さぽろぐ

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2010年08月28日

蟹工船ブーム

『小説・蟹工船』はドキュメンタリーかノンフィクションか?

日本地理体系/S5年
 戦前・戦後の北洋漁業の一翼をなし、重要な輸出品として外貨獲得に大きく貢献した蟹缶詰は、その大分が洋上で加工されて、労働環境は極めて苛酷なものであり、それを描いた小林多喜二のプロレタリア小説『蟹工船』は余りに有名である。
 この頃の蟹工船は、制度上は漁船でもなく、工場でもないというもので規制が難しく、確かにリンチはあったし、衛生管理や栄養の不足、長時間の労働などから死亡、傷病者が多発したが、当時の日本社会には人権などという考えはなく、前時代的な使用人制度が残っている状況にあっては、この蟹工船が特に特異・奇異なものでも無く、道路や鉄道工事など、いわゆるタコと呼ばれる労働者が虐待とも云える労働搾取にあっていた。
 小説『蟹工船』は、多喜二の詳細な取材と調査によるもので、ノンフィクションかとも思われがちであるが、そのモデルとなった『博愛丸』は日露戦争の時の病院船だったことで広く知られており、たまたま、多喜二が住んでいた小樽へ来航したときに火災を発生させて大きな話題となっていた。そして悪玉の親分とされる人物は、この船上での蟹缶詰の製造ラインを完成させた蟹工船事業を象徴する人物であり、これらを背景にしながら、もちろん、博愛丸でも虐待はあったが、この小説の中に出てくる数多くの非人間的な事件の多くは、他の蟹工船であったことがモチーフとされ、事実にもとづきながらも、特異な事件を寄せ集めることで相乗し、誇張して作られた《あくまでプロレタリア作品》であることを認識して頂きたい。
 決して、この時代の強制的な労働や非人間的な取り扱いを肯定しているのでは無く、小説『蟹工船』を否定するものでも無く、ここ数年の重篤な経済状況によってあぶり出された社会欠陥から、若者たちの間で巻き起こった蟹工船ブームもあり、海外TVからも問い合わせがあったので、なかなか見つからないと云う当時の作業の様子の写真とともに、ここに啓上する。



工船蟹漁業の話/S3年

















漁業発達史蟹缶詰編/S19年




































































第201回 小説蟹工船      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
 


  

Posted by 釣山 史 at 10:13Comments(0)読書と北海道文学

2010年08月24日

歴旅・ブログ目録2

《北海道ブログ チャンネル北国tv/歴旅・温泉、そしてチョッと釣り》のブログ目録Ⅱ
過去ログ~100号迄 hokkaidonobunka.sapolog.com/e566822.html


子ども達へ伝えたい「北海道の歴史と文化」
~もっと知ろう、残そう郷土の歴史語り

 北海道文化財保護協会(Tel&Fax 011-271-4220/Mail Address:bunho@abelia.ocn.ne.jp)へ入ろう!

   注意:これは「北海道文化財保護協会」のサイトではありません。



第101号 歴旅・温泉、西興部編
      ~ハンターの宿、狩猟のメッカ、西興部村。
号   外 祝!新春
      ~上モベツ駅逓所、文化財に!
第102号 古民家探訪3
      ~積丹半島の漁業番屋いろいろ。
第103号 ロフト古書の街
      ~古書の街、古本好き集まれ。
第104号 書店と読書
      ~出版・書店業界と読書の現状。
第105号 イモ版とコタン
      ~イモ版画家・香川軍男の美の原点。
第106号 歴旅・温泉、盃温泉郷編
      ~ニシン番屋がある温泉郷。
第107号 最奥の駅逓(第8回)
      ~駅逓建築標準の「無華」と「上モベツ」。
第108号 オタスの杜(再)
      ~上渚滑でも暮らしたウイルタの源ちゃん
第109号 紋別のカニ(再)
      ~カニ拾いと蟹工船のモデル
第110号 もんべつ流氷まつり
      ~’09もんべつ流氷まつりのメイン像は上モベツ駅逓所。
第111号 明治・大正の紋別港
      ~注目を浴びた紋別港桟橋問題。
第112号 ストーブのはじまり
      ~ストーブと寒冷地手当の始まり
第113号 ブランドまがれいの背景(再) 
      ~ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的な背景。 
第114号 危険だった北洋漁業
      ~遭難が相次いだ昭和30年代の北洋操業。
第115号 紋別にも来たブラキストン
      ~明治2年、ブラキストンの記録に見る紋別。
第116号 網走のマッチ製造業
      ~先進的だった開拓期の紋別林産業。
第117号 本庄陸男のこと
      ~我が一族とのえにし。
第118号 渚滑村のりんご
      ~余市団体とリンゴ栽培。
第119号 鴻之舞金山の機関車
      ~鴻紋軌道車の行方。
第120号 新聞に見る鴻之舞の閉山
      ~閉山当時の記事を掲載。
第121号 鴻之舞金山の発見
      ~鴻之舞金山の本当の発見者はダレか?
第122号 最奥の駅逓・総集編
      ~上モベツ駅逓所を例とした道東の駅逓経営。
第123号 歴旅・温泉、歌志内編
      ~歌志内のレトロは私設博物館。
第124号 モヨロのオホーツク人
      ~再発掘を終えたモヨロ貝塚の調査概要。
第125号 古民家探訪4
      ~ちょっと見かけた美しい建築物。
第126号 美幌峠まつり
      ~美幌峠のカムイノミ。
第127号 年少さんの読書
      ~幼稚園生と小学校低学年に送る優良選書リスト。
第128号 北海道の博物館
      ~博物館とは?、北海道の博物館一覧。
第129号 戦後の北方領土開発計画2
      ~北海道開発局長の北方領土開発計画。
第131号 UMA(ユーマ) 出現!!
      ~紋別のシブノツナイ湖に怪獣出現、UMAか?
第132号 現存する奉安殿
      ~北海道、知られていない地方の奉安殿。
第133号 先進的な紋別の漁業
      ~とても先進的だった紋別水産界の歴史。
第134号 士別市の古建築1    
      ~レンガのまち、士別市。
第135号 火の玉を撮影?  
      ~旭川市で火の玉(オーブ)を撮影。
第136号 士別市の古建築2  
      ~旧朝日町市街ほかの古建築。
第137号 歴旅・温泉、中標津編  
      ~中標津のお安い温泉宿
第138号 最奥の駅逓・総集編
      ~網走管内に見る駅逓の概要、現存する北海道の駅逓一覧。
第139号 歴旅・温泉、留辺蘂編1
      ~とっても優しいお湯、アトピーに効く。
第140号 北見地方のリンゴ1
      ~盛んだった呼人と上湧別のリンゴ。
第141号 歴旅・温泉、愛山渓編
      ~秘湯中の秘湯、奥山の山小屋。
第142号 歴旅・温泉、留辺蘂編2
      ~とってもツルツル、すべすべ温泉。
第143号 道北の洋館二棟 
      ~道北にある素敵な洋館、2棟。
第144号 古書のネット通販
      ~これで良いのか、古本のネット販売!
第145号 カムイ・チェップ・ノミ
      ~アイヌの祭典、カムイチップノミ。
第146号 歴旅・温泉、江別編
      ~江別市で唯一の温泉宿。
第147号 にわか「鉄」の巻
      ~旧支幌線と標津線の資料館の紹介。
第148号 にわか「鉄」の巻2
      ~車掌はあなた、運転士はわたしのトロッコ軌道。
第149号 現存する奉安殿(再)
      ~北海道、余り知られていない地方の奉安殿。
第150号 美深のレンガ倉庫
      ~美深の赤レンガ3棟。
第151号 網走刑務所の洞窟
      ~道内ではめずらしい洞窟遺跡。
第152号 現存する奉安殿(再々)
      ~北海道に残る奉安殿いろいろ。
第153号 泳ぐ鹿くん
      ~紋別定置部会、迷いシカを救助!
第154号 魅惑の縄文
      ~道内では、とってもめづらしい双口注口土器。
第155号 民主の脱ダム
      ~政権交代にゆれるアイヌの里。
第156号 にわか「鉄」の巻3
      ~オホーツク廃線の遺構、名寄本線と興浜線。
第157号 現存するトーチカ
      ~網走管内のトーチカ探検。
第158号 にわか「鉄」の巻4
      ~ハクチョウと流氷が来た湧網線。
第159号 ストーンサークル
      ~知床にある2連のストーンサークル。
 号 外  もんべつ海産まつり
      ~毎年12月の物産まつり。
第160号 万次郎の子孫、ここにあり(改訂)
      ~北海道にもいた万次郎の子孫、紋別の中浜さん。
第161号 樺太オタスの杜(改訂)
      ~オタスの教育所と写真館、D・ゲンダーヌの半生。
第162号 南極犬・紋別のクマ(改訂)
      ~南極に行った、カラフト犬・もんべつのクマ。
第163号 紋別はイカが大漁です
      ~漁火に大漁のイカの水揚げ。
第164号 昔の紋別港
      ~紋別の昔の漁業と水産加工場の写真。
第165号 岩内町郷土館
      ~北海道文化財保護協会の博物館物語①。
 号 外  文化財協会へ入ろう!!
第166号 おたす丸の写真
      ~樺太・おたす丸の貴重な写真。
 号 外  北方圏国際シンポ・ふるさとの海
      ~北方圏国際シンポジウムでの市民向け講座。
第167号 オットセイ捕獲の圖
      ~アイヌ人の膃肭臍捕獲の図、いろいろ。
 号 外  歴旅・温泉です。
      ~歴旅・温泉をよろしく。
第168号 オホーツクのカレイ漁の歴史
      ~紋別の沖合い漁業、底引き網漁の歴史。
第169号 マガレイのお値段
      ~売れないお魚、安いマガレイ。
第170号 北海道の奉安殿と勅語謄本
      ~北海道に残る奉安殿と勅語謄本。
第171号 氷海の民シンポジウム
      ~オホーツク人とアイヌ舞踊。
第172号 網走と紋別、ブラキストンの記録
      ~ブラキストンが残したオホーツク探検の記録。
第173号 紋別市内の奉安殿
      ~御真影と奉安殿
第174号 消えゆく霧笛
      ~全廃された港町の風物詩
第175号 紋別・市民植樹祭
      ~紋別市で行われる市民植樹祭
第176号 弟子屈の奉安殿
      ~弟子屈町の現存する3つの奉安殿
第176号 消えゆく霧笛(再)
      ~霧笛の歴史
第177号 鶴居村の奉安殿
      ~鶴居村の奉安殿と村営軽便鉄道
第178号 釧路・なつかし館が復活
      ~盗難から復活した市民手作りの資料館。
第179号 渚滑の大平公園
      ~とっても懐かしい渚滑の大平公園。
第180号 ホタテあれこれ
      ~北海道のホタテの歴史。 
第181号 手づくり郷土賞
      ~次号へ校正・移転
第182号 文化活動の実践
      ~上藻別駅逓保存会が国土交通大臣賞を受賞。
 号 外  カニの日・紋別
      ~オホーツク三大ガニのまち・紋別。
第183号 網走地方の歴史遺産
      ~オホーツク地方の歴史遺産。
第184号 札幌周辺の奉安殿
      ~札幌周辺の奉安殿3棟。
第185号 浜のまち・紋別
      ~紋別市の浜の成り立ち。
第186号 音江ストーンサークル
      ~全国を代表する深川のストーンサークル。
第187号 竜馬一族の墓
      ~竜馬一族が開いた北見と空知。
第188号 上富良野と鹿追の奉安殿
      ~上富良野町と鹿追町の奉安殿。
第189号 お船の骸骨
      ~厚岸大橋の未完の木造船。
第190号 歴旅・温泉、新得編
      ~新得の真っ赤なお湯。
第191号 歴旅・温泉、中標津編2 
      ~中標津のゆったり、のんびり保養所。
第192号 釧路の奉安殿
      ~釧路市内の奉安殿。
第193号 道南・文化財散歩から1
      ~道文化財保護協会の歴史旅行会。
第194号 道南・文化財散歩から2
      ~文化財保護協会の道南旅行から、家印に注目。
第195号 ジオパークとは?
      ~白滝遺跡群とジオパーク。
第196号 廃墟、稚内の旧軍施設
      ~稚内に残る旧日本軍施設。
 号 外  不思議な写真
      ~チョッと不気味な写真。
第197号 歴旅・温泉、中頓別編
      ~高原の別荘気分な温泉。
第198号 稚内みなと南極まつり
      ~第一次隊南極観測で活躍した樺太犬。
第199号 沖底船と加工業
      ~沖合底びき網漁船と水産加工業の変遷。 


 


過去ログ・紋別の語りと郷土の歴史

◆残したい郷土の語り
1ジョン万、北の子孫
 北海道にいた万次郎の子孫。ちょっとユニークな中浜さん。
2オホーツク平ものがたり
 ブランド魚「もんべつマガレイ」の歴史的背景を解く。
3一番詳しい、ガリンコ号のお話し
 新旧ガリンコ号に関わった釣山が語るガリンコ号の歴史。
8網走でも行われた第一次南極隊の訓練
 紋別にもいた南極犬は「タロとジロ」の伯父さん。
29網走での捕鯨
 オホーツクでの近代捕鯨の始まりと紋別での終焉。
67課外学習、お魚へったの?
 紋別の漁業、どうして水あげがへったの?漁師の数は?
72カニのお上りさん
 毛ガニの浜揚げ、否、浜上がり。判る?
105イモ版とコタン
 イモ版画家・香川軍男の美の原点。
108オタスの杜(再)
 上渚滑でも暮らしたウイルタの源太郎さん。
109紋別のカニ(再)
 カニ拾いと蟹工船のモデル
117本庄陸男のこと
 我が一族とのえにし。
172網走と紋別、ブラキストンの記録
 ブラキストンが残したオホーツク探検の記録。
174 消えゆく霧笛
 全廃された港町の風物詩
179 渚滑の大平公園
 とっても懐かしい渚滑の大平公園。



◆伝えたい郷土の歴史
11北見のハッカ
 かっては世界をの7割を産出した北見ハッカのはじまり。
24開進社、北見国の土佐団体
 紋別地方に見る北海道最初の殖民会社、その後。
25大正、渚滑線のはじまり
 紋別に見る殖民時代の鉄道敷設運動。
40上モベツと鴻之舞金山
 上モベツ部落の形成と鴻之舞金山の始まりの概要。
41ニシン角網のはじまり
 かっては北海道を代表的したニシン角網漁の発祥を読み解く。
58もんべつのホタテ
 全国的にも有名な紋別のホタテ漁とその歴史。
61渚滑村の開拓1
 渚滑原野の開拓の始まり。
63渚滑村の開拓2
 渚滑村開村の前夜のヒトたち。
66こんぶの話し
 明治初期、北見地方の昆布漁のお話し。
69渚滑村の開拓3
 進捗する開拓、岩田宗晴のマッチ製軸業。
70もんべつのサケ・マス
 鮭鱒漁業とその加工のはじまり。
73もんべつのカレイ(再)
 もんべつマガレイとオヒョウの歴史。
111明治・大正の紋別港
 注目を浴びた紋別港桟橋問題
112ストーブのはじまり
 ストーブと寒冷地手当の始まり
113ブランドまがれいの背景(再) 
 ブランド魚・もんべつマガレイの歴史的な背景。
114危険だった北洋漁業
 遭難が相次いだ昭和30年代の北洋操業。
116網走のマッチ製造業
 先進的だった開拓期の紋別林産業。
118渚滑村のりんご
 余市団体とリンゴ栽培。
119鴻之舞金山の機関車
 鴻紋軌道車の行方。
133先進的な紋別の漁業 
 明治からの紋別水産会の歴史。
168オホーツクのカレイ漁の歴史
 紋別の沖合い漁業、底引き網漁の歴史。
180ホタテあれこれ
 北海道のホタテの歴史。
185浜のまち・紋別
 紋別市の浜の成り立ち。
199沖底船と加工業
 沖合底びき網漁船と水産加工業の変遷。 
  

Posted by 釣山 史 at 06:32Comments(0)ブログ目録

2010年08月22日

せたなの勅語類いろいろ

勅語謄本あれこれ

 平成22年度の北海道文化財保護協会文化財散歩では、日本で最初の女医で知られる荻野吟子さんを紹介する「瀬棚郷土館」に立ち寄りました。でもでも、一番、私の興味を引いたのは、戦後に残っているのがたいへん珍しい勅語・詔勅類であり、複数の種類が展示されているのを初めて見ました(ずいぶん前に見学に行ったときは、一番奥の小部屋なので、気がつかないでいた)。
 戦中・戦前に、奉安殿(奉置所)にうやうやしく安置されていた天皇・皇后の御眞影や教育勅語は、良く知られていますが、そのほかの勅語、詔勅類とは、いったいどのようなものがあったのでしょうか?
 それには、・戊辰詔勅 ・教育ニ関スル御沙汰書 ・国民精神作興ニ関スル詔書 ・教育ノ任ニ或ル者ニ賜リタル勅語 ・全国小学校教育ニ下シ給ヘル勅語 ・青少年学徒ニ賜リタル勅語
などがあり、郷土館には、このうち3点が展示されています。
















第200回 朕惟フニ     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/







例)紋別市渚滑小学校の旧奉安殿

















同内部の奉安庫

















  

2010年08月17日

沖底船と加工業

第199回 沖合底びき網漁船と水産加工業の変遷      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/






























































































































































































































































































戦前の紋別港 当時、最新鋭だった松田冷蔵庫 戦後、間もない頃の小手繰船 昭和32年頃、出港の景、霧笛 沖底船の水揚げ、春ホッケ、追いニシン 日本山海名産圖/江戸時代の手繰漁、200年前のカレイ小手繰漁 カレイは、海岸から約120キロメートル位の沖合いで捕り、そこは鰈場と云って若狭、越前、敦賀の漁師たちは手繰網を使う。海の深さは、だいたい90メートルである。 紋別を例とした沖合底びき漁船と水産加工の歴史 §1.機船底びき網漁業の興り 1沖合底びき網漁業の勃興  ~動力船の登場 単に「機船」と呼ぶとき、それは「底びき網漁船」のことを示すが、我国における近代的な沖合底びき網漁業は、明治36年に輸入された機船トロールに始まると云う、底びき網漁業は平安末期の1087年の記録『能登浦領内ノ事』に「北ハカレイ引ヲ定也」とあり、若狭湾では、寛文期以前から「沖手繰による鰈引き」が盛んであった。 この若狭湾での明治43年の試験操業は失敗に終わったが、続いて大正2年に島根県で始まった沖手繰は、漸次、成績を上げると四国地方、そして日本海の各地へと広まった。 北海道では、明治38年の室蘭での試験操業が最初と云われ、同41年には8隻の底びき網機船があったとも云う。後年、同漁業の中心地となった小樽では、大正元年に始めて試みられたが、この時には定着しなかった。 後に道内において継続的な経済操業に至ったのは大正の中期以降の小樽や函館であり、大正9年の底びき網機船の登録は、小樽100、岩内10、函館4、室蘭33、釧路52、根室3、宗谷1、留萌12の計215隻であったが、実際の操業は100隻程度だった。 道庁では、この様ににわかに勃興した底びき網機船を、夏枯れに対応した通年操業とするため、大正9年から翌10年にかけてオホーツク海の漁場調査を行い、同12年と14にはトロール試験を実施して、新開の北見漁場へと誘導した。 2紋別でのはじまり ~第三寅丸の回航 紋別では、明治36年頃から無動力の川崎船によるカレイ小手繰が行われていて、大正年間には紋別の一本松から興部の砂留の間で2~3隻が操業していたと云うが、加工・流通の未発達な時代にあっては振るわなかった。 当地での最初の動力船は、紋別漁協が大正3年に導入したホタテ監視船であったが、数年後には、それを高嶋春松が購入して、紋別~湧別間の輸送を行いながらマガレイ漁をはじめたと云い、これが網走管内の底びき網機船の始まりであった。 こうして紋別でも漁業近代化の波が現れ、大正12年には小樽から松田鉄蔵の機船「第三寅丸」が回航してマガレイを大漁し、鮮魚は主に旭川方面へ販売して、あとはカマボコや魚粕などに加工した。また、同年に地元では伴田惣十郎が機船2隻を建造し、翌年には操業を始めた。 3紋別水産界の発展 ~近代的水産業の現れ
前述の以降は、夏枯れ対策として小樽・室蘭・留萌からも多くの機船が回航し、紋別を根拠地に常時15・6隻以上が、主に雄武から興部沖の浅いところで35~50㍍、深いところでは60~80㍍の範囲でマガレイを大漁したが、昭和15年頃までの地元の登録船は、松田2、伴田2、浜田・上森・太田が各1の計7隻で一定した。 昭和11年の千島も含めた全漁獲高では、紋別が全道市町村中で第5位にあり、その内のカレイ漁は3位で、底引き網での同漁はダントツの1位であった。 当時は、既に地元の仲買人はいたが(大正4年に紋別魚市場が開設)、大きな取引は主に小樽の問屋衆で占められていて、季節的に大漁されるマガレイなどは、価格が不安定であり、この頃には、底びき網の船主が大きなカレイは自ら東京へ送ったりもしたが、うまく届くと大儲け、途中で腐ると丸損という有り様だった。 この鮮魚の出荷には、その前提となる冷蔵庫が必要であり、すでに大正年間には2つの貯氷庫があり、昭和5年には松田鉄蔵と松崎隆一による全道でも2番目の当時としては最新式の冷蔵庫が建設されたが、築地市場への鮮魚特急と呼ばれた冷蔵貨車は、その台数が限られており、昭和14年に「北海道機船底曳網漁業水産組合紋別支部」が発足し、同じく「紋別機船底曳網漁業出荷組合」を結成して、共同での発送を行った。 これら機船底びき網漁業によるマガレイ漁と、それにかかる冷凍・冷蔵技術の導入など、鮮魚流通に向けた努力は、築地や小田原、札幌などへの地方出荷となり、後の「もんべつマガレイ」ほか、地元海産物の産地ブランドへと繋がって行く。 §2.機船底びき網漁業の転換と戦後の加工業 1底びき網漁業の濫立と停滞 ~沿岸漁業の荒廃 特に北海道では、昭和初期に急激な漁船数の増加を見たが、これは単に底びき網機船の隻数が増えたのであり、漁船自体の大型化は伴わずに密漁が横行し、それは資源の乱獲と沿岸漁業者との紛争を招くことになり、戦時の燃油・資材の不足もあって中型の底びき網機船自身も採算が取れない状況に陥ってしまった。 当地においても、マガレイのほかに昭和2年頃からはアブラザメ漁も始めてはいたが、同8年頃から特にカレイ類の資源減少が現れ、同12年からはタラ、スケソウを漁獲するようになり、これらの加工はサメヒレなどの乾物と一部が練物とされたほかは、主に魚油や魚粕とした。 こうして遂に昭和5年には「機船底曳網漁業取締規則」が改定され、規制の強化が図られることになったが、戦時の食料確保と徴用船への対応から規制は次第に緩慢となり、結局、これらによって漁業制度は崩壊してしまう。
いっぽう、昭和16年からの統制経済は脱仕込ともなり、食糧不足の中で一定の価格が維持されたことから、小規模漁業者の負債は整理され、また、それまで廉価であったホッケが脚光をあびるようになるなどの副産物を生んだ。 しかし、戦後に至って食料不足がいっそう深刻化すると、乱獲による資源の減少は著しいものとなり、また、紋別でも昭和27年を最後にニシンの群来が見られなくなるなど、かえって漁獲効率が高い小手繰船を増加させ、密漁船が横行するという悪循環となってしまった。 2底びき網漁業の戦後処理 ~小中底びき船の整理 小型機船底びき網漁業(小手繰船)は、昭和19年に10㌧未満を限り合法としたが、実際には20㌧前後も黙認され、さらに戦後に千島海域を失った底びき船が入り込んで沿岸資源の減少が深刻となり、沿岸漁業との摩擦が拡大されると、底びき船は、より沖合への出漁を余儀なくされ、沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋へと船の大型化・近代化が図られるようになったが、沖合底びき網漁業の採算は難しく、後にそれは北洋操業へと転換して行く。 昭和23年に、35㌧未満が35㌧へ、35㌧から40㌧未満は40㌧に、そして40㌧から45㌧未満が45㌧への増トンを認めて、実測との補正を行い、同25年には北海道庁が、小手繰船の整理と無許可船の根絶を図るため、小手繰網漁船の許可船4隻に対して1隻の中型底びき網漁船への転換と、無許可船は8隻から1隻の中型底びき網漁船への転換を指導した。 昭和26年における紋別根拠の中型機船底びき網漁業の登録数(入会、2箇所登録有り)は61隻あり、その船籍は紋別(21)、網走(9)、函館(8)、根室(6)、小樽(5)、東京(5)、興部(3)、湧別(3)、雄武(1)とあり、主要な経営主としては、東京の日東水産㈱が6隻、小樽の松田関連の5隻(大成2、辰蔵2、松田漁業1)などがあった。この年には機船底びき網の15㌧未満を小型、それ以上から60㌧までが中型と定められ、のち北海道と東北に限り、木船75㌧、鋼船85㌧までとされた。 3機船漁業の転換 ~漁船の大型化、より沖合いへ 昭和27年にマッカーサーラインが撤廃され、戦後の日本の遠洋漁業が解禁された。昭和29年には『沿岸から沖合いへ、沖合いから遠洋』への政策が固まり、それまで地方で行われていた新開漁場の開発が国の事業となり、ベーリング海域などで遠洋底びき試験操業が開始されて、同30年から紋別へも水揚されるようになると、同32年には紋別船も出漁を開始した。 昭和31年には、これら新開漁場への出漁や他の漁業との兼業など、季節的に沖合底びき網漁業を行わない船の増トンが認められ、このような経緯の中で当地を主な根拠地とする昭和26年の操業船が48隻であったものが、同35年には35隻に減少した一方で、70㌧以上が5隻出現した。昭和36~38年にかけては全道で沖合底びき網漁業を大減船し、一部を北洋底びき網漁業へ転換。紋別では6隻が減船し、うち1隻が転換した(北転船と云う)。 そうして昭和37年からは船員の労働環境の改善を目的とした96㌧型への増トンが図られると、漁船の大型化は急激に進行し、この間、沖合底びき網漁業は、北海道で最も安定した漁業となっていたが、昭和30年代末をピークに漁獲量が下向を示し、同40年代に入って徐々に漁価が低下しだすと、人手不足もあいまって深刻な経営不振に陥ってしまった。紋別でも昭和43年の着業者は21事業者、24隻となっていた。 こうした状況下で打開策とされたのが『124㌧型船』への移行と『オッタートロール』の導入であり、それは全く画期的なものであったことから漁船の大型化は加速した。まずは124㌧型船への移行であるが、これに伴ない網揚げが船尾方式となり、二層甲板ともなったことから、操業効率と積載量は格段に増し、安全性も高まった。次にオッタートロールについては、省力化による人員の削減と操業可能な海域の拡大が図られたことが挙げられ(オッタートロールは、かけまわしに比べて人員が2~3名少なくて済み、また、網口を一定に開いて保てるため、長く引くことができて早く底に沈むなど、駆け上がりや深い底にも対応が出来る)、このオッタートロールを導入したのは、昭和45年の宗谷と紋別に始まり、同47年には、地元で14隻が操業している。 しかし、紋別での124㌧型への移行は、他地域よりも立ち遅れ、遠くまで出漁が出来ずに生産性も低く、よって市では沿岸漁業の保護からも沖合化を促進するため、昭和45年に建造資金の利子補給を決定し、漁協も翌年から3ヵ年の大型化計画を立てて、同49年までには、全ての底びき船が124㌧型となった。 こうして当地では、より沖合い漁場への遠隔化が図られ、昭和40年代にはズワイガニ漁が盛んとなり、同代後半にはイカナゴが多獲されるようになると水揚げは上昇に転じたが、昭和30年代後半からの不振と度重なる増トンによる借入金は、経営を圧迫した。 4紋別における戦後加工 ~加工用多獲魚の時代
戦中から漁獲対象は、高級なマガレイやタラなどから、次第に他の多獲魚へと比重を移し、質より量へとなって行く。 昭和25年の紋別の機船底びき網漁業による漁獲割合を見ると、スケソウが48.7%、ホッケは30.7%、サメ11.6%、タラ3.9%、カレイが3.1%であり、その中心は、戦前の平ものから加工原料となる丸ものへと明らかに転じている。このうちホッケは、昭和18年頃からロウソクボッケを漁獲対象としたが、統制解除の同24年以降には盛んに加工原料として用いられるようになる。 紋別の水産加工については、戦後早くに冷凍事業が開始され、また、フィッシュミールの加工が始まって、缶詰製造が復活するなどがあったが、何よりも盛んだったのは昭和20年代末頃からのスキミ加工で、同30年代には全国生産の7割強を占めるに至ったが、同24年頃からは既に開きスケソウも盛んであった。 戦中・戦後に大量に生産された焼竹輪などの練製品は、昭和20年代中頃から次第に衰えて、竹輪は同31年で姿を消したが、同35年に網走水試よって「冷凍すり身」の技術が開発され、短期間で主要な加工品となって行った(詳細後述)。また、フィッシュミールが急増したのは、同45年以降であり、同じく飼料用の冷凍イカナゴが量産されるようになった。 ズワイガニは、昭和30年代に沿岸で若干は漁獲されていたが、同39年からは道内他地域に比べても早くに本格的化され、沖合、そして遠洋へと拡大し、毛ガニに代わるカニ缶として盛んに加工されるようになった。 こうして機船底びき網漁業での主要は、スケソウとホッケに移り、イカナゴの登場もあって、水産加工業と結びつくと戦前同様に当地の産業界をリードしたが、現在に続くズワイガニの流通拠点としての性格は、このときに始まったと思われる。 §3.オイルショックと二百カイリ規制
1ふたつのオイルショック ~表面化した魚離れ 昭和48年に起こった第4次中東戦争に伴う第1次オイルショックと、同54年のイラン革命による第2次オイルショックは、単に燃油の高騰だけではなく、これ以降の漁業資材ほかの経常的な経費を押し上げ、魚価は乱高下して、漁業経済を混乱させた。 まずは第1次オイルショックであるが、このときは10月半ばから年末迄のわずか2ヶ月弱の間に、原油価格が大よそ4倍にまで上昇し、石油関連はもちろん、それ以外のあらゆる物価も高騰して、国内に猛烈なインフレーションが巻き起こった。しかし、当地では、魚価の上昇があり、翌49年と50年が好漁であったこともあって、また、漁場も比較的に近い地の利があり、他地域に比べては、小さな被害に止まった。 つづいての第2次オイルショックは、原油価格1バレルが、13ドルから32ドルまでに高騰、しかし、前回の教訓から国内経済は冷静に対応し、このときも魚価の上昇が見られたので、短期的には大きな混乱とはならなかったが、この2つのオイルショックを経て、以前に比べてコストは大きく上昇し、特に遠洋漁業への影響は、大きなものであった(沖合との兼業あり)。 そして何より、むしろ問題となるのは、実質的な可処分所得が減少する中での相対的な魚価高であり、静かに進行していた魚離れが、これによって大きく顕在化することになる。 2二百カイリ時代 ~専管水域の設定 米ソの漁業規制は、次第に強化されてはいたが、昭和52年に相ついで米ソ両国が、200カイリ漁業専管水域を宣言し、これに我国も対抗して水域を設定したことで、漁業は200カイリ規制の時代へと入る。3月末日には、ソ連(ロシア)200カイリ水域から退去することとなり、これまでの北洋海域からの撤退を余儀なくされた。 これらにより米・ソ水域とベーリング公海などの対日割当や操業海域は縮小され、同年、全国で沖合い底びき網漁船50隻を減船することになり、うち北海道で計37隻減、紋別では2隻減(建造替えを当てたので実質1隻の減)となり、沖合底びき網漁業は17隻体制となった。 この年は魚価高もあり、どうにか乗り切ることが出来たが、翌年にはほとんどの漁船が赤字に転落し、それに事業継続者には、減船共補償金約2千数百万の負担が加わって、経営は非常に逼迫した。 3主要魚種の変遷 ~冷凍すり身の功罪 それまでは鮮度が低下しやすく、蒲鉾などの練物にも向いていないと云われて、もっぱら「開き」などの乾物や塩蔵にするほかなかった「スケソウ」であったが、昭和35年に北水試のグループによって、まったく新しい加工としての「冷凍すり身」が開発(昭和38年に特許出願登録)されたことは、水産練り製品の一大発展へとつながった。 当時の業界では、以西での蒲鉾などの練物用原料が不足しており、また、魚肉ハム・ソウセージとも結びついて、「冷凍すり身(陸上すり身)」の生産は急速に広まった。昭和40年には、大手の日本水産㈱が洋上の加工船による「冷凍すり身(洋上すり身)」の生産を開始し、翌年には大洋漁業㈱が洋上すり身へ乗り出して、さらに生産量は急増し、以後のスケソウの消流を支えることになった。 このうちの洋上すり身については、昭和62年で米国の対日漁獲割当が廃止と決まり、それにかわって日米JV船からの洋上買付けが行われるようになったが、これも平成3年には廃止されて、現在は日米JVによる洋上すり身加工へとなり、この洋上での鮮度が高く、良質なすり身が大量に日本国内へ流入したことで、陸上すり身の価格が低下し、これがスケソウ価格の低迷の一因ともなり、近年は、漁獲量が比較的に安定したホッケのすり身加工が増えている。 また、主に飼料用として冷凍加工される「オオナゴ」は、当市でも「オッタートロール」を中心にピーク時で約4万トンを水揚げしたが、海域の規制と資源の減少から激減し、この直近では平成19年が約850㌧、平成20年3㌧、平成21年は約1,500㌧と低迷している。 そして地元産のズワイガニも、この10年間では、平成12年の1,015㌧をピークに、ここ数年は300㌧内外にとどまっており、もちろん、資源の低下はあっても安価なロシアからの輸入ガニに押されてのものである。 4規制強化と沖合漁業の忍従時代 ~沖合い底びき漁船の大減船と現況 さらに昭和60年に米国が、日本のベーリング海での操業停止を通告、同62年までには、米国の対日漁獲割当が廃止となって、このような米・ソ(ロシア)200カイリ水域での漁業規制の強化に伴い、我国の北洋漁業は、伝統的な漁場からの撤退、縮小を余儀なくされ、一時期は公海での操業も禁止されるなどもあり、昭和61年の国際減船では、道内の沖合い底びき網漁船が161隻から88隻となり、このときも前回同様の共補償が実施され、平成10年からは基幹漁業総合再編推進事業によって、順次、縮減されて現在は全道48隻体制となっている。 当市においても昭和63年に母船式サケ・マス漁が終結し、平成6年を最後に入会での沖合い底びき網漁業が、同11年には遠洋漁業が終焉して、地元根拠の沖合い底びき網漁業も昭和60年と翌61年の大減船を経て9隻体制となり、また、このときに道内ではじめての沖合い底びき網漁業の減船倒産が当地で発生、この間に漁船の更新期に迫られて新造船を建造するなどもあって、現在は、160㌧型を中心とした「オッタートロール」は2隻、「かけまわし」が2隻の計4隻が非常に厳しい操業を強いられている。 その後のバブル崩壊を経て、今また当市の沖合い底びき網漁船は、更新期を迎えているが、もっとも新しい船で昭和63年の建造であり、古いものでは30年目を迎え、近々では、数年前に短期的な豊漁と魚価高はあったものの、第3次オイルショックとも云われる石油製品の異常な高騰と、流通、為替を含めたいっそうの国際化から来る魚価の乱高下、リーマンショック以降の極度の経済停滞などから体力を喪失し、特に「オッタートロール」は不振を極めて、代船の建造は難しい状況にある。 しかし、ロシア国内でのさらなる漁業規制の強化は、カニ輸入の漸減として現われ、また、水産物価格の国際市場での混乱、日本の「買い負け」を考えるとき、特に多獲魚の国内での加工用原料としての重要度は、ますます増すばかりであって、漁業と加工を合わせた水産業を基盤とする当市においては、沖合い底びき網漁業を維持することが直近の重要課題と云える。 このように目まぐるしく変わる国内外の漁業環境の変化に対応した政策に翻弄されながらも、沖合い底びき網漁業は、紋別市の産業界の基盤となり、その後もリードしながらマチの発展に大きく寄与して来た。

  

Posted by 釣山 史 at 21:00Comments(0)紋別の歴史

2010年08月15日

稚内みなと南極まつり

南極観測樺太犬の顕彰と供養

この8月7日に第50回稚内みなと南極まつりに行って来ました。
 稚内市は南極観測で活躍した樺太犬タロとジロの故郷で、その観測に使われた初代観測船の船名も「宗谷」という、南極観測にゆかりある地だ。昭和36年の商工祭としてスタートした「稚内みなとまつり」と、翌年からの「稚内南極まつり」を合体して、今の「みなと南極まつり」となった。また、邦画「南極物語」のロケ地でもある。


南極観測樺太犬記念碑     樺太犬慰霊塔   南極樺太犬慰霊祭  

◆稚内・みなと南極まつり
 ・南極樺太犬慰霊祭
 ・南極樺太犬を偲ぶ子どもの国フェスティバル


◆タロとジロ
 昭和31年11月に南極観測船「宗谷」で出発した第一次隊に参加し、悪天候のために南極の昭和基地に置き去りとなったカラフト犬「タロとジロ」の生存が確認されたのは同34年1月、日本中に大きな感動を与えた。タロの遺体は北大にジロは国立科学博物館に保存され、また、東京タワーには「南極観測で働いたカラフト犬の記念像」がある。
◆初代・南極観測船「宗谷」
 戦中は軍用船、終戦時は引揚船に使用されて海上保安庁の灯台補給船となる。昭和31年から36年まで南極観測従事したのちに北海道へ戻り、海上保安庁の巡視船として同53年に現役を引退。

昭和30年  11月、南極地域の観測を実施する旨の閣議決定がなされる。
昭和31年  3月、稚内公園に訓練所を設置し、犬ぞり訓練が始まる。
昭和31年  11月、第1次南極観測隊が東京を出発。
昭和33年  2月、越冬隊の撤収中に天候が急変、犬たちを置き去り。
昭和33年  7月、大阪に樺太犬慰霊像を建立し隊員らによる供養祭を行う。
昭和34年  1月、樺太犬タロ・ジロの生存が確認。
昭和34年  東京タワーに「南極観測ではたらいたカラフト犬の記念像」を設置。
昭和35年  南極観測樺太犬記念碑を建立。
昭和36年  樺太犬慰霊塔を建立。
昭和53年  巡視船(南極観測船)「宗谷」が引退。
昭和57年  「南極物語」の稚内ロケ。
昭和58年  「南極物語」が封切り。


 紋別にもいた南極犬クマ
         当時の北海道新聞




第198回 第一次隊南極観測で活躍した樺太犬の顕彰と供養      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 10:05Comments(0)トピック

2010年08月12日

歴旅・温泉、中頓別編

ピンネシリ温泉 ホテル望岳荘/中頓別町

-お風呂-
 ◆泉質:二酸化炭素カリウム・マグネシウム泉
  ~加水、沸かし湯(42℃に設定)
 ◆施設:大浴場のみ、サウナ、水風呂

 温泉水と普通水の湯船があり、循環式だが薄茶色が残る。肌ざわりはヌル・ザラ系でやや渋味あって、汗切りの良い、サッパリとした泉質。少々熱めだが、夜9時に温泉水の加温が止まるので、朝湯はぬるくて気持ちがいい。
 前面は、主要国道沿いにありながらも標高が高い山岳に囲まれた大自然がいっぱいのキャンプ場で、裏手には渓流釣りで有名な頓別川が流れている。








基本6,000円のコース     旧敏音知駅跡
 ◆宿泊:1泊2食 6,000円から
 ◆日帰り湯
  ●入浴時間 10:30~21:00
  ●大人(中学生以上)380円
  ●小人(小学生以上)160円
  TEL:01634-7-8111
  FAX:01634-7-8411


-おまけ-
旧丹波屋旅館
 旧天北線が開通して小頓別駅が開業するのに合わせて大正3年頃に建築された和館と、のちの昭和2年頃に増築された洋館からなる。切妻平入の和様に、下見板の扁平アーチ型という洋館がコントラストとなり、当時、流行した上げ下げの飾り窓がアクセサリーとなっている。平成12年に国登録有形文化財に指定される。




第197回 高原の別荘気分な温泉      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 00:00Comments(0)旅と温泉

2010年08月10日

不思議な写真

心霊写真か、偶然か?
 これは、この8月7日に探検した稚内の旧海軍送信所兵舎で撮影した写真である。
 操作ミスによる2重露出ではないかとも考えたが、廃屋の長い廊下に
窓は無く、これといった光源もない。
 別の写真に遠く2つの点が写っており、最初は隙間
からの射光かとも思ったが、
 球体が、こちらに急接近して来た感はいがめない。
不気味でもあり、ちょっと怖い写真。


旧海軍稚内派遣隊幕別送信所跡


























第 - 回  心霊写真か・・・?

  

Posted by 釣山 史 at 12:55Comments(0)トピック

2010年08月08日

廃墟、稚内の旧軍施設

稚内の戦時遺産

 終戦記念日にほど近い、この7日に、宗谷海峡にのぞむ旧日本軍の施設巡りをしました。

大岬旧海軍望楼
 日露関係が悪化した明治35年に宗谷岬に建設され、日露戦争では、当時、最強と云われたバルチック艦隊の監視に当った。2年後には無線通信所となり、太平洋戦争では潜水艦を監視した。稚内市で最古の歴史的建造物で、昭和43年に市有形文化財に指定される。


















旧陸軍砲台指揮所
 昭和16年に砲台が竣工し、海軍望楼の背面に位置する。カノン砲4門が配備された鉄筋コンクリート造2階建の建造物は、比較的に保存状態が良く、周辺にはトーチカも点在する。歴史的建造物。







旧大湊海軍通信隊稚内派遣隊幕別送信所
 昭和6年に送信所として建設されたレンガ造りの送信施設と隊舎、倉庫が残る。当時は、アンンテナがそそり立っていたと云う。
 太平洋戦争では、敷地面積6haに一個中隊が配備され、大本営と最前線を中継した重要施設であった。


送信所庁舎1、2              隊舎1、2                        倉庫










第196回 旧陸海軍施設を探検      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/









  

2010年08月01日

ジオパークとは?

遠軽町・白滝地区、夏休み親子勉強会へ参加しました。
~NPO白滝ジオパークサポートセンター

 白滝の黒曜石は、貴重な地質的事象として「日本の地質百選」に選定される。当会(後藤裕理事長)は、「白滝黒曜石遺跡ジオパーク構想」に関係し、マチの活性化に繋げようと、昨年の11月に発足した。
 ジオパークとは、地球活動を地質学的なほか、考古学、生物学、文化的な要素をも包括した自然公園のことを云い、ジオ(エコ)ツアーなどで地球科学や環境問題についての教育的活動を行い、これらを通じて、その地域の発展に寄与しようとするもの。
 「赤石山」を中心に広がる「史跡・白滝遺跡群」は、黒曜石の原産地として世界的に知られ、その特徴的な細石刃の製作法は、「湧別技法」と呼ばれる。
 巨大な石器工房を連想させる「白滝人」とも呼べる特定の技術集団が形成されていたと考えられ、道内の千歳市祝梅三角山遺跡、今金町ピリカ遺跡のほか、サハリンから大陸へとつづく「黒曜石の道」が確認されている。
 この7月31日は、当会による初めてのイベントで、地質学の加藤孝幸先生を先導に、赤石山の8号沢露頭を見学したのち、長年に渡り白滝遺跡に関わってきた考古学の木村英明先生が解説され、また、ヒグマの生息状況のお話しや白滝産の石を使ったストーンペインティングを行った。
 当会では、『地質学やジオパークというと難しく感じられ、専門的とはならずに、一般の方でも分かりやすく、楽しく学べるものとしたい』としている。



赤石山8号沢露頭と加藤先生                白滝出土の世界最大級の石器















第195回 白滝遺跡群とジオパーク      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:24Comments(0)北海道の歴史