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2010年10月31日

北見のハッカ(再)

北海道の薄荷栽培





































































香るミントの風~北見ハッカの元祖を追う 開墾が始まったばかりで、交通不便な奥地においては、収穫物としてのハッカの取卸油は運搬がたやすく、また、北見の気候風土にたいへん良く適したことから、この地方に瞬く間に広がって行きました。こうして世界の産出の大よそ7割を占めるようになった「北見ハッカ」は、いったい何時で、誰が最初に栽培したのか?、諸説ふんぷん、その最も有力と云われる人物さえも、その正確な氏名やお墓の所在さえ、分からなくなってしまいました。当地の開拓期の先鞭となり、昭和40年代まで大いに興隆を見たハッカ栽培の元祖を、今、あらためて追ってみます。夏毎に我家の庭には風香るミントの花が咲く。かっては世界の7割強を産出した北海道のハッカも今はわずかに網走管内に見られるだけで、そのほとんどを産出した「北見ハッカ」の濫觴は、実に我が紋別市にあると云う。北海道のハッカの発祥は明治17年の門別村と口伝され、翌年には八雲村の徳川農場で栽培されたが、本格的な耕作の開始は同24年の永山屯田兵村の山形県人・石山伝右衛門によるもので、ここから湧別村へと「渡辺精司」が移植したことから、よって以後の道内のハッカは、ほとんどが山形系になった。この「北見ハッカ」の発祥には諸説があり、「渡辺精司」の氏名もマチマチに伝えられ、また、長い年月のうちに、そのお墓の所在も分からなくなってしまった。河野常吉によるところでは、最初に北見地方へ種苗を移入したのは、同じく湧別村の高橋長四郎と有地護一、腰田兼松らによる明治31年と云い、『渡辺精司を湧別薄荷ノ元祖ト云フモ渡辺ヨリ其苗ノ擴マリシヲ聞カズ』としているのは、調査時の湧別村の主な栽培地は高橋から導入した芭露であって、この時に渡辺は上芭露郵便局長であったから、渡辺の地元では高橋からの導入によるものという河野の誤認であった。さらに湧別村への渡辺の移住も定かではないが、明治26年には湧別原野が開放され、また、「北海道實業人名録」では、前住地に経営する商店の名義を同年12月付で倅の「精一」としており、当時の交通事情ほかを考えると、同26年の秋までには移住していたと推測されるが、有力な記録として同年5月に湧別村へハッカ苗を移植したのだと云う。 本道の薄荷栽培 中略 本道に於て始めて薄荷の栽培を試みたるは今を距ること二十年前及ち明治二十四年頃にして石狩國上川郡永山屯田兵村移住山形縣人石山傳兵衛を以て嚆矢とす越て同二十六年五月福島縣人渡部精司之か苗根の分與を受けて北見國湧別に移植し同國地方に於ける蕃殖の基因をなしたり明治三十年上川郡の産額始めて統計上に上り三十四年に至りて上川は一時休止し北見國湧別を計上し、三十五年に同野付牛並びに上川を示し 略 殖民公報第六十四號/明治45年 そして渡辺が開拓地の選定のためにオホーツク沿岸を探査中、藻別村(現紋別市)のモベツ河畔に自生する野生のハッカに着目し、それを試験的に精油したのが明治24年のことで、これが「北見ハッカ」の濫觴となって、後に当市でも試験栽培を行ったらしい。それは明治廿五・廿六年紋別郡土地貸下臺帳に『紋別村ヲンネナイ 原野千五百坪 借地人福嶋縣渡邉精司 目的地目畑地 指令明治廿六年三月三日』とあるから、やはり北見入りは、明治26年で間違いないところだろう。さて後年、芭露と並んで「渚滑ハッカ」と云わしめたのは、高橋と共に栽培に専念した湧別村の植松一族が渚滑村(現紋別市)へ再転住し、ハッカの栽培と買付けを行ったからで、その集落には、近年まで通称「ハッカ御殿」いうものが残っていた。それでは野付牛村(現北見市)の栽培開始はいつかと云うと、昭和11年の「屯田兵村現況調」では『明治三十五年下湧別村ヨリ移入シ栽培シタリ』とあるが、既に明治33・4年頃には導入されていて、また、明治37年の日露従軍の際に野付牛村の茂手木が先の石山の子息からハッカの話を聞き、戦後に至って永山村から導入した逸話も残っており、北見地方で栽培が広まったひとつの理由に、日露戦争での屯田兵間の情報交換があった。最後に昭和8年に「北聯薄荷工場(現北見ハッカ記念館)」が創業する以前の大正13年には、すでに遠軽において「北海道薄荷製造株式会社」なるものが、建設され精製されていたことは余り知られていないが、また、年月を経て移転不明となっていた「渡辺精司」の墓所も今はゆかりの上芭露墓地にあり、そこには「渡部家」とあって直系のご子孫は函館市にお住まいである。 明治42年に紋別の上藻別原野へ入った福原浅吉は、鴻之舞金山発見の端緒となった八十士砂金山での現場監督であり、人夫の栄養不足によたる脚気に対応するめ、農場を開設したもので、後に一族が手広くハッカを商い、「ハッカ福原」と称されて、部落はハッカ栽培による景気に沸いた。昭和8年に旧紋別町の産業組合が事業を開始した時、藻別川沿線から上鴻之舞、弘道、志文にかけて盛んに作付されていて、その収穫高は全組合産額の凡そ8割に上ったと云う。 旧北聯事務所(北見ハッカ記念館) 当時の北聯薄荷工場 網走支庁管内概況/昭和9年 それまでの3倍の効率を上げた田中式薄荷蒸留釜 置戸町立郷土資料館 現在の仁頃のハッカ 渡部家墓碑 北海道薄荷製造株式会社資料/遠軽町郷土館蔵 北海道/旭川新聞社/昭和15年 検査要覧/北海道農産物 検査所/昭和12年 戦前の大手ハッカ商社の広告 野付牛薄荷検定所・左下、見本の抽出・左上、北工試式ボイラー蒸留機・右上 選別と荷造・左下、圃場の審査・右上 福原政五郎のハッカ油分水器/紋別市立博物館蔵 薄荷畑元祖は祖父よ開拓史 渡部清三著/句集「雪の音」より













第214回 世界を席巻した網走地方の薄荷      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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