を開業した「葛原商会(のちの葛原冷蔵㈱)」に始まった。 ○紋別では多獲されるマガレイをトロ箱(トロール箱)の代わりにビールの大箱を使って出荷していたが傷みやすく、昭和四年に現在のような魚函に改良して品質維持に努めた。 ○当時は、一尺(三三㌢)以上の大きなマガレイを鮮魚とし、ほかは魚肥や蒲鉾に加工して、ソウハチなどは廃棄していた。 ○紋別では、多獲される鮮魚の保存と輸送が大きな課題であり、網走では、明治の末期頃から冷蔵船の回航も見られたが、生鮮の輸送と販売には限りがあり、大正一〇年に名寄線が、昭和七年には石北線が開通したことで鉄路での輸送は容易となったが、その前提となる製氷・冷蔵庫が無いことは、依然として大きな問題であった。 ○松田と伴田は、機船底びき網漁業に着業間もなく製氷池を造成して昭和六年の調査では紋別に製氷池が六経営体一四箇所、貯氷庫も二一棟あり、また、同年、日本冷凍協会誌で紹介された当時としては最新式の松田冷蔵庫が稼動し、戦前には既に五つの冷凍工場を有する一地方では稀に見る生産基地となった。 『本港の盛衰は漁業の消長如何に依つて決せらるべきは言を俟たざる所なり、然るに當水産会は未だ舊態を脱せずして、魚價の調節機關に何等見るべきものなきを痛感し、玆業の振興を促進すべく紋別港灣の完成と相俟つて冷藏庫を建設し、以て市價維持に均衡鮮魚の輸出をなすの外、漁不漁の均等、調節を計り、北見沿海一帶の海産物を集め本港の發達を期すると同時に、聊かたりとも本道水産界に貢献せんとするものなり。』/日本冷凍協会誌/昭和6年 『鉄道省は来る十月一日を期して全線にわたり旅客列車のスピードアップを実行することになったが、これに伴い、貨物列車の速力をもまた全線的に短縮することになり本省の貨物課と配車課及び運転課との間で研究を重ねていたがこの程漸くその決定を見たので十月一日から貨物の超特急列車を運転実施することになった 略 この鮮魚列車は北海道紋別から下関までを改正時間で連絡輸送すると、実に従来より丸一昼夜早くなるもので、荷主にとっては貨物輸送上の一大革命である、この外各線の貨物列車とも何れも長距離では十六時間以上を最大に短距離の最少のところでも三十分位宛は時間を短縮され、更らに最近甚だしく増加した戸口から戸口まで鉄道の手で運ぶ特別小口扱いが案外の好成績であるに鑑みこの需要の最も多い大宮と青森間に一五九特別小口扱貨物列車を一本新設運転することになった 後略』/中外商業新報/昭和5年 ○「第三寅丸」が紋別で操業を始めた時、既に冷蔵貨車はあったが、台数は限られており、のちに機船組合を結成して協定を結んで大量に施氷し、室蘭までは鉄道を、そこから船を利用して遠くは東京市場へも出荷したが、うまく届けば大儲け、途中で腐ると丸損という有様であった。 ○国内での冷蔵貨車の最初は明治四一年で、大正三年に青函航路での車両輸送が開始し、道内では同一一年で三〇輛の冷蔵貨車があり、同一四年からは青函連絡船による貨車航送が開始されて内地への鮮魚輸送は急増した。昭和四年には、道内に三一四輛の冷蔵貨車があった。また、昭和一〇年に現在の築地市場が開設されたとき、同時に「東京市場駅」が設けられて“鮮魚特急”と呼ばれる速達化が図られた。 ○地元では昭和一二年から漁業者による「焼きガレイ」の加工が始まり、戦時の食糧不足に対応するため、翌年にはこれを目的に「紋別加工組合」を発足して「焼きガレイ」は広く流通した。 ○戦後の昭和二六年には、入会も含めて機船底びき網漁船が六一隻にもなり、先駆的な漁業の近代化と冷凍・冷蔵技術の導入や箱詰めの工夫など、このような漁獲の安定、鮮魚流通に向けた努力は、旭川や札幌のほか東京・小田原などへの積極的な地方出荷となり、後の「もんべつガレイ」の産地ブランド化へと繋がって行った。 紋別の動力漁船、戦前 戦前のビール箱 サッポロビール博物館蔵 開業当時の松田冷蔵庫機械室 昭和3年頃の冷蔵貨車

第369号 鮮魚特急      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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2014年10月18日

缶詰の話し6


②小林多喜二の小説『蟹工船』 ~鬼監督のモデル この頃のカニ工船は、制度上は漁船ではなく、工場でもないという曖昧なもので規制が難しく、船室環境は悪く、確かにリンチはあったし、栄養不足や長時間労働などから死者や傷病者を多出したが、当時の日本社会には人権などという考えは無く、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、このカニ工船が特異・突出したものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者たちが虐待とも云える労働搾取にあっていた。むしろカニ工船は“九一金”という歩合があって、高収入だったのである。小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかと思われがちだが、そのモデルになった『博愛丸』は日露戦時の病院船として広く知られており、たまたま、客船として多喜二が住んでいた小樽へ来航したとき、火災を起こして話題となっていた。そして鬼監督とされたモデルの松崎隆一は、長崎県水産講習所の第一期生で、国内始めて缶詰を作った松田雅典の製造所を経て、堤商会ではカムチャッカでの缶詰事業に関係した。その後、農商務省水産講習所嘱託として練習船を指導し、船上でのカニ缶詰製造ラインを完成させた。大正12年には自ら工船事業に着手して“博愛丸事件”が起きたのは同15年である。このように隆一は工船蟹漁業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる非人道的な事件の多くは、他のカニ工船であったことがモチーフとされ、事実に基づきながらも特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張されて作られた“あくまでプロレタリア作品”である。その後、水産局の役人となっていた昭和4年に要請を受けて北海道紋別へ移転し、道内で2番目とも4番目ともいう最新式のこの地方で初めての冷蔵庫の建設を指揮し、当時の学会誌でも紹介されるほどだった。隆一は海外向け缶詰を生産し、水産物だけではなく地域の農産物加工を手掛けるなど関係した事業は全国40に及び、道内各地の水産界に与えた業績は大きく、公職は50余り、紋別では人望も厚く、特に文化・スポーツ事業における功績は多大であり、戦前の鴻之舞遺構となる武道場を市内へ移築し、それは現在も使用されて文化財級である。晩年は、穏やかで人懐こい人間味豊かな好々爺だったようで、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云える。◆紋別市水産課、北海道産業考古学会員、北海道文化財保護協会 釣山史 昔、甲殻類は北米で卑しい食べ物とされ、エビに比べても、なおカニは食べなかったようで、それを食として広めたのが根室のカニ缶詰だったのです。仕事柄、水産系に知人は多いのですが、その時々の漁労・加工や輸送技術、社会背景も含めて語られる方には、中々お目にかかれない。“蟹工船ブーム”のときには、海外メディアの取材も受けましたが、小説『蟹工船』は、帝国資本主義が極まった時代を如実に著すものです。この10月に紋別市で開催された「第26回北海道演劇祭」では、地元劇団が、鬼監督のモデルとされる松崎隆一を題材に公演しました。今もなお慕われる松崎翁は、人格者であり、晩年は人間味豊かな好々爺だったようで、小説『蟹工船』は、事実に基づきながらも、あくまでプロレタリア作品なのです。 晩年の松崎翁 紋別公園の顕彰碑・望洋之碑
第368号 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

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