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2008年03月30日

ニシン角網のはじまり

~資料に見る鰊角網の濫觴 (抜粋)

境内の金平翁の碑(紋別町史/昭和19年)

 私の自宅近くにある報恩寺には明治31年建立の「北見角網元祖 金平吉五郎塔」と云うものがあり、しかし一般的には「鰊角網」の発祥は積丹とするのが定説で、私は以前より疑問を持って来た。

◆「鰊角網」の概要
 ア)「鰊建網」の変遷/大きな来群がだんだんと現われ無くなり、鰊漁が停滞するようになると、はじめは「行成網」であった魚網も次第に鮭鱒漁から転じた「角網」へとなり、後に「角網」と云うと「鰊角網」を示すようになって、明治後期には「行成網」がほとんど見られ無くなったが、これは「角網」は「行成網」に比べて魚の入りに劣っても、一度入った魚は逃れずらいという特性から手堅い漁獲を得たためであった。
 そして沖へ長い「行成網」に比べて「角網」は横に広く、漁場の隣接した旧開地での開設には漁網の統廃合を要したのに対し、紋別郡以東から根室にかけては、有力漁業者の建網のみであったため、「角網」への切り替えがいち早く進んだ。


 漁網の構造 從來鰊建網と云へは殆と行成網のみにて角網の如きは指を屈するにも足らさる程なりしか僅々十數年の今日に至りては全然其位置を轉倒し行成網の如きは之を見ること稀なるまてに著しき變革を來したり角網は行成網に比すれは構造複雜にして漁夫を要すること多きの失あれとも一旦網中に入りたる鰊の容易に脱出せさると潮流の抵抗を受くること少きとの點に於て遙に優るものあるか故に斯く世の歡迎を受くるに至れり然るに漁場密接の結果互に収支の償はさるより二三の漁場を休業し其間に特殊の漁網を設置するの利を思ひ近頃之に關する試驗を爲さんとするを設置するもの之あるに至る是れ亦必然の勢なるへし(殖民公報第二十三號/明治37年)

岩内の鰊漁場(北海道拓殖の進歩/明治45年)
 イ)鰊角網の濫觴とその論拠/当時からの「鰊角網」の濫觴説は「北海道拓殖功勞者旌彰録・大正7年」に見ることができ、それは道庁の推薦による「第二回水産博覧会賞状・明治30年」に『鰊布袋形建網・鰊角網 北海道庁 積丹郡出岬村 斉藤彦三郎 夙ニ意ヲ漁具ノ改良ニ注キ各種ノ漁業ヲ試ミ遂ニ鰊布袋形建網ヲ創製スルニ至ル又鰊角網ノ如キハ其構造装置共ニ宜シキニ適シ常ニ漁利ノ多キヲ至ス』とあって、これが現在も積丹濫觴説の論拠となっているものである。

 明治十三年以來鋭意漁網の改良を企圖し各種の漁網に就き其の得失を考究して遂に十八年に至りて角網と稱する漁網を肇造せるも其の製造方法未た完からす爲に他の嘲笑を被ること甚たしかりしも更に顧みす益奮つて其の成功を期し二十三年漸く官准を經て角網の公設を見る 中略 其の作製並ひに使用方法等一も私する所なく專ら之を公示して指導に努め以つて一般漁業者に裨益を興へたること極めて台なり爲に全道に於て角網を使用せさるもの殆と稀にして 後略(北海道拓殖功勞者旌彰録/大正7年)

◆積丹濫觴説のゆらぎ
 ア)河野資料に見る濫觴説/さて河野常吉の「北海道殖民状況報文後志国天地(未定稿)」には『現今各地ニ於テ鰊漁ニ用ユル角網ハ斉藤彦三郎ノ創製ニ係レリ同人ハ夙ニ魚網ノ改良ニ意ヲ注キ数年間ノ講究試験ヲ累ネテ明治二十五年ニ至リ始メテ今ノ角網ヲ創製セシ』とあって「鰊角網」の完成を明治25年としているが、また「水産調査報告第十五冊・大正15年(明治43年~大正9年調査)」にも『其始メ明治二十年頃ハ金折網ニ角網ヲ折衷シタルモノ美國方面ニ於テ試ミラレタルモ構造不完全ナリシ爲メ好結果ヲ得ズ、二十四、五年頃積丹入舸方面ニ於テ各地ニ行ハルル鱒角網ヲ模倣シ、之レヲ試用シ好結果ヲ擧ゲ、其構造稍々理想ニ近キ故ニ各地競ヒテ之レニ倣ヒ其數大ニ増加セリ』とあって、ただし斉藤は多年に渡り漁網の開発と試用を繰り返しており、これをもって明治25年の創出と言い切れない。
 また、先の「北海道拓殖功勞者旌彰録」の稿本・河野執筆の「北海道人名字彙」においては『斎藤彦三郎 角網の発明者なり。中略 彦三郎明治十三年以降専ら魚網の改善に努め、諸種の魚網に就きて利害得失を攻究し、十八年遂に角網を発明せり。或は云ふ。角網発明者他に一人あり。藤野四郎兵衛の雇船頭兼(金)平吉五郎にして明治十三年北見の紋別に使用したりと。尚ほ考ふべし』ともあって河野自身も結論には至っていない。
 これについては明治44年の別の河野記録に『西海岸に於て斉藤彦三郎 中略 北見ニ於てハ藤野の雇人金平吉五郎なるものニ依り明治十二年紋別に於て使用たるを嚆矢とす(元藤野家差配人京谷勇次郎談)』とある。
 イ)北水協会・村尾元長/「村尾元長」は北水協会に属して多くの水産書を著わしたが、そのひとつの「北海道漁業志稿・昭和10年」に『明治十二年雇人金平吉五郎が會て利尻島に出稼し同地使用の「フクベ」網を改良するの説を容れ、試に製造使用するに頗る便益を覺ふ。由て漸次之を増製し建網を減ず。所謂角網是なり。』とあるのは明治22年の調査(同21年末)によるもので、翌23年の「北水協会報告第五拾八號」において既に広く紹介されていたが、それによると藤野家所有の漁網の内訳に『鰊角網 十五統』としている。
 そして「北海道漁業志要・明治30年」でも『枝幸北東に於ては角網及び建網の二種を用ひ宗谷に於ては建網のみを用ひ其構造増毛地方と異なることなし 中略 枝幸に於ては建網及ひ角網を用ふ其構造南海岸茅部、上磯地方のものと大差なし 中略 紋別、網走地方は即ち北海岸に於て始めて角網を用ひたる處なるを以て最も之れを貴重し建網を用ふるもの殆んど稀なり』としている。
 さて、河野が積丹濫觴説を唱えつつも同時に北見説を挙げているのに対し、村尾は当初からいち早く北海岸に「角網」が広まっていたと伝えており、特に「北海道漁業志要」の編纂では紋別戸長も勤めた藤野家支配人「龍田治三郎」が参加していることに注目したい。


◆北見の伝承 
 父は其の當時又十藤野の漁方支配人として居たのです。略 あの報恩寺にある石塔ですか。あれは父の爲に立てられたもので父は明治廿六年に當地で死にまして五年後の卅一年に當時漁方支配人であつた、盛喜衛門さんを初め濱田德太郎、吉田重藤、鈴木三之助、金澤岩松氏等外漁方一同の建立であるが、是れは角網の元祖として漁業に功をなしたと言ふ所からです。其れは其頃年々漁が減つて行くのをどうしたらよいだろうと漁方の者はそれ〃考案する事に勉めましたが、仲々特別よい事も出来ない樣でありました。それ迄は大抵行成網と言ふのを用ひてゐたのですが、コシタ網やキンチャク網等と言ふのも用ひて見ましたが思はしくはない所から、角網を使て見た所大變よい成績でした。此の事は北海道中の評判だつたとの事です。これは明治十九年の頃と思ひます。二十年の年には根室の又十支配が添書を付けて父の處に角網使用法の傳授に漁方の者が來たり、又北見地方の又十支配下の漁方のものが今ならまァ見學に來ると言ふ有樣でした。又十でも忽ち此の角網使用にきめてしまつた樣な有樣で、其れからと言ふものは大漁續きであつたとの事です。父の名は其爲一同に知られる樣になつたのです。(北見郷土史話/昭和8年)

 また、これら地元資料のほか「開拓指鍼北海道通覧・明治26年」にも『紋別網走地方は即ち北海岸に於て始めて角網を用ひたる處なるを以て最も此を網貴重し建網を用ふる者殆んど稀なり 中略 鮭建網は彼の有名なる金平吉五郎氏か紋別郡に於て發見せる角網を用ひ延て鰊漁にも亦た角網を用ふ西海岸一帯に用ふる「イキナリ網」と趣向を異にすること世人の知る所なり』とあるが、著者の久松義典は北海道毎日新聞社の記者であって当時の各地の事情に通じていた。

                           水産館の模型(北海道博覧会写真帖/大正7年)
◆ま と め
 ここで注意したいのは金平が藤野漁場の雇人のひとりとして明治26年に死亡し、その藤野漁場も同44年には事業を休止してしまったのに対し、漁場主の斉藤は同40年まで生存し、その後の一族も有力実業家へとなった背景がある。
 さて、ほかの代表的水産書「北海道水産豫察調査報告・明治25年」には『角網ハ今ヲ距ル大約三十年前始メテ龜田地方ニ用ヒラレタルモノニシテ建網中最モ進歩シタルモノナリ然レモ今日用ヒラル〃ハ唯鱒、鮭、鰮及ヒ雜漁用ニシテ鰊漁業二用フルハ北見及函館地方ヲ除クノ外至テ稀ナリ』とあって、これは先の「北水協会報告第五拾八號」と同じ調査によるもので、つまりこの時点で「北見の鰊角網」は認知されていたもので、「北水協會報告號外・明治24年」に『本年よりは角網を用ひ數年來の薄漁を防ぐを得たり』、「北水協會報告七拾貮號・明治25年」では『角網(鱒、鮭、鰊を捕るに用ひます)エキナリ網(専ら鰊を捕るに用ゆ)』とあって、このときには既に広く知られていたことを示し、また、先にも述べたように同21年には藤野家での所有が認められていて、「鮭鱒角網」の使用やその転用試験も勘案するとむしろ藤野漁場が先ではないかと推測される。
 それは「鮭鱒聚菀・昭和17年」にも『鮭鱒落網 落網は北海道に於て早くから著しい發達するを遂げたものであるが、角網から工夫されたのであろう。鮭鱒角網は、慶應の頃から使用せられたらしく明治七、八年頃根室に於て藤野四郎兵衛氏等角網を使用したと云う』とあるように、「鮭鱒角網」からの転用はむしろこちらが自然であって、「北海道水産雜誌第八號・明治27年(水産諮問会)」においても『從來鰊漁業には根室北見地方に於ては重もに角網を用ひ西海岸各地に於ては皆建網(行成網)を以てせり然るに近年此建網を角網に變更するもの漸く多し』とあるからである。
 このように「鰊角網」の完成の前後が積丹・北見のいずれかはともかく、少なくともほぼ同時期に別々の系統をたどって発祥したことは間違いないところで、「北海道漁業史」ほかの一方的な「鰊角網」の積丹濫觴説は誤りと云える。


詳しくは「北海道の文化80号」/北海道文化財保護協会をご覧下さい。
~子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り
北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!

第41回ニシン漁のはなし

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:31Comments(0)北海道の歴史

2008年03月26日

上モベツと鴻之舞金山

上モベツ部落の形成と鴻之舞金山の始まり

 上藻別原野の測設は明治36年であるが、この時の入殖者はなく、同39年の区画地貸付台帳によると10月31日に橋詰保吉のほか9戸、11月20日には円角信孝、旧法第三条貸付地台帳では10月31日に河合美之助のほか18戸と橋詰保吉外9名の名が見られ(重複有り)、実際にはじめて現地へ入ったは同40年の山崎梅吉であった。
 続いて明治42年の原野増割では福原浅吉のほか数戸が入殖し、翌年には田中万平らが続いて、同44年の山崎長美ほか十数戸の土佐団体が入地して部落が形成されて、翌年には上藻別特別教授場が設置された。初代の部落長は田中万平である。
 このうち福原は鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、栄養不足による脚気に対応するために農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。
 かっては東洋一と云はれた鴻之舞金山は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ六線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのが始まりで、翌5年に元山大露頭が発見されるに至って、同年、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。
 鴻之舞への入殖は大正5年に大久保馬吉ほか数戸が入地し、翌年には吉田亀吉ら十数戸が入殖、同年に金山が住友へ買山されて本格的に事業が展開し、同8年1月に濕式精錬がはじまると、同年、上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。                  倶知安内五号坑(昭和10年頃)
 倶知安内は住友が昭和6年から開発に着手、同じく池澤了は三王鉱山の採鉱を開始したが、同8年には住友へ売山されて社宅数十戸が建設された。
 高地昇による上モベツ駅逓所の営業開始は大正15年7月で、宿泊料は一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。その後、部落の開発と整備が進み、また、昭和4年には上西音吉が、同7年からは今出新八による紋別までの乗合自動車が運行されて、さらに同15年にバスの運行が開始し、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が始まると、駅逓は同年をもって廃止された。
 元山露天掘跡(昭和10年頃)         鴻之舞市街全景(同)             架空索道(同)  




















 佐渡のかな山は昔のこと、イマ日本第一の金山は大分県の鯛生、第二が鹿児島県の串木野、第三が北海道の鴻之舞-ところがこの第三の鴻之舞の「キン」が品位においては日本第一、しかも今までの学説を覆す併行鉱脈が十七本も本脈を基準に続々と現れ今後それが幾ら出て来るかわからないという景気のいい話、東台湾においても五十億円の金鉱脈があると横堀博士が発表した、五十億!それがホンマならタイしたものだが台湾総督府当局の調べによるとせいぜい五十万円位の見当、それも砂金だから採算にかなうや否やが頗る疑問とされているので当時博士の視察にあたり案内役だった総督府鉱務課の朝日技手は博士の発表に一驚を喫し元鉱務課長の福留喜太郎氏の如きはウフフフフと笑っている、ところが北海道の方は学界の驚異のうちにカネに糸めをつけぬ住友が禁じ得ない黙笑を続けながら小池技師を総指揮官に二百七八十名の益良夫を使役して掛声いさましくイマ現に掘って、掘って、掘りまくっている
 鴻之舞は北海道北見国紋別郡元紋別町から西南六里半、大正初年のころは殆ど人跡を絶った大森林が続く山また山、ある日一人の杣が今元山と呼ばれるあたりの岩角に腰をかけてお弁当の握り飯、フト傍を見ると石コロからピカリ!眼を射たのが一条の光、そもそもこれが鴻之舞金山の発祥である、杣は物知りにその石コロを見せたやま師の飛躍がはじまった、専門家が鑑定すると「金!」
 許可鉱区は至る処試掘されついにカッチリ掘りあてた大金脈の露頭「千万両々々」と呼び声高く伝えられたのを、住友がポンと投げ出した一百万円で値がきまったのが大正六年、それからというもの人と機械に資本が動き、とうとう年産額黄金二百貫-カネに換算して百万両、銀はその四五倍の量を採取するまでに至った 後略。/大阪毎日新聞 (昭和5)


 現在の六号線沢と黄金橋、廃坑後

















第40回鴻之舞金山と上モベツ駅逓
(関連、第54回)
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Posted by 釣山 史 at 23:47Comments(0)紋別の歴史

2008年03月23日

赤ちゃん絵本のススメ

ブックスタートをはじめよう
 ~親子でつなぐ心で感性を養う!        第39回親子で読書(第38回、43回参照)

◆乳児用(赤ちゃん)










































◆幼児用(1~3才)












































《参照 第43回絵本のための本/絵本の選び方》
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Posted by 釣山 史 at 13:50Comments(0)子育て・子どもの学習

2008年03月22日

子どもにすすめたい郷土の本

「北海道青少年のための200冊」~心豊かな青少年を育てる郷土のお話し
(関連、第39回、43回)

 昭和45年から続いている「北海道青少年のための200冊」とは㈶北海道青少年育成協会が北海道学校図書館協会と北海道読書推進運動協議会とで協力し選定している推薦図書で、毎年、北海道の地域性を考慮しながら差し替えが行われている。
 ここでは最近の小学生向け図書から特に郷土にかかわる10点を選書した。

○【低学年】きつねのかみさま/あまんきみこ(作)酒井駒子(絵)/ポプラ社
 なわとびを忘れたりえちゃんが公園にもどってみると、楽しそうな歌声が聞こえてきます。「おおなみこなみ ぐるっとまわって きつねのめ」、そこではキツネの子どもたちがなわとびをしていました。
○【低学年】パヨカカムイ―ユカラで村をすくったアイヌのはなし―/かやのしげる(文)いしくらきんじ(絵)/小峰書店
 ユカラが得意、でも狩りがへたでとっても貧しいアイヌが住む村に、病気をまきちらす神・パヨカカムイがやって来た。
○【低学年】ピリカ、おかあさんへの旅/越智典子(作)沢田としき(絵)/福音館書店
 鮭のピリカは4歳、もう立派な大人です。なつかしい匂いのする川へ向かってまっすぐに泳ぎつづけます。サケの生態と命の大切さを伝える本。
○【中学年】ペカンペと森のカムイたち/はたさみつる(作)川瀬聖香(絵)/新風舎
 菱の実「ペカンぺ」はかたいトゲトゲで生きものたちの嫌われもの、新しいすみかを探して旅にでます。チネシリ、アカン湖、マシュウ湖、クッシャロ湖、トウロ湖と雄大な自然の中に動物たちと出会いながら、旅を続けます。
○【中学年】熊神とカパラペポンス/かやのしげる(作)いしくらぎんじ(絵)/小峰書
 ユペッ川の上流のいちばん高い山を守る熊神は、ある日心の美しいアイヌにうたれて、そのアイヌの家に祭られました。歌やおどりをはじめた村びとのひとりに、踊りがとってもじょうずな男がだれなのか知りたくてたまりません・・・。
○【中学年】アイヌとキツネ/かやのしげる(作)いしくらきんじ(絵)/小峰書店
 ある夜、アイヌにチャランケ(談判)するキツネがいました。秋になるとシャケがたくさんの川を上ります。神さまはシャケをアイヌだけのものとしてつくったと云うのです。
○【高学年】読みがたり 北海道のむかし話/編北海道むかし話研究会・北海道学校図書館協会/日本標準
 昭和53年「北海道のむかし話」の改題。北海道の昔ばなしを、アイヌ民話、本州から渡った和人のはなし、開拓の歴史に分けて、昔ばなし独特の「方言」や「語り」の味わいを残した読み語り。
○【高学年】カムイコタン祭りに/相川公司/新風舎
 旭川市のチカブミに暮らす小学校4年生のミナと1年生のミサの姉妹。「ミサ、アイヌでないもーん」、ミサは、自分がアイヌだということをまだ知らない。カムイコタン祭りの日にスピーカーから流れたことばに、ミサは泣きだした…。
○【高学年】アイヌの少年 イキツカ/相川公司/新風舎
 和人がアイヌに漁場でのはたらきを強制した時代があった。「おれは山に逃げる」、コタンから漁場につれてこられた少年イキツカは、たった1人で山に逃げる決意をした。豊かな自然の中でのきびしさを体験しながら、自分らしく生きる少年の物語。
○【高学年】どうぶつさいばん タンチョウは悪代官か?/竹田津実(作)あべ弘士(絵)/偕成社
 北海道の湿原に住む動物たちが集まって裁判がはじまります。訴えられたのはヤチウグイをたくさん食べるタンチョウです。ヤチウグイは「このままでは全員食べられてしまいます!」という。果たしてタンチョウは年貢をしぼり取る悪代官なのか?

 第38回子どもの読書

 
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Posted by 釣山 史 at 05:06Comments(0)子育て・子どもの学習

2008年03月20日

わたしの旅100選(シブノツナイとモヨロ遺跡)

~集え、温故知新!2                                       
                                                         モヨロ遺跡
 今から7年まえに紋別市で「歴史地理学会」が開催されて、湧別町のシブノツナイ竪穴住居址と川西遺跡を巡検した。このとき学生達だけではなく、先生方も皆、ボコボコと住居址が続く内地では見られない原風景に只々感動していた。地元民の私にとっては常呂河口にしろオムサロにしろ、鈍感となり、当りまえに感じてしまう。
 そして平成17年には文化庁によって、「旅」を通じて日本の歴史と文化を知ろうと云う「わたしの旅百選」が選定され、道内でもこの地域を含む次の6つが選定された。


 1.世界自然遺産「知床」を訪ねて
 2.開拓史のシンボルマーク(★)を探せ!
  ~北海道の開拓歴史を学ぶ旅~
 3.小樽発”鰊漁場の跡”をたずねる旅
 4.北の大地への感謝と祈り~縄文文化・アイヌ文化への旅
 5.旧石器時代を体験する旅・オホーツクの古代遺跡を訪ねて
 6.屋根のない博物館「そらち炭鉱回廊」を行く

 北見の遺跡をたづねて 後藤寿一(蝦夷往来/昭和7年)抜粋
 さて、この3月15日に遠軽町で「はまなす財団」主催の「オホーツクの古代遺跡と路、川、海を連携した地域振興の可能性をさぐる」と題した「オホーツク地域観光振興シンポジウム」が開催された。東京大学名誉教授の藤本強さんの基調講演の後、北海道埋蔵文化財センターの畑宏明さんほかにより、「北海道遺産を活用した観光振興とまちづくり」、「オホーツク観光の連携のあり方について」が熱く語られた。
 今また、北海道では「世界遺産(文化遺産)」として常呂遺跡や標津遺跡群などからなる「北海道東部の窪みで残る大規模竪穴住居跡群」の指定を推し進めようとしている。そうして、ここは懐に知床国立公園を抱いてラムサール登録の「濤沸湖」や「野付半島・野付湾」ほかの湖沼群が連なる自然豊かな地域でもある。
 ちょうど10年まえの網走市でのオホーツク人を題材とした「ANAオホーツク歴史シンポジウム」では「オホーツク歴史浪漫と古代遺跡を巡る3日、4日」ツアーに東京・大阪ほかから50人が参加し、シンポジウム全体では400人以上の歴史ファンが集まった。それは文化を活用した、これからの「目的のある、こだわりを持った旅」の斬新的な試みだったと思う。
 まずは地元民が郷土を深く理解し、あらためて見つめ直すことが重要であり、そして、そのイイきっかけとなるだろう。

 
シブノツナイ遺跡の住居址群










オムサロ遺跡公園、遺跡から望むオホーツク海

第37回文化活動(関連/第44回、第56回)


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Posted by 釣山 史 at 14:14Comments(0)持論、討論

2008年03月16日

渚滑・滝上原野を例とした移住民旅行

~最奥地に見る明治・大正の移住民旅行

 明治維新後の北海道への移住については大きく3つの波があり、その最初は明治30年前後の約6万4千4百人、第2は同41年前後の約8万6百人、そして最後で最大のピークが大正8年の約9万1千人であった。
 その最後の波の大きな要因としては明治30年代後半から数年に渡った奥羽地方の凶作と日露戦争後の戦後不況が重なり、また戦勝により国民意欲が高揚したこと、さらに第一次世界大戦の勃発で経済が混乱し本道の農産物が改めて見直されたこと等によるが、この頃の道内の交通網が一段と整備されたことも要因となり、さらに奥地の道東北へと開発は進んで行った。

旧渚滑村開村の人・木村嘉長の家/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
◆先達者にみる移住民旅行
ア)堀川徳治氏の場合(明治26年渚滑村に入村)※1
 伯父の堀川泰洋(※2)さんは新潟縣の人で、中略 一層の事冒險的に北見に踏込んで開拓事業を起さうと決心して同二十二年十二月下旬、單身未だ工事中の網走旭川の中央道路(※3)を歩き初めをして來たものだそうです。
 私共も泰洋さんが通つたと言ふ其の中央道路を十一月下旬三戸二十六人が簑笠ゴザと言ふ珍装で、小樽から空知太(※4)と言ふ驛まで乗車し其處から徒歩で十八人かの子供を連れて踏出した。巡査に「北見の方に行く道はどこでせう」と聞くと、巡査は目を白黒させて「それや大變な事だ。御前達は其の姿で北見邊に行けると思ふか?峠は峠にはもう雪の五尺もあるに相違ない。略」と眞劍になつてとめるので婦人や子供はメソ〵泣き出すと言ふ始末・・・中略 簑笠ゴザの一行がどし〵歩き出したので、巡査も驚異の眼を睜つたま〃呆然として見送つてゐた。
 かくして永山屯田(※5)に一泊した時に廣漠たる原野の開墾されてゐる樣や、馬鈴薯の南瓜大の奴がゴロ〵無雜作に山と積み上げられてあるのに元氣づき、吾々も北見へ行つたら斯樣に大陸的農業をするのだ。内地の樣に五反や八反の小百姓とは問題が違ふ(※6)と一行の主座たる善六翁は皆に元氣をつけたのである。
 石狩峠今の愛別から白瀧に至る間には白雪五尺、峰より吹きなぐる吹雪は咫尺を辨ずる事も出來ぬので、達者なものは皆子供を背負ひ老人の手を引き連れて、一歩又一歩凍死せんばかりの苦痛を嘗めて明治二十六年十一月二十一日北見紋別即ち泰洋氏の陣屋(※7)へと辿りついた。/昭和8年「北見郷土史話」抜粋

1.泰洋の兄善六の次男。本村会議員、同農会評議員、同農事実行組合長など公職を歴任し威徳寺の開山に尽力した。
2.本村における初期開拓の中心人物。ここに明治22年来紋とあるが同23年の誤り。
3.明治24年に完工した中央道路は旭川を前後に上川道路と北見道路に分けられる。
4.滝川のこと。札幌―滝川間の開通は明治25年。
5.兵の入村は明治24年6月、翌月には戸長役場が置かれた。草原の多い永山は開墾も容易で2年目からは小豆、大豆、馬鈴薯、玉蜀黍等が栽培され、この頃すでに一大農村を形成していた。
6.明治19年に制定された北海道土地払下規則では、1人につき10万坪までの無償貸付がなされ、成墾後は廉価で払下られた。
7.陣屋とは駅逓の旧称。

イ)木本善吉氏の場合(明治30年渚滑原野25線に入殖)
 木本善吉氏は徳島県那賀郡椿村で明治五年に生れ、三十年三月渡道、余市山道村に一年おり、同県人豊村品蔵(※8)の尽力に依り土地貸付出願中の紋別郡上渚滑に転住の目的で、その年の十一月初旬小樽港を出帆の宮古丸に乗船した。
 この航海が江差追分の有名な、「忍路高島及びはないが、せめて歌棄磯谷まで」。と唄にも続く航路で、十一月になればいつも波荒くこの航路中も甲板に大波が越す恐ろしい暴風となり、やむを得ず利尻近くより後戻りしてしまった。次は陸に替え、滝川迄汽車に乗った。その当時滝川が終点であったので、滝川より歩くより方法がなかったので旭川より地方道路野上駅逓(※9)を通り、湧別、紋別、上渚滑へと七日間もかかってやっと到着した。(※10)/昭和35年「渚滑川」抜粋

8.同郷の品蔵は各地を視察し渚滑原野を選定した。明治30年制定の北海道国有未開地処分法によると1人最大で耕地が150万坪、牧場250万坪が無償で貸付され、成墾後は無償で付与された。品蔵はこの地方の酪農開祖の人。
9.中央道路六号駅逓のこと。初代取扱人の笛田茂作は初期紋別村の功労者。市史では紋別最初の醸造を明治26年の千葉利吉としているが、同22年頃より酒造を行った茂作の誤り。
10.同士に後に管内を代表する実力者となった飯田嘉吉がいる。
                                                            渚滑原野の畑作/網走支庁拓殖概観(大正6年)
ウ)粟田又吉氏の場合(明治35年渚滑原野10線の岩田農場小作として入殖)
 徳島県板野郡堀江村より粟田与三吉、母モト、長男又吉(十七才)は、三十五年四月二十日故郷を出て徳島中須港より乗船、神戸で日本郵船(※11)の山口丸三千屯に乗替、横浜萩の浜函館を経て小樽に入航、それより北見丸七百屯に乗替えた。航海中暴風に遭い利尻の島陰で二日間停泊、ようやく紋別港に入航したのは五月八日であった。/昭和35年「渚滑川」抜粋

11.この頃は道庁命令航路、道庁補助航路等があって内地と本道、道内各地を結んでいた。日本郵船はその代表的な受命者。

エ)大内直太郎氏の場合(明治35年宇津々7線に入殖)
 徳島県三馬郡茂清村出身の大内直太郎氏は三十五年春三月渡道し、枝幸郡歌登村幌別六線の湧地農場に入地して荒地を一町程開墾し、中略 ここでは見込みが無いと思っている所を、雄武の森田村長に勧められ渚滑村宇津々に来る事になった。道中は直太郎さんが布団と世帯道具とを天びん棒でかつぎ、父与三郎が三才の小共と、片荷物は柳ごおりを棒でかつぎ、妻は小共を背負い二十八里の山道を四泊五日がかりで歩んで中宇津々に到着した。(※12)/昭和35年「渚滑川」抜粋

12.札幌―網走間の中央道路に比べ、整備の遅れた北海岸道路の旅行はいっそう困難であった。

オ)藤田正行氏の場合(明治41年滝上原野8線に入殖)
 私は明治三十年八月十七日富山県東礪波郡中野村(礪波町)で生まれ、明治四十一年に父は滝上に富山団体として入植しました。中略 父は明治四十一年三月三十一日富山県団体二八戸と中野村から伏木港へ出て同年四月一日出帆、小樽へ着き小樽から名寄まで鉄道で来ました(※13)。名寄では滝上へ行く団体の清原権右エ門外六、七人が名寄のアイヌ地(コタン)にいた(ここに今井浅次郎、山崎伊三郎等が家族と共に一、二年先に来ていました)のでそこを清原庄次郎外数人の者が頼って行きました。
 また、村上辰次郎は下川の二十三線にいる弟の村上要蔵の処へ行き、父と残余の二十人余りの人は内地で父の知り合いの村上という人が上名寄二十九線(現下川町)におるのでこの人のところに身を寄せ、一ノ橋(当時の然別)(※14)で雪が深いため国境を越せる日を待ったが、井上権次郎さん外二、三人の人は、かろうじて興部まで行くことができました。
 興部では前の年に富山団体が許可になり三線~十二線に入地した人々がいたので、四月十五日まで厄介になっていました。この四月十五日までの間に下川のアイヌ地にいた人々もみんな興部に集まり滝上へ出発しました。
 渚滑へ来たら春の増水で川が渡れないので、堀川泰洋という人の空家で一晩過ごし翌日七条前(※15)という人に船で渡してもらい、滝上まで来ることができました。/昭和51年「滝上町史」抜粋
 
13. 旭川―名寄間の鉄道開通は明治36年、同37年には里道名寄―興部間が全通。
14. 天北峠の下川一の橋に駅逓があった。
15. 徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで、同総代人ほか同農会評議員、網走外三郡農会議員、同産牛馬組合議員などを歴任。

カ)朝倉義衛氏の場合(明治41年滝上サクルー3線)
 明治四十一年四月二十日、高知県長岡郡元東豊永村の人たちの見送りをうけ、一三人が北辺の国へと旅立ちをしたのである。もちろん陸路徒歩の出発である。高知市に一夜を明かし、浦戸港を出帆して神戸に上陸、これより汽車で名古屋に至り一泊、翌日は東京上野を経て仙台泊。ここから青森に向かい(※16)、船で室蘭港へ。それからは一路夕張線(※17)を経由、岩見沢、美唄をすぎて砂川に一泊した。翌日砂川を発し鉄道の終着駅名寄に着いて石川旅館(※18)に一泊した。浦戸港出発から七日目、四月二十九日であった。
 石川旅館で、それから先の道中の案内を詳細にきき、布とん一組、二尺五寸の鋸一丁、鍬一丁、鍬は北海道形(※19)と高知製を布とんにくるみ荷造りをして背負った。五貫目はあったと思う。子供連れの家族は荷物を陸路に頼み、子を背負って何れも徒歩であった。はじめのうち荷物の重さは大したことはないと思っていたが次第に重さを感じて閉口してしまった。この第一日は下川町一の橋の駅逓泊り、第二日は一の橋から中興部岩越駅逓に着いた。疲労甚だしいので小笠原豊治と私とで馬を借り荷物をつけて興部駅逓(※20)まで運んだ。家族連れは少々おくれたが、興部では全員共に苦しかった話をしあい、何となく前途の希望に花を咲かせるのであった。
 第三日目は目的地渚滑長野家(基重、私の叔父)に到着できるのだと早朝興部菊池駅逓を出発した。目的地は近いと聞きながら、歩いてみるとなかなか遠く、やっと辿りついたのは日暮れの五時頃であった。荷物をおろして久しぶりの挨拶を交わした時は、本当に百貫の荷をおろした感で大きな息をした。五月二日であった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

16.上野-青森間が鉄道で結ばれたのは明治24年。
17.明治25年に岩見沢-室蘭間が開通。
18.この当時の名寄には13軒の旅館があり、このうち石川旅館と水島旅館が有名。宿泊料は一泊上が80銭、中60銭、下50銭で昼食代が別に20~35銭であった。
19.洋式農機具だけでは無く、鍬などにも北海道独特のものがあった。
20.明治25年、澤木に設置された菊地駅逓は同37年に興部へ移転した。
移住者の上陸/網走支庁概観(大正5年)
キ)篠原久次郎氏の場合(明治42年オシラネップ北線に入殖)
 富山県西礪波郡福岡町を四十二年四月十日旅立ち、名寄町まで来て先居住の越中団体の神代三五郎方へ一応落付き、中略 北海道移住民協会(※21)川口慶造の紹介で、渚滑濁川オシラネップ北線に十八戸分の予定地の払下を受けた。神代氏の所で十日程滞在後、愈々目的地に向けて、荷物は馬車で人は歩行で出発した。初日の晩は然別駅逓泊、翌日は国境を越えて岩越駅逓泊、三日目は興部泊、四日目の晩は紋別島竹旅館泊り、五日目朝早く出発五十二線泊りであった(※22)。
 春の雪融水は日増に増水して渚滑川は益々急流となり、ながらく川向に渡れなく西森宅(※23)に滞在しなければならなかった。十日程してようやく荷物を渡して貰う事が出来た、1回1円の丸木舟には2個しか積めない、16回で32個の大荷物を川向に渡し、岸の高い所に山積にした/昭和35年「渚滑川」抜粋。

21.この頃には種々の団体が結成され、官民あげての移住民保護がなされた。
22.然別は一の橋、岩越は中興部駅逓所のこと。
23.明治38年に中渚滑から再移転した高知県人の西森亦吾は52線で商店と渡船場を経営していた。

ク)岡村文四郎氏の場合(明治44年上古丹に入殖)※24
 わたくしは南国は土佐、高知県の生まれであるが、いまでは、すっかり北海道の農民になってしまった。わたくしは明治四十三年(※25)に現役兵で入営した。中略 内地に帰って来てみると、郷里では、はからずも北海道へ行って開拓に当たろうという話が持ち上がっていた。
 わたくしの父は作次というが、父の友達で、明治二十八年に北海道へ行った人が、たまたま土佐に帰って来て、「北海道に行かないか、北海道はええところだよ」という。「よし行こう」と相談がまとまっていたのである(※26)。以下略。
 わたくしは明治四十四年冬除隊したが、そしてホッとする間もなくその年の十二月中旬郷里土佐をたって、海をわたり北海道に出かけたわけだ。中略 わたくしは北海道の事情は全く知らなかった。当時汽車が函館から名寄まで通っていた。名寄から、上渚滑の入植地までは大体三十五里くらいある。それをとぼとぼ一人で歩いて行った。
 その時わたくしはいまの様に便利な洋服なんというものじゃない和服を厚着して尻ぱしょりで、村田銃をかついででかけた。開拓地では熊が出るというのが通説である。中略 軍隊靴のうえにゴム靴をはいた。しかし北海道の凍った雪の上では、ゴム靴は滑ってダメ。すべったり、転んだりして汗をふきふき歩いて、大分来たなと思ったところで、路傍の辻にソバ屋があったので、そこによった。「名寄からここまでどれ程来たことにになりますか」と訊いてみると、「まあ一里半だ」といわれて、もうがっかりして、ヘタヘタとソバ屋の店先きへ腰を降ろしてしまった。ソバ屋のお婆さんがわたくしのその姿をみて「そんな格好じゃ歩けない、ツマゴを履きなさい」という。ツマゴというのは藁でつくった半長靴の様なものである。略。
 その日は八里ばかり歩いて一泊、つぎの日は十二里も歩いて一泊。泊まるところは駅逓といって官営の宿屋の様なものだ。その駅逓と駅逓をつないで、馬ソリが往復し、人や荷物を運ぶ。…」中略。名寄を歩き出してから三日目、やっと目ざす上渚滑についた。(※27)/昭和39年「わが生涯」抜粋

24.当村会議員、上渚滑信用販売購買利用組合長、北海道農業会長、全国共済農業組合連合会長ほか公職を歴任し、参議院議員を3期務めるが現職で病没。
25.明治37年日露開戦、翌年ポーツマス条約により関東州の租借を獲得。同39年韓国統監府を設置して同43年には韓国を併合。岡村氏は満州守備隊に入営した。
26.いわゆる呼び寄せと考えるが、明治28年に湧別村と常呂村へ60戸の土佐団体が入殖し、その内数戸が渚滑村へ再転住していることから、これと何らか関係があるかもしれない。
27.一泊目は一ノ橋、二泊目を興部と考えると里程が合わない。冬の旅を考えるともう一泊はかかる距離であるが、途中迎えの馬車に拾われている。
滝上村・宮地駅逓所/写真帖渚滑滝上の分村(大正7年)
ケ)村上七五三八氏の場合(大正2年滝上19線へ入地)
 大正二年の元旦に着く前夜、市街の吉田旅館に泊り翌朝内地から履いてきたアサウラゾーリを地下足袋(高丈)に履きかえ、十五線の長谷川さんへ来たところ、丁度お昼で元旦だからとイナキビの入った麦飯を食わされて、これでもご馳走の分だと言われたときはがっかりした。略。
 ここへ来るとき名寄で汽車を降りて馬そりを頼んだところ二四円とられたが沙留まできたら大吹雪になり、これから先は行けないといわれ、二四円の約束だったが12円位で帰った。(興部の酒井という人であった)。
 興部で一晩泊まり、渚滑では三木旅館(※28)に泊まり(一泊七、八〇銭)、翌日間違って紋別の方へ行き引返して来たのでおそくなってしまった。/昭和51年「滝上町史」抜粋

28.経営者の三木槇五郎は徳島県出身。明治29年に本村最初の団体移住して初年は岩田製軸所で働き、翌年からは小作として開墾に従事した。のち5線市街で旅館を経営したが、大正13年3月4日、鉱山夫が持ち込んだ火薬が爆発して炎上、妻とともに焼死した。

コ)棚橋与一氏の場合(大正4年中渚滑に転入)
 兄、田村八百蔵一家と渡道することになり一家四人の家族と同道。当時は、下生田原(安国)が鉄道の終点であった。帯広、池田、野付牛を経て一週間目に同駅に着いた(※29)。ここで一泊、翌朝支度を整え、徒歩で出発、子供二人に荷物を携えており、加えて悪路に下駄ばきと言う仕度で、夕方漸く上湧別市街に辿り着いた。
 ここで一泊、朝早く出発したものの、歩速は捗らない。丁度、沼の上あたりで安太郎兄が馬車で迎えに来られているのに出会った。実に嬉しかった。「地獄に仏」とはこのことだと思った。北海道が初めての田村兄一族は相当落胆した。悪路馬車に揺られ〃中渚滑の原野に点在するランプの光が見えたときは、本当に蘇生の思いをした。/棚橋与一氏自叙伝(中渚滑八十周年記念誌)抜粋

29.明治44年に池田―北見間が全通、翌大正元年には網走―野付牛間が開通した。

第36回先人の移住旅行

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Posted by 釣山 史 at 22:32Comments(0)紋別の歴史

2008年03月15日

北限のリンゴ

◆上湧別リンゴのはじまり(第10回、第33回の続き)
 ここの「移住者成績調査」では湧別地方での最初のリンゴ栽培を明治30年の上野德三郎としているが、また「上湧別村史」では同31年に中野半次郎が札幌より苗木を購入して村内へ転売したとも云う。

 戦前の上湧別のリンゴ園 網走支庁管内概況/昭和9年
 上野德三郎 略 (明治)三十年には先の貸付地は之を墾成して付與を受けたり又札幌地方より苹樹李、櫻桃、等の苗木を取り寄せ栽植したり之れ同地方に於ける果樹栽培の嚆矢なり 中略 果木は各種を合して百二十本、两三年前より相當の収獲あり 移住者成績調査第一篇/明治39年
 苹果は明治三十年末の調査に依れば湧別全村に亘りて僅かに二十一本の栽植を見るに過ぎず苗木も當時は上川地方より移入せしもの〵如く傅へらる〵もその眞偽判明せず随つて種類なども明瞭ならざりしなり、翌年に至り髙知縣人中野半次郎氏札幌方面より俗に四十九號と稱する國光の苗木若干を購入し南兵村三區大川德藏(熊本縣人)外數名に轉賣し植付けたり、これ今日苹果の産地として天下に識らる〵源泉なりしなり、時に此年の成育甚だ佳良なりしを以て其翌三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏、當時屯田兵本部建築監督北村某の歸札するに托し最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せるより漸次園藝の趣味を解し且本村の果樹育成の良好にして栽培の有利なるを測知するもの多かりし 上湧別村史/大正9年
 丁度移住した當時に、これは四國の高知縣の方で有ましたが、前住者(徳弘正輝)が一人ありました。この人は屯田有地の眞中の土地を貰つて相當な土地をおこして農耕をやつて居つた。その人が自分の宅地内に林檎の木を植えて、林檎が洵に立派になつて居つた。それで林檎もこの土地に適當するから栽培しなければならぬと云ふので、苗木を中隊本部が斡旋してくれまして、各戸に十本位苗木を植えました。現在の湧別林檎と云ふのはさうした事情で産出するやうになつたのであります。それで林檎も一時は四百五十町歩栽培して居つたことがありますが、大正十二、三年頃林檎に毛虫が非常につきまして、その豫防が出來ず、大部分が駄目になり、現在では百五十町歩を栽培して居ります。それから又小さいもので今植えて居る物が、約百町歩ばかりあります。 北海道調査報告/昭和12年

 しかし、明治30年に屯田兵が入地したときに先住者の徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これがこの地方のリンゴの濫觴と思われ、また、土井菊太郎が同27年に転入して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云い、同30年末には村内に21本のリンゴ樹があった。
 このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が倭錦ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めたが、北海道庁では大正8年の果樹奨励協議会において、道内各地に適地を選定して集中指導を行うこととし、翌年には余市で第一回栽培地実地指導講演会を開いて、また同年、果樹組合準則を制定し、地方組合の結成と苗木の無償配布を奨励した。
 いっぽう上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、
 こうして気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵を中心に栽培が広って、大正後期には上湧別の栽培戸数が全道の四分の一にも及び、同15年に当地で第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
 この間、大正10年からは「湧別名産りんご」のレッテル使用が始まり、昭和6~9年には相羽誠が道東各所の渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別でリンゴの駅売りを行い湧別リンゴの普及に努めたと云い、昭和4年には上湧別苹果研究同士会が結成されて同7年に上湧別苹果協会へと発展、同9年は上湧別産業組合に統一された。そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として御下賜果物謹製の下命を受け、品種「祝」を献納して本村リンゴの最盛期を迎えた。
 先にも述べたが新開地の道東では当初の入植者に限りがあって、また士族授産の観点からも士族が多い官吏や屯田兵へと重点的な果樹の奨励がなされ、德弘も郡役所の元官吏ではあったが、上湧別のリンゴ栽培が中隊指導のもと兵村へ定着し、もっぱら自発的に発展した薄荷栽培と異なるのはそのためである。
  第35回リンゴのはなし3

 現在のリンゴ園

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Posted by 釣山 史 at 08:29Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月13日

最奥地、網走管内の酪農のはじまり

~ 網走地方における草創期の酪農・畜産

峰村牧場放牧地(能取) 北見之富源/明治45年
 道内初期の牧畜業は馬匹が中心であり、また、畜牛は主に肉牛であった。管内畜牛の記録としては明治16年の湯地根室県令の巡視の際に斜里の水野清次郎が牛の飼育を申し出て下附され、のち同18年には牧場を始めたと云い、いっぽう紋別地方は次の通りで、いずれにしても未だ試験的畜養の段階にあった。


 牧畜の業を行ふものは湧別に德弘正輝氏あり網走に原鐵次郎氏あり二人共に多年の辛酸を經漸く基礎を成立したるものにして其經歴又た頗る觀へきものあり德弘氏は開墾を兼ね牧牛を行ひ原氏は人馬繼立を營みて牛馬を育せり其牧牛の模樣は尚ほ未た盛大に至らす僅々三四千圓の價額に止まれりと雖も增殖の景況は駸々として好成績を呈するか故昨年より二三の有志者は新たに百頭程を南部其他より購入改良繁殖に從事す 後略 北海道通覽/明治26年
 明治十八年山梨縣人山田環氏時の根室縣知事廣田千秋氏に乞ひ牛七頭馬三頭を借受け網走町原鐵次郎氏と共同し網走に牧畜業を經營せり、中略 山田氏は遂に資金の缺乏より止むなく他に財源を需め再興を圖らんと翌十九年一旦網走の地を退去するに方り其後繁殖せる畜牛の半數を共同經營者たる原氏に頌ち他の半數を本村德弘正輝氏に托し遠く釧路方面に赴きたり茲に於て德弘氏は其畜牛若干を湧別原野の叢中に放牧せし 後略 上湧別村誌/大正9年
 前略 高知縣人德弘正輝の如きは東京に於て時の網走郡長大木良房に面し、北海道の拓殖状況を聞きて感激し、北海道移住を決意し、明治十四年春根室を經て、網走に來り、中略 其の後明治二十年春網走に於て山田環及原鐵次郎と共同經營の牧場失敗せるに際し、德弘は山田より所有權の分興を受け、原と分配して牛六、七頭を獲るに至り、字『ナヲザネ』の酋長『ケイタロー』を伴ひ、共に網走に至りて牛を引受け、初めて湧別海岸に放牧したが、其の適地に非ざる事を知り、これに代る放牧地を求めて遂に同年十月草木の成長可良にして清水湧く『ナオザネ』の地に移り、茲に專心牧畜に從事したのである。後略 北海道調査報告/昭和12年

                              田野岡牧場(網走) 網走支庁拓殖概観/大正6年 
 また、大正5年「網走支庁拓殖概観」には『牛は明治十九年官に於て根室より十九頭を購入して管内主なる畜産家に貸付けたるを初めとし越て二十四年藤野家に於て國後より七頭を輸入し又斜里村半澤真吉道廰より牡牛三頭の貸付を得て改良蕃殖を圖る等漸次畜牛の増加を示し價格亦高潮して牛の有利なるを認むるに至りたる』ともあるが、これは特に藤野家が自己の所有船での輸送が可能だったことによる。


◆管内酪農の始まりと「豊村牧場」
 さて後の本格的な牧場経営の始まりは明治26年の網走「原牧場」と同じく同年の「藤野牧場」であり、この藤野牧場では当初より牛乳の生産と販売がなされ、同29年の「北見事情」では「藤野牧場」での前年の牛乳販売高を網走で20石6斗9升9合(同年中)、紋別が6石6斗5升(同年8月から)としており、また明治31年「北海道殖民状況報文北見国」に『牛ヲ所有スルモノ數名亦之レヲ藻鼈村ニ送リテ放牧ス藤野ニ乳牛二頭アリ朝夕絞リテ販賣ス』とある。
 後には藤野牧場でバターの製造も行ったと云い、一般的にはこれが管内での乳酪製品の始まりと云われ、同42年10月の高田源蔵日記では『蛟竜丸出帆毎ニ石油缶ニ一、二個ヅツ函館ヘ輸送販売中』、翌年4月には『オショップ牧場ニ付、バタ製造ヲ視ル。原生乳二斗製造結果、三百三十匁精バタヲ得タリ』とあって、また、道庁統計には網走郡での生産を同43年2千7百斤、翌44年は2千3百斤と記録しているが、以後は事業が中止された。しかし、バターの製造については「藤野牧場」での開始以前に渚滑村(現紋別市)の「豊村品蔵」によって製造されていたと云う記録もあるので次に挙げる。


 渚滑原野の近況 略 豊村品藏の牧場は三十六年貸付せる九十五萬三千餘坪にして牛馬及ひ豚を飼育せるか牛最も多く本年「バタ」の製造を始めしに成績良好なりと云ふ 殖民公報第38号/明治40年
 豊村品蔵 略 一層其の事業を擴張せんと欲し三十六年自己及ひ同志の名義を以て附近未開地三百餘萬坪の貸付許可を受け初め改良農具を用ひて大農法を採らんとせしも後器械資本及ひ勞力費の節約上牧畜經營の一層有利なるを認め之を變更し前の懇成地は之を小作人に托し獨力を以て新貸付地の經營を始めたり 中略 牧畜業なるも産馬事業は多くの資本を要し且つ危險多く稍もすれは失敗に陥り易けれは産牛事業の資本比較的小額にして足り且つ生産物消流の途安全なるに若かすと乃ち牛を飼育せり 中略 勞働者を雇役し新墾犁を用ひて草原地を開き牧草を播種すること三十餘町歩、之れ北見地方稀に見る所たり 中略 三十九年又牛乳生産品利用の途を講せんか爲インパイア、クリーム、セペレーター其の他牛酪製造器機を購入し四十年五月より牛酪製造を開始せり 後略 移住者成績調査第二篇/明治41年


 ここにあるとおり豊村の牧畜は当初より飼料の生産と牧養の分業を図りながら産牛から牛乳の加工販売までを行った現在にも通じる斬新なもので、また製酪の開始を明治40年としており、実に「藤野牧場」に先立つものであった。

◆道内牧場の荒廃
 しかし、この先進模範的な豊村牧場も明治38年「北海道庁勧業統計」に『豊村牧場 牧場面積九五三、一五〇坪 牛一二 馬二〇』とあっても、大正2年「村統計綴」や同5年「網走支庁拓殖概観」には記載がなく、これについて河野常吉の「北見東部四郡」大正5年5月調では『牧畜家ハ大抵失敗セリ 豊村品藏モ然リ』とある。


 豊村品藏君 略 現在の位置即ち二十線に居宅並に倉庫厩舎等數棟を建築し、専心牧畜經營に努力したり 中略 一方畜牛よりは、搾乳して賣却し傍ら牛酪を製造し又蕃殖牛年々十二三頭を賣却して漸次多大の収入を得つ〵ありしが、不幸にして牛價非常に暴落し到底豫期の収入を見ること能はざる 後略 北見之富源/明治45年

 その背景としてはこの頃に殖民地の成功検査が進み、取得後の牧場の転用あるいは一時利益のための畜牛の処分が急増して、明治31年頃から40年前後をピークに牛価格が急落し、同41年には成牛1斤24円50銭であったものが同44年には13円にまでなってしまい、特に遠隔地であったこの地方への影響は顕著であった。
 また、大正5年「網走支庁拓殖概観」でも『當時は其の飼畜の方法稍々放漫に流れ一時の奇利を博せんとしたる嫌なきにあらざりしなり』とある通り、以後、専業的な大農場は暫らくの間は停滞するに至り、豊村による一大牧場も暫時縮小廃止されたようである。この当時の経緯と状況については次に詳しい。


 前略 北見ノ土地ガ牧塲ニ適セルハ勿論ナルモ地味肥ヘタルガ故ニ寧ロ農耕地トスル方利益大ナルヨリ事業家ハ未開地處分法ノ規定ニ基キ成功検査ヲ受クル迄ハ牧塲トシテ經營スルモ爾後ハ漸次農塲ニ變更スル傾向アリ貸付又ハ賣拂ノ條件ニ基ク官廰ノ簿冊ニ見レバ牧草萌ユル野ニ牛馬ノ群眠レル筈ノ箇所ガ良圃トナリテ 中略 殊ニ明治四十四年以後食用牛ノ價額低落シ全道ヲ通ジテ牧塲飼牛ノ減少ヲ來シタルガ北見ハ需要少クシテ交通不便ナル為メ其ノ影響ヲ被ル事甚シク同年以後著シク畜牛ノ減少ヲ見ルニ至レリ 網走築港調査書/大正3年
   
 実際には牧場用地内の林木の切り出しのみを目的としたものや取得後の用地の転売をねらった投機的なものも多く、広大な牧場にごく簡易な牧柵と数頭の牛馬、さらには借りた牛馬を放牧して検査をやり過ごすなど非常に悪質なものもあって、それが畜牛の乱売に拍車をかけて一時的な牧場の荒廃へとつながった。

第34回牛飼いのはなし

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Posted by 釣山 史 at 22:44Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月11日

網走地方のリンゴ

~網走管内のリンゴ栽培(第10回のつづき)

戦前のリンゴ作業の様子 : 検査要覧/昭和12年  農業開発が最も遅れた道東でも、明治7年には根室に官園が設けられ、このとき他と同様に果樹の配布があったと思われるが、三県時代の根室県では同18年に「農業談話会」と「北海道物産共進会」が開催されて、同年七重村から導入した苗木を県下全戸へ奨励している。
 網走管内の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗を各3、4本取り寄せたのに始まって同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には郡書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸の程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
 これらの奨励は明治24年に網走郡外三郡へリンゴほか450本が、翌25年にもリンゴ200本が下付され、同20年代には盛んに移植が試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹を植え、盛んに苗木の生産と配布を行い、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したと云い、また網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生で、また仁木村から再転住した木村嘉長は「北見之富源/明治45年」に『家屋の附近には李苹果を栽植して年々幾分の収獲を得』とあるように、渚滑村でも苹果を植えて同40年代には結実を見ている。

 半澤眞吉 略 明治二十五年小清水に三十本の林檎を植栽し爾來年々移植又は希望者に配布したる數數百本に及ひ又字シマトカリに於て落葉松2千本を植栽し且つ一般に配布し 後略 殖民公報第六十八號/大正元年
 前略 駅逓藤島福治ノ如キハ、漁ハ固ヨリ本業ナレトモ、頗ル農牧ノ業ヲ楽ミ、「ホロナイ」川左岸ニ於テ八万七千七百坪ノ牧場を有シ現今専ラ牧馬スレトモ、将来牧牛、牧豚ノ望ヲ懐キ、且ツ屋後ノ高原ニ明治二十七年千株ノ林檎ヲ植エ(現今五六百株生存)、家屋ノ周囲ニ穀菽蔬菜ヲ栽培シ、又当年米ヲ試作シ頗ル熱心ナリ 北海道庁第十一回拓殖年報/明治30年
 高田吉藏 略 (明治)二十八年秋始めて農業に志し大曲に於て耕地四町歩餘を二百八十圓にて買受け之に野菜を自作し監獄署及ひ工場等に賣却して太に利益を得たり又苹果の將來有望なるを思ひ同町大字最寄に於て耕地四町歩餘を買入れ之に札幌地方より苗木を取り寄せて栽植し 中略 現住地に移りて以來熱心諸種の事業に勉勵せし結果目下の所有畑地十三町歩、之を一反歩平均一圓の小作料にて貸付し果園の苹果六百本は既に成木して盛に登實せり 移住者成績調査第一篇/明治39年
 網走付近ノ林檎ハ年々其数ヲ増シ、目下同地方ノ林檎ハ三万九三三〇ノ多キニ至リ、品質小樽・余市付近ヨリ産スルモノト比較セバ稍ヤ劣ルモ 其成績見ルベキモノアリ、一ヶ年ノ収獲高ハ一万八千貫目、之ヲ時価ニセバ九千円ナリト云ウ 網走市街付近林檎園ノ景/明治39年


 こうして網走管内では明治33年に紋別郡でも産出するようになったが、その中心はもっぱら網走であり、同42年に4万円・10万斤の産額を示してブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
第33回リンゴの話し2

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Posted by 釣山 史 at 20:14Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月10日

地券は語る

歴史力を磨け!、うんちく王
 
 ここに一枚の「開拓使地券」がある。ここから参考となる、いろいろなものが読み取れる。
 まずは、この「地券」とは内地では1872年(明治5年)に始まって、道内は遅れて1877年(明治10年)に「北海道地券発行条例」が交付された。「地券」とは明治時代の登記簿謄本と評価額証明書のようなもので、土地の所有権を表わし、ここにもあるように地目、地積、地価を表記して地租の算定の基礎とした。この年の干支が壬申(みずのえさる)であったことから、別名「壬申地券」とも云われる(同年の壬申戸籍は有名)。
 さて、それでは地価・地租についてであるが、ここに地価6円50銭2厘に対して100分の1金6銭5厘地租とあるとおり、この時の税率は1%であった。基準の取り方にもよるが、この頃の米価は約9.3石/円であるから地価は60.5石となり、時代の違いもあり安易な比較ではあるが町奉行所同心30俵2人扶持の約4人分になる。
 続いて所在地の『渡島國津輕郡』について、この郡名は明治2年8月15日に松浦武四郎の提案によって蝦夷地を「北海道十一国八十六郡」とした際に、福山地方(旧城下と知内)が「続日本紀」の『渡島津軽津』に当たるとしたもので、廃藩置県後の一時期には青森県へ統合された経緯もある。1881年(明治14年)には福島郡と合併して松前郡となり、このとき釧路国の網尻郡も北見国網走郡に編入された。ちなみに、この8月15日が「北海道開基の日」とされている(終戦記念日と同じ)。
 最後に持主とされる『金子元十郎』であるが、幕末には道内に数カ統の漁場を有し、福山において大商人として活躍していた「金子元右衛門」を継いだもので、後に初代小樽区長で衆議院議員となり、1891年(明治24年)には中江兆民をして「北門新報」を発刊して「北海道の元老」と称された「金子元三郎」の本家筋で、時代が下って「北海道開発功労賞」、そして書家として初の「文化勲章」を受章した同じく松前出身の『金子鷗亭』も同族である。
 私は松前在住の小学生のときに書道教室に通い、同級生には金子さんと云うかわいい女子がいて、この地券の次の所有者と同じ小松君という元気な男子がいた。
  第32回うんちく王

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2008年03月07日

北海道、明治・大正期の移民政策

~殖民期の移民勧誘と保護

 開拓使の時代の屯田兵や応募移民への直接保護政策は北海道庁の設置をみてから誘導保護に転換され、移民の勧誘と開拓指導を中心とした様々な施策がなされたが、以下、それらの内の幾つかを簡単に紹介する。
                              北海道移民史/昭和9年
 小樽移民休憩所 殖民公報第十二號/明治36年







 ア)移民取扱事務の嘱託
 北海道の移住を希望する者に対して種々の便宜を図るため、全国の府県へ事務を嘱託し、また殖民地では繁忙時に各町村長並びに停車場所在の青年会長へ事務が委嘱され、貨物の運搬から種子の供給までを行った。
 イ)移民取扱事務所(移住案内所)と移民保護組合
 北海道庁は東京、神戸、名古屋、伏木、青森などの各港に11月から翌年の5月まで事務所を置き官吏を派遣して、移民への説明・指導を行い諸般の便宜を図った。道内では函館、小樽、室蘭が常設のほか釧路、稚内などに臨設され、管内では繁忙時に網走、野付牛、遠軽へ吏員を置いた。
 そして旅館業者を中心に神戸では北海道移住民斡旋組合、伏木は北海道移住民共立組合、青森が北海道移住民保護組合と結成されて道庁より手当が支給された。また、そのほか代表的なものに政治団体としての華族や官吏、実業家らによる「北海道協会」、入殖団体としては紋別郡の宮崎寛愛による「北海道殖民協会」などがあって、道内各地の殖民地では先住開拓民による開拓指導も行われた。
 ウ)事業成功者の派遣
 本道への既成移民のうち特に成功者を選抜して手当を支給、郷里へ派遣して移住の紹介と勧誘を行ったもので、いわゆる「呼び寄せ」を積極的に活用した。
 エ)移住開墾指導員(移住者世話所)
 小屋がけから開墾・耕種、資金の調達のほか日常までの様々な相談に応じ、移住民の定着と生活の安定を図るべく現地の篤農家に開拓指導が委嘱された。
 網走地方では渚滑村の山田新助がいる。広島県出身の新助は明治26年に来村し、村総代人、村会議員ほかの公職にあって営農の傍ら雑貨商を営業、大正5年の網走外三郡物産共進会では篤農家表彰を受けている。
 オ)移住民の運賃ほかの割引制度
 明治27年には北海道協会によって行われていた移住旅行費の補助はのち、政府の事業として引き継がれ同31年の内務省訓令により、汽船・汽車の割引券を発行することになった。
 明治34年当時では汽船が日本郵船は道府県間が3割引で道内が5割引、大阪商船は1割5分引、汽車が逓信省所管は5割引ほか私鉄各社が概ね2―3割引、道庁所管と北海道炭鉱鉄道においては無料であった。
 また、道内各地の旅館と商店では道庁の指導のもと、移住民割引特約の看板を掲げて、宿泊料と物品を割引き新規移住者への便宜を図った。
 カ)その他の勧誘活動
 北海道移住問答、北海道移住手引草、北海道農業手引草などの各種の印刷物を発行し、移住方法や未開地処分、開墾・耕種などを紹介した。特出すべきは道内各地の実況を撮影した映画を作成し、全国を巡回・宣伝した。








◆網走町に於ける移民休憩所/殖民広報第九十六號/大正6年
 












第31回明治の移民

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2008年03月06日

古書ファンへ自慢の第一版

~めずらしい開拓資料

◆北海道移住手引草/明治33年
 移住者のために「北海道移住案内」に引き続いて明治33年から大正12年まで発行されたリーフレット。北海道の概況、渡航の案内、殖民地と未開地処分、移住の心得、開墾・耕種などが紹介されている。
 大正13年には再び「北海道移住案内」と改題されて昭和11年まで続いたが、この第一版は現存が少なく、これだけ保存状態の良いものは極めてまれな一品。

◆第一北海道土地処分案内/明治28年
 明治19年制定の「北海道土地払下規則」を基本に当時の土地の取り扱い、貸下げ手続きの方法と主に道央の殖民地を詳しく解説している。
 注目すべきは干場のための海浜地の貸下げの項に『鰊建網(行成網及び角網)』とあり、鰊角網がこのころすでに道内へ広まっていたことを示している。めずらしい第一版だが惜しくも同年の再販本、しかし納豆博士の半澤洵旧蔵と云うプレミア付き。

◆北海道殖民図解/明治28年
 第二版が明治36年、第三版が同39年発行のいずれも多数の写真入りの分かりやすい冊子式のガイドブックで、市街や開拓地の様子を伝えていて、この第一版のみは銅板刷りの一枚もの、図版はすべて絵であるが、たいへんめずらしいため余り知られていない。
 所蔵のものは残念ながら痛みがはげしく、余白に『明治廿八年七月京都第四回内国勧業博覧会場・・・受領ス』とある。


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祝!ようやく目標の第30回となりました。
  

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2008年03月05日

網走での捕鯨

~オホーツク捕鯨の始まりと紋別での終焉


◆網走支庁拓殖概観/大正6年

 東洋捕鯨會社茲に見る處ありて從業根據地を網走町大字最寄村に設け網走事業場と稱し、捕鯨船二艘を配し客年より之が捕獲に着手せり、中略 〔一年目〕 三十一頭を捕獲し第二年目(大正五年)五月下旬より捕鯨開始し百三十一頭に及び此價格約拾萬圓の巨額に上れり、而して之が需要の方法に就ては地方人士未た食料に供せんとする調理法を知らさると夏季の捕獲に属するを以て其の大半を肥料又は製油と爲し管外に輸出せらる 後略  

 明治32年に下関の岡十郎が「日本遠洋漁業株式会社」を設立し、我国で最初の汽船によるノルウエー式の近代捕鯨を開始して、この後身の「東洋捕鯨(現ニッスイ)」は大正元年に室蘭を拠点に本道へ進出、同4年には網走に事業所を置いてオホーツクでの捕鯨が始まった。紋別へは昭和5年に大東捕鯨㈱が進出したが、このときには数年で撤退してしまった。
 時代が下り、かっては「大洋漁業㈱(現マルハニチロ)」や「極洋捕鯨㈱(現極洋)」などの基地でもあった紋別も昭和51年の水揚げを最後に捕鯨は見られなくなったが、これは200海里規制や反捕鯨運動のためだけではなく、同年7月、違反操業のために小型捕鯨船団が一斉に摘発されたことによる。                                  北海民友新聞   
 それは海上での処理が昭和18年には禁止されていたにもかかわらず、長年に渡って慣行されて来たもので、以前は水揚げ時にサイレンが鳴り、子ども達が走り募っては解体作業を見物した紋別の風物詩も、処理施設が無くなり、これを契機に捕鯨は廃止された。
 樺太タライカ湾付近で行われていた大型捕鯨は、それ以前の昭和43年に大洋漁業が2頭を捕獲したのが最後である。
紋別でのクジラの解体風景/昭和35年頃と同40年頃
 第29回お魚のお話し

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Posted by 釣山 史 at 22:50Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月04日

集え郷土愛/かってに文保2

集え、温故知新!

 昨春に文化財保護協会の会合で伊達へ行った。貝塚やお寺を巡見し、文化研究所ではその活動と収蔵資料に唯々感心するばかり。遠く紋別から参加した若手(と云っても40代)の私は、年齢層がかなり高いなかで、いっそう目立ったらしい。
 その逆、当地を訪れた方も結構いて、鴻之舞や駅逓の話で盛り上り、改めて「上モベツ駅逓所」の文化財としての重要性と保存経過を説明させて頂いたが、駅逓保存会のHさんはちょっとした有名人らしく、少し嬉しくなった。
 ただ残念なことに、この保存会も高齢化が進み、そろそろ活動も曲がり角に来ている。後継者がいないのだ。それに文化財保護協会も会員減が大きな課題となっている。
 高校の未履修問題ではないが、そもそもの歴史教育の軽視か、興味を持つ若者は少なく、文化財行政も考古系への偏りから、歴史系の研究者は少ない。また、環境ブームもあり、観光と結びついた道内では自然科学系の学芸員が増えたようだ。
 もともと函館と松前に育ったこの私、小さい頃から古いものが身近にあり、通学した小学校が重要文化財だったくらいで、「古いもの」への思いが自然と身に付いたのか、古建築や古物に興味を引かれ、周りからは「オタク」とか云われている。
 私は学芸員でも専門員でもないが、一時期は「あの人、また来てる」、「エ、わざわわざ、紋別から来たんですか!」などと云われる程に勉強会や講演会を荒らしまくり(?)、それが身に付いたとは云わないが、全体的な掴みとなって、現在の分野に行き着いたもので、それまでの博物館や史跡・遺跡めぐりと合わせて基礎的な勉強となり、それなりの修行になったと思っている。また、読書好きもあって基本的な文献・資料に明るくなり、生意気にも今の課題では古書店にも引けを取らないと自負している。
 現在の分野に至った大きな理由は、先にも述べたが歴史系、特に明治・大正期の地方史の研究者は少なく、学芸員すらいない地方の現状にあって、昭和30~40年頃にブームとなった各地の市町村史の資料の散逸が進み、その出どころすら、判らなくなりつつある中で、今強く叫ばれている「郷土愛」のひとつの表れである「郷土の語り」を残そうと考えたからである。
 さて、今回、財務省が試算した成果主義による新たな国立大学運営交付金では文系に非常に厳しい結果となった。成果とは経済効果か、文化では喰えないと云うのか。 


 これで良いのか、恩故知新、集え歴史愛好家!
 ゼニが無くても出来ることはあるさ!
  北海道文化財保護協会へ入ろう!!!


 私の母校・明治35年頃の松城小学校
 中央の職員用玄関は伏見城から移築されたと云う重要文化財。
 私が通学していたとき、校舎、正門、記念碑、池(堀)すべてがこのままだった。


 ~今年の総会は札幌、5月31日/紀行作家・合田一道氏の講演 
               6月 1日/文化財めぐり

  北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)
  ~注意:これは「北海道文化財保護協会」のサイトではありません。

    第28回郷土愛を育てよう

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Posted by 釣山 史 at 22:17Comments(0)北海道文化財保護協会

2008年03月03日

文化情報の発信/かってに文保


協会活動のひとつ、文化財情報の発信!
 ◆広報紙「隔月・文化情報」~協会や各地の文化活動と出版物を紹介します。
 ◆機関紙「北海道の文化」~研究者や会員の研究報告など道内の文化情報を伝えます。

 もっと知ろう、残そう郷土の歴史
 
北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!
注意:これは「北海道文化財保護協会」のサイトではありません。


◆『北海道の文化』の紹介
(平成14年度) 75号~表紙写真 垣の島A遺跡出土足形付土版
・越田賢一郎/中国東北部を訪ねて                ・地蔵慶護/幻だつた北海道の旧人・原人 
・武井時紀/木立ちのなかの文化財建造物           ・富水慶一/近世蝦夷地の考古学史概説 (上) 
・阿部千春/南茅部縄文遺跡群(大船・垣ノ島)          ・橋本 亨/雨竜原野開拓の魁 組合雨竜農場  
・石橋孝夫/石狩紅葉山49号遺跡で出土した漁撈遺構    ・新川 寛/西区(福井)地区について    
・野村祐一/函館市出土の足形付き土版             ・三好 勲/地名考『鴻之舞』-紋別市住友鴻之舞鉱山の
・太田善繁/文化財散歩から 北海道開拓の父島義勇            地名の起源をさぐる-
・小田嶋政子/母と子の民俗-地域社会との接点       ・山田大隆/北海道の森林事業史と森林鉄道史 (一)
(平成15年度) 76号~表紙写真 最古のアカボウクジラ類頭骨化石(足寄町産)
・工藤欣弥/「鷲ノ木」5遺跡とストーンサークル         ・冨水慶一/近世蝦夷地の考古学史概説(下)-松浦武四
・北川芳男/お城と温麺(う-めん)歴史の町・白石市への旅         郎の蝦夷地紀行と考古観
・椙田光明/『私のアラスカ物語』                  ・新川 寛/夢まぼろしの軍需工場 北海道人造石油㈱滝
・大谷敏三/文化、文明と再生 鷲ノ木5遺跡の保存の可能性        川工場
・鈴木 仁/ゴロウニン像と出会って                ・橋本 亨/雨竜原野開拓の魁・組合雨竜農場(承前)
・富士田金輔/歴史遺産としての偕楽園、そのかたちを求めて・大島秀俊/北海道の古代出土文字資料について
・福岡イト子/二十一世紀型に合わせた思考と感性       ・山田大隆/北海道の森林事業史と森林鉄道史(二)
・富岡由夫/明治時代の城郭 函館港を守った「函舘要塞」   ・横田直成/アイヌの祈祷祭祀具『鍬形』その二・北海道ゆ
                                              かりの三枚・小樽市と東北歴史博物館で確認
(平成16年度) 77号~表紙写真 恵庭市カリンバ3遺跡第123号土坑墓の装身具
・竹田輝雄/文化財保護の道程をたどる             ・地蔵慶護/水戸藩と蝦夷地 
・木村哲朗/『ふるさと奥尻塾』の学び               ・新川 寛/八王子千人同心について -勇払開拓悲話を
・高橋 規/追悼 安東ウメ子さん                         中心に-
・三上英司/三上超順の漢詩 ーその一-            ・三好 勲/アイヌ語地名「キキン」をめぐつて 
・西谷榮治/利尻麒麟獅子舞う                                 -木禽原野、津別町恩根・本岐-   
・亀岡 武(皓月)/古代遺跡のエジプト紀行           ・井上 壽/アイヌと虫の生活誌(補遺)              
・斉藤 傑/私と考古学・二〇〇四年秋              ・山本融定/日高地方の戦後開拓(三) -新冠の太陽開
・上屋真一/恵庭市カリンバ3遺跡の墓と副葬品                拓団-
・山田大隆/北海道の油田史とその遺構 -特に石狩油田遺構について-  
(平成17年度) 78号~表紙写真 アイヌ談笑図
・武井時紀/北海道開拓と気象観測               ・野村 崇/みやま書房と古田敬三さん
・山本融定/聖公会伝道師 辺泥五郎師小伝          ・藤田 登/森町鷲ノ木5遺跡の環状列石
・斉藤 傑/研究者の目線 -北海道史とは何なのか-    ・三上英司/三上超順の漢詩 その二
・大島秀俊/擦文社会における本州古代祭祀のあり方について  ・高島慎助/北海道の力石  
・工藤欣弥/重要文化財「北海道庁旧本庁舎」の歴史画のこと
・新川 寛/海賀直常のこと -月形を拓き、月形で死んだ男-
・石川直章/笑顔のアイヌ風俗画 -林家旧蔵のアイヌ風俗画画稿 
(平成18年度) 79号~表紙写真 北海道庁旧本庁舎 
・岡田淳子/北海道の文化としてのアイヌ文化         ・山本融定/コタンの父 高橋房次伝
・鈴木 仁/菱沼右一と樺太郷土会                ・亀岡 武/風土と人間形成ー日高の愛荻舎教育
・西島照男/漢鏡                           ・関川修司/和田屯田被服庫の保存
・卜部信臣/国境を越えて生きるサハリンの博物館 展示物二つ  
・新川 寛/薄野遊郭               
ガラス玉の話②                            ・地蔵慶護/菅江真澄と蝦夷地
カラス玉の道                              ・竹田輝雄/史跡「手宮洞窟」の御難
・越田賢一郎/ー松井恒幸氏「北のガラス史のための覚書」をめぐって
・長澤政之/場所請負制成立期の遺産 小平町臼谷稲荷神社の「弁才天碑」
・福田茂夫/豊浦町礼文華の阿久雲内観音堂の収蔵品について

 ~3月末発刊予定の「北海道の文化80号」に私の研究ノート「資料に見る鰊角網の濫觴」が掲載されます。
  これは、かっては北海道漁業の中心をなしたニシン漁の画期的漁法の発明の謎に迫ったものです。貴重な図録も多く、ぜひご覧ください。

    第27回道文保のご紹介

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2008年03月01日

日ロ戦争と屯田兵

~日露戦争と湧別屯田兵

 北見地方の屯田兵による開拓の始まりは、明治30年に設置された湧別兵村である。「武州丸」で来航した第一次の移民者らは途中、暴風雨に遭遇し、また、湧別に到着後も荒天のため艀付けができないまま、ようやく上陸できたのは3日間後の明治30年5月27日であった。
 日露戦争の開戦は、この兵村が解体されて間もない、明治37年2月で、かっては対露・北辺の防人であった屯田兵370余名にも、いよいよ同8月4日に召集がなされた。旭川第七師団の満州軍に属した湧別屯田兵は、もっとも激戦であった二〇三高地の攻防に参戦し、戦死者は従軍の約一割の32名にも及んでいる。
 そしてロシア極東艦隊との制海権を争った名高い旅順港の閉塞作戦で、爆破沈設された5隻のひとつは、屯田兵を運んだ「武州丸」であった。    屯田兵資料(河野蔵印がある)
 明治39年3月、旭川で除隊した屯田兵たちは天北峠と北見峠に分かれて帰路についたが、その二〇三高地を生き抜いた帰還兵に悲劇が起こった。雪深い北見峠を進む彼らをにわか雨が襲い、ぬかるみに進退極まった1名が遭難、帰らぬ人となった。
 さて、終戦の後に敵将ステッセルから乃木将軍へ送られたと云う伝説のピアノが遠軽家庭学校に残っている。
 第26回日露戦争のお話し 
              
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