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2014年01月19日

ゼロ戦シンポジウム      

シンポジウム 零戦は名機なのか? 北海道産業考古学会 20014/1/11 ①ネイミング~ゼロ・ファイターと連合軍に恐れられた零戦は、「れいせん」なのか「ゼロせん」なのか? ア.制式名称 ・零式艦上戦闘機(一二試艦上戦闘機) イ.記号 ・A6M2が11型と21型、A6M3は32型。52型甲がA6M5a、52型乙がA6M5bなど ウ.通称 ・日本名~零戦 エ.コードネーム ・米英コードネーム~Zeke 昭和4年以前の海軍では、元号年をとって例えば、大正13年の一三式艦上攻撃機などと呼んでいたが、その以降は皇紀年号を用いるようになり、よって零式艦上戦闘機は皇紀2600年の昭和15年の採用ということになる。陸軍の場合は、これより2年早く、八七式重爆撃機などがある。また、海軍と区別して皇紀2600年の採用を「一〇〇式(ひゃくしき)」という。 さて、「れいせん」なのか「ゼロせん」なのか? 、ゼロは敵性用語ではないか?という説がありますが、現場に近い兵士ほど“ゼロせん”と呼んでいて、民間人も普通に“ゼロせん”と云っていた。 ②日本航空技術の粋か? ア.まず九六艦戦の特徴 ・海軍機としては初の全金属製の低翼単葉機であり、主翼外形は楕円翼で国産機として初めてカウルフラップを採用し、沈頭リベットを使用した。ただ、当時としては世界最高水準の戦闘機も、引込み脚ではなかった。 ~全金属純国産のKB式飛行艇は、大正15年3月22日に横須賀に於いて試験飛行を行ったが、安定性を失い墜落、旭川出身の赤石少佐ほか4名が死亡した。赤石は、飛行機を巧みに操る技術者として「海軍の至宝」と云われた。 イ.引込み脚 ・高速、長距離の飛行を可能とした引込み脚であるが、昭和9年に八試特殊偵察機が初めて採用し、それは昭和11年採用の九六式陸上攻撃機となった。 ウ.動翼付の低翼単葉 ・1932年、ドイツのハインケル社は高速化を図るため、当時としては斬新的な動翼付きの楕円主翼を低翼で採用したHe70 ブリッツを開発した。 エ.沈頭リベット ・また、同機には、沈頭リベットが用いられていた。 ~堀越二郎には、ドイツ留学の経験があった。 オ.増槽(ドロップタンク)  ・昭和11年に採用された九五式艦上戦闘機には、当時、世界的に見ても斬新な増槽(ドロップタンク)が既に導入されていた。カ.可変ピッチ・プロペラ ・可変ピッチ・プロペラの実用化は、、1910年にドイツでつくられたパルセヴァル飛行船と云われ、明治45年には同型が日本に輸入されている。この可変ピッチ・プロペラの商業生産を始めたのが米国のハミルトン社であり、昭和6年12月に九〇式二号水上偵察機二型に可変ピッチ・プロペラが採用された。そして手動式から自動化の恒速プロペラを国内で初めて搭載したのが一二試艦上戦闘機で、零戦は恒速プロペラ(ハミルトン式恒速三翅)である。 キ.中空軽量骨材 ・打ち抜き中空骨材による軽量化は思いがけない効果をもたらした。軽量化は強度との戦いであるが、部位によってはかえって強度が増したのである。徹底した打ち抜きは、日本的職人業のたまものである。 ク.超々ジュラルミン ・昭和11年に住友金属が開発した軽量で高硬度な新アルミニウム合金は、零戦の最大の武器である軽快な機動性を可能とした。 ③零戦の長短所 長所 短所 軽量 運動性が高く、特に急上昇、急旋回に威力を発した。 強度に劣り、急降下時の耐久に課題があった。 風防の視界が利く キャノピー式のコクピットは、視界が利き艦上戦闘機にとっては重要なスペックである。 ファストバック式より、空力特性に劣り、また、コクピットの防弾が不十分だった。 重火器装備 99式20ミリ機関砲は、たった一発の命中で確実に敵機を撃墜した。当初60発、後に125発しかなく、また、弾道性能に難があり射撃には熟練を要した。むしろ後期に搭載された3式13ミリ機銃が有用であった。 航続距離 中国内陸部での戦闘を想定。とにかく航続距離に優れていた。 後期には重武装化と翼面積の縮小により、航続距離は短縮され、マスタングなどに追い抜かれた。 三菱・栄21型発動機 エンジン性能には課題があった。速度は中域帯というところで、ヘルキャットやマスタング、ライトニングには及ばず、また、過給性能に劣っていて高高度での飛行は不可能だった。 戦闘 性大戦初期の一対一の野戦的な戦いにはめっぽう強かったが、後期に各国戦闘機の性能向上によった戦法には太刀打ちができなかった。防弾性に劣るので、偶然の一発でパイロットが死傷した。 ④まとめ~目新しい技術は少なく、むしろ総合的な開発力、絶妙のバランス設計に日本的な職人技が加味されたもの。~大戦後期には既に時代遅れとなり、華々しい活躍と云えるのはほんの数年であった。
第348回 ゼロ戦シンポジウム      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 15:15Comments(0)トピック

2014年01月01日

冷食の始まり



祝 紋別市制と水産冷食60年 旧紋別町と渚滑村、上渚滑村が合併して紋別市となり、60周年ですが…、今様の水産冷食の始まりは紋別市から!! ~紋別のスケソウ加工 戦時の水産統制は昭和15年に始まった。沖合底曳船で大量・安価に供給されるスケソウは傷みやすかったが、これを加工原料に大量生産、大量輸送を可能とした“焼竹輪”は、代表的な配給水産物となった。しかし、市場流通が改善し、昭和25年に統制が解除されると焼竹輪の製造は急速に衰退してしまう。それに替って大いに活況したのがスキミ加工であり、昭和30~40年代には紋別が全国生産量の7割強を占めるに至った。また、おりしも昭和29年に『学校給食法』が公布され、簡易に大量の調理が出来る新たな食品として“フィッシュ・スティック”が登場した。昭和29年に大洋漁業㈱紋別工場ではコンタクトフリーザーを導入して竹輪からフィッシュ・ブロックの生産へと転換し、これを材料にフィッシュ・スティックの生産を国内で最初に開始した。このフィッシュ・スティックとは、スケソウフィレーなどをコンタクトフリーザーでブロック状に圧縮凍結したものを切断し、パン粉を付けて冷凍したもので、家庭用水産冷凍食品の走りである。 そして新技術の冷凍すり身の本格生産は、昭和35年の網走・斜里・余市に始まるが、翌年に日露漁業㈱紋別工場が新方式の水晒しタンクを設置したことで技術が確立し、瞬く間に主要な水産加工品となって行った。北海道紋別市 釣山史 (産業考古学会員、北海道文化財保護協会員)


































第347回 冷凍白身フライの事始め      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)紋別の歴史