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2008年02月18日

北海道・明治の海運

~明治のころの海運
殖民公報第六十一号/明治四十四年
 日本郵船會社ノ滊船ハ四月ヨリ十月マデ本道西海ヲ經テ鬼鹿香深稚内諸港ニ毎月二回ノ航海ヲナシ又根室ヨリ知床岬ヲ廻リテ網走紋別ヘ一ヶ年凡拾回ノ航海ヲナス又該社外ノ滊船ハ小樽ヲ以テ根據トナシ當國諸港ニ往來シ利尻禮文及ビ稚内ハ冬期ト雖モ小樽ト交通ノ便ヲ有ス又函館ヨリ來ルモノアリ其船ハ重モニ藤野四郎兵衛ノ所有ニ係リ國ノ東部ニ往復セリ日本形船ハ國ノ西部ニ止マリ東部ニ赴クモノ稀ナリ (明治31年「北海道殖民状況報文」抜粋)

 本道と本州を結ぶ定期航路は明治2年(1869年)に開拓史附属の「咸臨丸」と「昇平丸」が官公物の輸送を行ったのに始まり、同6年には附属「弘明丸」が青函航路の一般輸送を開始した。国鉄の「比羅夫丸」による青函航路の運航は同41年からである。しかし、慶応元年(1865年)にはブラキストンが清国貿易・国内輸送と沿岸の航路を開いて、箱館戦争の際には物資を輸送したと云う。
 補助航路による民間運航は明治12年に開拓史が三菱(後の日本郵船)の青函航路へ補助したのに始まり、同18年には農商務省が日本郵船に対して横浜-函館間、函館-根室間、小樽-宗谷間と国後・択捉・北見地方ほかへの航行を命令し、逓信省は同じく同21年に日本郵船へ補助を開始した。
 この頃には小樽網走線、函館網走線などの定期航路のほか、補助によらないその他の不定期船もあり、紋別では明治25年に藤野家が廻漕業を始めて汽船「芳野丸」が回航したほか、「伊吹丸」「玄洋丸」「蛟竜」などが有名であるが、それまでも日本型船「清松丸」「三寶丸」を年に数回、江差・福山、函館から運航していた。
 昭和19年の紋別町史では、この汽船「芳野丸」の初入港の様子を『最初沖合遠く水平線上を走る船影を見、次いで汽笛を聞いたので、土人等は大いに驚き、ウエンヒラリの海岸に蝟集して男女圓陣を作り、泣くが如く又怒るが如く船影を望み糾號し、又は踊る者もあり、漸次船體に近づき、辨天岬まで移動して心得したか解散した』と伝えている。
 そして北海道庁補助航路の小樽-稚内間の運航が明治33年10月より、稚内-網走間は同34年5月からいづれも日本郵船によって開始され、小樽を起点に増毛、稚内、枝幸、雄武、紋別、湧別、常呂、網走を連絡していた。日本郵船の所有船としては「貫効」「玄武」「青龍」「北見丸」などがある。
 この頃の紋別港の状況について明治44年殖民公報第63号による「紋別の商況」に見ると汽船取扱店は3、廻漕店が3、艀業が4、運送業が5、旅人宿が9であった。

小樽港の埠頭 第弐拓地殖民要録/明治39年
 ○汽船運賃(明治29年/北見事情)
  ◆小樽―稚内―枝幸― 紋別―網走    ◆函館―稚内   ◆函館―根室― 網走
  上 6.00円 8.00円 10.00円 12.00円  上 12.00円   上 15.75円 6.25円
  下 2.40円 3.50円 4.00円 4.80円   下  4.40円   下  6.00円 2.50円            第17回明治の海運

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 22:52Comments(0)北海道の歴史