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2008年07月27日

渚滑村の開拓3

~第61・63回のつづき

3進む開拓、「岩田宗晴」と「製軸工場」
 明治31年「北海道殖民状況報文」によると『當國ニ於テ工業ト稱スヘキハ唯燐寸軸木ノ製造ノミ其材料タル白楊ハ處々ニ在リ殊ニ網走郡紋別郡ニ多シ明治二十四年網走村ニ山田製軸所ノ設アリ同二十七年渚滑村ニ岩田製軸所ノ設アリ 中略 山田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村ニ岩田製軸所ハ其支塲ヲ藻鼈村及ヒ澤木村ニ設ケ目下工事中ナリ』とあって岩田の製軸業は山田製軸所と同じく資本金2万5千円(但し渚滑工場閉鎖後の藻鼈工場のみで)の蒸気機関を備えた最新鋭のものであった。
 この当時の奥地開拓においてはむしろ障害であった森林樹木は一部を自家用に使用するほかはせいぜい薪炭とされる程度で開墾伐木された樹木は殆どが焼き払われていたが、殖民地の貸付と処分が進んで明治23年に「官有森林原野及び産物特別処分規則」が施行されて道庁による林産物の特売が認められるようになると、民間においても盛んに林業開発が行われるようになった。

◆北海道拓殖要覧/明治36年北海道庁
 前略 先す示す所の利用樹種中カシワは單寧製造業者にトドマツ エゾマツの如き針葉樹は啻に用材として利用するのみに止ますして製紙業者に又ドロノキ、ハコヤナギ(一般的には両樹を白楊と云ふ)は燐寸製造業者に此等諸工業奨励保護の一策として 中略 右の内白楊樹拂下は本道に於いて器械を所有し自ら燐寸軸木を製造するものに限り 後略


 大正12年「第貳版北海道人名辭書」によると岩田は土佐の手広く商う漁家に生まれ中学校を卒業後に暫らく教職に就いたのち新聞記者を経て明治24年に渡道、網走で土佐漁師約30名を招致して漁業を行ったとあり、また明治25年「北海道通覧」では『網走の大鮃漁は本年二三の漁業家之を企て中には専業として企てたるものあり 中略 茲に参考の資として記載すへきは高知縣漁民の出稼是なり本年春期遠洋漁業の目的を以て二十餘名團結をなし網走に來り主として大鮃鉤獲に従事す相應の結果を擧げたり・・・・』とあって、昭和30年「斜里町史」では岩田が漁夫10数人を引きつれ網走沖で大漁し搾粕にして大儲けしたと云う。
 これによって自由民による以後の大鮃漁は順調に推移して北見地方の代表的な漁獲物となり、すでに明治33年発行の初号の「北海道移住手引草」に『北見根室二國の大鮃・・・・多額の算出あり』と紹介されて、このように岩田は大鮃漁を指導しながら事業途中にしてこの資金を元にさらなる発展を求めて渚滑村へ再転住したと思われる。

◆北海道殖民状況報文/明治31年北海道庁
 湧別村
 農業 前略 (明治)同廿八年七月二日九月十五日霜害アリ麥ノ外ハ皆凶作ニシテ 中略 薄資ノ移民食糧ニ究シ渚滑製軸所或ハ屯田兵屋用材の伐採或ハ魚塲等ニ出稼スルモノ少ナカラス 後略
 渚滑村 
 工業 岩田製軸所ハ明治廿七年ノ創設ニ係リ近傍ニ在ル白楊樹ヲ伐採シテ燐寸軸木ヲ製ス 中略 職工ハ當地ニテ雇入レタルモノ及ヒ二十九年徳島縣ヨリ募彙セル農民ニテ目下數十人ヲ使用ス伐木ヨリ製造結束ニ至ルマテ悉ク受負法ニ據レリ

◆殖民広報第十号/明治35年北海道庁
 渚滑原野状況
 前略 二十七年岩田宗晴なる者製軸所を設立し二十七年製造高七千七百圓に上れり二十九年下原野に於て二十九萬七千二百九十五坪の貸付を得て小作人二十一戸を徳島縣より募集し初年は工場労役に従事せしめ三十年より農耕の傍製軸業に従事せしめたり 後略
                     
 コムケ湖畔にもあった岩田製軸所
 ここにある通り、岩田は明治29年に郷里から団体移住を募り翌30年には21戸の入殖をみているが、これは「北海道移住民規則」において「団結移住」は20戸以上としていたためであり、これが本村に於ける団体移住の最初となった。
 函館の「山田慎」による「山田製軸所」が主に網走分監囚徒を低賃金で労役することを目的としたのに対し、「岩田製軸所」は農業開墾の傍ら不要となった伐木を新開地の冬季遊休労働をもって或いは移住定着のつなぎとして操業し、その地域に与えたものは大きかったが、この開拓の先鞭となった渚滑工場も僅か3年で閉鎖となった。
 大正10年道会議員だった岩田が2期目途中に急逝した後、継いだのは雄武村に転住した「田口源太郎」だった。


 第69回渚滑村の燐寸製軸業
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 12:12Comments(0)紋別の歴史