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2008年02月02日

オホーツク平ものがたり

□もんべつマガレイと大鮃のお話し

○動力船と「もんべつマガレイ」
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させ、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航して操業し、動力船での漁が急増したが、この時は主にマガレイが大量に漁獲された。
 後にマガレイがオホーツク海を中心に全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わり、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このような歴史的背景から「紋別マガレイ」がブランド化して行ったと思われる。
 ○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年にかけては沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


   斜里・紋別地方のアイヌのオヒョウ釣りの図   
           (蝦夷訓蒙図彙)                                    第2回もんべつマガレイ(第58回へ続く)




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Posted by 釣山 史 at 14:13Comments(0)郷土の語りオホーツクの歴史