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2014年10月22日

上藻別駅逓保存会が功労賞受賞


第50回平成26年度北海道文化財保護功労賞 右 池澤さん  去る10月20日、旧道庁赤レンガ2階において、北海道の文化財保護に功労のあった個人・団体を称える北海道文化財保護功労賞の表彰式が行われ、受賞2個人3団体のうち当地からは上藻別駅逓保存会の初代会長池澤康夫さんご夫妻が出席した。表彰理由は以下のとおりで、池澤さんは親子2代で受賞したことになる。 -表彰理由- 『旧上藻別駅逓所(鴻之舞金山資料館)』は、北海道独特の駅逓制度を現在に伝え、歴史に気軽に触れられる子供たちの教育の場となり、また、歴史資産を活用したツアーガイドなど、地域観光にも貢献している。この『旧上藻別駅逓所』は、大正15年に開設されて昭和15年まで駅逓所として利用された。開設当初の本館は伝統的な入母屋平屋建で駅逓所建築標準を現在に伝え、また、昭和9年に建設された増築部分は、当時の様子を良く残す寄棟造りの和洋折衷である。老朽化が著しく倒壊の危機にあった旧駅逓所を独力で修復し、国登録有形文化財とした功績は大きい。 推薦者識 オホーツク管内の受賞は、平成23年第47回の特定非営利活動法人ピアソン会以来、紋別市関連は以下の通り。 昭和41年 第2回 池澤憲一 昭和45年 第6回 村瀬真治 昭和47年 第8回 五十嵐文伍 昭和59年 第20回 紋別郷土史研究会 平成26年 第50回 上藻別駅逓保存会
第 ー 号 上藻別駅逓保存会が功労賞受賞      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 04:19Comments(0)トピック

2014年10月18日

缶詰の話し6


②小林多喜二の小説『蟹工船』 ~鬼監督のモデル この頃のカニ工船は、制度上は漁船ではなく、工場でもないという曖昧なもので規制が難しく、船室環境は悪く、確かにリンチはあったし、栄養不足や長時間労働などから死者や傷病者を多出したが、当時の日本社会には人権などという考えは無く、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、このカニ工船が特異・突出したものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者たちが虐待とも云える労働搾取にあっていた。むしろカニ工船は“九一金”という歩合があって、高収入だったのである。小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかと思われがちだが、そのモデルになった『博愛丸』は日露戦時の病院船として広く知られており、たまたま、客船として多喜二が住んでいた小樽へ来航したとき、火災を起こして話題となっていた。そして鬼監督とされたモデルの松崎隆一は、長崎県水産講習所の第一期生で、国内始めて缶詰を作った松田雅典の製造所を経て、堤商会ではカムチャッカでの缶詰事業に関係した。その後、農商務省水産講習所嘱託として練習船を指導し、船上でのカニ缶詰製造ラインを完成させた。大正12年には自ら工船事業に着手して“博愛丸事件”が起きたのは同15年である。このように隆一は工船蟹漁業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる非人道的な事件の多くは、他のカニ工船であったことがモチーフとされ、事実に基づきながらも特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張されて作られた“あくまでプロレタリア作品”である。その後、水産局の役人となっていた昭和4年に要請を受けて北海道紋別へ移転し、道内で2番目とも4番目ともいう最新式のこの地方で初めての冷蔵庫の建設を指揮し、当時の学会誌でも紹介されるほどだった。隆一は海外向け缶詰を生産し、水産物だけではなく地域の農産物加工を手掛けるなど関係した事業は全国40に及び、道内各地の水産界に与えた業績は大きく、公職は50余り、紋別では人望も厚く、特に文化・スポーツ事業における功績は多大であり、戦前の鴻之舞遺構となる武道場を市内へ移築し、それは現在も使用されて文化財級である。晩年は、穏やかで人懐こい人間味豊かな好々爺だったようで、彼の一生は、そのまま日本の缶詰史だったと云える。◆紋別市水産課、北海道産業考古学会員、北海道文化財保護協会 釣山史 昔、甲殻類は北米で卑しい食べ物とされ、エビに比べても、なおカニは食べなかったようで、それを食として広めたのが根室のカニ缶詰だったのです。仕事柄、水産系に知人は多いのですが、その時々の漁労・加工や輸送技術、社会背景も含めて語られる方には、中々お目にかかれない。“蟹工船ブーム”のときには、海外メディアの取材も受けましたが、小説『蟹工船』は、帝国資本主義が極まった時代を如実に著すものです。この10月に紋別市で開催された「第26回北海道演劇祭」では、地元劇団が、鬼監督のモデルとされる松崎隆一を題材に公演しました。今もなお慕われる松崎翁は、人格者であり、晩年は人間味豊かな好々爺だったようで、小説『蟹工船』は、事実に基づきながらも、あくまでプロレタリア作品なのです。 晩年の松崎翁 紋別公園の顕彰碑・望洋之碑
第368号 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 03:48Comments(0)北海道の歴史

2014年10月13日

缶詰の話し5


昭和初頭、カニ工船最盛期の頃 道内缶詰小史 ~工船蟹漁業の勃興 カニの工船化は、サケ・マスの沖取り式に先んじるもので、それは大正に入ってカニ缶詰工場が乱立して北海道と樺太周辺ではカニ資源が枯渇し、生産は大正5~6年頃を最盛期に減少して、大正6年には、日魯漁業がカムチャッカ沖合の母船上で煮熟したカニを運搬船で千島へ運び、缶詰製造を試みたが、このときの成績は芳しくなかった。カニ工船の嚆矢は、大正3年から農商務省水産講習所がカムチャッカ西岸キクチク沖合において、練習船・雲鷹丸(うんようまる)による蟹底刺網の実習を行いながら缶詰を試作したのに始まる。大正8年には松崎隆一(後述)が雲鷹丸に乗船して沿海州沖合で3馬力の電動機、ハンドシーマー、竪型レトルトなどを備えた本格的な加工ラインによる缶詰製造に成功したが、当時は、加工において淡水を用いるものとされたために生産は限られていた。大正9年にロシア領内にカニ漁区が開設され、富山県水産講習所の練習船・呉羽丸は、遠洋漁業奨励金の交付を受けてカムチャッカ西岸沖に出漁し、このとき海水による製造試験を試みてむしろ淡水よりも肉質、色沢とも良好の結果を得て、翌10年の実習操業では8打入1,260函の生産を見た。同年、これに触発された函館の和島貞二(明治39年に独立して樺太漁業に着手する。大正3年には千島でサケ・マス、タラ漁に着業し、同5年に幌蓆島にカニ缶詰工場を設けて北千島水産組合が設立
されると初代組合長となった。)が堤清六の斡旋による融資を受け、汽船喜多丸と帆船喜久丸に製造設備を取り付けて沿海州のセントウラジミル湾から間宮海峡にかけての操業で2,758函の生産を上げたことは、工船蟹漁業が非常に有望なことを示した。こうして着業するカニ工船は、2年後の大正12年には11名17隻(練習船含む)ともなり、翌年には2,000㌧級の母船が現れるなど、わかに勃興した工船蟹漁業は、激しい漁獲競争に陥った。大正12年には工船蟹漁業取締規則が制定されて工船蟹漁業水産組合が発足するなど、いよいよ同14年には価格調整を目的に蟹缶詰共同販売株式会社の設立となり、過当競争による会社の合併、船団の統合・統制を繰り返す中で昭和2~5年をピークに戦時の中断を経て、昭和49年に南カムチャッカにおけるタラバカニの母船式操業が禁止されるまで、本国における主要な遠洋漁業となった。“サケの日魯”に対し“カニの日水”と呼ばれていた。 時事新報 大正14年11月 (略) 有望なる蟹缶詰輸出 茲数年来、英米を初め濠洲方面の市場に於て頓に人気を博するに至った本邦製蟹缶詰が本年中約二十万函(此価格約九百万円)見当の輸出を告げんとしつつあるは貿易改善の声盛んなる今日特に注目すべき現象である今試みに過去数年間に於ける生産並に輸出額を表示すれば左の如し(略) 即ち大体に於て連年増加の歩調を辿りつつある中にも本年に入り急激なる増加の跡を示して居るのは頗る人意を強くするに足る所である。 世界市場の需給状態 今世界に於ける蟹缶詰の需給状態を一瞥するに我国は供給上に於て殆んど独占的立場に在り、他は僅に北米アラスカの沿岸に於ける一ヶ年数千函の少量粗悪なる生産があるに過ぎぬ、故に仮に蟹缶詰が今後益外人間に賞味珍重せらるるに於て、輸出品目として一層重要なる地位を占むるに至るべき期待がある。而して本年度に於ける我生産の概表は左の如く(略)此中工船と称するは勘察加沿海に於て漁獲し船中にて製造するものである(中略)右表(略)の如く邦製の鮭缶詰が専ら英国市場に於て好評を博しつつあるに反し、蟹缶詰は其大部を米国に向けて輸出するものであるが最近英米人は蟹缶詰を以て缶詰中の美味の王として「ウワンダフル」の賛辞を呈して居る。 製造販売方法の改善 前表(略)に示した通り従来十万乃至二十万函見当の生産額中、輸出は約其半数に該当して居るが而も其輸出価格の点に至っては常に乱高下の状態に置かれ生産者側なる漁業会社方面の不安は勿論、問屋並に海外の取引商に於ても決して安心は出来得ぬ有様であったが此状勢は昨十三度間に於て特に甚しく、輸出の総額が最高のレコードを作った一面には市場価格の波瀾も極めて大きく、従って生産業者にして打撃を蒙れる向も決して少くなかった、蓋し其主因は第一製造業者の資力乏しくして、主として輸出業者並に外商の手より資金を仰ぐこと多きため常に其意思に従うを余儀なくせられ、従って価格の変動は其手によって左右せらるる事情あり、第二に個々の生産業者が互に連絡をとらざる為組織的行動不可能にして仲介の内外商人に足許を見られ、不利なる取引を為す場合が多かった。(後略)

第367号 缶詰のお話し      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 14:35Comments(0)北海道の歴史