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2008年10月15日

最奥の駅逓(第6回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり6~網走地方に見る最奥の駅逓

◆上モベツ駅逓所と鴻之舞金山
ア)上藻別部落の形成
 上藻別原野の測設は明治36年であるが、この時の入殖者はなく、同39年の区画地貸付台帳によると10月31日に橋詰保吉のほか9戸、11月20日には円角信孝、旧法第三条貸付地台帳では10月31日に河合美之助のほか18戸と橋詰保吉外9名の名が見られ(重複有り)、実際にはじめて現地へ入ったのは同40年の山崎梅吉であった。
 続いて明治42年の原野増割では福原浅吉のほか数戸が入殖し、翌年には田中万平らが続き、同44年の山崎長美ほか十数戸の土佐団体が入地して部落が成立して、翌年には住民の手により「上藻別特別教授場」が開設された。初代の部落長は田中万平であり、この部落で一番最初に馬車による運搬を始めたと云う。
 このうち福原は鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、栄養不足による脚気に対応するために農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。
イ)鴻之舞金山の始まり
 かっては東洋一と云はれた鴻之舞金山(※)は、大正3年に沖野永蔵が上モベツ6線沢で鉱床(のちの三王鉱山)を発見し、翌年には羽柴義鎌と共に元山口之沢で転石を採取したのが始まりで、翌5年に元山大露頭が発見されるに至って、同年、鴻之舞金山は飯田嘉吉を代表とする組合として操業を開始した。
 鴻之舞への入殖は大正5年に大久保馬吉ほか数戸が入地し、翌年には吉田亀吉ら十数戸が入殖、同年に金山が住友へ買山されて本格的に事業が展開されると同7年に製錬所の操業が始まり、同年、上藻別原野道路が開削された。私設による仮教授場の設置は同7年である。
 倶知安内は住友が昭和6年から開発に着手、同じく池澤了は三王鉱山の採鉱を開始したが、同8年には住友へ売山されて社宅数十戸が建設された。
 ※アイヌ語の「ク・オマ・イ=仕掛け弓がある処」の意。将来の発展を祈念して「鳥王・コウノトリが舞うが如し」と当て字した。

大阪毎日新聞/ 昭和5年
 佐渡のかな山は昔のこと、イマ日本第一の金山は大分県の鯛生、第二が鹿児島県の串木野、第三が北海道の鴻之舞-ところがこの第三の鴻之舞の「キン」が品位においては日本第一、しかも今までの学説を覆す併行鉱脈が十七本も本脈を基準に続々と現れ今後それが幾ら出て来るかわからないという景気のいい話、東台湾においても五十億円の金鉱脈があると横堀博士が発表した、五十億!それがホンマならタイしたものだが台湾総督府当局の調べによるとせいぜい五十万円位の見当、それも砂金だから採算にかなうや否やが頗る疑問とされているので当時博士の視察にあたり案内役だった総督府鉱務課の朝日技手は博士の発表に一驚を喫し元鉱務課長の福留喜太郎氏の如きはウフフフフと笑っている、ところが北海道の方は学界の驚異のうちにカネに糸めをつけぬ住友が禁じ得ない黙笑を続けながら小池技師を総指揮官に二百七八十名の益良夫を使役して掛声いさましくイマ現に掘って、掘って、掘りまくっている
 鴻之舞は北海道北見国紋別郡元紋別町から西南六里半、大正初年のころは殆ど人跡を絶った大森林が続く山また山、ある日一人の杣が今元山と呼ばれるあたりの岩角に腰をかけてお弁当の握り飯、フト傍を見ると石コロからピカリ!眼を射たのが一条の光、そもそもこれが鴻之舞金山の発祥である、杣は物知りにその石コロを見せたやま師の飛躍がはじまった、専門家が鑑定すると「金!」
 許可鉱区は至る処試掘されついにカッチリ掘りあてた大金脈の露頭「千万両々々」と呼び声高く伝えられたのを、住友がポンと投げ出した一百万円で値がきまったのが大正六年、それからというもの人と機械に資本が動き、とうとう年産額黄金二百貫-カネに換算して百万両、銀はその四五倍の量を採取するまでに至った 後略  



 
 大正6年の元山鉱/春秋五十年          現在の上藻別6線沢と黄金橋            網走支庁拓殖概観/大正7年



 第90回上モベツ駅逓所、その6  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 23:01Comments(0)オホーツクの歴史

2008年10月03日

最奥の駅逓(第5回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり5~網走地方に見る最奥の駅逓

前回(第84回)につづき~駅逓の配置換え

◆黎明期の駅逓
 オ)駅逓の移転・改称
 殖民・開拓の最前線にあった駅逓は、新たな道路が開削され、さらに奥地への入殖が開始されると、しばしば配置が変更された。紋別では中渚滑駅逓所が渚滑28線から同32線へ移転し、近隣では遠軽の野上駅逓が生田原の安国に移転したほか、澤木駅逓が興部へ、上渚滑駅逓所が滝上に移転して、それに伴い改称された。


  




















第87回上モベツ駅逓所、その5  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:23Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月26日

最奥の駅逓(第4回)

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり4~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第82回)につづき~駅逓取扱人とは

◆黎明期の駅逓
 エ)駅逓取扱人の資格
  七條 驛遞取扱人ハ左ノ各號ニ該當スル者ニ限ル
  一 二十年以上ノ男子ニシテ土地又ハ家屋ヲ有シ及業務上必要ノ設備ヲナスノ資カヲ有スル者
  二 人馬車纘立營業者ノ資格ヲ有スル者
     故意ヲ以テ郵便電信ニ關スル罪ヲ犯シ其刑ニ處セラレタル者又ハ禁錮以上ノ刑二處セラレタル者若ハ家賃分散ノ宣告
   を受ケ債務ノ辧償ヲ終ヘサル者ハ驛遞取扱人タルコトヲ得ス驛遞取扱人ハ其地方在住者ニシテ驛遞取扱人タル資格ヲ有
   スル保證人ヲ立ツルヲ要ス (駅逓所規定/ 明治33年)

 明治33年の規定での駅逓取扱人の資格はこのとおりであるが、多少の改定はあっても以後も概ねこのとおりであった。大正15年に開設した「上モベツ駅逓所」の高地氏によると実際には公職の経験がある者などとあって、取扱人へ与えられた特典は大きく、同駅逓所への出願は28人にもなり、官吏への運動費として一財産を失った者さえあると云われるくらい激しいものであったという。
 これについては明治25年開設の野上駅逓の角谷栄政も「六号駅逓取扱拝命者は笛田茂作、先代政衛とイトコです。紋別地方の有力者で、六号は湧別方面との交差点で人口希薄な当時でも八人も出願者があり、普通の人では見込みがないので、笛田茂作に出願してもらつたとのことです。 中略 駅逓が許可となり笛田茂作代理人として明治二十五年十二月野上に移転して駅逓業務を開始したのです。」とある。この笛田茂作とは明治14年に渡道して湧別村へ入り、のち紋別戸長役場書記、総代人となった人物である。
 また、訓子府では希望者の「岩淵周之助」が戸長だったので取扱人とはなれず、北光社の農場管理人で後に道会議員となった有力者「前田駒次」の名義をもって駅逓所の経営がなされ、このように当時の有望地では、大きな取扱人の利益を求めて、度々、名義の貸し借りが行われたのである。


 現在の野上駅逓跡            明治30年の駅逓/遠軽町史     笛田資料/遠軽町郷土館蔵  
 












第84回上モベツ駅逓所、その4  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 07:15Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月18日

最奥の駅逓(第3回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり3~網走地方に見る最奥の駅逓
前回(第80回)につづき~北見道路に見る駅逓の実際

◆黎明期の駅逓
ウ)中央道路に見る駅逓
 網走より上常呂を経て、湧別に至る道上に繁茂せる草木を明二十九年度に於て、春秋二回刈除すること。この間の道路は新設以来人民の往来稀少なるを以て草木繁茂し、ほとんど道路の用を弁ぜず、就中白揚樹はその幹経一寸以上にして、高さ一丈余に達し荷物の駅送困難なるは、勿論馬車の往復は全くこれをなす能わず。故に明春融雪の際に於て、一回の刈除きをなし更に秋季に至り春季刈除きの根株より、生ぜしものを再び伐採するに非らざれば、三十年度移住の際行通運搬を阻害する憂いあり  北見国常呂湧別出張復命書/明治28年(資料3)
 網走上川間道路 概ネ山道ナレモ嶮岨ナラス唯春雨秋涼ノ際泥濘軟膨馬足ヲ沒シテ通行困難ナリ且從來旅人稀少ニシテ驛舎ノ生計容易ナラサルヲ以テ間々舎ヲ空フシテ出稼キニ赴ク等ノ事アリシガ近頃屯田兵屋ノ工事アリ通行スル者増加シ各驛共稍々注意スルニ至レリ  北海道殖民状況報文/明治31年(資料4)
 その頃は(明治26年)まだ中央道路を通行する人馬もなく、アイヌ達が狩猟で得た獲物(鹿・狐・リス)を持ってくるので、これを塩・油・焼酎・米などと交換しその獲物がたまると父は、網走まで搬送してまた物資を仕入れて来ました。中略 駅逓の仕事も相内や湧別原野に屯田が入ってから急に忙しくなり、通行人もふえましたが人馬の継立の仕事は私が受持ちました。  千葉新太郎・三女タケの憶出から(父)新太郎のこと/留辺蘂町開拓小史(資料5)~四号(留辺蘂)駅逓

 札幌から旭川を経て北見・網走へと至る中央道路の本工事は、旭川側(上川道路)が明治23年4月に、網走側(北見道路)では同24年4月から開始され、途中、屯田兵村の設置のために安国から野付牛を経て網走へ至る経路に変更されて同24年12月に完工した。そして翌年からは沿線各所に駅逓が建設されたが、正式な取扱人が定まるまでは、札幌在住の御用商人などの仮名義とし、また、実際の入地までの間は無人駅として利用され、旅行者は携帯した食料を備え付けの鍋釜で炊いて食べた。特徴的なことは、網走から旭川へ向かって1号から12号までの付番で呼称された。
 しかし、ここの通行は険しく、北見地方の人口も極めて希薄で利用者は少なく、道路は次第に退廃して(資料3・4)、明治28年に内務官僚が網走行きを相談したところ、道庁の警察部長が中央道路は通行不可能であり札幌から苫小牧に出て釧路を経るか、小樽から汽船で網走へ至るかを勧めたと云い、当時はこれが普通であって中央道路を通る場合でも多くは野上から湧別を回り海岸沿いに常呂を経由した。明治29年には中央道路が修築され、同34年からはここでの郵便継立が始まったが、各地の道路の開鑿が進み、同37年に名寄-興部間が開通して北海岸(オホーツク沿岸)との接続が容易になると、指定郵便路線はこれに変更されてしまった。
 このように当初の奥地の駅逓は補助はあっても経営はままならず、明治30年に「北海道国有未開地処分法」が公布され、女満別、渚滑原野ほかが開放されて、同年に野付牛と湧別に屯田兵村が置かれてからは徐々に通行者も増えていった(資料5)


  四号(留辺蘂)駅逓/留辺蘂町開拓小史                        五号(佐呂間)駅逓跡

第82回上モベツ駅逓所、その3  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

  

Posted by 釣山 史 at 18:49Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月15日

最奥の駅逓(第2回)

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり2~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)
 前回(第79回)につづき~藤野漁場から島竹さんへ、新発見!島竹さん以外にもあった紋別の駅逓。

◆黎明期の駅逓
 イ)人馬車継立所と島竹駅逓
 当地においては、藤野家の使用人であった阿波(明治26年5月没)の後任は「島竹貫一」とされて来た。しかし「北海道實業人名録・明治27年(明治26年12月付)」においては「旅人宿・島竹清作」とあり、いっぽう「人馬継立所・旅人宿・久保田幸助」ともあって、この久保田とは同23年~25年までの間の紋別郵便局長を務めた藤野家の関係者と思われる人物である。
 これは先にも述べたが明治21年に駅逓を廃止して「人馬車継立所」としたもので、同28年に「駅逓補助金支給規定」と「官設駅逓所取扱規定」が定められて、人馬車継立営業に包括されていた駅逓業務が分離されてたもので、この「継立と宿」の両方の機能を兼ね備えたものが駅逓であることから駅逓取扱人はもうひとりいたことになり、後の同33年には「駅逓所規定」が制定されてあらためて駅逓所となったもので、これら制度の過渡期には「人馬継立所」と「駅(駅逓)」の語が併用された。そして以後に幾度かの制度の改定はあっても基本的には変わりはなく、駅逓所は戦後の昭和22年3月まで存続した。
 さて、興味深いことは「北海道人名辞書・大正12年」によると島竹(片野)貫一は明治29年に国内最初の民間鉄道である日本鉄道会社へ入社し、同31年に北海孤児院の教育係として来道したもので、同32年には渚滑原野へ入り、翌33年に駅逓取扱人を命ぜられたが、これは北海孤児院には牧場があって、駅逓経営に必要な馬の取扱いと駅員としての経験が買われたと考える。


    北海道實業人名録/明治27年~紋別、湧別駅逓ほか中央道路の各駅逓が見られる                 北見繁栄要覧/大正1年



第80回上モベツ駅逓所、その2  北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

Posted by 釣山 史 at 21:58Comments(0)オホーツクの歴史

2008年09月13日

最奥の駅逓(第1回)

§上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり1~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)

 幕藩時代には会所、運上屋、通行屋、旅宿所と種々に呼ばれて、維新後には会所・運上屋が本陣、通行屋・旅宿所が脇本陣となり、明治5年に旅籠屋並・旅籠屋と称したのちに「駅逓扱所」と改称した。駅逓とは運輸と宿泊を一体化したもので、当初の多くは郵便局を兼ねて通信業務も行った。
 開拓使事業報告/明治18年
◆黎明期の駅逓
 ア)藤野漁場による駅逓の経営
 北海岸沿いの北見国東部四郡(網走管内)において、前時代から開設された駅逓は斜里、網走、紋別の3駅である。根室県時代は新たな駅に起業費を貸与して補助金を支給、それを年賦で返還した。明治21年に3県別々であった制度を「人馬車継立営業規則」に統一して駅逓を廃止したが、同33年に改めて「駅逓所規程」を定めて駅逓所を各地へ配置し、駅間の距離は大よそ7~8里とした。単に「駅」と云ったり、「駅逓所」と呼んだりするのはこのことによる。

 堅柔ノ砂道或ハ丘岡或ハ波打端狭キ道三十二三丁歩シ紋別駅ニ達ス網尻駅ヨリ路程二十二里三分五厘紋別駅ハ方位子丑寅郡中沿海本道大概砂地ニシテ 中略 駅ニ和人寄留四戸旧土人三十七戸駅逓ハ藤野伊兵衛出店ニテ扱官馬十一頭和土人持馬六頭村社嚴嶌神社四間三間一棟寛保年度村山傳兵衛創立旅舎ハ営業ノモノナシ藤野氏ニテ兼業ス一賄常例金八銭相對ハ五銭ヨリ七銭木賃一泊十銭総テ漁業一途ニシテ佗業ノ者ナシ  北地履行記/明治12年

 さて、最奥地の道東北では明治に入っても漁場しかなく、通行者もほとんどがそれに関係する者で、依然として漁場請負人により維持されていたが、さらに明治9年には漁場持が廃止され、それまでの駅舎等の一切が買い上げとなって、補助を受ける官設となっても、この地方での駅逓経営は同じく藤野家の手によるものであった。明治19年の「藤野家旧事録」によると「網走支店/駅逓取扱人仮役 竹中健次郎」、「斜里郡出張店/郵便・駅取扱兼山田梅太郎」、「紋別出張店/駅逓取扱人 阿波徳助」とある。
 旧町史では「當時又十藤野家支配人龍田治三郎が副總代として居た外、驛遞舎番人に士族の阿波德助なる者あり、此の人々が明治十四、五年まで居住して、當時越年した和人の教導者になつてゐたのである」とある。
 島竹駅逓/明治後期の紋別市街
 斜里駅等ニ至リテハ、駅逓馬之内乗用ニ適スル馬頭ハ、多ク藤野支店ニ於テ各所漁場ニ使用シ、官吏通行之際ニ不得止継立ヲ為スモ、人民中ヨリ依頼スル事アルモ、漁業中ハ容易依頼ニ応セス、偶々之レニ応スルモ相対継立ト唱ヘ、定額賃ニ五割ヲ増シ賃金ヲ請求スルノ習慣、自然一般制規之如クニ心得更ニ恐ル処ナシ、故ニ人民中ニシテ人馬使用ハ総而相対人夫ヲ傭シ、駅○人馬傭フルモノナキヲ以テ、官吏通行一途ニ建駅セシ者之如ク、年々各駅ニ於テ収支相償ハサルモ、是等ニ原因スルナラン、元来駅逓取扱ラ藤野支店ニ命スルモ、人物ノ乏シキ不得止ニ依レハ、素ヨリ同店志願ニ非サレハ憤発勉励之志シナキ、而已ナラス取扱ヲ負担スル者ハ皆ナ同店雇人ニシテ、損益自身ニ関スルニ非サレハ、駅馬之如キ他之継立ヲ拒シテ已レノ乗用ニ供スルノ風ナキ能ハス、後略  根室県大塚九等属復命/明治17年

 このころ、斜里などでは駅馬を漁場で私用して繁忙期には旅人の利用を拒否し、あるいは5割増の料金を請求するなど不正があり、郡長から不評を買い、また、根室県の監査で指摘されるに至って、藤野家では明治18年に内部へ向けて「駅逓及旅客扱役」という心得書を発して改善を図った。

           第79回上モベツ駅逓所、その1北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/








 阿波徳助墓碑/紋別墓園
  

Posted by 釣山 史 at 08:19Comments(0)オホーツクの歴史

2008年08月04日

網走黎明期の名望家

~網走管内黎明期の実業・名望家一覧                                                           遠軽町郷土資料館蔵
 さて、今回は網走地方の開発が進み出した明治中期の名望家を掲載した「開拓指鍼北海道通覧/明治26年」と「北海道實業人名録/明治27年」を紋別を中心に紹介する。
 
◆開拓指鍼北海道通覧
 ①町村惣代人
*酒造・笛田茂治は「茂作」の誤りで、笛田とは野上(六号)駅逓の初代取扱人。
*旅人宿・島竹清作に注目。
 ②紳商漁業家農業家
*北見町(現網走市)の岩田宗明は「宗晴」の誤り、のちに斜里で大鮃漁を行って管内同漁の先鞭となり、さらに渚滑へ移って開拓を進めながら製軸所を開設した。北海道議会議員。
*高野番屋、紋別村の高野徳平に注目。
*ナオサ子(ナオザネ)の徳弘正輝に注目。
◆北海道實業人名録
 ①紋別村
*龍田和七は藤野番屋の関係者。
*丸三商店は現在の岩倉商店のはじめ。
*高野番屋の高野支店に注目。
*久保田幸助は藤野番屋の関係者で、これが藤野駅逓のこと。このとき島竹は単なる宿屋であったことが判る。
*内外科醫・古屋憲英に注目。
*第六号、七号、八号の駅逓に注目。第六号駅は笛田から角谷政衛に替っている。
*幌内村・田中支店は後の紋別の田中商店。
 ②網走村
*後に藻別村(現紋別市)にも建設された山田製軸所が見える。
*水産業・森田辰蔵は紋別最初の自由民漁業者。のち藤野番屋・紋別漁場の差配人兼初代紋別戸長となったが、事故あって解任され網走へ移り、当時の開拓使の根室管轄一円で最初に漁業補助を受けて水産業を営み、何かと藤野家と争った。網走町議会議員。









































































































































第71回明治開発の先駆者たち
北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

































  

Posted by 釣山 史 at 22:22Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月15日

北限のリンゴ

◆上湧別リンゴのはじまり(第10回、第33回の続き)
 ここの「移住者成績調査」では湧別地方での最初のリンゴ栽培を明治30年の上野德三郎としているが、また「上湧別村史」では同31年に中野半次郎が札幌より苗木を購入して村内へ転売したとも云う。

 戦前の上湧別のリンゴ園 網走支庁管内概況/昭和9年
 上野德三郎 略 (明治)三十年には先の貸付地は之を墾成して付與を受けたり又札幌地方より苹樹李、櫻桃、等の苗木を取り寄せ栽植したり之れ同地方に於ける果樹栽培の嚆矢なり 中略 果木は各種を合して百二十本、两三年前より相當の収獲あり 移住者成績調査第一篇/明治39年
 苹果は明治三十年末の調査に依れば湧別全村に亘りて僅かに二十一本の栽植を見るに過ぎず苗木も當時は上川地方より移入せしもの〵如く傅へらる〵もその眞偽判明せず随つて種類なども明瞭ならざりしなり、翌年に至り髙知縣人中野半次郎氏札幌方面より俗に四十九號と稱する國光の苗木若干を購入し南兵村三區大川德藏(熊本縣人)外數名に轉賣し植付けたり、これ今日苹果の産地として天下に識らる〵源泉なりしなり、時に此年の成育甚だ佳良なりしを以て其翌三十二年屯田市街地高橋定次(岐阜縣人)高橋留五郎(山形縣人)の两氏、當時屯田兵本部建築監督北村某の歸札するに托し最も早熟なる紅魁及嚴冬に堪ゆる俗稱阿部七號と名づく倭錦外數種の一、二年生取交ぜ五千本を購入して南兵村一區なる樋口幸吉、相羽靜太、同二區高橋五三郎、上野三藏、同三區片岡久米右衛門、杉本佐一、藤枝作一郎の諸氏を始め各戸に五本乃至十本を轉賣せるより漸次園藝の趣味を解し且本村の果樹育成の良好にして栽培の有利なるを測知するもの多かりし 上湧別村史/大正9年
 丁度移住した當時に、これは四國の高知縣の方で有ましたが、前住者(徳弘正輝)が一人ありました。この人は屯田有地の眞中の土地を貰つて相當な土地をおこして農耕をやつて居つた。その人が自分の宅地内に林檎の木を植えて、林檎が洵に立派になつて居つた。それで林檎もこの土地に適當するから栽培しなければならぬと云ふので、苗木を中隊本部が斡旋してくれまして、各戸に十本位苗木を植えました。現在の湧別林檎と云ふのはさうした事情で産出するやうになつたのであります。それで林檎も一時は四百五十町歩栽培して居つたことがありますが、大正十二、三年頃林檎に毛虫が非常につきまして、その豫防が出來ず、大部分が駄目になり、現在では百五十町歩を栽培して居ります。それから又小さいもので今植えて居る物が、約百町歩ばかりあります。 北海道調査報告/昭和12年

 しかし、明治30年に屯田兵が入地したときに先住者の徳弘正輝の庭に相当のリンゴが結実しており、これがこの地方のリンゴの濫觴と思われ、また、土井菊太郎が同27年に転入して徳弘の畑地を借りた際、既に数本のリンゴが植えられていたと云い、同30年末には村内に21本のリンゴ樹があった。
 このように湧別地方ではリンゴの育成が良好なことから、明治32年には中隊本部が倭錦ほか数品種の苗木5千本を取り寄せて兵村各戸へ5~10本を斡旋し、これらは同37年頃から結実し始めたが、北海道庁では大正8年の果樹奨励協議会において、道内各地に適地を選定して集中指導を行うこととし、翌年には余市で第一回栽培地実地指導講演会を開いて、また同年、果樹組合準則を制定し、地方組合の結成と苗木の無償配布を奨励した。
 いっぽう上湧別では村農会が大正6年にリンゴの技術員を置いて指導の強化に努め、同11年に各部落組合が結成されて村内品評会が開かれるようになり、
 こうして気候風土がリンゴに適した上湧別では屯田兵を中心に栽培が広って、大正後期には上湧別の栽培戸数が全道の四分の一にも及び、同15年に当地で第五回栽培地実地指導講演会が行われるまでとなった。
 この間、大正10年からは「湧別名産りんご」のレッテル使用が始まり、昭和6~9年には相羽誠が道東各所の渚滑、中湧別、遠軽、生田原、留辺蕊、北見、陸別、本別でリンゴの駅売りを行い湧別リンゴの普及に努めたと云い、昭和4年には上湧別苹果研究同士会が結成されて同7年に上湧別苹果協会へと発展、同9年は上湧別産業組合に統一された。そして昭和11年の陸軍特別大演習の際には「北限のリンゴ」として御下賜果物謹製の下命を受け、品種「祝」を献納して本村リンゴの最盛期を迎えた。
 先にも述べたが新開地の道東では当初の入植者に限りがあって、また士族授産の観点からも士族が多い官吏や屯田兵へと重点的な果樹の奨励がなされ、德弘も郡役所の元官吏ではあったが、上湧別のリンゴ栽培が中隊指導のもと兵村へ定着し、もっぱら自発的に発展した薄荷栽培と異なるのはそのためである。
  第35回リンゴのはなし3

 現在のリンゴ園

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 08:29Comments(0)オホーツクの歴史

2008年03月13日

最奥地、網走管内の酪農のはじまり

~ 網走地方における草創期の酪農・畜産

峰村牧場放牧地(能取) 北見之富源/明治45年
 道内初期の牧畜業は馬匹が中心であり、また、畜牛は主に肉牛であった。管内畜牛の記録としては明治16年の湯地根室県令の巡視の際に斜里の水野清次郎が牛の飼育を申し出て下附され、のち同18年には牧場を始めたと云い、いっぽう紋別地方は次の通りで、いずれにしても未だ試験的畜養の段階にあった。


 牧畜の業を行ふものは湧別に德弘正輝氏あり網走に原鐵次郎氏あり二人共に多年の辛酸を經漸く基礎を成立したるものにして其經歴又た頗る觀へきものあり德弘氏は開墾を兼ね牧牛を行ひ原氏は人馬繼立を營みて牛馬を育せり其牧牛の模樣は尚ほ未た盛大に至らす僅々三四千圓の價額に止まれりと雖も增殖の景況は駸々として好成績を呈するか故昨年より二三の有志者は新たに百頭程を南部其他より購入改良繁殖に從事す 後略 北海道通覽/明治26年
 明治十八年山梨縣人山田環氏時の根室縣知事廣田千秋氏に乞ひ牛七頭馬三頭を借受け網走町原鐵次郎氏と共同し網走に牧畜業を經營せり、中略 山田氏は遂に資金の缺乏より止むなく他に財源を需め再興を圖らんと翌十九年一旦網走の地を退去するに方り其後繁殖せる畜牛の半數を共同經營者たる原氏に頌ち他の半數を本村德弘正輝氏に托し遠く釧路方面に赴きたり茲に於て德弘氏は其畜牛若干を湧別原野の叢中に放牧せし 後略 上湧別村誌/大正9年
 前略 高知縣人德弘正輝の如きは東京に於て時の網走郡長大木良房に面し、北海道の拓殖状況を聞きて感激し、北海道移住を決意し、明治十四年春根室を經て、網走に來り、中略 其の後明治二十年春網走に於て山田環及原鐵次郎と共同經營の牧場失敗せるに際し、德弘は山田より所有權の分興を受け、原と分配して牛六、七頭を獲るに至り、字『ナヲザネ』の酋長『ケイタロー』を伴ひ、共に網走に至りて牛を引受け、初めて湧別海岸に放牧したが、其の適地に非ざる事を知り、これに代る放牧地を求めて遂に同年十月草木の成長可良にして清水湧く『ナオザネ』の地に移り、茲に專心牧畜に從事したのである。後略 北海道調査報告/昭和12年

                              田野岡牧場(網走) 網走支庁拓殖概観/大正6年 
 また、大正5年「網走支庁拓殖概観」には『牛は明治十九年官に於て根室より十九頭を購入して管内主なる畜産家に貸付けたるを初めとし越て二十四年藤野家に於て國後より七頭を輸入し又斜里村半澤真吉道廰より牡牛三頭の貸付を得て改良蕃殖を圖る等漸次畜牛の増加を示し價格亦高潮して牛の有利なるを認むるに至りたる』ともあるが、これは特に藤野家が自己の所有船での輸送が可能だったことによる。


◆管内酪農の始まりと「豊村牧場」
 さて後の本格的な牧場経営の始まりは明治26年の網走「原牧場」と同じく同年の「藤野牧場」であり、この藤野牧場では当初より牛乳の生産と販売がなされ、同29年の「北見事情」では「藤野牧場」での前年の牛乳販売高を網走で20石6斗9升9合(同年中)、紋別が6石6斗5升(同年8月から)としており、また明治31年「北海道殖民状況報文北見国」に『牛ヲ所有スルモノ數名亦之レヲ藻鼈村ニ送リテ放牧ス藤野ニ乳牛二頭アリ朝夕絞リテ販賣ス』とある。
 後には藤野牧場でバターの製造も行ったと云い、一般的にはこれが管内での乳酪製品の始まりと云われ、同42年10月の高田源蔵日記では『蛟竜丸出帆毎ニ石油缶ニ一、二個ヅツ函館ヘ輸送販売中』、翌年4月には『オショップ牧場ニ付、バタ製造ヲ視ル。原生乳二斗製造結果、三百三十匁精バタヲ得タリ』とあって、また、道庁統計には網走郡での生産を同43年2千7百斤、翌44年は2千3百斤と記録しているが、以後は事業が中止された。しかし、バターの製造については「藤野牧場」での開始以前に渚滑村(現紋別市)の「豊村品蔵」によって製造されていたと云う記録もあるので次に挙げる。


 渚滑原野の近況 略 豊村品藏の牧場は三十六年貸付せる九十五萬三千餘坪にして牛馬及ひ豚を飼育せるか牛最も多く本年「バタ」の製造を始めしに成績良好なりと云ふ 殖民公報第38号/明治40年
 豊村品蔵 略 一層其の事業を擴張せんと欲し三十六年自己及ひ同志の名義を以て附近未開地三百餘萬坪の貸付許可を受け初め改良農具を用ひて大農法を採らんとせしも後器械資本及ひ勞力費の節約上牧畜經營の一層有利なるを認め之を變更し前の懇成地は之を小作人に托し獨力を以て新貸付地の經營を始めたり 中略 牧畜業なるも産馬事業は多くの資本を要し且つ危險多く稍もすれは失敗に陥り易けれは産牛事業の資本比較的小額にして足り且つ生産物消流の途安全なるに若かすと乃ち牛を飼育せり 中略 勞働者を雇役し新墾犁を用ひて草原地を開き牧草を播種すること三十餘町歩、之れ北見地方稀に見る所たり 中略 三十九年又牛乳生産品利用の途を講せんか爲インパイア、クリーム、セペレーター其の他牛酪製造器機を購入し四十年五月より牛酪製造を開始せり 後略 移住者成績調査第二篇/明治41年


 ここにあるとおり豊村の牧畜は当初より飼料の生産と牧養の分業を図りながら産牛から牛乳の加工販売までを行った現在にも通じる斬新なもので、また製酪の開始を明治40年としており、実に「藤野牧場」に先立つものであった。

◆道内牧場の荒廃
 しかし、この先進模範的な豊村牧場も明治38年「北海道庁勧業統計」に『豊村牧場 牧場面積九五三、一五〇坪 牛一二 馬二〇』とあっても、大正2年「村統計綴」や同5年「網走支庁拓殖概観」には記載がなく、これについて河野常吉の「北見東部四郡」大正5年5月調では『牧畜家ハ大抵失敗セリ 豊村品藏モ然リ』とある。


 豊村品藏君 略 現在の位置即ち二十線に居宅並に倉庫厩舎等數棟を建築し、専心牧畜經營に努力したり 中略 一方畜牛よりは、搾乳して賣却し傍ら牛酪を製造し又蕃殖牛年々十二三頭を賣却して漸次多大の収入を得つ〵ありしが、不幸にして牛價非常に暴落し到底豫期の収入を見ること能はざる 後略 北見之富源/明治45年

 その背景としてはこの頃に殖民地の成功検査が進み、取得後の牧場の転用あるいは一時利益のための畜牛の処分が急増して、明治31年頃から40年前後をピークに牛価格が急落し、同41年には成牛1斤24円50銭であったものが同44年には13円にまでなってしまい、特に遠隔地であったこの地方への影響は顕著であった。
 また、大正5年「網走支庁拓殖概観」でも『當時は其の飼畜の方法稍々放漫に流れ一時の奇利を博せんとしたる嫌なきにあらざりしなり』とある通り、以後、専業的な大農場は暫らくの間は停滞するに至り、豊村による一大牧場も暫時縮小廃止されたようである。この当時の経緯と状況については次に詳しい。


 前略 北見ノ土地ガ牧塲ニ適セルハ勿論ナルモ地味肥ヘタルガ故ニ寧ロ農耕地トスル方利益大ナルヨリ事業家ハ未開地處分法ノ規定ニ基キ成功検査ヲ受クル迄ハ牧塲トシテ經營スルモ爾後ハ漸次農塲ニ變更スル傾向アリ貸付又ハ賣拂ノ條件ニ基ク官廰ノ簿冊ニ見レバ牧草萌ユル野ニ牛馬ノ群眠レル筈ノ箇所ガ良圃トナリテ 中略 殊ニ明治四十四年以後食用牛ノ價額低落シ全道ヲ通ジテ牧塲飼牛ノ減少ヲ來シタルガ北見ハ需要少クシテ交通不便ナル為メ其ノ影響ヲ被ル事甚シク同年以後著シク畜牛ノ減少ヲ見ルニ至レリ 網走築港調査書/大正3年
   
 実際には牧場用地内の林木の切り出しのみを目的としたものや取得後の用地の転売をねらった投機的なものも多く、広大な牧場にごく簡易な牧柵と数頭の牛馬、さらには借りた牛馬を放牧して検査をやり過ごすなど非常に悪質なものもあって、それが畜牛の乱売に拍車をかけて一時的な牧場の荒廃へとつながった。

第34回牛飼いのはなし

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2008年03月11日

網走地方のリンゴ

~網走管内のリンゴ栽培(第10回のつづき)

戦前のリンゴ作業の様子 : 検査要覧/昭和12年  農業開発が最も遅れた道東でも、明治7年には根室に官園が設けられ、このとき他と同様に果樹の配布があったと思われるが、三県時代の根室県では同18年に「農業談話会」と「北海道物産共進会」が開催されて、同年七重村から導入した苗木を県下全戸へ奨励している。
 網走管内の果樹栽培は最寄の猪股周作が明治15年に杏・桃・梨の苗を各3、4本取り寄せたのに始まって同22年にはリンゴも植栽し、同20年代には郡書記の北川則治や川端勝太郎、原鉄次郎ほか網走郡役所の周辺者が奨励を受けて試植したが、当時はいづれも好奇趣味的な園芸の程度であった。明治22年道庁勧業年報にはリンゴ樹が網走郡11本、斜里郡は27本とある。
 これらの奨励は明治24年に網走郡外三郡へリンゴほか450本が、翌25年にもリンゴ200本が下付され、同20年代には盛んに移植が試みられたが、特筆すべきは小清水の半澤真吉が同25年からリンゴ樹を植え、盛んに苗木の生産と配布を行い、同27年には幌内の藤島福治が苗木1,000本を植栽したと云い、また網走の高田吉藏は七重官園に働いたことがあり、上湧別の上野德三郎は札幌農学校の伝習生で、また仁木村から再転住した木村嘉長は「北見之富源/明治45年」に『家屋の附近には李苹果を栽植して年々幾分の収獲を得』とあるように、渚滑村でも苹果を植えて同40年代には結実を見ている。

 半澤眞吉 略 明治二十五年小清水に三十本の林檎を植栽し爾來年々移植又は希望者に配布したる數數百本に及ひ又字シマトカリに於て落葉松2千本を植栽し且つ一般に配布し 後略 殖民公報第六十八號/大正元年
 前略 駅逓藤島福治ノ如キハ、漁ハ固ヨリ本業ナレトモ、頗ル農牧ノ業ヲ楽ミ、「ホロナイ」川左岸ニ於テ八万七千七百坪ノ牧場を有シ現今専ラ牧馬スレトモ、将来牧牛、牧豚ノ望ヲ懐キ、且ツ屋後ノ高原ニ明治二十七年千株ノ林檎ヲ植エ(現今五六百株生存)、家屋ノ周囲ニ穀菽蔬菜ヲ栽培シ、又当年米ヲ試作シ頗ル熱心ナリ 北海道庁第十一回拓殖年報/明治30年
 高田吉藏 略 (明治)二十八年秋始めて農業に志し大曲に於て耕地四町歩餘を二百八十圓にて買受け之に野菜を自作し監獄署及ひ工場等に賣却して太に利益を得たり又苹果の將來有望なるを思ひ同町大字最寄に於て耕地四町歩餘を買入れ之に札幌地方より苗木を取り寄せて栽植し 中略 現住地に移りて以來熱心諸種の事業に勉勵せし結果目下の所有畑地十三町歩、之を一反歩平均一圓の小作料にて貸付し果園の苹果六百本は既に成木して盛に登實せり 移住者成績調査第一篇/明治39年
 網走付近ノ林檎ハ年々其数ヲ増シ、目下同地方ノ林檎ハ三万九三三〇ノ多キニ至リ、品質小樽・余市付近ヨリ産スルモノト比較セバ稍ヤ劣ルモ 其成績見ルベキモノアリ、一ヶ年ノ収獲高ハ一万八千貫目、之ヲ時価ニセバ九千円ナリト云ウ 網走市街付近林檎園ノ景/明治39年


 こうして網走管内では明治33年に紋別郡でも産出するようになったが、その中心はもっぱら網走であり、同42年に4万円・10万斤の産額を示してブームを迎え、同45年には「網走林檎販売組合」設立の動きともなったが実現しないまま、同44年の病害虫の大発生で一時的に減少しながらも、その後の防除等の栽培技術の進歩から次第に北海道を代表する一大産地へと発展した。
第33回リンゴの話し2

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2008年03月05日

網走での捕鯨

~オホーツク捕鯨の始まりと紋別での終焉


◆網走支庁拓殖概観/大正6年

 東洋捕鯨會社茲に見る處ありて從業根據地を網走町大字最寄村に設け網走事業場と稱し、捕鯨船二艘を配し客年より之が捕獲に着手せり、中略 〔一年目〕 三十一頭を捕獲し第二年目(大正五年)五月下旬より捕鯨開始し百三十一頭に及び此價格約拾萬圓の巨額に上れり、而して之が需要の方法に就ては地方人士未た食料に供せんとする調理法を知らさると夏季の捕獲に属するを以て其の大半を肥料又は製油と爲し管外に輸出せらる 後略  

 明治32年に下関の岡十郎が「日本遠洋漁業株式会社」を設立し、我国で最初の汽船によるノルウエー式の近代捕鯨を開始して、この後身の「東洋捕鯨(現ニッスイ)」は大正元年に室蘭を拠点に本道へ進出、同4年には網走に事業所を置いてオホーツクでの捕鯨が始まった。紋別へは昭和5年に大東捕鯨㈱が進出したが、このときには数年で撤退してしまった。
 時代が下り、かっては「大洋漁業㈱(現マルハニチロ)」や「極洋捕鯨㈱(現極洋)」などの基地でもあった紋別も昭和51年の水揚げを最後に捕鯨は見られなくなったが、これは200海里規制や反捕鯨運動のためだけではなく、同年7月、違反操業のために小型捕鯨船団が一斉に摘発されたことによる。                                  北海民友新聞   
 それは海上での処理が昭和18年には禁止されていたにもかかわらず、長年に渡って慣行されて来たもので、以前は水揚げ時にサイレンが鳴り、子ども達が走り募っては解体作業を見物した紋別の風物詩も、処理施設が無くなり、これを契機に捕鯨は廃止された。
 樺太タライカ湾付近で行われていた大型捕鯨は、それ以前の昭和43年に大洋漁業が2頭を捕獲したのが最後である。
紋別でのクジラの解体風景/昭和35年頃と同40年頃
 第29回お魚のお話し

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2008年02月28日

開進社、北見国の土佐団体

~紋別地方に見る開進社その後
 
 さて「宮崎寛愛」の土佐団体による渚滑村への入殖は、北見地方の開拓初期において非常に大きな比重を占めているものの、今まで余り触れられていない。「寛愛」の伯父「宮崎簡亮」は明治11年に開拓使御用係となり翌年には「北海道開進社」設立に副社長(のち社長)として参加したもので、「北海道開進社」とは本道の開拓を目指した最初の殖民会社であり、祖父与一郎は第四会所長として発足村の開墾に従事していた。
明治29年の湧別・下常呂原野殖民地の図/新設屯田兵村略図抜粋
◆周辺に見た土佐団体
 
 常呂村 農業 前略 (明治)同廿八年高知縣團体移民來リテ開拓ノ業盛ナリ今其移住顚末ヨリ記セン 該移住民ハ高知縣高岡郡ノ産ニシテ湧別原野ニ入リタル同縣人ト共ニ一ノ團体ヲ成セリ明治二十六年本道ニ在ル宮崎寛愛ナルモノニ依頼シテ移住適地ヲ探ラシメ 中略 後志國ニ在ル同縣人宮崎簡亮宮崎寛愛ニ依頼シ雑糓ヲ小樽ヨリ廻漕シ以テ飢餓ヲ免レタリ 中略 宮崎簡亮ハ明治二十八年當原野及ヒ湧別原野高知縣團体移民ヨリ金糓貸付ノ依頼ヲ受クルヤ北海道殖民協會ナルモノヲ設立シテ金品ヲ貸付シ各年ニ移住セル團体民ノ連帯負債トナシ 後略
 湧別村 部落 高知縣團体 前略 明治二十七年秋本國ヨリ渡航セルモノ十一戸及ヒ後志國岩内郡ニ在リシ該縣人數戸初メテ當原野ニ入ル 中略 徳島縣人 明治廿七年二戸同廿八年十三戸移住ス同廿九年宮崎寛愛等ノ勸誘ニヨリ凡六十戸渡來セシガ 後略
                                                    北海道殖民状況報文/明治31年
             
 この「北海道開進社」の創設者は岩倉具視の下で華族銀行と士族銀行の経営に当った元大蔵大丞の「岩橋轍輔」で、岩倉の勧めから士族授産と北海道開拓を目的にハローやプラオ、農耕馬など西洋農法を積極的に取り入れ、また七重勧業試験場の協力を得るなど、本社を函館に置いて道内5拠点で開発を行った。

 前略 余ハ北海道ヲシテ大ニ殖民開発ノ事業ヲ冀図スル事年アリ 中略 且曩ニ余カ家ニ雇使スル所ノ宮崎簡亮ヲシテ去年北海道ニ遣リ今札幌ニ在リ簡亮ハ余カ信スル所ニシテ大ニ北海道開墾ニ篤志ノ者ナリ 中略 足下宜シク力ヲ北海道開墾ニ用ユヘシ 後略
                                               北海道開進社創立起源ヲ敍ス/岩橋轍輔
                                            
 その後「北海道開進社」による殖民事業は一部の定住民を残して内部分裂と資金不足のため失敗に終わり、その流れをくむ以後の北海道への移住には「寛愛」が深く関係してくる。湧別村への入殖は明治27年に11戸、翌28年が29戸、常呂村へは同28年に42戸が入り、このときに発足村(現在の共和町)からも11戸が再転住した。
 明治28年には窮乏に備えて「簡亮」による「北海道殖民協会」が設立され、さらに徳島県からも入殖者が入るなど、大正5年「網走支庁拓殖概観」では『下湧別原野に岩内地方より移住したる農民が西洋農具を使用し以て耕馬使用の端緒を開き農用馬匹の需要を認め改良蕃殖の方法盛んなるに至る』とある。 


◆紋別での土佐団体
 「紋別市史」では明治30年の渚滑村(現紋別市)への土佐団体の入殖を『宮崎ら一行は当初斜里村に移住の目的で渡道したものであるが、途中たまたま紋別港に寄港したところ、渚滑原野が殖民地に選定され、区画割を終えて貸付け出願受付中であることを聞き、同県人岩田宗晴のあっせんで、中渚滑地区十二線から二十四線にわたる平坦地を出願入地した。』として、ここにひとつの疑問が生じる。
 それは斜里原野の測設は明治31年であって、その前年に180戸もの団体が入地したとは考えにくく、これだけの規模を着手までの間、支えるのは非常に困難であるから、これは斜里ではなく下常呂原野の誤りではないかと考えるが、河野常吉の「北見東部四郡」では『宮崎寛愛簡亮ラカ廿六年北見國迄漫遊シ 高知ヨリ団体民ヲ募リ來リ打彙タリ 是は渚滑ニ入リタリ』とあって計画的であったとも考えられる。


 前略 遂に北見国に於て、有望なる好殖民地を発見し、同国常呂・湧別・渚滑の三原野に植民を計画し、その翌年、即ち明治二十七年、前述土地(発足村の10万坪)売却代金を以て運動費に当て、郷里高知県に赴き、団体移民を組織し、爾後五年間、殖民を継続し、開拓の奨励につとめ、総人員弐千余人を移了し、明治三十五年に至り、全部成功を告げたり。         翠柊覚書
                                 
 これについて「寛愛」の自伝はこのとおりで、いずれにしろ「岩田」と「宮崎」は同県人であり、また当時の網走支庁に「吉田某(吉田金陵か)」という徳島県人がいて便宜を図ったと云うことから、何かしらの関係があったのかも知れない。
 後に「宮崎簡亮」は実業家として湧別村長を務めたりもしたが、大正4年には猿拂村にある岩崎男爵の拓北農場長として湧別村からの農夫を雇い、同じく農耕馬とハローを用いた営農を試みており、また明治44年に渚滑村へ入殖した岡村文四郎の場合(北海道農業会長、全国共済農業組合連合会長、参議院議員ほか公職を歴任)は、いわゆる呼び寄せによるものと考えるが、同28年に湧別村と常呂村へ入殖した土佐団体の内の数戸が渚滑村へ再転住しており、これと何らかの関係があったと推測する。


 前略 わたくしは南国は土佐、高知県の生まれであるが、いまでは、すっかり北海道の農民になってしまった。わたくしは明治四十三年に現役兵で入営した。中略 内地に帰って来てみると、郷里では、はからずも北海道へ行って開拓に当たろうという話が持ち上がっていた。
 わたくしの父は作次というが、父の友達で、明治二十八年に北海道へ行った人が、たまたま土佐に帰って来て、「北海道に行かないか、北海道はええところだよ」という。「よし行こう」と相談がまとまっていたのである。以下略   わが生涯/昭和39年

 このようにして開進社による開発は失敗したとは云え、その流れをくむ入殖者達は各地に分散伝染しながら、その後の道内の開拓に大きく貢献したもので、特に網走管内に四国系の入殖者が多かったのは北光社のみならずその為であり、各所に土佐コロニーが現出するに至った。

                                            常呂町土佐集落    第24回郷土語り

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2008年02月23日

遠軽・湧別・雄武ほか開拓時代の特異者

~湧別・遠軽ほか紋別郡を中心とした開拓上での特異人物。

 さて、ここでは「オヤ!」と思う、余り知られていない郷土の開拓者達を簡単に紹介する。

・半沢真吉
 藤野番屋ではない初めての紋別郡戸長で仙台藩少年隊の生き残り。真吉は明治12年に函館税関に奉職、翌年には網走郡役所へ移ったのち、同15年には第3代紋別郡各村戸長となる。湧別村では未開地三千坪の貸付を受け農作を試作して西郷農商務卿の巡視の際には賞賛を受けたりしている。徳弘や和田よりも早い、網走管内での農耕の先駆け。後に斜里郡止別村へ転入して農牧業を営みながら小清水駅逓所を開設、また、つとに林檎の栽培と牧畜業の開発に努めた。晩年には斜里村に移って商店を営み、味噌・醤油を醸造したりもした。
・開進社/宮崎簡亮
 岩内ほか全道各地を開発した北海道最初の開拓会社の中心人物。開進社は失敗に終わったが、のち湧別・常呂・佐呂間・渚滑へ入殖して土佐団体を指揮し、この地方の殖民初期に与えた影響は大きい。その後は実業に転じて湧別村長も務めた。
・堀川泰宗
 枝幸砂金開発の功労者。後に湧別に転住して駅逓(旅館)や牧場を開設するなど実業に従事し、村議会議員をつとめたりした。大東流合氣柔術の中興の祖といわれた武田惣角に師事した達人で、後年に合氣道を完成させた白瀧の植芝盛平とは兄弟弟子。
・学田農場/佐竹宗五郎
 遠軽の学田農場に入り、盛んにハッカ栽培を行い普及にも尽力した北見ハッカの功労者で、キリスト教の布教に努めたピアソンの有力な支援者。
・木村嘉長
 渚滑村開祖の人。有名な仁木竹吉を補佐して仁木村をつくりあげが、そのころすでに旧開地と呼ばれていた余市・岩内からの網走管内への再転住は多く、有力な者が多い。
・藤島福治
 明治16年に雄武の幌内に入った福治はこの地方の漁業の草分けであり、駅逓取扱人や郵便局長を務めながら牧畜に力を注いだ。特出すべきは明治27年にリンゴの苗木1,000本を植栽したと云い、後に美幌へ転住して、そこで一大牧場を経営した。 
                                                                第22回郷土の歴史

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2008年02月21日

点字の開発者・石川倉次と斜里の開拓

北海道の開拓と社会事業3。(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆斜里の石川農場
 斜里での本格的な農場の始まりは石川農場である。千葉の士族に生れた石川芳次は士族授産の給与地を貰いそびれて残念に思っていた。明治30年制定の「北海道国有未開地処分法」では開墾さえすれば土地が無償で付与されると知り、翌年には視察のために渡道して入植地を飽寒別原野の幾科に選定した。
 明治32年に79町歩の貸与地を得て単身400円の資金をもって現地へ入り、一年目は1町6反歩を開墾した。翌年には12町歩の追加貸与を受けて一家を呼び寄せると三年目からは小作人を入れ、そうして後の上斜里の牧場地と合わせた大正5年の全耕作地は約168町歩にもなって、うち14町歩は自作し、残りを岐阜や宮城、岩手と真狩からの再転住者ら34戸の小作として、4~5年の開墾期間に後の3年間は小作料を減額するもので、年に数百円は慈善事業に費やし、馬鈴薯を主に豆類や麦類のほか薄荷や林檎などの先進的な商品作物を栽培し、また、水力による澱粉製造や木挽なども行った。
 
 斜里町郷土研究第12号
 明治三十五年四月二日 貴殿ヘ兄石川倉次殿ヨリ本院男児十四五才之者数名開墾業ニ従事セシメ度趣ニテ願出相成候処該業ニ従事セントスル志望者モ有之候ニ付テハ大凡本年何月頃ニ御引取被下候哉又其節ハ御出京ニ相成候モノニ候哉何分之御回答相煩度此般申進候也トアリ
    石川倉次先生斜里滞在日記


 この間、厳しい生活に小作人が定着しないため、10年後には2戸分の開墾地を与える契約で「東京養育院」から男女10人を雇い入れ、そうして全貸与地を成墾して付与を受けることが出来たので彼らに農地5戸分を与えた。
 さて、「東京養育院」とは明治5年に設立された貧民や傷病人、孤児らのための救済所で、初代の院長は渋沢栄一であったが、少年児童は現在の「里親・職親」へと繋がる「縁組並雇預」の制度をもって自立を促し、商人や職人、漁家・農家へと引き取られていたが、芳次の兄の倉次は日本式点字を創作した「東京盲亜学校」の教師であり、その関係から養育院の院生を呼び寄せて開拓に当たらせたのだった。
 第21回歴史と郷土

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2008年02月21日

遠軽家庭学校にいた警視総監

北海道の開拓と社会事業2(19~21北海道の開拓と社会事業)

◆家庭学校とその農場
  押川方義や田村顕允らの「北海道同志教育会」は明治30年に信田寿之牧師を農場長として遠軽へ入り、キリスト教学校の建設を計画し至らずにいたが、後年、留岡幸助は同地へキリスト教的教育を実践する集団農場を開設した。
 同志神学校を卒業した幸助は教会牧師を経て空知集治監の教誨師となった。このとき非行少年の感化事業の必要性を深く感じて渡米留学すると、帰国後には巣鴨監獄の教誨師のち警察学校の教授となり、明治32年には巣鴨に「少年救護院東京家庭学校」を創設して後に北海道遠軽と神奈川茅ヶ崎へも分校を設けたが、この間も内務省の嘱託として社会事業の啓蒙に努めた。

 この大正3年に設立された遠軽の「社名淵分校」は大自然での労働を通じて感化を図ろうとするもので、同年に社名淵と同5年には白滝へ計約1千町歩の売払地を得て、キリスト教に独自の報徳思想を取り入れた一戸5町歩の小作農場として、小作人には将来の自作農を、卒業生へは分家と称した永住による理想郷の建設を目指した。
 その温情と誠意にあふれた経営は小作の開墾期間を3~4年として反2円に小屋掛15円と農耕馬へ10円を補助し、1年目には滋賀県人4戸ほか計11戸が入植した。学校では大正4年に乳牛を導入し、同6年には牛舎と搾乳場を建築、同8年に畜産部を独立させて同9年には飼育数が10頭となり、同12年は大型サイロを設けて、また、バター製造を開始して東京へ出荷するなど、このサイロの建設には札幌軟石が使用されている。そうしてほかに鶏百数十羽を飼育し、小作へも牧畜と養鶏を奨励しながら、水車による製材所を建設して自他の用に供し、こうして同9年迄の小作数は社名淵が50戸、白滝が25戸となり、また前年には水稲の試作にも成功した。昭和5年には社名淵産業組合が結成されて同14年に社名淵が同16年には白滝の全小作約80戸500人を開放したが、日曜学校や夏季保育園と冬季学校など、常に地域の中心にあった。

 ところで幸助の長男の幸男は内務官僚で、東条内閣では警視総監としてゾルゲ事件に対応し、戦後の昭和21年には北海道長官となったが、どさくさの中でたびたび道職員と衝突し、何も出来ずにたった3ヶ月で辞めてしまい、その後は家庭学校の校長のほか社会事業に尽力した。また、次男の清男は北大教授や北星女短の学長を勤めた。  第20回歴史と郷土/写真は大正8年絵はがき集より

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2008年02月13日

北見のハッカ

~薫るミントの風、「北見ハッカ」のはじまり

 夏毎に我家の庭には風薫るミントの花が咲く。かっては世界の7割強を産出した北海道のハッカも今は僅かに網走管内に見られるだけで、そのほとんどを産出した「北見ハッカ」の端緒は実に紋別市にあると云う。
 北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝されて翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山兵村の山形県人石山伝右衛門で、さらにここから渡辺精司が湧別村へ移入したことから、よって以後の道内薄荷はほとんどが山形系となった。
 この「北見ハッカ」の発祥には諸説があり、河野常吉によると明治31年に永山兵村から移入した同じく湧別村の高橋と有地、腰田らがそれと云い、『渡辺精司を湧別薄荷ノ元祖ト云フモ渡辺ヨリ其苗ノ擴マリシヲ聞カズ』としているのは、この調査時の湧別村の主な栽培地は高橋から導入した芭露であって、この時には渡辺は上芭露郵便局長にあったから、渡辺の地元では高橋からの導入によるものという河野の誤認であった。
 さらに湧別村への渡辺の転住も定かではないが、明治26年には湧別原野が開放され、また翌27年2月発行の「北海道實業人名録」では前住地に経営する商店の名義を11月付で倅の「精一」としており、当時の交通事情ほかを考えると少なくとも、同26年秋頃までには移住していたと推測される。                   (置戸町郷土資料館のハッカ釜)

 殖民公報第六十四號/明治45年
 本道の薄荷栽培 中略 本道に於て始めて薄荷の栽培を試みたるは今を距ること二十年前及ち明治二十四年頃にして石狩國上川郡永山屯田兵村移住山形縣人石山傳兵衛を以て嚆矢とす越て同二十六年五月福島縣人渡部精司之か苗根の分與を受けて北見國湧別に移植し同國地方に於ける蕃殖の基因をなしたり明治三十年上川郡の産額始めて統計上に上り三十四年に至りて上川は一時休止し北見國湧別を計上し、三十五年に同野付牛並びに上川を示し 後略 
 
 北見繁栄要覧/大正元年     
 そして渡辺が開拓地の選定のために北海岸を探査中、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生薄荷に着目、それを試験的に精油したのが明治24年で、これが「北見ハッカ」の濫觴であり、後に藻別村でも栽培を試みた。後年、芭露と並び「渚滑ハッカ」と云わしめたのは、高橋と共に栽培に専念した植松一族が渚滑村(現紋別市)へ再転住し、ハッカの栽培と買付けを行ったためであるが、その渚滑には近年まで当時の通称「ハッカ御殿」というものがあった。
 それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、この頃に屯田兵を通じて湧別から移植され、また別に広く伝播した理由のひとつに日露戦争の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息から薄荷の話を聞き、戦後に至って永山村から導入し成功したのが大きなきっかけであったとも云う。
 最後に昭和8年「北聯薄荷工場(北見ハッカ記念館)」の創業以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが建設され精製されていたことは余り知られていないが、また年月を経て移転不明となっていた「渡辺精司」の墓所も今はゆかりの上芭露墓地にあり、そこには「渡部」とあって直系は函館市にお住まいである。

 野付牛町に於ける北聯薄荷工
 昭和9年(網走支庁管内概況)









第11回北見ハッカのはじまり

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2008年02月11日

網走郷土博物館の新発見!

~網走郷土博物館の「葛籠」と「高札」

〈網走市史〉
 
 同館の2Fの近現代史コーナーには「根室縣 網走郡役所」と朱書きされた「葛籠」がある。この「県」とは明治15年2月に開拓使が廃止されて3県としたもので、同19年1月には再び北海道庁に統一された。この間、根室県の開庁は明治15年4月で、郡役所の新築は同18年9月と云い、「葛篭」はその時のものと推測されるが、一説には郡役所の開庁当時からとも云う。
 さて、ここで注目したいのは、その隣りに展示される「高札」で、日焼け著しくかろうじて「太政官」と読み取れるそれに、もしやとの期待から知人らの協力もあって次ぎのように解読に成功した。
 ◆五つの禁令
 その高札は次のとおりの「五榜の掲示」の第一札と判明、これは「五箇条の誓文」が公布された翌日の慶応4年3月15日に公示された新たな政府の基本的な禁令で、この第一札は『五倫=守るべき5つの道理、鰥寡孤独廃疾ノ者ヲ憫ム=寄辺のない者への憐み、殺人・放火・窃盗の禁止』を説いたのもだった。                                  提供:網走市立郷土博物館                                  


 〇五榜の掲示
  第一札                                    
   一 人タルモノ五倫ノ道ヲ正シクスヘキ事         
   一 鰥寡孤独癈疾ノモノヲ憫ムヘキ事
   一 人ヲ殺シ家ヲ焼キ財ヲ盗ム等ノ悪業アル間敷事
                        慶応四年三月


 維新前後の新政府の施政も、わずか半年後には蝦夷地に上陸した旧幕軍のものとなったが、この間には政府の平井幸一郎なる者が網走場所を受領して引き継いだと云い、高札はこのときのものと思われる。
 新政府によるこれら「五箇条の誓文」や「五榜の掲示」などは、佐幕派の大名領では掲示されず、また戊辰の役では破棄されたりもしたが、最奥の北見へは事実上の榎本旧幕政権も及ばず、また実際には場所請負人の経営下にあったから、この高札も廃棄されずに保存されたと考えるが、当時の混乱した状況を鑑みたとき、たいへん貴重な資料である。         第9回オホーツクの明治維新

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2008年02月02日

オホーツク平ものがたり

□もんべつマガレイと大鮃のお話し

○動力船と「もんべつマガレイ」
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させ、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航して操業し、動力船での漁が急増したが、この時は主にマガレイが大量に漁獲された。
 後にマガレイがオホーツク海を中心に全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わり、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このような歴史的背景から「紋別マガレイ」がブランド化して行ったと思われる。
 ○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年にかけては沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


   斜里・紋別地方のアイヌのオヒョウ釣りの図   
           (蝦夷訓蒙図彙)                                    第2回もんべつマガレイ(第58回へ続く)




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