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2012年06月26日

北海道の川崎船1

 この6月23日から24日にかけ、北海道史研究協議会の研究大会で小発表をしました。






















































































































































































 第302回 北海道、川崎船の伝播 

明治の漁業、川崎船調査とブラキストンの設計図 こんにちは紋別市の釣山です。今回は明治時代、内地からの漁業移民が次第に増加して、川崎型の漁船が道内でも見られるようになった頃のお話しで、ホタテ曳きやカレイ曳きを調べた折に触れた資料の紹介です。ついでの寄せ集め情報で、内容には偏りもあり、検証も不十分ですので、ご容赦ください。のちに最後の和船と呼ばれた、蟹工船に使用された焼玉エンジン搭載の川崎船は有名です。この川崎型の漁船には越前、越後、庄内、津軽等々、いろいろありますが、2枚棚構造の川崎船は浸水に強く堅牢で船足も早く、何より風向に逆走ができて、また、帆力はホタテ曳きやカレイ曳きのときに大きな力となったので、北海の荒海には欠かせないものとなりました。明治22年の水産調査では、すでに相当数の川崎船が北海道へやって来ていたことが分かります。この頃の北海道の漁業ですが、前時代からサケ・マス、ニシンの蝦夷の三漁と呼ばれていたものも、自由民の往来が盛んになった明治の中期以降にもなりますとだんだんと多様化して行きます。北海道へ移住した漁民の出身は、青森、秋田、新潟の順に多く、ニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立ちます。しかし、北陸漁民が北海道の漁業へ与えたものは大きく、小樽高島を例に見ますと移住者は新潟県人を主に富山、石川などからも来道し、1~2度の試験操業を経たのちに定住したもので、沿岸漁業だけではなく沖合漁業の経験もありました。この頃の各地の漁場の状況を見ますと、明治20年代には、北海道で最も特徴的な漁業であるホタテ桁網漁がにわかに勃興し、石川県等北陸人らによるホタテ船団が道内各地に進出して乾貝柱を精製する特殊な技能集団を形成しました。現在のオホーツク海のホタテ漁業の興隆は、このときに始まります。後志地方では越後の川崎船によるスケソウ延縄漁が導入され、釧路では越後漁民による沖手繰が盛んになりました。浦河地方は、だんだんと沿岸漁業が薄くなるにつれ、次第に沖合漁業が盛んとなり、旧来の持符船から川崎船に変更して熟練した越前・佐渡・庄内からの漁夫を雇い入れるようになりました。浜中では、従来、越後の川崎船を使ったマス延縄漁を行っていましたが、漁場が次第に遠くなったので、大正初年頃までに同地水産組合の模範改良漁船を模した船を使用するようになりました。
 この頃は北海道庁が、盛んに全国各地の漁船の調査を行い、改良試験船の建造を繰り返して、漁労上の特質を検証しました。明治36年には水産補助を整備して、将来地方の模範となるべき新規の漁船へ建造費の二分の一を交付することとしました。浜中の模範改良漁船とはこのことと思われます。こうして明治末年頃には年に十数隻の補助船が新造されるようになり、道内各地で北海道型とも云える「改良・川崎船」が見られるようになりました。さて、ここの北水協会報告に掲載された改良・川崎船にはセンターボード(落とし板)が搭載されています。また、帆もスクーネル型を意識しており、西洋型を取り入れようとしたもので、ブラキストンの設計船にもセンターボードが付いていて、ひょっとしてこれを参考にしたのかも知れません。貿易商であるブラキストンは、造船の重要性を唱えて、明治13年にはブラキストンがスポンサーとなった帆船競争を開催していました。そして、この図面は、道庁の役人が江戸時代から大工として函館で活躍していた辻松之丞に、各地漁船の得失を聞き取りした際、入手したものと考えられます。 明治の漁業、川崎船調査とブラキストンの設計図 紋別市  釣山史 蟹工船に使われた発動機川崎船/漁業発達史蟹缶詰編/昭和19年 紋別前浜のホタテ曳き船/大正絵はがき 私の興味のある分野は、暮らしの中での歴史、生活史と産業史です。紋別にあり、現在は水産業に関わっているので漁業・加工史が中心で、○ホタテ曳きとカレイ曳きの歴史  ○戦前の東京築地への鮮魚出荷  ○ニシン角網の濫觴 …等々を調べています。 さて、今回は明治時代、内地からの漁業入殖が盛んになり、川崎型の漁船が北海道内でも見られるようになった頃のお話しで、ホタテ曳きやカレイ曳きを調べた折に触れた資料の紹介です。川崎船の図面は、なかなか見られないもので、今後の参考となるでしょう。 ◆ホタテ桁網漁 北海道で最も特徴的な漁業は、ホタテ桁網漁である。鳥取県では貝のことを貝殻と云い、貝殻のことは貝殻の皮と云うらしい。今のように精製された乾貝柱は、鳥取県が最初と云われ、また、若狭湾では、古くから「カレイ曳き」が行われていて、イタヤガイ漁も盛んであった。そして現在のオホーツク海での「ホタテ漁」の基礎を作ったのは、この石川県等北陸人であり、明治に入って川崎船による桁引船を巧みに操り、同20年代後半には小樽を拠点に北海道の各地に進出して乾貝柱を精製する特殊な技能集団を形成した。小樽高島の船団が大正6年に日高方面に出稼ぎしたとき、美々川・千歳川を経由して石狩川を下り、帰路をわずか5日間で走破したことなどは、その操船技術の高さを示している。 ◆漁業の多様化、川崎船の伝播 前時代から蝦夷の三漁と呼ばれたサケ・マス、ニシン漁も明治中期には多様化して行く。スケソウ延縄漁の発祥は、明治16年頃に川崎船を用いた新潟の佐渡とされ、北海道では、同35年に岩内の増田庄吉が、技術の習得のために佐渡へ渡り、翌年には着業して、以後、後志地方で盛んに行われるようになった。また、天塩地方では庄内から来た漁民が盛んにタラを漁獲したと云う。釧路においては、明治19年の川崎船による岡手繰をはじめに越後漁民による沖手繰が盛んになり、余市では、明治42年頃に富山人がカレイ刺網を始めて徐々に着業者も増え、大正2・3年頃には小型川崎船を用いるようになっていた。浜中では、従来、小型の越後川崎船をもってマス延縄漁を行っていたが、次第に漁場が遠くなったので、大正初年頃までに同地水産組合の模範改良漁船を模して使用するようになった。また、浦河地方は、沿岸での漁獲が少しずつ薄くなったのに対応し、年々、タラ漁など沖合漁業が盛んになり、旧来の持符船から川崎船にあらためて、熟練した越前・佐渡・庄内からの漁夫を雇い入れた。 鱈漁概表抜粋(明治22年調査)/北海道漁業志稿 ◆漁船調査とブラキストンの設計図 ア)漁船の得失調査 北水協会は明治24年に漁業者の技術向上を目的とした競技会を開催し、種目には川崎船の帆走と艪漕ぎの競技があった。さて、明治24年の北水協会報告第六十七号には「漁船構造法調査」が報告されている。このときは技手を函館へ派遣し、辻造船所(高田屋が没落後の造船は、もっぱら辻松之丞の手によった。続豊治と松之丞が協力し、安政4年にスクーネル型・箱館丸を竣工させた)において聞き取りを行い、各地からの出稼ぎ船を実見し、得失を見分した結果、“其構造は地方に依り多少異同ありて利害も亦た随て同ならず 略 各地漁船中稍他に勝りたるは越前川崎船”としている。また、面白いことに、ここで彼のブラキストン設計の漁船を紹介している。このブラキストンは貿易商であり、造船の重要性を唱えて、明治13年にはブラキストンがスポンサーとなった帆船競争を開催していた。これらのほかこの頃の漁船調査では、川崎船の本場日本海の越前、越後のほか、宮城、千葉、鳥取等の改良船のこと、とりわけ山口県の遠洋漁船について度々触れている。 明治22年調査の川崎船 北海道水産豫察調査報告/明治25年 ブラキストン設計の漁船図 北水協会報告第六十七号/明治24年 イ)改良船の走行・漁労試験 道庁は、漁業の近代化を図るため、漁船に西洋型を取り入れるべく、明治20年に横須賀造船所で「スクーネル型(2本以上のマストに縦帆を張った船)」の試験船を建造、翌年にはあらたに「付属ドーリー(車輪付)船」2隻を造り、これを伴い鱈漁場の探査を行った。さらに同22年に浦河の漁民へ補助金を交付し、改良漁船を建造させた。明治25年には函館において改良・川崎船2隻を建造、翌年、函館から根室、そして千島へと航海漁労試験を実施し、同27年にはさらに改良を加えて、小樽沖で走行試験を行ったが、速力と安定性は従前に比べて目を見張るものがあった。ことに明治28年の根室目梨沖でのタラの漁労試験では、“改良を要すると認むる要点未だ発見せず”としている。 ◆最後に 北海道へ移住した漁民の出身は、青森、秋田、新潟の順に多く、ニシン漁で活躍した人物には青森県人があり、川崎衆には新潟県人が多く、雇われの乗り子には秋田県人が目立つ。しかし、割合は小さくても、北陸人が北海道の漁業へ与えたものは大きく、実際、明治中期までは、北陸人の比率が高かった。小樽高島を例に見ると移住者は新潟県人を主に富山、石川などから来道し、1~2度の試験操業を経たのちに定住したもので、沿岸漁業だけではなく沖合漁業の経験もあった。川崎型の漁船には越前、越後、庄内、津軽等の種々があり、2枚棚構造の川崎船は浸水に強く堅牢で、何より唯一、風向に逆走して船足も早かったので、北海の荒海には欠かせないものとなり、また、帆力はホタテ曳きやカレイ曳きにおいて大きな力となった。明治36年には水産業補助の規定を改定して、将来地方の模範となるべき新規の漁船へ建造費の二分の一を交付した。こうして明治末年頃には年に十数隻の補助船が新造されるようになり、道内各地で北海道型とも云える「改良・川崎船」が見られることになった。最後の和船と呼ばれる、蟹工船に使用された焼玉エンジンの川崎船は有名である。 北海道水産雑誌第十一号/明治27年 ‐参考文献‐ 北水協会報告号外、同第六十七号/明治24年  北水協会報告第七拾参号/明治25年  北海道水産豫察調査報告/明治25年  北海道水産雑誌第弐号、同第四号、同第七号/明治26年  開拓指鍼北海道通覧/明治26年  北海道水産雑誌第十一号/明治27年  北海道水産雑誌第弐拾参号/明治28年  殖民広報第十三号/明治36年  殖民広報第六十六号/明治45年 殖民広報第八十二号/大正4年  北海道移民史/昭和9年  北海道漁業志稿/昭和10年  漁業発達史蟹缶詰編/昭和19年  北海道漁業史/昭和32年  釧路市史/昭和32年  余市漁業発達史/昭和41年  蝦夷地の中の日本/昭和54年  函館市史/昭和55年  新高島町史/昭和61年  試験研究は今No.168/平成5年  ほか  鳥取県の改良・川崎船 北水協会報告第七拾参号/明治25年
          

Posted by 釣山 史 at 21:18Comments(0)北海道の歴史