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2009年05月17日

モヨロのオホーツク人

最後の「モヨロ貝塚発掘成果展」展示説明会へ行く
 (平成21年3月8日)


 大正2年に米村喜男衛氏(現館長の祖父)によって発掘され、昭和11年には国史に指定された「モヨロ貝塚」は、平成15年から同20年にかけて、本格的な再発掘調査が行われ、あらためて考古学上、重要な遺跡であることが確認された。平成21年度からは史跡公園としての整備事業の準備に取り掛かる。
 この私も発掘途中に一度見学させていただき、この説明会への参加も2度目だ。


◆オホーツク文化とは
 竪穴式住居祉や墳墓が確認される集落跡は、時代区分で縄文文化晩期から中世アイヌ期までの生活の痕跡を残す、北海道でも特有なオホーツク沿岸のみに展開された海洋性の文化。
 オホーツク人は大よそ6世紀~12世紀において大きな竪穴式住居に住み、アザラシやトドなどの海獣を狩り、捕鯨を行い、本格的な魚網を用いた漁労も行った「海の狩人」。狩猟ではヒグマやシカを狩り、豚と犬を飼育し、また、特徴的な土器や骨角器、骨や牙を利用した芸術性の高い彫刻を作製して、鉄製品を使用するばかりでは無く、その加工をも行った。

 謎のオホーツク人は遠くサハリンからやって来たのか?

 その生活跡は樺太から利尻・礼文などの北海道の一部の日本海と、オホーツク海沿岸の稚内から根室・北方領土にかけて残り、ほぼ流氷が接岸する地域と一致することから「流氷の民」とも呼ばれる。
 このようにオホーツク人は、特有の文化圏を形成し、北海道では道東北を中心に広く繁栄したが、彼らはいったい誰であったのか?
 ある時、「忽然と消え去ったとも云う謎のオホーツク人」は、宗教や儀礼など、後世の擦紋・アイヌ人と共通するものが多く、次第に地元人と同化して行ったのであろう。


◆再発掘での特出すべき成果
 「モヨロ貝塚」はオホーツク文化早期の6~7世紀から8世紀にかけてののもので、120基以上の墳墓が確認されるが、漁労を主な生業としたオホーツク人は、網走川河口を絶好な船着場としたのであろう。網走では、オホーツク文化の遺物は、モヨロ貝塚を中心としたごく海岸線にしか発見されず、同時代の擦文人との遺跡とは明らかに隔たれており、一定の住み分けがなされていたと考えられる。
 9号住居跡ではまとまったヒグマの骨塚が採掘され、祭壇からは供えた思われる「大麦や粟、黍」が出土して、その大麦は大陸系であることも分かった。
 組み立て式の大きな釣り針と、骨格や牙から作成された創造的な動物像が発掘されたが、中でも大陸系の鉄剣と内地からの蕨手刀が同時に見られることは、南北の交易を語るうえで注目される。そうして興味深いことに8号住居跡からは「海獣を祭ったと考えられるモニュメント」が発見された。


 網走市立郷土博物館資料





























































































図の説明

 解説中の館長     装飾性豊かな彫刻ほか

 釣り針、色いろ     クマの彫刻

 鉄剣とわらび手刀   加工の痕跡があるクジラ骨

 漁網に使われた大型のオモリ





     第124回 モヨロ貝塚    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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