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2017年11月13日

二宮尊徳像と国家主義



あちこちに二宮尊徳像が建てられた理由 昭和10年に中央報徳会、大日本報徳社、全国町村長会、帝国教育会ほかの団体が共同し、全国で『二宮尊徳翁八十年祭』を開催した。ときの内相は、地方官会議において大いに報徳精神を喧伝し、これを契機に各地にたくさんの尊徳像が建立されるようになった。明治41年に『戊申詔書』が渙発され、日露戦争後の個人主義や社会主義の台頭を戒め、勤倹力行して疲弊した地方の再生に当たろうとした。この〝地方改良運動〟を支えたのが「二宮尊徳」の〝報徳仕法〟で、本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱える暮らしを助けるものであったが、この報徳精神を内務行政に取入れたのは、のちに「大日本報徳社」の社長となった〝一木喜徳郎〟が内務次官のときで、こうして国家主義の重要なカテゴリーとなって行った。 昭和12年7月に建立したが、同17年10月に応召され、同18年5月に陶製を再建した。当別町の旧弁華別小学校
第431号 二宮金次郎の像      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2017年07月22日

御真影奉安殿










第417号 御真影と奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年07月21日

ゼロ戦のスペック三面図








第416号 零式艦上戦闘機のスペック     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2017年04月22日

教育勅語


§教育勅語の成立過程 ①伝統的な日本的儒学 江戸時代の学問は儒学が中心にあり、その後に続く日本的儒学は藤原惺窩の「朱子学」に始まった。惺窩に推挙されて徳川家康の侍講になった林羅山は、仏教は虚学であり、朱子学を実学とした。代々林家が大学頭となった昌平坂学問所(昌平黌)は最高学府であり、朱子学が正学として諸藩校の模範となった。「教育ニ関スル勅語」の草案作成に中心的な役割を果たした元田永孚は、明治4年に宮中に召され、以後、20年に渡り天皇の近くに仕えて啓沃に当たり、君徳を醸成し、帝王学を教授した。永孚の考える立憲君主制下の教学は、朱子学を基礎とし、皇国思想に仁義忠孝を基本とし、行き過ぎた欧化教育を批判したが、西欧文化の長所の享受を否定するものでは無かった。永孚の考える教学は、勅令によって編纂された「幼学綱要」に見ることが出来る。「幼学綱要」は、孝行、忠節、和順、友愛、信義、勤学、立志、誠実、仁慈、礼譲、倹素、忍耐、貞操、廉潔、敏智、剛勇、公平、度量、識断、勉識を20の徳目に掲げ、孝経・五経・四書で解し、それを和漢の道徳的事跡を例に説明したもので、国民の守るべき道徳として明治天皇自らも宮中で講義された。 ②教育勅語渙発までの経緯 近代的な中央集権国家の建設を急いだ明治政府は学制を公布し、教科書の出版を急いだ。欧米文化が尊ばれた時代に福沢諭吉の「西洋事情」などの啓蒙書や米国のウィルソン・リーダーなどの輸入教科書が多用され、日本には馴染まない内容も多かった。明治11年に明治天皇は東山北陸東海の各校を御叡覧し、洋風化を競う学風に憂慮され、元田永孚をして教学の方針を示した(聖旨教学大旨)。また、政府も自由民権運動の激化にそれまでの欧化主義を改めようと考えた。こうして翌12年には教育令が公布され、仁義忠孝に基づく儒教的皇国思想へと教育方針が変更され、明治15年には天皇の勅命によって国民が守るべき道徳を説いた「幼学綱要」が編集された。初代文部大臣の森有礼は、万世一系の国体と忠君愛国の精神に基づく教育改革に取り組んだが、途中で死去してしまう。天皇は明治19年10月に東京帝大へ御臨幸した際、大学は人材を育てるところであるから修身を拡充するよう喩旨され(聖喩記)、また、同20年5月に所管内を視察した北垣国道京都府知事は、宮中へ徳育に問題があって国民教育の根本として最も重大であると復命した。この頃、地方長官の間でも行き過ぎた西欧思想教育を見直そうとする機運が高まり、帝国憲法の公布を前に石井省一郎岩手県知事ほか有志たちは、日本的な国民道徳・徳育の方針を文教の立場で確立すべきとの運動を展開した。そうして明治23年2月の地方長官会議において『徳育涵養ノ義ニ付建議』が決議され、山県有朋内閣へ提出されて、御前会議で“教育上の箴言”を編纂せよと天皇が沙汰したことで消極的な榎本武揚文相は更迭され、芳川顕正が就任した。こうして山県、芳川、元田に井上毅法制局長官が加わり、井上案を基本に元田が中心となって草案が煉られた。明治23年10月30日にいよいよ山県総理と芳川文相が宮中へ召されて天皇の御言葉としての『教育ニ関スル勅語』が下賜され、それは政治的宗教的な要素を避けつつ、哲学論ともならないように熟考されたものであった。 【教育勅語の十二の徳目】 孝行、友愛、夫婦ノの和、朋友ノの信、謙遜、博愛、修学習業、智能啓発、徳器成就、公益世務、遵法、義勇 ベースボールを扱った「ウィルソン・リーダー」の意訳本、「万国奇談」では、旧約聖書のアダムとイブやノアの洪水などが紹介されている。
第405号  教育勅語の成立過程      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2017年01月30日

御真影の廃止、奉還


御真影の奉還  終戦の前日に『全国的休戦等アラバ』、御真影を焼却すると軍事機密指令が発せられていたことは興味深い。さて、昭和21年元日(1946年)のいわゆる天皇陛下の「人間宣言」を控え、前年の12月20日(1945年)には、『従来下賜ノモノ全部取纏メノ上成ルベク年内二各地方庁二奉遷スルコト』と通牒され、御真影を奉還し、拝礼しないことになった。しかして、それは御真影を否定するものではなく、陛下の御姿が軍装だからで、『今上陛下御真影ハ将来新制定ノ御服装ニ改メラルベク』ものであった。そうして昭和21年4月5日(1946年)の「御写真取扱要綱」よって、新たな御写真の取扱いが示された。実際、昭和27年7月17日(1952年)に新たな御写真が秋田の女学校へ下付され、元の奉安所に納められたことに注目したい。 左上 御真影奉還ニ関スル件 参照 御真影に殉じた教師たち 平成元年発行 左下 御写真取扱要綱 昭和21年4月 アジア歴史資料センター蔵 右上 昭和の両陛下の御真影 筆者蔵 右下 朝日新聞 昭和27年7月18日号

第402号
     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年09月09日

北海道の御真影奉安殿


日本民族建築学会 第80回研究会 北海道の御真影奉安殿 釣山史 山田雅也 2016/9/24/土 15:00~17:00法政大学デザイン工学部 参加費500円 (学生無料) 小学校に建つ御真影奉安殿/昭和8年 国立国会図書館デジタルコレクション 頭を上げるとコツンとやられて、御真影や教育勅語に正対したこともない児童たちは80才となり、当時の混乱もあって記録や記憶が曖昧となった。本物の詔書類の鑑定もままならず、りっぱで荘厳な奉安殿も忘れ去られようとしており、また、限界集落が進行するなかで、奉安殿と詔書類の現存調査を行い、当時の様子をレジュメにまとめた。レジュメには30ほどの現存する奉安殿と奉安庫を掲載して、その保存の様態を紹介する。
第―号外 北海道の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年07月07日

道内の教育勅語を巡る事件簿

津別町本岐の教育勅語
 その当時、学校長の最重要の職務は、御真影や詔勅類の奉護であり、各校は災害に備えたが、頭を痛めたのが盗難・紛失である。そうして全国各地に奉護のために殉職したり、責任を負って自死する例が見られ、ここでは道内での事件を紹介する。

○留萌小学校長無理心中事件/大正元年9月の大喪儀から間もない頃、留萌小学校で教育勅語が道庁へ送りつけられ、収納箱が縁の下に投げ込まれるという事件が発生した。授業中の教師が拘束されるなどがあり、犯人が特定されないまま全教師が転出して学校は混乱した。新たに赴任した阿曽沼校長は、この事件と卒業式での不手際に責任を感じ、服毒自殺を図った。
○盤渓小学校長遭難事件/盤之沢特別教授場が昇格独立して新校舎が完成した。明日の開校式を前に持ち上がりで新校長となった結城三郎は、正装して2里離れた役場で教育勅語を拝戴した。その帰路の途中、猛吹雪となり、円山の商店主に投宿を勧められたが、明日は大切な開校式だからと断り、深雪を進むと新校舎を目前に進退窮まってしまった。翌朝、登校の生徒が雪に埋もれた校長を発見、羽織で大切な教育勅語を包み抱いて凍死していた。遺体は呆然とする父兄らに見守られてソリに載せられ、生徒たちに曳かれて無言の帰宅となった。大正11年12月23日のことであった。
○愛冠小学校、教育勅語紛失事件/昭和4年5月、足寄村の愛冠小学校で教育勅語が紛失した。学校に官憲が入る騒動となり、関係者が警察の取り調べを受け、検事が現場検証を行い、当時の新聞で大々的に報じられた。これは校長に叱責された教師たちが、腹いせに共謀したものとされ、結局、教育勅語は発見されず、あらためて翌5年10月に再下賜を受けて事態は収束した。
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第396号   教育勅語を巡る事件    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

2016年02月03日

犬皮のお話し


犬皮のお話し 「冬のはきもの」の続き。戦中の物資不足に対応して様々なものが統制・転用されることになったとき、そのひとつに犬皮があった。津軽三味線は犬皮というが、豚皮には及ばずとも十分強度があるといい、犬皮は統制品となって、野犬や狂犬狩りから出る皮はクロムでなめして靴となった。そもそも、朝鮮や北満では皮革、特に犬皮が一大産業であり、日本でも昔は犬皮がよく防寒具とされ、戦時に畜犬は献納されて飛行服など兵士用の被服となった。ところで白瀬矗中尉の南極探検隊には、二名の樺太アイヌ人がいて、探検では、樺太犬の毛皮のコートと寝袋、アザラシ皮のブーツが非常に重宝したといい、樺太・北海道では、樺太犬の毛皮で出来たドンザが浜の親方衆などに着用され、昭和三十年代までは普通に見られていたのである。 犬皮のドンザ 紋別市立博物館犬皮のコートを着た出発前の白瀬一行

第391号  築80年のRC造りの橋     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2015年10月13日

標茶町の奉安殿


標茶町上御卒別の神社にある奉安殿 下見板の剥落、欠落はあるものの、内部はしっかりしている。弟子屈町に残るものとほぼ同じデザインの旧奉安殿。
第389号  奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2015年08月06日

旭川の奉安殿2



旭川市江丹別神社の内陣となっている奉安殿
第381号  江丹別の奉安殿     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月15日

風連日新の奉安殿

名寄市風連町にはふたつが現存している。
昨年閉校した名寄市立風連日進小中学校(旧日進国民学校)の旧奉安殿は、向かいにある教行山信証寺のお堂となっている。名寄地方らしく趣のあるレンガ造りだ。



第357回 風連の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月12日

新得町の奉安殿


 嗚呼、旭日マーク。これはまさしく奉安殿ではないか!!  すっぽり内陣に収まった旧上佐幌小学校の奉安殿。 上佐幌八幡神社内陣/新得町

第356回 新得町の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2014年05月09日

東川町の奉安殿


東川第三小学校の旧奉安殿は、重厚な石造りにシャチホコがりっぱ! 金比羅神社本殿/東川町

第355回 東川町の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年10月13日

鷹栖町の奉安棚

またまた、巡ってます。

鷹栖町郷土資料館収蔵庫に残る奉安棚



















第342回 奉安殿 朕惟フニ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  続きを読む

2013年09月22日

深川市の奉安殿



多度志村湯内の奉安殿 この連休に資料館7カ所のほか、十数カ所を巡見、その帰りすがらに奉安殿を発見した。神社の内陣に転用されることは多いが、このように社殿に包括して連結されるものは珍しい。 半菊花紋の旭日様という紋章に鉄扉、通風孔があり、奉安殿と判断した。偶然に発見、気づいたもので、とってもうれしい。



















第337回 旧多度志村湯内小学校の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年07月13日

美瑛と旭川の奉安殿



美瑛と旭川の奉安殿 奉安殿情報の確認のため、美瑛町に行って来ました。そして何と、ゆきずりでもうひとつ発見してしまいました。旧奉安殿と思われる美瑛町の下宇莫別神社内陣、美進小学校のものか?同じく奉安殿か?旭川市上旭日正の金刀比羅神社内陣、第2旭川小学校のもの?


































第354回 奉安殿ふたつ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年07月06日

御真影の本物かも!?

御真影の本物か?



 菊華紋の立派な黒漆塗り、重厚な額装に専用カバンが付いています。
 本物かも!!
 当時は、本校に下賜された御真影を許可を得て複写し、分校で奉載したりもしました。






































第353回 御真影の本物!?      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年06月20日

戦時遺産を残そう!!

 この15・16日に北海道史研究協議会の研究大会に参加しました。私は情報交流会で道東北の戦時遺産の保存状況についてお話しました。元某市教委の方が、現職時代に奉安殿を文化財にしておけば良かったと。話題に花が咲き、こうして右傾の仲間を増やしているのだ。






























道東北で戦時遺産の見直しが進む ~文化財指定ほか保存の状況 ◆旧海軍大湊通信隊稚内分遣隊幕別送信所  (通称・稚内赤レンガ通信所) 昭和6年に送信所として建設されたレンガ造りの隊舎と倉庫が残る。当時は、アンンテナがそそり立っていたと云い、太平洋戦争では、一個中隊が配備され、大本営と最前線を中継した重要施設であった。稚内市歴史的建造物。 昨秋、釧路と十勝の戦時遺産を探索した。道東北では、一昨年の冬、稚内市の旧海軍幕別送信所の一部が積雪のために倒壊し、広尾町では野塚トーチカが海岸段丘を落下して話題となった。 この送信所は市の歴史的建造物であり、地元では通称・赤レンガ通信所と呼ばれて親しまれ、稚内市歴史・まち研究会と北海道建築士会宗谷支部が被害状況を調査し、現在、修築中である。しかし、この種のものの多くは、ごく一部の歴史愛好家が趣味的活動として来たのが実態であり、専門家や行政による保存事業は稀であった。最近、別海町に残る奉安殿が町の有形文化財となったが、学芸員によると思想的アレルギーもあり、指定にはたいへん苦労したという。大樹町では、歴史的に価値があるとしてトーチカが整備保存され、広尾町は、トーチカを記念物に指定した。観光的ではあっても文化財として残された意義は大きい。また、帯広市などは、平和推進事業の一環として防空壕跡に標柱を設置した。広尾町の豊似小学校にある二宮尊徳像は、戦時の金属供出のための陶製で、当時を物語る貴重な遺物であるが、著名な窯元で焼かれた備前焼は、本来の焼物としての価値も高い。 ◆旧柏野尋常小学校奉安殿 この5月に町有形文化財に指定された。役場庁舎の玄関を模して昭和12年に建設されたという。 ◆広尾町のトーチカ群 広尾町には12基のトーチカが現存する。同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、遊歩道を整備した。 ◆大樹町浜大樹のトーチカ群 大樹町では、15基が確認され、誘導看板や解説板が設置されている。 ◆豊似小学校の二宮尊徳像  青銅製が戦時供出されて陶製になった。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の木村興楽園である。同じものが紋別市の渚滑小学校にもある。 ◆旧日本軍トーチカ跡 網走市市制施行50年記念事業で設置された史跡標柱。網走歴史の会の調査では、市内に8カ所が確認できるという。 ~そのほか貴重な現存物 ◆美幌駐屯地 昭和15年に建設された旧海軍施設が27棟残り、火薬庫跡や米軍ハウスなどもある。本部隊舎は船先を模したもので玄関ドアは当時のまま。資料館「北辰館」には、戦闘機のタイヤや代用陶製の手榴弾などめずらしいものもある。 ◆旧計根別第一飛行場掩体壕跡 第二次大戦中、敵から飛行機を守るために建設された壕。根釧台地には美幌航空隊ほか標津、中標津、根室に飛行場があった。 ◆本岐国民学校(津別町)に残る詔勅類 これほど多種の詔勅類が、まとまって残されている例は、極めてめずらしい。 名称 公布等月日 備考 教育ニ関スル勅語 明治23年10月30日 天皇のお言葉を借りて政府の教育方針を示したもの 東京帝国大学ニ御臨幸ノ際賜ル御沙汰 明治37年 7月11日 日露戦時に於ける教育励精のお言葉 戊申詔書 明治41年10月13日 国民規範をうたう第二の教育勅語というべきもの 教育ニ關スル御沙汰 大正 4年12月10日 御大礼に際し、教育者へ彝訓の対揚を求めたもの 文部省訓令第8号 大正 4年12月11日 ④または⑤に添えられた 国民精神作興ニ関スル詔書 大正12年11月10日 大震災後の社会的・思想的な混乱を戒めたもの 教育ニ関スル御沙汰 昭和 3年12月10日 御大礼に際し、教学の振興を述べられたもの 教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語 昭和 6年10月30日 東京高等師範学校六十周年記念式典でのお言葉 文部省訓令第21号 昭和 6年10月31日 ⑨に添えられた 小学校教師ニ賜ワリタル勅語 昭和 9年 4月 3日 全国小学校教員精神作興大会でのお言葉 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語 昭和14年 5月22日 戦時体制へ向けての学徒の心構えをうたったもの 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(読み解説)  昭和14年 5月22日 ⑫に添えられた












第350回  北海道史研究協議会研究大会             北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年05月07日

北村(岩見沢市)の奉安殿


北村神社境内 旧北村国民学校奉安殿 赤紫色に着色されたコンクリート造りは、鉄扉もしっかり。良く整備保存されている。





























第346回   北村の奉安殿           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年04月29日

昭和の日と云ったら

昭和の日と云ったら、これしかないでしょう。

昭和の両陛下の御真影とご一家の御影
当時ものです。













































第344回   御真影           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年04月21日

美深の奉安殿































第341回   美深町の奉安殿           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年01月06日

道東北の戦時遺産



道東北で戦時遺産の見直しが進む この秋、釧路と十勝の戦時遺産を探索した。道東北では、昨冬、稚内市の旧海軍幕別送信所の一部が積雪のために倒壊し、広尾町では野塚トーチカが海岸段丘を落下して話題となった。 この送信所は市の歴史的建造物であり、地元では通称・赤レンガ通信所と呼ばれて親しまれ、稚内市歴史・まち研究会と北海道建築士会宗谷支部が被害状況を調査し、現在、修築中である。 しかし、この種のものの多くは、ごく一部の歴史愛好家が趣味的活動としているのが実態であり、専門家や行政による保存事業は稀である。 最近、別海町に残る奉安殿が町の歴史文化遺産となったが、学芸員によると思想的アレルギーもあり、指定にはたいへん苦労したという。 大樹町では、歴史的価値があるとしてトーチカが整備保存され、広尾町は、トーチカを記念物に指定した。観光的ではあっても文化財として残された意義は大きい。また、帯広市などは、平和推進事業の一環として防空壕跡に標柱を設置した。 広尾町の豊似小学校にある二宮尊徳像は、戦時の金属供出のための陶製で、当時を物語る貴重な遺物であるが、著名な窯元で焼かれた備前焼は、本来の焼物としての価値も高い。 北海道文化財保護協会 釣山 史 ◆豊似小学校の二宮尊徳像 戦時供出後に再建された。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の総本家木村興楽園である。 ◆広尾町のトーチカ群 広尾町には、12基のトーチカが現存するという。同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、113 万円を投じて遊歩道を整備した。






















第333回   道東北の戦時遺産           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月28日

奉安殿の建築基準






































現存する奉安殿の調査を重ねて数年、ほとんど知られていないのが、奉安殿の建築基準である。

 ①社殿(神社)造であってはならない。
 ②適当な通風孔を設けること。
 ③扉は2重にし、内扉は金網張りとすること。
 ④屋根は瓦やトタン葺の場合は、雨漏りがしないように下に柾を敷くこと。(つまり、瓦やトタンでなくても良い)

 最初期には、どのように造って良いかが分からず、後に①の指導によって改築されたものもあった。


第332回   奉安殿の建て方           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月24日

模擬手榴弾

教練用模擬手榴弾






















































第331回   旧日本軍の模擬手榴弾           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月22日

開戦の詔書


終戦後の詔勅類の管理 『教育に関する勅語(以下、教育勅語)』其の他詔書の謄本類は現在奉安殿或は奉安棚に最尊重に奉置し鎖鑰する様にしているが昭和二十一年四月五日宮内大臣官房発第六六号『御写真取扱要綱』によると勅語謄本類も奉安殿等に奉安することは避けねばならぬ様に思料せられますが如何に御取扱を致すべきものか又御奉還申上ぐるようなことはないかにつき御伺致します との三重県知事の伺いに対し、文部省学校教育局長の回答は、昭和二十一年七月十日 伺い出のことは学校長の見識に於て適宜措置する様願いたい としており、勅語及び詔書は学校長の裁量で保管・管理され、後の昭和二十三年六月二十五日に教育勅語等の謄本は返還し、それ以外の勅語、詔書等は適当な処置を講じるように通牒された。 ※教育勅語等とは、『教育に関する勅語』、『軍人に賜はりたる勅諭』、『戊申詔書』、『青少年学徒に賜はりたる勅語』と解される。 以上のように詔勅類の保管と処分は一定せず、教育勅語等の回収がひそやかに行われたこともあって、明らかではない部分が多い。こうして道内に残る奉安殿や詔勅類の調査を初めて数年、未だに出会っていないのが、太平洋戦争時の『開戦の詔書』である。 図は、現在、私の手元にあるのであるが、知見が得られず、いわゆる小学校等にあった本物の詔書謄本か、どうかが判断できないでいる。

第330回   開戦の詔書           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月20日

陶製の兵器



戦中、国内では金属製品の供出が奨励されたが、いよいよ物資が欠乏すると陶製の兵器が現れた。

①備前焼の三式地雷
②実戦配備されなかった陶製手榴弾(備前焼)
③信楽焼の四式手榴弾
































第329回   陶製、代用の兵器           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年11月16日

オホーツクの奉安殿






オホーツクに残る教育勅語と奉安殿 紋別会員 釣山 史・紋別市上渚滑町/上和訓辺 紋別市渚滑町宇津々/八幡宮 紋別市渚滑町/市街地 紋別市鴻之舞/旧喜楽町 小清水町/小清水神社 佐呂間町/仁倉神社 湧別町上湧別/中湧別神社 遠軽町生田原/旧清里小学校隣接地 本岐国民学校(津別町)の教育勅語謄本 湧別町立富美小学校/皇紀2600年記念の尊徳像 教育勅語とは、正式には『教育ニ関スル勅語』といい、明治23年10月に公布され、皇国日本の教育上のシンボルとされ、その教育勅語や天皇・皇后両陛下の御真影などを保管した別棟が『奉安殿』だった。オホーツク管内では、紋別小学校が他地域に比べても早い、同26年7月に教育勅語を奉戴し、翌27年5月には御真影が下賜された。敗戦後のGHQの指導下のもと、昭和21年7月に奉安殿の撤去が決まり、そうして同23年6月19日の衆参議院の議決をもって教育勅語は完全に失効し、文部省は同月25日に教育勅語謄本の回収を通知した。紋別市内 紋別小学校卒S女 『とある日、数人の人夫がやって来て、大きなハンマーを手に手に、無造作に奉安殿を叩き出した。とても頑丈な奉安殿を撤去するのに数日はかかったと思う。登下校時には最敬礼をした奉安殿、教室の窓越しに取り壊しの風景を見ながら、子ども心に感慨深いものがあった。』 旧上藻別駅逓所(紋別市内)/上藻別小学校の奉安庫だったと思われる金庫


































第325回  オホーツクの教育勅語と奉安殿           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年11月06日

現存する教育勅語と奉安殿























































 緊急報告、大量の詔勅類を確認!!  《たより掲載用》 ~本岐国民学校(津別町)の教育勅語 北海道文化財保護協会員 釣山 史 津別町郷土館資料室は、旧本岐中学校の体育館を利用した収蔵庫だ。その片隅に『勅語奉安用御筥』と書かれた白木の箱が佇んでいた。オヤ? 開けて見るとたコバルト色の布に包まれ、房紐で括られた漆塗に桐紋の内箱あり、中には菊花紋に“朕惟フニ我カ皇祖皇宗…”、ナナナント、教育勅語が出現した。さらにもう一つの白木箱には、詔勅類がザクザクと!! 教育勅語とは、正式には『教育ニ関スル勅語』といい、明治23年10月に公布され、天皇の神格化として皇国日本の教育上のシンボルとされたもので、オホーツク管内では、紋別小学校が他地域に比べても早い、同26年7月に奉戴している。 教育勅語というと恭しく掲げられたリッパな巻子を連想する方もいるだろう。しかし、丁重に扱われ、厳重に保管された教育勅語も、本来は一枚紙であり、ロール状に巻かれて2重の奉安箱に収納され、御真影とともに奉安殿などに安置された。本岐小学校に残った教育勅語も同様であり、左右両端に現れたシワに幾多の奉読の痕跡が見て取れる。戦前は、四大節の拝賀式のほか、教育勅語、戊申詔書、国民精神作興ニ関スル詔書の奉読式などが行われていた。 さて、あるはずは無い、あってはならない勅語謄本がどうして存在するのか? 敗戦後のGHQの指導下のもと、昭和21年元日の天皇陛下の人間宣言を受けて、同月には御真影が奉還され、4月に宮内省が勅語や詔書を奉安殿に奉安しないように示し、7月は奉安殿の撤去が決まったことで保管場所は無くなり、10月に文部省が教育勅語の奉読と詔勅類の神格化の廃止を通牒して実質的な効力は停止した。 しかし、依然として教育勅語の思想的支柱としての性格は残り、そうして昭和23年6月19日の衆参議院の議決をもって教育勅語等は完全に失効し、文部省は同月25日に教育勅語謄本等の回収を通牒したが、勅語等の管理は学校長の専任であり、直接、取り扱いに関わった者は限られ、また、ひそやかに回収の手続きが行われたことで、必ずしも実体は明らかになっていない。 その後、本岐小学校では、何らかの理由で残ってしまった勅語類の扱いに苦慮したと思われるが、注目したいのは、あったであろう“米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書”が見当たらないこと、“教育ニ關スル御沙汰”が2つ存在していることであり、残された理由とともに考すべき点である。 今回は、偶然にたくさんの詔勅類に遭遇したのであり、予備知識に乏しく、不十分な現存確認のみに終わったが、「津別町百年史」に現存の教育勅語が写真入で紹介されており、今まで地元管内での勅語謄本の存在に全く気づかず、反省しきりである。 教育勅語謄本は、本件を含めて道内11箇所(奉安殿は36棟)での現存を確認しており、瀬棚郷土館には「教育ニ関スル勅語」と「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」が残っていて、いずれにしてもこれほど多種の詔勅類が一括して現存することは非常に稀であり、引き続きの調査をお約束して、以下のまとめとしたい。 ◆旧本岐国民学校の教育勅語 外箱に勅語奉安用御筥とある いわゆる明治型の教育勅語謄本 奉読の痕跡として幾筋ものシワがある 菊花紋の下に罫線がある “年”ではなく“秊”とある ※昭和型には罫線がなく、 字体も数ヶ所が違う。 ◆現存する勅語・詔書類等 名称 公布等月日 備考 教育ニ関スル勅語 明治23年10月30日 天皇のお言葉を借りて政府の教育方針を示したもの 東京帝国大学ニ御臨幸ノ際賜ル御沙汰 明治37年7月11日 日露戦時に於ける教育励精のお言葉 戊申詔書 明治41年10月13日 国民規範をうたう第二の教育勅語というべきもの 教育ニ關スル御沙汰 大正4年12月10日 御大礼に際し、教育者へ彝訓の対揚を求めたもの 文部省訓令第8号 大正 4年12月11日 ④または⑤に添えられた 国民精神作興ニ関スル詔書 大正12年11月10日 大震災後の社会的・思想的な混乱を戒めたもの 教育ニ関スル御沙汰 昭和3年12月10日 御大礼に際し、教学の振興を述べられたもの 教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語 昭和6年10月30日 東京高等師範学校六十周年記念式典でのお言葉 文部省訓令第21号 昭和6年10月31日 ⑨に添えられた 小学校教師ニ賜ワリタル勅語 昭和9年4月3日 全国小学校教員精神作興大会でのお言葉 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語 昭和14年5月22日 戦時体制へ向けての学徒の心構えをうたったもの 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(読み解説)  昭和14年 5月22日 ⑫に添えられた
第321回  北海道の教育勅語と奉安殿          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年10月13日

戦時遺産、更別と広尾2/2


ちょっと右寄り、太平洋岸、道東に残る戦時遺産の旅Ⅱ 2/2 十勝港の立岩トーチカは、自然物を使った珍しいもの。 出入口 記念物・陣地 トーチカ旧軍遺構(新生トーチカ)  崩落した向こうにもう1基が 野塚トーチカ 最近、野塚トーチカのひとつが崩落して話題となったが、広尾町の海岸には、12基のトーチカが現存するという。 同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、113 万円を投じて遊歩道を整備した。 はるかに続くトーチカの列 豊似浜のトーチカ群(豊似トーチカ)  転落してひっくり返ったトーチカ、型枠の跡が残る ※大樹町の追加調査 (左)浜大樹漁港トーチカ (右)航空公園トーチカ















































第316回  太平洋岸、右寄りの旅5          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年10月09日

戦時遺産、更別と広尾1/2


さて、今回も道東太平洋岸の戦時遺産を巡る右寄りの旅だ。明日は全道的に天気が回復するというので、10月6日の夕に自宅を出発した。今年、最後の探検だろう。 寄り道、帯広でモール泉の「オベリベリ温泉・水光園」で一休みする。中学・高校とこの辺りに住んでいたので懐かしい。昔はジャングル風呂だったような、現在は近代的な健康ランドとなっている。“オベリベリ”とはアイヌ語で、川口が分かれ分かれするもの意味で、近くに「帯広発祥の地」の記念碑が建っている。 今回の一番の目的は更別村の奉安殿であるから、最寄りの道の駅「なかさつない」で車中泊することにした。 翌朝6時に起床。道の駅の駐車場には、30台くらいの自動車が泊まっている。天気は回復し、気持ちがイイくらいの晴天だ。放射冷却のせいか、寒くてあまり眠れなかった。 ◆更南神社(更別村) 途中、旧広尾線跡の橋梁跡、路盤の切れ目を確認しながら、朝一番に最目的地の更南神社へ向かう。戦時中まで、天皇・皇后両陛下のお写真(御真影)や教育勅語謄本などを保管していた奉安殿だが、当時の中更別国民学校(後の更南小学校)では、昭和21年9月に奉安殿を撤去することになったので清和集落ではこれを譲り受け、清和神社(現更南神社)としたのだ。屋根は神社様式に改築されても、鉄扉が奉安殿を物語る。 ◆豊似小学校の二宮尊徳像(広尾町)  皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建立された二宮尊徳の銅像は、戦時の金属不足のため、わずか1年で供出されてしまい、同18年に再び代用備前焼の陶製が寄贈された。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の総本家木村興楽園である。 ※備前焼とは 古墳時代の須恵器の製法を引き継ぐ備前焼は、釉薬を使わず絵付もしない。土味を活かした赤褐色の焼肌が特徴。江戸時代後期には、池田藩の統制によって窯元六姓による製造体制となり、そして今に続いている。









































第315回  太平洋岸、右寄りの旅4          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/