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2008年07月03日

渚滑村の開拓2

~第61回のつづき
 大正7年ころ
2開拓の先駆け「木村嘉長」と「堀川一族」
 さて、この「村勢一斑」では旧渚滑村への移住の初めを「木村嘉長」と「堀川泰洋」としている。嘉長については明治45年発行の「北見之富源」においても『北見方面の廣漠にして農耕に適せるを耳にし、斷然轉住に決心し 中略 明治二十六年五月家族五名と共に紋別に上陸、一時小作をして農耕の適否を試作せしに 中略 同年十一月十町歩の未開地貸付を受け、草小屋を掛けて移住せり』とあり旧渚滑村移住の元祖としているが、これについては明治39年の「移住者成績調査」に詳しい。ただし原文には「村上嘉長」とあるが「木村嘉長」の誤りである。


 明治十二年徳島縣阿波郡仁木竹吉なるもの百十七戸の團結を組織し北海道移住を企圖するに當り嘉長又之に加盟し衆と共に同年十一月郷里を發して直行小樽に上陸し今の余市郡仁木村に移住し 中略 偶々北海道移住案内をひもとき北見國は尚ほ移住者僅少にして将来好望なりとの記事を見、慈に断然移轉の決心を為し 中略 二十六年五月六日家族五名を伴ひ小樽港より乗船して北見国紋別港に上陸し先つ紋別村藤野四郎兵衛の土地を借り受け試作したるに 中略 渚滑川沿岸を探検して土地を選定し同年十一月三萬坪の貸付を受け直に小屋掛けをなして移轉したり同地は紋別市街を距る二里強、當時附近は斧斫未た入らす喬木欝蒼として雑草密生し 後略 (移住者成績調査第一編/明治39年北海道庁)

 ここにある「仁木竹吉」とは仁木村(町)開祖の人で、そのほか各地の開発に関係した北海道開発の大功労者であるが、この仁木村への移住においては嘉長も中心的立場にあったもので、それが渚滑村への再転住となったことについては次のような背景があった。
 竹吉は仁木村移住に当たり下となる嘉長外6名の組長との間に統率を図るための盟約書を結んだ(いわゆる団長と班長)。当初は藍と煙草の栽培を目的としたが中々定着に至らず、また、官吏の不正などもあってトラブルが続出し開拓が思うように進まなかった。それは仁木村の役人が日頃から横暴に振舞ったため暴動にまで発展し、先を恐れて官に忍従する者とそうでない者とに村が二分され疑心暗鬼に陥ってしまったこと。将来の開拓及び堤防の予定地30万坪が縣令の私となってしまったこと等が大きな失望となった。
 さらに経営の安定を図るため竹吉が依託者、嘉長外2名が惣代人となって明治21年に三井物産から資金を借り、以後一定の進捗が見られることとなったが、このことから移住民が一時奢侈に走り、会社との契約を破りごまかす者も現れたため風紀も乱れ、これがまた後の負担となって離散する者が続出して同31年には残る当初の入殖者が僅かに26戸にまでなったと云い、丁度この頃に湧別原野が測設され中央道路の開削もあって先行きに不安を感じた嘉長が活路を新天地に求めたのであろうことが推測される。渚滑原野に再転住してからの嘉長はいち入植者として表舞台には現れなくなる。
 これに対して昭和35年の「紋別市史」では最初の先住者を「木村嘉長」としながらも『道庁が渚滑原野の存在に関心を持ったのは、実に泰洋の出願によるものとすれば、渚滑原野を世に出し、今日の繁栄の基礎を築いた泰洋の功績は大きく、渚滑原野開拓の祖というべきであろう。』とし、大正12年「第貳版北海道人名辭書」においても『泰洋は明治二十三年伊達村に渡り翌年紋別に來り廿六年十月渚滑大平原を發見し翌廿七年開墾に従事し 中略 堀川家一族は實に當村の開祖たり・・・・』とあって、渚滑原野は如何にも泰洋によって見い出されたかのように著している。
 確かに渚滑原野の開放は明治30年ではあるが同4年には開拓判官「松本十郎」が当地を視察し(北見州経験記)、また同22年には殖民地選定調査を終えていたことからも「渚滑原野を発見した」とするまでには無理がある。しかし本家、分家の一族を挙げた泰洋の移住が本村開拓の先駆を成したのは事実であり、明治29年の「北見事情」では現在の紋別市内の農家としては泰洋の名のみが記載され、また、同じく同35年「殖民広報第十号」の渚滑原野状況においても初期開拓についてはもっぱら堀川一族のみの記述となっている。
 昭和16年発行の「自治産業発達誌」では、この頃広く用いられた「開墾鍬」の発案は長兄の「堀川善六」であるとしており「殖民公報第十号」にそれと思しき記述がある。


渚滑原野状況
 前略 同原野は二十六年越後の人堀川泰洋の選定出願せる所にして其以前にありては五六尺に餘る箬の密生するより何人も斯る肥沃なる原野の存するを知らさりしより同年堀川泰洋外十三名各三萬坪宛貸下許可を得同年十月堀川善治率先渡道し渚滑川舊渡場に居住す十日にして漸く五線迄踏査す當時は渡守土人の外は紋別に至る海岸一戸の土人も見さりしと云ふ二十七年初めて耕耡播種す 中略 開墾は手起しにして一人一日十八坪笹刈五畝歩位にして大に難渋せしか翌年開鑿工事に從事すへき人夫一名來り宿す偶々開墾の難事を語りしに彼は元より土方人夫なりしも他地方にて目撃せし所を語りて曰く唐鍬の刀部を一尺とし之を灣曲して八寸となすへし是れ開墾上勞力を要せすして一日六畝歩を耕起するに容易ならんと之を試験せるに果せる哉開墾の利益大なりしより何れも之を採用するに至れり 中略 仝年高知縣團體中渚滑に移住す仝年越後團體來りて上渚滑原野に入る當時既に堀川某等の率先開墾をなせるより食料に供すへき雑穀又は種子等の供給を受け開墾用器具に於ても便を得しこと多かりしと云ふ 後略 (殖民広報第十号/明治35年北海道庁) 


 大正7年ころ/もう一人の開村のヒト、徳島県に生れ明治24年に渡道、室蘭などを経て同26年に渚滑村へ入殖した。本村初代議員のひとりで同総代人。
 それではここでもう一度、泰洋の転住について考察したい。昭和5年に郷土史家米村喜男衛が甥の「堀川徳治」から聞き書きした(北見郷土史話)ところによると泰洋は明治22年12月に工事中の中央道路を通ったと云い、また徳治一家は泰洋の来紋3年後の同26年11月に紋別の陣屋にある泰洋のもと至ったとも云う、善六の3男「堀川才治」の手による昭和13年の「花辛夷」では善六一家の来紋を明治26年11月とし(殖民広報に10月とあるのは貸付出願によるものと思われる)、粟田又吉著の昭和35年「渚滑川」では泰洋の紋別入りを明治23年としている。
 これらから泰洋の渚滑入殖は明治26年に疑いはないが、それ以前の紋別への転入については一定していない。ここで中央道路本道の旭川~留辺蕊間の開削が明治23年11月であることを考慮すると同22年説は明らかな誤りであり(また3年を逆算しても合わない)、また、泰洋の呼び寄せによって翌年に来紋した同士の「田口源太郎」は『(明治)二十四年三月預備役に入る幾くもなく北見國紋別郡紋別村に移住し後同郡雄武村に轉じ』(大正3年北海道人名辞書)と云うから、これからも来紋は明治23年12月であろうと推測され、中央道路の網走までの全通が同24年12月であることから泰洋は先に開削されていた湧別・北海岸の仮道を経由したものと思われる。
 この泰洋は明治30年に手動式の小規模な澱粉工場(後に馬力となる)を設け、後発の移住民らはここで働き現金収入を得たほか、この澱粉を頼りに越年した者も多かったと云い、また田口らと共同で開始した造材業は軌道を用いた当時としては大規模なものであったが、同31年の大出水で全てを流出して失敗に終わり、雑貨仲買など他事業も次第に行き詰まって妻の死を契機にこの地を離れた。本村最初の仮役場庁舎は泰洋の所有であったと云う。


北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

 第63回渚滑村の開村まで  

Posted by 釣山 史 at 08:10Comments(0)紋別の歴史