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2008年02月21日

点字の開発者・石川倉次と斜里の開拓

北海道の開拓と社会事業3。(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆斜里の石川農場
 斜里での本格的な農場の始まりは石川農場である。千葉の士族に生れた石川芳次は士族授産の給与地を貰いそびれて残念に思っていた。明治30年制定の「北海道国有未開地処分法」では開墾さえすれば土地が無償で付与されると知り、翌年には視察のために渡道して入植地を飽寒別原野の幾科に選定した。
 明治32年に79町歩の貸与地を得て単身400円の資金をもって現地へ入り、一年目は1町6反歩を開墾した。翌年には12町歩の追加貸与を受けて一家を呼び寄せると三年目からは小作人を入れ、そうして後の上斜里の牧場地と合わせた大正5年の全耕作地は約168町歩にもなって、うち14町歩は自作し、残りを岐阜や宮城、岩手と真狩からの再転住者ら34戸の小作として、4~5年の開墾期間に後の3年間は小作料を減額するもので、年に数百円は慈善事業に費やし、馬鈴薯を主に豆類や麦類のほか薄荷や林檎などの先進的な商品作物を栽培し、また、水力による澱粉製造や木挽なども行った。
 
 斜里町郷土研究第12号
 明治三十五年四月二日 貴殿ヘ兄石川倉次殿ヨリ本院男児十四五才之者数名開墾業ニ従事セシメ度趣ニテ願出相成候処該業ニ従事セントスル志望者モ有之候ニ付テハ大凡本年何月頃ニ御引取被下候哉又其節ハ御出京ニ相成候モノニ候哉何分之御回答相煩度此般申進候也トアリ
    石川倉次先生斜里滞在日記


 この間、厳しい生活に小作人が定着しないため、10年後には2戸分の開墾地を与える契約で「東京養育院」から男女10人を雇い入れ、そうして全貸与地を成墾して付与を受けることが出来たので彼らに農地5戸分を与えた。
 さて、「東京養育院」とは明治5年に設立された貧民や傷病人、孤児らのための救済所で、初代の院長は渋沢栄一であったが、少年児童は現在の「里親・職親」へと繋がる「縁組並雇預」の制度をもって自立を促し、商人や職人、漁家・農家へと引き取られていたが、芳次の兄の倉次は日本式点字を創作した「東京盲亜学校」の教師であり、その関係から養育院の院生を呼び寄せて開拓に当たらせたのだった。
 第21回歴史と郷土

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 22:21Comments(0)オホーツクの歴史

2008年02月21日

遠軽家庭学校にいた警視総監

北海道の開拓と社会事業2(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆家庭学校とその農場
  押川方義や田村顕允らの「北海道同志教育会」は明治30年に信田寿之牧師を農場長として遠軽へ入り、キリスト教学校の建設を計画し至らずにいたが、後年、留岡幸助は同地へキリスト教的教育を実践する集団農場を開設した。
 同志神学校を卒業した幸助は教会牧師を経て空知集治監の教誨師となった。このとき非行少年の感化事業の必要性を深く感じて渡米留学すると、帰国後には巣鴨監獄の教誨師のち警察学校の教授となり、明治32年には巣鴨に「少年救護院東京家庭学校」を創設して後に北海道遠軽と神奈川茅ヶ崎へも分校を設けたが、この間も内務省の嘱託として社会事業の啓蒙に努めた。

 この大正3年に設立された遠軽の「社名淵分校」は大自然での労働を通じて感化を図ろうとするもので、同年に社名淵と同5年には白滝へ計約1千町歩の売払地を得て、キリスト教に独自の報徳思想を取り入れた一戸5町歩の小作農場として、小作人には将来の自作農を、卒業生へは分家と称した永住による理想郷の建設を目指した。
 その温情と誠意にあふれた経営は小作の開墾期間を3~4年として反2円に小屋掛15円と農耕馬へ10円を補助し、1年目には滋賀県人4戸ほか計11戸が入植した。学校では大正4年に乳牛を導入し、同6年には牛舎と搾乳場を建築、同8年に畜産部を独立させて同9年には飼育数が10頭となり、同12年は大型サイロを設けて、また、バター製造を開始して東京へ出荷するなど、このサイロの建設には札幌軟石が使用されている。そうしてほかに鶏百数十羽を飼育し、小作へも牧畜と養鶏を奨励しながら、水車による製材所を建設して自他の用に供し、こうして同9年迄の小作数は社名淵が50戸、白滝が25戸となり、また前年には水稲の試作にも成功した。昭和5年には社名淵産業組合が結成されて同14年に社名淵が同16年には白滝の全小作約80戸500人を開放したが、日曜学校や夏季保育園と冬季学校など、常に地域の中心にあった。

 ところで幸助の長男の幸男は内務官僚で、東条内閣では警視総監としてゾルゲ事件に対応し、戦後の昭和21年には北海道長官となったが、どさくさの中でたびたび道職員と衝突し、何も出来ずにたった3ヶ月で辞めてしまい、その後は家庭学校の校長のほか社会事業に尽力した。また、次男の清男は北大教授や北星女短の学長を勤めた。  第20回歴史と郷土/写真は大正8年絵はがき集より

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 07:55Comments(0)オホーツクの歴史