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2008年07月31日

もんべつのサケ・マス

~紋別の鮭鱒漁業の歴史

 サケ・マス漁では古くから干物や塩蔵が行われたが、昔は塩の確保が難しく、大漁のときには加工できずに漁を中止した。筋子の生産は明治5年に見られ、同27年からは高野漁場で燻製がつくられた。
 明治18年にオホーツク沿岸で最初の漁協となる「紋別鮭漁業組合」が発足し、同25年に渚滑川へ監守を置いた。ふ化事業は昭和13年に人工ふ化場を藻別川に開設したが2年で閉鎖となり、現在の下渚滑への設置は同25年である。このようにサケ・マスは早くから資源管理がなされて来た。
 戦後に至って昭和30年からは紋別が北洋サケ・マスの中継基地となったが、後に漁業規制が強化され、同63年に母船式漁が終結し、平成5年には公海上が全て禁漁となった。
 現在では沿岸での「さけ定置網漁業」と「ます小型定置網漁業」が行なわれて、普通のサケはシロザケのことを云い、概ね4年で回帰して、メジカやケイジは珍重され、また、カラフトマスは2年性で「オホーツクサーモン」のブランド名で知られている。

                                              大正12年に大西真平組合長の紋別鮭鱒養殖水産組合が設置した湧別川の捕獲場とふ化場/昭和9年頃
 

第70回紋別のサケ・マス漁とその加工
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
   

Posted by 釣山 史 at 19:40Comments(0)紋別の歴史

2008年07月27日

渚滑村の開拓3

~第61・63回のつづき

3進む開拓、「岩田宗晴」と「製軸工場」
 明治31年「北海道殖民状況報文」によると『當國ニ於テ工業ト稱スヘキハ唯燐寸軸木ノ製造ノミ其材料タル白楊ハ處々ニ在リ殊ニ網走郡紋別郡ニ多シ明治二十四年網走村ニ山田製軸所ノ設アリ同二十七年渚滑村ニ岩田製軸所ノ設アリ 中略 山田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村ニ岩田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村及ヒ澤木村ニ設ケ目下工事中ナリ』とあって岩田の製軸業は山田製軸所と同じく資本金2万5千円(但し渚滑工場閉鎖後の藻鼈工場のみで)の蒸気機関を備えた最新鋭のものであった。
 この当時の奥地開拓においてはむしろ障害であった森林樹木は一部を自家用に使用するほかはせいぜい薪炭とされる程度で開墾伐木された樹木は殆どが焼き払われていたが、殖民地の貸付と処分が進んで明治23年に「官有森林原野及び産物特別処分規則」が施行されて道庁による林産物の特売が認められるようになると、民間においても盛んに林業開発が行われるようになった。

◆北海道拓殖要覧/明治36年北海道庁
 前略 先す示す所の利用樹種中カシワは單寧製造業者にトドマツ エゾマツの如き針葉樹は啻に用材として利用するのみに止ますして製紙業者に又ドロノキ、ハコヤナギ(一般的には両樹を白楊と云ふ)は燐寸製造業者に此等諸工業奨励保護の一策として 中略 右の内白楊樹拂下は本道に於いて器械を所有し自ら燐寸軸木を製造するものに限り 後略


 大正12年「第貳版北海道人名辭書」によると岩田は土佐の手広く商う漁家に生まれ中学校を卒業後に暫らく教職に就いたのち新聞記者を経て明治24年に渡道、網走で土佐漁師約30名を招致して漁業を行ったとあり、また明治25年「北海道通覧」では『網走の大鮃漁は本年二三の漁業家之を企て中には専業として企てたるものあり 中略 茲に参考の資として記載すへきは高知縣漁民の出稼是なり本年春期遠洋漁業の目的を以て二十餘名團結をなし網走に來り主として大鮃鉤獲に従事す相應の結果を擧げたり・・・・』とあって、昭和30年「斜里町史」では岩田が漁夫10数人を引きつれ網走沖で大漁し搾粕にして大儲けしたと云う。
 これによって自由民による以後の大鮃漁は順調に推移して北見地方の代表的な漁獲物となり、すでに明治33年発行の初号の「北海道移住手引草」に『北見根室二國の大鮃・・・・多額の算出あり』と紹介されて、このように岩田は大鮃漁を指導しながら事業途中にしてこの資金を元にさらなる発展を求めて渚滑村へ再転住したと思われる。

◆北海道殖民状況報文/明治31年北海道庁
 湧別村
 農業 前略 (明治)同廿八年七月二日九月十五日霜害アリ麥ノ外ハ皆凶作ニシテ 中略 薄資ノ移民食糧ニ究シ渚滑製軸所或ハ屯田兵屋用材の伐採或ハ魚塲等ニ出稼スルモノ少ナカラス 後略
 渚滑村 
 工業 岩田製軸所ハ明治廿七年ノ創設ニ係リ近傍ニ在ル白楊樹ヲ伐採シテ燐寸軸木ヲ製ス 中略 職工ハ當地ニテ雇入レタルモノ及ヒ二十九年徳島縣ヨリ募彙セル農民ニテ目下數十人ヲ使用ス伐木ヨリ製造結束ニ至ルマテ悉ク受負法ニ據レリ

◆殖民広報第十号/明治35年北海道庁
 渚滑原野状況
 前略 二十七年岩田宗晴なる者製軸所を設立し二十七年製造高七千七百圓に上れり二十九年下原野に於て二十九萬七千二百九十五坪の貸付を得て小作人二十一戸を徳島縣より募集し初年は工場労役に従事せしめ三十年より農耕の傍製軸業に従事せしめたり 後略
                     
 コムケ湖畔にもあった岩田製軸所
 ここにある通り、岩田は明治29年に郷里から団体移住を募り翌30年には21戸の入殖をみているが、これは「北海道移住民規則」において「団結移住」は20戸以上としていたためであり、これが本村に於ける団体移住の最初となった。
 函館の「山田慎」による「山田製軸所」が主に網走分監囚徒を低賃金で労役することを目的としたのに対し、「岩田製軸所」は農業開墾の傍ら不要となった伐木を新開地の冬季遊休労働をもって或いは移住定着のつなぎとして操業し、その地域に与えたものは大きかったが、この開拓の先鞭となった渚滑工場も僅か3年で閉鎖となった。
 大正10年道会議員だった岩田が2期目途中に急逝した後、継いだのは雄武村に転住した「田口源太郎」だった。


 第69回渚滑村の燐寸製軸業
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Posted by 釣山 史 at 12:12Comments(0)紋別の歴史

2008年07月21日

玉音放送(終戦の詔勅)

~集え、温故知新!4/先の大戦と向き合え
 古いもの(歴史)をないがしろにし、否定あるいは無視する風潮のひとつの現れ

 そろそろお盆も近づいて、今年も、そうあの日、8月15日の終戦の日がやって来る。戦後、ようやく60年を経過して先の大戦への見直しが進み出した。すこし前までは公共において、特にか教育会では口にすることすら全くのタブーとなっていたが、当然、どの様な戦争であっても美しいものは無く、結局、正しいと云えるものでも無く、その悲惨さはどれも変わりの無いものだが、それを語ることをも忌諱とされていた。
 以前、私は公共の福祉施設に働いていて、お盆を控えたある日に「太平洋戦争の開戦アナウンス」と「終戦の詔勅」をご高齢者の皆さんに聞いて頂いたことがある。ズイぶんと思い切ったことをしたもので、これは決して楽しく無く、懐かしいものでも無い、しかし、「良いこと」も「悪いこと」も含めてその方が生きた「証(あかし)」であり、それが己の生きざまである。
 さて、ごく一部に「都合の良いこと」を集成し、「都合の悪いこと」を排除しようとする誤った者達がいるいっぽう、総じて国民は過去を全否定することによって顧みることすら無く、よって省みることも無く、いたずらに戦争への嫌悪からか戦前・戦中の良い部分までをも捨て去ってしまった。
 「家(いえ)」や「修身」といったものは死語となり、羞恥心や自分たるを知り、己を自制することを忘れ、倫理観、道徳観が欠如し、今では家族、ご近所、会社といった最低限の「まとまり」すら崩壊しようとしている。
 さー、いま一度、振り返ってみよう、考えてみよう、そして感じてみよう!

◆終戦の詔勅(玉音放送)
 朕深ク世界ノ大勢ト帝國ノ現状トニ鑑ミ非常ノ措置ヲ以テ時局ヲ收拾セムト欲シ茲ニ忠良ナル爾臣民ニ告ク
 朕ハ帝國政府ヲシテ米英支蘇四國ニ對シ其ノ共同宣言ヲ受諾スル旨通告セシメタリ
 抑ゝ帝國臣民ノ康寧ヲ圖リ萬邦共榮ノ樂ヲ偕ニスルハ皇祖皇宗ノ遺範ニシテ朕ノ拳々措カサル所曩ニ米英二國ニ宣戰セル所以モ亦實ニ帝國ノ自存ト東亞ノ安定トヲ庶幾スルニ出テ他國ノ主權ヲ排シ領土ヲ侵スカ如キハ固ヨリ朕カ志ニアラス然ルニ交戰已ニ四歳ヲ閲シ朕カ陸海將兵ノ勇戰朕カ百僚有司ノ勵精朕カ一億衆庶ノ奉公各ゝ最善ヲ盡セルニ拘ラス戰局必スシモ好轉セス世界ノ大勢亦我ニ利アラス加之敵ハ新ニ殘虐ナル爆彈ヲ使用シテ頻ニ無辜ヲ殺傷シ慘害ノ及フ所眞ニ測ルヘカラサルニ至ル而モ尚交戰ヲ繼續セムカ終ニ我カ民族ノ滅亡ヲ招來スルノミナラス延テ人類ノ文明ヲモ破却スヘシ斯ノ如クムハ朕何ヲ以テカ億兆ノ赤子ヲ保シ皇祖皇宗ノ神靈ニ謝セムヤ是レ朕カ帝國政府ヲシテ共同宣言ニ應セシムルニ至レル所以ナリ
 朕ハ帝國ト共ニ終始東亞ノ解放ニ協力セル諸盟邦ニ對シ遺憾ノ意ヲ表セサルヲ得ス帝國臣民ニシテ戰陣ニ死シ職域ニ殉シ非命ニ斃レタル者及其ノ遺族ニ想ヲ致セハ五内爲ニ裂ク且戰傷ヲ負ヒ災禍ヲ蒙リ家業ヲ失ヒタル者ノ厚生ニ至リテハ朕ノ深ク軫念スル所ナリ惟フニ今後帝國ノ受クヘキ苦難ハ固ヨリ尋常ニアラス爾臣民ノ衷情モ朕善ク之ヲ知ル然レトモ朕ハ時運ノ趨ク所堪ヘ難キヲ堪ヘ忍ヒ難キヲ忍ヒ以テ萬世ノ爲ニ太平ヲ開カムト欲ス
 朕ハ茲ニ國體ヲ護持シ得テ忠良ナル爾臣民ノ赤誠ニ信倚シ常ニ爾臣民ト共ニ在リ若シ夫レ情ノ激スル所濫ニ事端ヲ滋クシ或ハ同胞排擠互ニ時局ヲ亂リ爲ニ大道ヲ誤リ信義ヲ世界ニ失フカ如キハ朕最モ之ヲ戒ム宜シク擧國一家子孫相傳ヘ確ク神州ノ不滅ヲ信シ任重クシテ道遠キヲ念ヒ總力ヲ將來ノ建設ニ傾ケ道義ヲ篤クシ志操ヲ鞏クシ誓テ國體ノ精華ヲ發揚シ世界ノ進運ニ後レサラムコトヲ期スヘシ爾臣民其レ克ク朕カ意ヲ體セヨ


◆玉音放送が聞ける図書CD等
 ・万世の為に太平を開く、天皇陛下の御聖断(レコード)/1970年
 ・天皇の玉音放送(CD)/小森陽一、五月書房、2003年
 ・太平洋戦争人物列伝(CD)/昭和史研究会、扶桑社、2005年


第68回大東亜戦争

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2008年07月17日

課外学習、お魚へったの?

□最近のもんべつの漁業について   
                                                     総合学習「なぜなぜ調査隊」漁業班
                                                     紋別市立南丘小学校六年 H20,7,15

①船はどのくらい減ったの?どうしてなの?
 平成20年は船外機船と云う小さなものが98隻で、普通の動力船の102隻と合せて200隻あります。
◆船の大きさ                         ○左と関係のあるのはどれかな
   船の種類      だいたいの大きさ      ~博物館に展示しているので
 ○こんぶ採りの船      1~ 2㌧くらい         探してみてネ
 ○ホタテ引きの船         14㌧くらい          ○平安丸
 ○底 建 網 船      10~15㌧くらい         ○八 尺
 ○サケ・マスの船     15~20㌧くらい         ○定置網     
 ○沖合い底引き船   150~200㌧くらい         ○ネジリ
◆船の数の減少
 ○10年前の平成10年には、
  ・船外機船が144隻
  ・動力船は134隻  の合計278隻ありましたが、2トン前後の船を中心に主に5トン以下の小さい船が大きく減りました。

②働いている漁師さんは何人いるの?
 今の漁業協同組合の組合員(お魚を漁で採ってよいヒト)は平成10年のときに207人でしたが、今は178人に減りました。また、漁業全体で働いているヒトは、平成5年が456人、平成15年は452人で組合員の減少に比べて漁師さん全体の変化は小さいです。

③水揚げについて
 去年は73,105トン、82億6千百万円と豊漁でしたが、一昨年は台風の被害などもあって53,488トン、68億5千9百万円といつもより少なかったです。
◆紋別の漁獲の順位(平成18年)
 ○北海道で水揚げされた市町村別の順位は、
  ・量が10位
  ・金額で9位
 この50年間で一番、お魚が獲れたのは昭和51年の208,644トンですが、そのうちで昔はスケソウダラが一番たくさん獲れていました。昭和60年の11万トンを最後に10万トンを切って、ここ数年は1千トン台の水揚げでしたが、昨年は平成2年以来に1万トン以上が獲れました。
 このようにスケソウダラの水揚げが減ったのは、昭和60年に200海里規制が本格的となり、北転船(北洋の遠洋底びき船)や沖合底びき船が遠くまで魚を獲りに行けなくなったこと、全体的に資源が減少したことなどが原因です。
 もんべつでは、かってはスケソウダラを塩干した「すきみ」の生産が全国の70%以上を占めたこともありました。
           ※「たらこ」はタラの子(卵)ではなく、スケソウダラの子(卵)のことです。

 ○200海里規制って分かるかな、後で調べて見ましょう。

 ○漁師さんたちは魚を獲りすぎないようにしています。

 網の目の大きさを決めて、小さな魚を獲らないようにしたり、みんなで獲る量を制限したりしています。また、「サケ・マス」や「ホタテ」のように育ててから放流するなど、引き続いて、これからも漁ができるように資源の管理に努めています。

 ○カレイやケガニなど獲ってもよいサイズを調べてみよう。

 ○「広報もんべつ」の知っていますか『紋別の水産物』を見て、紋別のお魚を勉強しよう。H20年5月号から


第67回 紋別の漁業

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Posted by 釣山 史 at 19:14Comments(0)子育て・子どもの学習

2008年07月13日

こんぶの話し

~もんべつの昆布

 「こんぶ」の語源はアイヌ語で「コンプ」といい、また、「広布(こうふ)」とも書いたことから転訛したと云われ、すでに平安初期の『続日本紀』には昆布の記述が見られて、鎌倉時代の中頃には北海道と本州との交易が行われて、江戸時代に入り「北前船」による大阪から九州、沖縄、中国へと続く「昆布ロード」が出来あがって、北陸や関西での消費も多く、昆布を一番よく食べるのは沖縄人だそうです。昆布の生産の8割以上は北海道産です。
 紋別地方の昆布漁の始まりは文化年間(19世紀初頭)で、「黒昆布」とも「ダシ昆布」とも云われる利尻昆布です。この利尻昆布で取ったダシは香りが良くにごらず澄んでいて、伝統的な京料理には欠かせないもので、また、昆布は神事や儀礼に多く用いられ、結納の5品のひとつにあげられます。
 漁期は7~9月で主に2トン未満の船外機船で漁獲され、カギやネジリ、マッケと呼ばれる独特の漁具を使います。昆布は秋から冬にかけて胞子を放出し、春から夏にかけて急速に成長しますが、1年目は「水昆布」と呼ばれて味に劣り、秋ごろからはいったん身が細って末枯れし、翌年には残った根が再び成長して成昆布となります(概ね2年性)。


明治時代の昆布漁
第66回こんぶ

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Posted by 釣山 史 at 15:11Comments(0)北海道の歴史

2008年07月10日

エッセイ、学芸員力を問う!

~世の中の学芸員にものいう

 最近は大きな話題では無くなったが、公共施設の「指定管理者」化は着々と進んでいる。そして、そのターゲットとされやすい一つが「博物館」であり、しかし、この制度が叫ばれるズーッと以前から「博物館」は世況に左右されて来た。
 この博物館とはいわゆる正式な「登録博物館」とそれに準じた「博物館相当施設」、そしてこれらと活動を同じくする「博物館類似施設」の3つに分けられ、大雑把には「博物館」と「資料館」ということになるが、これらには美術館や文学館、動物園と科学館なども含まれる。
 少し古いデータであるが道内の平成17年4月1日付での「登録博物館」は45ヵ所、「博物館相当施設」は19ヵ所ある(このうち私は28ヵ所を訪問した)。
 自治体によっては「上湧別ふるさと館JRY」を例とするように十分な体制にあるにも関わらず、教育というよりは観光的要素を高めるため、あえて博物館とならないところもあるが、一般的には博物館の指定を受けない、受けれない主な理由は次による。

 
 ◆登録博物館の大きな要件
 ・館長、学芸員等の職員配置
 ・年間に150日以上の開館


 小さな町では、これら博物館たる活動のための経費は大きな負担であり、地方の資料館が土日祝日は閉館、冬期閉鎖の所以はここにあるが、一般者が利用しずらい、利用できない、あるいはその町ではもともと必要度が低いのか、それならはなから要らないのである。
 極端な例だがある道南の資料館へ行った時、「本当に見るんですネ、お金がかかりますよ」とシブシブ電気を点けてということがあり、腹は立つは、呆れるはで、ここは歴史家に有名な地である。
 さて、先年発覚した高校の未履修問題ではないが、そもそもの歴史教育の軽視か、興味を持つ若者は少なく、文化財行政も考古・民族系への偏りから、歴史系の研究者は少ない。特に近現代史が満足に学習されない中で、さらに道内では一部の旧開地を除いてもともと歴史は浅く、そしてこのところの環境ブームもあって、観光と結びついた自然科学系の学芸員が増えたようだ。
 とある道東の有名な博物館へ、その町の開発功労者について聞きに行ったとき、「へー、そういうヒトがいたんですか」と云われ、「貴館の研究紀要にも載っていますヨ」と指摘したところ、「知りません」とにべもなく断られたこともあり、『キッと彼は人間と話すよりは鳥と語らっていたいんだ』と納得した。
 学芸員の諸君、あなた達の使命はいったい何か。博物館とは学芸員の研究のためか、はたして趣味するところか、博物館の器の維持が目的か。個人の資質では済まされない。
 また、道央の大きな博物館では、研究のため、そこにメイン展示されている元の所有者の一族に連絡を取りたい旨、お願いしたところ、横柄なもの言いで「電話帳で調べれば」と言われ、余りの態度に怒り心頭、後で知人に聞いたところ、彼は間もなく配転されたとのこと。
 近々では道内を代表する博物館に、その博物館が専門とするところの資料を寄贈したいと申し出たものの、「お気持ちは基本的にありがたいですが、・・・担当者が不在で」といんぎんに断られた。中身の確認くらいあってもよさそうである。
 学芸員たちの間で、地位の向上、博物館からの解放を唱える風潮がある一方、結構目に付く、来館者を軽んじた態度、素人の横好きを甘く見てはいけない。


-意見のある方へ- 
 私は専門員でも学芸員でもないが、この「歴史の探究」で得たもを通じて、何か社会に貢献できればと活動している。実際に地元以外からも資料の提供や意見を求められることもあり、他のページを見て判断されたし。


第65回学芸員よ!

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Posted by 釣山 史 at 20:26Comments(0)持論、討論

2008年07月06日

エッセイ、司書力を磨け!

~古本ぐるいの戯言3

 高校生のころには1週間、毎日1冊読破に挑戦したり、「つかこうへい」にハマって読みふけり、今では歴史の考究が高じて古本に熱中し、郷土誌を中心に、自然とアイヌ文学や戦前の北海道文学にも明るくなった。毎月必ず1~2冊は送られてくる古書目録が楽しみのひとつで、古本代の下じきとなる所以であるが、バブルの頃には投機ともなった「古書、書画」も、このところの景気の低迷から販売が落ち込み、また、学生の減少と彼らの不勉強さも売上不振に拍車をかけて、よって価格の低下から私ごときも購入可能となったもので、今では手元に貴重なものも多い。
 私の様に郷土誌に特化した者(私はコレクターではないが)には、その荷動きに波があって、最近はその動きが鈍く、触手の伸びる欲しいものが見当たらない。数年前には研究者の蔵書の処分が相ついで、その内から私のところにも数冊がやって来たが、これは不謹慎ながら誰かがお亡くなりになると流通するということで、また、一時期は公立大学が独立行政法人となったことから資金稼ぎの蔵書の放出が行われ、このときに一生に1・2回あるかないかのチャンスもあって、高額本の購入に貯金もふっとんだ。
 さて、私も短期間ではあるが図書館に配属となったことがあり、それに歴史の探求のためから結構、あちこちの地方図書館を巡っている。この地方図書館では「図書館まつり」などで古本市をやっていたりして、このごろはご無沙汰であるが以前は良くこれを利用した。驚いたことに戦前の貴重本が古本市のタダコーナーに並んでいたり、時価数万円の本が100円だったりもして、先にも述べたが大学が流出させることも多い。
 子どもや若い世代の読書離れが叫ばれて久しいが、実際には大人の未読率もヒドイもので、理解力(読解力)の低下には目を覆うばかりで、また、近々は書店や図書館に新聞の書評や広告を手に来所する者が多く、そのヒトまかせのランキングに頼った選書にはヘトヘトである。
 これは図書館の司書にも云えることで、単に貸出数を増やすためか、はやり本ばかりに気がいくばかりで、本人は気づいていないが、新たな選書は2年もたたずにほとんど手に触れられなくなってしまう様な、一部のヒトのための三文小説が中心となっていることが多い。そうして結果的には読書者の固定化につながり、これに司書の個人的趣味が加わってくると、もう目も当てられず、いかに良本を選択し、紹介するとかと云う基本的に求められる司書力が低下している。
 ここにはもう一つの問題がある。それは読書機会を増加させることが図書館としての命題であり、その効果を要求されるあまりに、唯一数値として表わされる「貸出数」の追及に走るのであり、走りざるをえないとも云える。仮に図書館機能が総合的に向上して利用者が増加したとしても、遊びに来館する子ども、散歩がてらにやって来た高齢者、ビジネス書や学習書を閲覧する者はカウントされないし、郷土誌や研究書、美術書、図録などの貴重書や高額本は貸し出し禁止なのである。
 近隣には地域の文化・情報センターとしての使命感のなか、利用者低下で必死な図書館がある。財政の苦しい町では行政のスリム化が必要とされ、せっかく同設であった児童館が閉鎖された。子どもらとその親たちの利用が大きく減った一方、図書購入費は抑制され、指定管理者制度(田舎では専門的資格者の確保がむずかしい)への移行圧力が高まる。この蔵書は少ないが地元情報の集成に優れた小さな図書館では、図書館の枠を超えた社会教育の中核施設たろうと日夜努力している。
 しかし一般的なお話しとして、狭義・狭意でしかない図書館では「読書機会の増加」=「貸出機会の増加」と結びついて、読書の全体的な向上とはならずに質を問わない、俗に迎合した単なる貸本屋へと成り下がり、一番の使命である良本の紹介やその保存はなされずに、絶版となった優良図書や郷土資料が廃棄され、せっかく寄贈された「いわゆる文献的なもの」はお蔵入りとなってしまう。
 とある著名な図書館長さんとお会いする機会があって伺ったお話しをふたつ紹介する。
 ある超一流国立大学の学生が司書実習に来た。そして学生はこの図書館は程度が低いと云う。自分が知る本が全くなく、たいしたことはない図書館だと云うのだ。その一丁前の言動に、試しに日本文学全集を点検させてみたところ、驚いたことに「夏目漱石」を知らないばかりか、名作と呼ばれる作品をほとんど読んでいないことが判明、それでも「僕は図書館学を学んだ一流大のエリートだから、この一地方都市で幹部となって、教育に貢献する」とのたまわったそうだ。文学は受験の必須性に薄いが、それにしても程度が低いのは彼自身である。
 もうひとつのお話し。この方が館長に就任する以前に、たまたま図書館を訪れたところ大掃除をしていた。外出しされたその古い本箱をひょいと開けて見ると何と江戸時代からの古書がたくさん、古くて汚いから捨てるのだと言う、廃棄をやめさせて後で分かったことだが、それには日本で数冊しかない、非常に貴重な学術書が混じっていたそうで、大ベテランの司書さんいわく、「私が入ったときから倉庫の片隅に置かれていた」と云う。
 極端な例ではあるが、これに近いことは各所でめずらしくないからイヤハヤで、そう言えば、ウチの図書館で貰いっぱなしで眠っていた水産図書の数々、どうしちゃったのかな、せっかく私が分類整理したのに。きっと管内一の水産蔵書となるであろうに。


-意見のある方へ- 
 私は司書でも学芸員でもないが、この「歴史の探究」で得たもを通じて、何か社会に還元できればと活動している。実際に文献の照会もあり、他のページを見て判断されたし。


 第64回辛口論評、読書力と司書力を問う!

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 05:47Comments(0)持論、討論

2008年07月03日

渚滑村の開拓2

~第61回のつづき
 大正7年ころ
2開拓の先駆け「木村嘉長」と「堀川一族」
 さて、この「村勢一斑」では旧渚滑村への移住の初めを「木村嘉長」と「堀川泰洋」としている。嘉長については明治45年発行の「北見之富源」においても『北見方面の廣漠にして農耕に適せるを耳にし、斷然轉住に決心し 中略 明治二十六年五月家族五名と共に紋別に上陸、一時小作をして農耕の適否を試作せしに 中略 同年十一月十町歩の未開地貸付を受け、草小屋を掛けて移住せり』とあり旧渚滑村移住の元祖としているが、これについては明治39年の「移住者成績調査」に詳しい。ただし原文には「村上嘉長」とあるが「木村嘉長」の誤りである。


 明治十二年徳島縣阿波郡仁木竹吉なるもの百十七戸の團結を組織し北海道移住を企圖するに當り嘉長又之に加盟し衆と共に同年十一月郷里を發して直行小樽に上陸し今の余市郡仁木村に移住し 中略 偶々北海道移住案内をひもとき北見國は尚ほ移住者僅少にして将来好望なりとの記事を見、慈に断然移轉の決心を為し 中略 二十六年五月六日家族五名を伴ひ小樽港より乗船して北見国紋別港に上陸し先つ紋別村藤野四郎兵衛の土地を借り受け試作したるに 中略 渚滑川沿岸を探検して土地を選定し同年十一月三萬坪の貸付を受け直に小屋掛けをなして移轉したり同地は紋別市街を距る二里強、當時附近は斧斫未た入らす喬木欝蒼として雑草密生し 後略 (移住者成績調査第一編/明治39年北海道庁)

 ここにある「仁木竹吉」とは仁木村(町)開祖の人で、そのほか各地の開発に関係した北海道開発の大功労者であるが、この仁木村への移住においては嘉長も中心的立場にあったもので、それが渚滑村への再転住となったことについては次のような背景があった。
 竹吉は仁木村移住に当たり下となる嘉長外6名の組長との間に統率を図るための盟約書を結んだ(いわゆる団長と班長)。当初は藍と煙草の栽培を目的としたが中々定着に至らず、また、官吏の不正などもあってトラブルが続出し開拓が思うように進まなかった。それは仁木村の役人が日頃から横暴に振舞ったため暴動にまで発展し、先を恐れて官に忍従する者とそうでない者とに村が二分され疑心暗鬼に陥ってしまったこと。将来の開拓及び堤防の予定地30万坪が縣令の私となってしまったこと等が大きな失望となった。
 さらに経営の安定を図るため竹吉が依託者、嘉長外2名が惣代人となって明治21年に三井物産から資金を借り、以後一定の進捗が見られることとなったが、このことから移住民が一時奢侈に走り、会社との契約を破りごまかす者も現れたため風紀も乱れ、これがまた後の負担となって離散する者が続出して同31年には残る当初の入殖者が僅かに26戸にまでなったと云い、丁度この頃に湧別原野が測設され中央道路の開削もあって先行きに不安を感じた嘉長が活路を新天地に求めたのであろうことが推測される。渚滑原野に再転住してからの嘉長はいち入植者として表舞台には現れなくなる。
 これに対して昭和35年の「紋別市史」では最初の先住者を「木村嘉長」としながらも『道庁が渚滑原野の存在に関心を持ったのは、実に泰洋の出願によるものとすれば、渚滑原野を世に出し、今日の繁栄の基礎を築いた泰洋の功績は大きく、渚滑原野開拓の祖というべきであろう。』とし、大正12年「第貳版北海道人名辭書」においても『泰洋は明治二十三年伊達村に渡り翌年紋別に來り廿六年十月渚滑大平原を發見し翌廿七年開墾に従事し 中略 堀川家一族は實に當村の開祖たり・・・・』とあって、渚滑原野は如何にも泰洋によって見い出されたかのように著している。
 確かに渚滑原野の開放は明治30年ではあるが同4年には開拓判官「松本十郎」が当地を視察し(北見州経験記)、また同22年には殖民地選定調査を終えていたことからも「渚滑原野を発見した」とするまでには無理がある。しかし本家、分家の一族を挙げた泰洋の移住が本村開拓の先駆を成したのは事実であり、明治29年の「北見事情」では現在の紋別市内の農家としては泰洋の名のみが記載され、また、同じく同35年「殖民広報第十号」の渚滑原野状況においても初期開拓についてはもっぱら堀川一族のみの記述となっている。
 昭和16年発行の「自治産業発達誌」では、この頃広く用いられた「開墾鍬」の発案は長兄の「堀川善六」であるとしており「殖民公報第十号」にそれと思しき記述がある。


渚滑原野状況
 前略 同原野は二十六年越後の人堀川泰洋の選定出願せる所にして其以前にありては五六尺に餘る箬の密生するより何人も斯る肥沃なる原野の存するを知らさりしより同年堀川泰洋外十三名各三萬坪宛貸下許可を得同年十月堀川善治率先渡道し渚滑川舊渡場に居住す十日にして漸く五線迄踏査す當時は渡守土人の外は紋別に至る海岸一戸の土人も見さりしと云ふ二十七年初めて耕耡播種す 中略 開墾は手起しにして一人一日十八坪笹刈五畝歩位にして大に難渋せしか翌年開鑿工事に從事すへき人夫一名來り宿す偶々開墾の難事を語りしに彼は元より土方人夫なりしも他地方にて目撃せし所を語りて曰く唐鍬の刀部を一尺とし之を灣曲して八寸となすへし是れ開墾上勞力を要せすして一日六畝歩を耕起するに容易ならんと之を試験せるに果せる哉開墾の利益大なりしより何れも之を採用するに至れり 中略 仝年高知縣團體中渚滑に移住す仝年越後團體來りて上渚滑原野に入る當時既に堀川某等の率先開墾をなせるより食料に供すへき雑穀又は種子等の供給を受け開墾用器具に於ても便を得しこと多かりしと云ふ 後略 (殖民広報第十号/明治35年北海道庁) 


 大正7年ころ/もう一人の開村のヒト、徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで同総代人。
 それではここでもう一度、泰洋の転住について考察したい。昭和5年に郷土史家米村喜男衛が甥の「堀川徳治」から聞き書きした(北見郷土史話)ところによると泰洋は明治22年12月に工事中の中央道路を通ったと云い、また徳治一家は泰洋の来紋3年後の同26年11月に紋別の陣屋にある泰洋のもと至ったとも云う、善六の3男「堀川才治」の手による昭和13年の「花辛夷」では善六一家の来紋を明治26年11月とし(殖民広報に10月とあるのは貸付出願によるものと思われる)、粟田又吉著の昭和35年「渚滑川」では泰洋の紋別入りを明治23年としている。
 これらから泰洋の渚滑入殖は明治26年に疑いはないが、それ以前の紋別への転入については一定していない。ここで中央道路本道の旭川~留辺蕊間の開削が明治23年11月であることを考慮すると同22年説は明らかな誤りであり(また3年を逆算しても合わない)、また、泰洋の呼び寄せによって翌年に来紋した同士の「田口源太郎」は『(明治)二十四年三月預備役に入る幾くもなく北見國紋別郡紋別村に移住し後同郡雄武村に轉じ』(大正3年北海道人名辞書)と云うから、これからも来紋は明治23年12月であろうと推測され、中央道路の網走までの全通が同24年12月であることから泰洋は先に開削されていた湧別・北海岸の仮道を経由したものと思われる。
 この泰洋は明治30年に手動式の小規模な澱粉工場(後に馬力となる)を設け、後発の移住民らはここで働き現金収入を得たほか、この澱粉を頼りに越年した者も多かったと云い、また田口らと共同で開始した造材業は軌道を用いた当時としては大規模なものであったが、同31年の大出水で全てを流出して失敗に終わり、雑貨仲買など他事業も次第に行き詰まって妻の死を契機にこの地を離れた。本村最初の仮役場庁舎は泰洋の所有であったと云う。


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 第63回渚滑村の開村まで  

Posted by 釣山 史 at 08:10Comments(0)紋別の歴史

2008年07月01日

招運の泉

 ~お気に入りの美しいエゾ地名
  先だって斜里町の来運に行って来ました。

◆小砂子(ちいさご/上ノ国町)
 とても美しい言音の語源は「チシ・エムコ、立岩の水源」ということ。古くから和人地第一の難所とされ、道南12館のひとつにあげられる比石館跡があった。隣接には昭和9年に完工した世界でも珍しいトンネル式の石崎漁港があり、急峻に突き出た岬に掘ったトンネルを漁船が行き交う。
◆礼文華(れぶんげ/豊浦町)
 「レプン・ケプ、沖に突き出ているところ」という意味で、かっては蝦夷三険のひとつとされた。その名のとおり景勝地である豊浦海岸には斉藤茂吉や与謝野鉄寛・晶子など多くの歌人・文人たちが来訪している。そこにある小幌(岩屋)洞窟には江戸時代から円空仏があり、首なし観音が安置され、松浦武四郎や菅江真澄も訪れた。小幌駅は鉄道マニアに秘境駅として知られている。
 ◆来 運(らいうん/斜里町)
 当て字和名に似つかわしくない、「ライ・ウン・ナイ、死人川、死んだように流れが遅い川」という意味でふ化場がある。明治32年に開拓された来運地区は秀峰斜里岳の積雪が数十年を経て湧き出るとされる「名水・来運の水」があり、豊富な湧量を誇る湧水は、常に6℃前後と夏は冷たく冬は凍らない。招運、願いが叶うという泉へ行ってみては。

◎おまけ/於尋麻布(おたずねマップ/羅臼町)
 北海道でも随一の難読地名で「オ・タッニ・オ・マップ、そこに樺の木がある川」が語源の秘境・知床にある言いえて妙な絶妙な地名。釣りの名所であり、地図を見ながら尋ねてみては。


第62回蝦夷地名解

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 19:09Comments(0)トピック