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2008年02月12日

新撰組が作ったリンゴ

~北海道リンゴのはじまり

 私の伯母は上湧別町は屯田の出身で、昔は寒くなる頃によくリンゴを頂いた。今はわずかに観光農園にしか見られない網走管内のリンゴも、かっては「上湧別・北限のリンゴ」として道内の1/4を占める一大生産地だった。
 道内でのリンゴ栽培の始まりは、明治2年に開設のガルトネル農園(後の七重官園)と云われ、開拓使では明治4年に東京の青山、続いて札幌へと官園を設けて、翌年にはケプロンがアメリカから輸入した果樹を東京官園へ移植したが、この中にリンゴの苗木75種が含まれていた。これを明治6年に札幌官園に移して一般人への苗木の配布が始まり、翌年には早くも札幌に民間初の水原苹果園が開設されて、同11・12年頃から札幌と余市で結実するようになると、同14年には第二回内国勧業博覧会へ出品されるまでとなった。
 この苗木の無償配布は士族への特典が多く、それは士族授産の表れでもあったが、当時のリンゴは「作ったもの」ではなく「出来た」ものであって、買いに来たから売った程度のごく一部の先覚者らによる物珍しさと嗜好のためで、ただの観賞となることも多かったが、明治20年には札幌での栽培が急増し、同24年に「北海道果樹協会」が設立されて、翌年には「第一回果実品評会」が開催された。
 さて、幕末は新撰組に属し、隊の分裂後には敵対して近藤勇を襲撃したことで有名な「阿部隆明」は、維新後に開拓使を経て農商務省の葡萄園兼醸造所へ配属され、明治19年には札幌へ果樹園を開いて、苗木の生産と普及に努めたが、品種「倭錦」は別名「阿部七号」とも云い、「北海道果樹協会」の発足では中心となり初代理事となった。 「上湧別村史/大正9年」には『三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏 中略 最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せる』とある。

同じく開拓使吏員であった津田教助の白石のリンゴ園 
《写真》移住者成績調査第二篇明治41年
                                                                第10回リンゴの話し1

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 21:37Comments(0)北海道の歴史