さぽろぐ

文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2013年04月21日

美深の奉安殿































第341回   美深町の奉安殿           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2013年01月06日

道東北の戦時遺産



道東北で戦時遺産の見直しが進む この秋、釧路と十勝の戦時遺産を探索した。道東北では、昨冬、稚内市の旧海軍幕別送信所の一部が積雪のために倒壊し、広尾町では野塚トーチカが海岸段丘を落下して話題となった。 この送信所は市の歴史的建造物であり、地元では通称・赤レンガ通信所と呼ばれて親しまれ、稚内市歴史・まち研究会と北海道建築士会宗谷支部が被害状況を調査し、現在、修築中である。 しかし、この種のものの多くは、ごく一部の歴史愛好家が趣味的活動としているのが実態であり、専門家や行政による保存事業は稀である。 最近、別海町に残る奉安殿が町の歴史文化遺産となったが、学芸員によると思想的アレルギーもあり、指定にはたいへん苦労したという。 大樹町では、歴史的価値があるとしてトーチカが整備保存され、広尾町は、トーチカを記念物に指定した。観光的ではあっても文化財として残された意義は大きい。また、帯広市などは、平和推進事業の一環として防空壕跡に標柱を設置した。 広尾町の豊似小学校にある二宮尊徳像は、戦時の金属供出のための陶製で、当時を物語る貴重な遺物であるが、著名な窯元で焼かれた備前焼は、本来の焼物としての価値も高い。 北海道文化財保護協会 釣山 史 ◆豊似小学校の二宮尊徳像 戦時供出後に再建された。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の総本家木村興楽園である。 ◆広尾町のトーチカ群 広尾町には、12基のトーチカが現存するという。同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、113 万円を投じて遊歩道を整備した。






















第333回   道東北の戦時遺産           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月28日

奉安殿の建築基準






































現存する奉安殿の調査を重ねて数年、ほとんど知られていないのが、奉安殿の建築基準である。

 ①社殿(神社)造であってはならない。
 ②適当な通風孔を設けること。
 ③扉は2重にし、内扉は金網張りとすること。
 ④屋根は瓦やトタン葺の場合は、雨漏りがしないように下に柾を敷くこと。(つまり、瓦やトタンでなくても良い)

 最初期には、どのように造って良いかが分からず、後に①の指導によって改築されたものもあった。


第332回   奉安殿の建て方           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月24日

模擬手榴弾

教練用模擬手榴弾






















































第331回   旧日本軍の模擬手榴弾           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月22日

開戦の詔書


終戦後の詔勅類の管理 『教育に関する勅語(以下、教育勅語)』其の他詔書の謄本類は現在奉安殿或は奉安棚に最尊重に奉置し鎖鑰する様にしているが昭和二十一年四月五日宮内大臣官房発第六六号『御写真取扱要綱』によると勅語謄本類も奉安殿等に奉安することは避けねばならぬ様に思料せられますが如何に御取扱を致すべきものか又御奉還申上ぐるようなことはないかにつき御伺致します との三重県知事の伺いに対し、文部省学校教育局長の回答は、昭和二十一年七月十日 伺い出のことは学校長の見識に於て適宜措置する様願いたい としており、勅語及び詔書は学校長の裁量で保管・管理され、後の昭和二十三年六月二十五日に教育勅語等の謄本は返還し、それ以外の勅語、詔書等は適当な処置を講じるように通牒された。 ※教育勅語等とは、『教育に関する勅語』、『軍人に賜はりたる勅諭』、『戊申詔書』、『青少年学徒に賜はりたる勅語』と解される。 以上のように詔勅類の保管と処分は一定せず、教育勅語等の回収がひそやかに行われたこともあって、明らかではない部分が多い。こうして道内に残る奉安殿や詔勅類の調査を初めて数年、未だに出会っていないのが、太平洋戦争時の『開戦の詔書』である。 図は、現在、私の手元にあるのであるが、知見が得られず、いわゆる小学校等にあった本物の詔書謄本か、どうかが判断できないでいる。

第330回   開戦の詔書           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年12月20日

陶製の兵器



戦中、国内では金属製品の供出が奨励されたが、いよいよ物資が欠乏すると陶製の兵器が現れた。

①備前焼の三式地雷
②実戦配備されなかった陶製手榴弾(備前焼)
③信楽焼の四式手榴弾
































第329回   陶製、代用の兵器           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年11月16日

オホーツクの奉安殿






オホーツクに残る教育勅語と奉安殿 紋別会員 釣山 史・紋別市上渚滑町/上和訓辺 紋別市渚滑町宇津々/八幡宮 紋別市渚滑町/市街地 紋別市鴻之舞/旧喜楽町 小清水町/小清水神社 佐呂間町/仁倉神社 湧別町上湧別/中湧別神社 遠軽町生田原/旧清里小学校隣接地 本岐国民学校(津別町)の教育勅語謄本 湧別町立富美小学校/皇紀2600年記念の尊徳像 教育勅語とは、正式には『教育ニ関スル勅語』といい、明治23年10月に公布され、皇国日本の教育上のシンボルとされ、その教育勅語や天皇・皇后両陛下の御真影などを保管した別棟が『奉安殿』だった。オホーツク管内では、紋別小学校が他地域に比べても早い、同26年7月に教育勅語を奉戴し、翌27年5月には御真影が下賜された。敗戦後のGHQの指導下のもと、昭和21年7月に奉安殿の撤去が決まり、そうして同23年6月19日の衆参議院の議決をもって教育勅語は完全に失効し、文部省は同月25日に教育勅語謄本の回収を通知した。紋別市内 紋別小学校卒S女 『とある日、数人の人夫がやって来て、大きなハンマーを手に手に、無造作に奉安殿を叩き出した。とても頑丈な奉安殿を撤去するのに数日はかかったと思う。登下校時には最敬礼をした奉安殿、教室の窓越しに取り壊しの風景を見ながら、子ども心に感慨深いものがあった。』 旧上藻別駅逓所(紋別市内)/上藻別小学校の奉安庫だったと思われる金庫


































第325回  オホーツクの教育勅語と奉安殿           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2012年11月06日

現存する教育勅語と奉安殿























































 緊急報告、大量の詔勅類を確認!!  《たより掲載用》 ~本岐国民学校(津別町)の教育勅語 北海道文化財保護協会員 釣山 史 津別町郷土館資料室は、旧本岐中学校の体育館を利用した収蔵庫だ。その片隅に『勅語奉安用御筥』と書かれた白木の箱が佇んでいた。オヤ? 開けて見るとたコバルト色の布に包まれ、房紐で括られた漆塗に桐紋の内箱あり、中には菊花紋に“朕惟フニ我カ皇祖皇宗…”、ナナナント、教育勅語が出現した。さらにもう一つの白木箱には、詔勅類がザクザクと!! 教育勅語とは、正式には『教育ニ関スル勅語』といい、明治23年10月に公布され、天皇の神格化として皇国日本の教育上のシンボルとされたもので、オホーツク管内では、紋別小学校が他地域に比べても早い、同26年7月に奉戴している。 教育勅語というと恭しく掲げられたリッパな巻子を連想する方もいるだろう。しかし、丁重に扱われ、厳重に保管された教育勅語も、本来は一枚紙であり、ロール状に巻かれて2重の奉安箱に収納され、御真影とともに奉安殿などに安置された。本岐小学校に残った教育勅語も同様であり、左右両端に現れたシワに幾多の奉読の痕跡が見て取れる。戦前は、四大節の拝賀式のほか、教育勅語、戊申詔書、国民精神作興ニ関スル詔書の奉読式などが行われていた。 さて、あるはずは無い、あってはならない勅語謄本がどうして存在するのか? 敗戦後のGHQの指導下のもと、昭和21年元日の天皇陛下の人間宣言を受けて、同月には御真影が奉還され、4月に宮内省が勅語や詔書を奉安殿に奉安しないように示し、7月は奉安殿の撤去が決まったことで保管場所は無くなり、10月に文部省が教育勅語の奉読と詔勅類の神格化の廃止を通牒して実質的な効力は停止した。 しかし、依然として教育勅語の思想的支柱としての性格は残り、そうして昭和23年6月19日の衆参議院の議決をもって教育勅語等は完全に失効し、文部省は同月25日に教育勅語謄本等の回収を通牒したが、勅語等の管理は学校長の専任であり、直接、取り扱いに関わった者は限られ、また、ひそやかに回収の手続きが行われたことで、必ずしも実体は明らかになっていない。 その後、本岐小学校では、何らかの理由で残ってしまった勅語類の扱いに苦慮したと思われるが、注目したいのは、あったであろう“米英両国ニ対スル宣戦ノ詔書”が見当たらないこと、“教育ニ關スル御沙汰”が2つ存在していることであり、残された理由とともに考すべき点である。 今回は、偶然にたくさんの詔勅類に遭遇したのであり、予備知識に乏しく、不十分な現存確認のみに終わったが、「津別町百年史」に現存の教育勅語が写真入で紹介されており、今まで地元管内での勅語謄本の存在に全く気づかず、反省しきりである。 教育勅語謄本は、本件を含めて道内11箇所(奉安殿は36棟)での現存を確認しており、瀬棚郷土館には「教育ニ関スル勅語」と「戊申詔書」、「国民精神作興ニ関スル詔書」が残っていて、いずれにしてもこれほど多種の詔勅類が一括して現存することは非常に稀であり、引き続きの調査をお約束して、以下のまとめとしたい。 ◆旧本岐国民学校の教育勅語 外箱に勅語奉安用御筥とある いわゆる明治型の教育勅語謄本 奉読の痕跡として幾筋ものシワがある 菊花紋の下に罫線がある “年”ではなく“秊”とある ※昭和型には罫線がなく、 字体も数ヶ所が違う。 ◆現存する勅語・詔書類等 名称 公布等月日 備考 教育ニ関スル勅語 明治23年10月30日 天皇のお言葉を借りて政府の教育方針を示したもの 東京帝国大学ニ御臨幸ノ際賜ル御沙汰 明治37年7月11日 日露戦時に於ける教育励精のお言葉 戊申詔書 明治41年10月13日 国民規範をうたう第二の教育勅語というべきもの 教育ニ關スル御沙汰 大正4年12月10日 御大礼に際し、教育者へ彝訓の対揚を求めたもの 文部省訓令第8号 大正 4年12月11日 ④または⑤に添えられた 国民精神作興ニ関スル詔書 大正12年11月10日 大震災後の社会的・思想的な混乱を戒めたもの 教育ニ関スル御沙汰 昭和3年12月10日 御大礼に際し、教学の振興を述べられたもの 教育ノ任ニ在ル者ニ対シ下シ給ヘル勅語 昭和6年10月30日 東京高等師範学校六十周年記念式典でのお言葉 文部省訓令第21号 昭和6年10月31日 ⑨に添えられた 小学校教師ニ賜ワリタル勅語 昭和9年4月3日 全国小学校教員精神作興大会でのお言葉 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語 昭和14年5月22日 戦時体制へ向けての学徒の心構えをうたったもの 青少年学徒ニ賜ハリタル勅語(読み解説)  昭和14年 5月22日 ⑫に添えられた
第321回  北海道の教育勅語と奉安殿          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年10月13日

戦時遺産、更別と広尾2/2


ちょっと右寄り、太平洋岸、道東に残る戦時遺産の旅Ⅱ 2/2 十勝港の立岩トーチカは、自然物を使った珍しいもの。 出入口 記念物・陣地 トーチカ旧軍遺構(新生トーチカ)  崩落した向こうにもう1基が 野塚トーチカ 最近、野塚トーチカのひとつが崩落して話題となったが、広尾町の海岸には、12基のトーチカが現存するという。 同町は、戦時遺産を観光に活用しようと、新生トーチカを記念物に指定し、113 万円を投じて遊歩道を整備した。 はるかに続くトーチカの列 豊似浜のトーチカ群(豊似トーチカ)  転落してひっくり返ったトーチカ、型枠の跡が残る ※大樹町の追加調査 (左)浜大樹漁港トーチカ (右)航空公園トーチカ















































第316回  太平洋岸、右寄りの旅5          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年10月09日

戦時遺産、更別と広尾1/2


さて、今回も道東太平洋岸の戦時遺産を巡る右寄りの旅だ。明日は全道的に天気が回復するというので、10月6日の夕に自宅を出発した。今年、最後の探検だろう。 寄り道、帯広でモール泉の「オベリベリ温泉・水光園」で一休みする。中学・高校とこの辺りに住んでいたので懐かしい。昔はジャングル風呂だったような、現在は近代的な健康ランドとなっている。“オベリベリ”とはアイヌ語で、川口が分かれ分かれするもの意味で、近くに「帯広発祥の地」の記念碑が建っている。 今回の一番の目的は更別村の奉安殿であるから、最寄りの道の駅「なかさつない」で車中泊することにした。 翌朝6時に起床。道の駅の駐車場には、30台くらいの自動車が泊まっている。天気は回復し、気持ちがイイくらいの晴天だ。放射冷却のせいか、寒くてあまり眠れなかった。 ◆更南神社(更別村) 途中、旧広尾線跡の橋梁跡、路盤の切れ目を確認しながら、朝一番に最目的地の更南神社へ向かう。戦時中まで、天皇・皇后両陛下のお写真(御真影)や教育勅語謄本などを保管していた奉安殿だが、当時の中更別国民学校(後の更南小学校)では、昭和21年9月に奉安殿を撤去することになったので清和集落ではこれを譲り受け、清和神社(現更南神社)としたのだ。屋根は神社様式に改築されても、鉄扉が奉安殿を物語る。 ◆豊似小学校の二宮尊徳像(広尾町)  皇紀二千六百年(昭和15年)を記念して建立された二宮尊徳の銅像は、戦時の金属不足のため、わずか1年で供出されてしまい、同18年に再び代用備前焼の陶製が寄贈された。製作は、岡山県備前市伊部の窯元・六姓木村家の総本家木村興楽園である。 ※備前焼とは 古墳時代の須恵器の製法を引き継ぐ備前焼は、釉薬を使わず絵付もしない。土味を活かした赤褐色の焼肌が特徴。江戸時代後期には、池田藩の統制によって窯元六姓による製造体制となり、そして今に続いている。









































第315回  太平洋岸、右寄りの旅4          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年10月04日

釧路と十勝の戦時遺産の旅 3/3

ちょっと右寄り、太平洋岸、道東に残る戦時遺産の旅 3/3






















































◆大樹町その2 ゆうべは、かけ蕎麦ライスにタコザンギ、鳥の唐揚げとたらふく食っちゃいました。朝風呂は気持ちがイイ、でも次第に霧が…、 さて、トー(トウ)は沼のことで、ホロカ(後戻り)・ヤン(揚がる)・沼とは何のことか? ホロカヤントーは海と繋がることがあり、砂州の後退・沼尻の移動か?、それとも決壊して波が遡ることか? ワカサギの氷上穴釣りで名物だ。道史跡・十勝ホロカヤントー竪穴群は、海岸へとせり出した丘陵がホロカヤントーに面し、擦文文化期の竪穴住居跡が百数十残る約1000年前の遺跡であり、よく整備されていてハッキリした凹部が確認できる。晩成温泉の宿泊施設に遺物の一部が展示されていたので紹介する。 (大樹町)ホロカヤントー竪穴群 晩成温泉宿泊施設に展示されているホロカヤントー遺跡の遺物 大樹町晩成 ホロカヤントー竪穴群 道史跡・十勝ホロカヤントー竪穴群は、温泉近くの海岸へせり出し、沼に面した丘上にある。よく整備されており、凹凸がハッキリ見て取れる。晩成温泉に遺物が展示されている。 大樹町生花 晩成社史跡公園 オイカマナイトーに面した丘上にある。大正4年まで、勉三が暮らした家を再現しており、サイロ跡や室跡がある。 生花苗(オイカマナエと読む)は、オイカ(越える)・オマ(入る)・イ(もの)への当て字。オイカマナイトーは、ホロカヤントーと同じく海と繋がることがあり、波が越えて来るということか。生花苗川(オイカマナイかわ)の上流には、キモン(山)・トー(沼)がある。 さて、晩成社史跡公園は、オイカマナイトーとキモントーの間に位置する。明治16年に下帯広へ入植した依田勉三ら晩成社は、「十勝開拓の祖」と云われ、同19年には、生花・晩成地区に牧場を開設し、サイロを用い、バターやチーズを試作するなど先進的な牧畜・酪農を行った。隣町の豊頃町に入った興復社の二宮尊親(尊徳の孫)とも交流があった。「マルセイバタ」は、六花亭のお菓子として、なお、引き継がれている。 再現された依田勉三の家 室の跡 ゆかりの生花神社 2日目 宿⇒ホロカヤントー⇒生花⇒浜大樹⇒石坂⇒大樹市街⇒中札内⇒音更⇒芽登⇒温根湯⇒遠軽⇒紋別帰着 浜大樹トーチカへ走る。内陸部は何とかなっても、沿岸部の霧は深い。視界が利かないなか霧の切れ間 々 を探し歩き、ようやく1基を発見した。写真撮影はきびしく、やむなくこれ以上の探索はあきらめ、郷土資料館へ向かうことにする。 霧にむせぶ浜大樹港近くのトーチカ 大樹町浜大樹 浜大樹トーチカ 旭浜と同じく、浜大樹にも数基のトーチカが現存する。この日は濃霧のため、視界が利かず、1基の確認にとどまった。 樹町石坂 大樹町郷土資料館 旧校舎を利用することで、地域の中心であった学校が残った。手に取ってさわれるむき出しの展示がかえって良い。そして丁寧な解説。 大樹町郷土資料館(旧石坂小学校)  昔は2人掛けのイスだった丁寧な解説がうれしい 平成22年に開設した大樹町郷土資料館は、旧校舎を利用することで、地域の中心にあった学校を活きた形で残す。昔の道具が解説を添えて細かに紹介されており、直に手に触れ感じることが出来る。町民の協力もあったのだろう、町教委の熱意ある課長さんが、長年に渡って調査・収集したのだと云う。しかし、その課長さんが退職されると、もはや閉館がささやかれているという。お金が無くなると心も貧しくなってしまうのか。 さて、この二宮尊徳像だが、陶製の戦時代用品である。皇紀二千六百年に寄贈されたが供出となり、戦後に至って陶製像となって帰ってきた。 大樹町柏林公園の9600型59611号 道の駅なかさつない 昭和27年建築の旧農林省馬鈴薯原原種農場事務所を移築し豆資料館とした 大正8年建築の農家住宅、富山独特のワクノウチ造り、若干の資料展示も それにしても、暑いあつい、内陸部に入って季節外れにとっても熱い。途中、寄り道し、SLと古建築を見学しながら帰路につく。オシマイ
































第314回  太平洋岸、右寄りの旅3           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年09月29日

釧路と十勝の戦時遺産の旅 2/3

ちょっと右寄り、太平洋岸、道東に残る戦時遺産の旅 2/3





















































ああああ



白糠町公民館図書室(上茶路遺跡の遺物)  ◆浦幌町、豊頃町 国道38号線沿いのJR直別駅から道道直別共栄線を通って海岸へ出たところ、白糠丘陵が舌状に浜へせり出した国史跡のオタフンベチャシ跡がある。オタ・フンベとはアイヌ語で砂・クジラの意。壕で囲まれたチャシは古記録にも表われ、道内各地に残る「寄りクジラ」伝説に関係する砦跡だ。 ・道内に残る「寄りクジラ」伝説 アイヌ人の戦い(一方がオロッコの場合もある)において、夜間に砂でクジラ型の小山を作り、そこに魚を置いた。翌朝、群がる海鳥を見て、クジラが打ち上がったと思い、喜び勇んで無防備に砦から出て来た敵方を待ち伏せにして不意打ちにしたという…、ほかに枝幸や知床のウトロなどに同様の伝説がある。 (浦幌町) オタフンベチャシ跡 (豊頃町)トイトッキのトーチカ 浦幌町に入った辺りからお天道様がてかてかと照り出した。ようやくガス体を抜けたらしい。気持ちがイイくらいの真っ青な空である。共栄の三叉路で、ゆでとうきびを買う。とっても美味しゅうございます。 さて、十勝川と浦幌十勝川の間に位置する北海道指定文化財・大津海岸トイトッキ浜野生植物群落にあるトイトッキトーチカ。比較的大型であり、複雑なつくりである。保存状態は良い。 浦幌町直別 オタフンベチャシ跡 JR直別駅を過ぎ、道道直別共栄線で海岸線に入ったところ。厚岸アイヌ(北見アイヌとも)が白糠アイヌを攻めたときの白糠軍の砦跡だという。 浦幌町字桜町 浦幌町文化会館 時間が足りません。立ち寄らず。 国道336号、豊頃町大津海岸 トイトッキトーチカ 旧十勝川河口東岸にあり。妙にお社とコラボしている。中には入れなかったが、比較的大きく封雑なつくりのよう。指揮所跡か? 大樹町旭浜 旭浜トーチカ群 旭浜漁港から歴舟川方面の海岸にかけて列をなすトーチカ群は壮観だ。大樹町ではトーチカ・マップを作成しており、参考にして欲しい。現存15カ所を全て回るには、かなりの覚悟が必要だ。 ◆大樹町その1 大樹町では、15カ所でトーチカが確認できるという。戦後も約70年を経て、最近ようやく、この手のものに対するアレルギーも薄まり、観光が目的ではあっても、これらを歴史遺産として保存しようとする動きが見られるようになって来た。大樹町や広尾町などでは、周辺整備を行うなど、積極的に活用しようとしている。 はるかに続く旭浜トーチカ群は有名であり、予報外れの好天のなか、腰痛持ちには起伏のある砂利浜の歩みはきつく、4つの見学(内陸部の1カ所と合わせて5カ所)で精いっぱいでした。とにかく暑かった~、はるかに続くトーチカの列 (大樹町)旭浜のトーチカ群 温泉 宿泊施設 開湯は昭和55年という、比較的、新しい晩成温泉は、ホロカヤントーや生花苗沼などがある原生花園の中に位置し、夏のキャンプや秋のサケ釣りで知られている。 当初は、ナトリュウム塩泉をうたっていたが、平成16年の産業技術総合研究所の調査により、ヨウ素を高濃度に含有する国内でも稀な温泉であることが分かった。とても体が温まる。笹原に海岸にと探索し、切り傷、虫刺されも沁みないとってもマッタリの良い湯です。レストラン、休憩室を完備。別棟の宿初施設は、朝食に軽食がついてナント一泊3千円です。 ○泉 質:ナトリウム塩化物泉、pH7.8、ヨウ素イオン12.2ppmを含む ○源 泉:18.0℃、湧出 310L/分 *加温、濾過、循環式 ○営 業:(日帰り)10時00分から21時30分まで ○休 館:4月~9月は第2・4火曜日、10月~3月は毎週火曜日 ○料 金:大 人500円、中学生300円、小学生200円 ○問い合わせ:℡01558-7-8161/Fax01558-7-8160 ・晩成温泉宿泊施設「原生花園」 ○宿泊料金:高校生以上3,000円、中学生2,000円、小学生2,000円 ○食事:夕食は温泉施設の食堂を利用、朝食はトーストセットが込みこみ。













第313回  太平洋岸、右寄りの旅2           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年09月23日

釧路と十勝の戦時遺産の旅 1/3





















































あああちょっと右寄り、太平洋岸、道東に残る戦時遺産の旅 1/3 9月15日金曜、仕事を終え、夕6時過ぎに自宅を出立、明後日は天気が崩れるとの予報から、明日中にできる限り回らなければならない。この数年、奉安殿や教育勅語謄本の現存調査を続けており、今回、ある方が私のブログを見て、白糠にも奉安殿があると教えて頂いたので、まずはこれの探索と昭和33年に建築された旧音別町役場庁舎の確認が目的ある。 北海道建築士会から協力依頼を受けた戦後間もない頃の非木造建築物とは、戦後の昭和25年5月に建築基準法が制定され、その最初期の工法によるRC造りを調査しようとするもので、その現存確認の予備調査である。良質なものは、次世代の文化財候補ともなろう。そうして後はオマケでトーチカを・・・、 さて、ほとんど信号につかまらず遠軽市街を通過する。快調。その勢いで、途中、北見での休憩予定を変更していっきに美幌へ走る。美幌温泉は、夜は10時までの営業だ。10時少々前には温泉を出た。ア~あんのん快適。ところが峠下にかかるころから次第に霧が強くなり、ワイパーが必要なくらいの濃霧に濡れて視界が全く遮断される。道の駅の駐車場へ避難した。駐車場の出入口でさえ確認が困難である。車中で就寝。 1日目 紋別⇒美幌温泉峠の湯⇒美幌峠⇒釧路町⇒釧路市⇒白糠⇒音別⇒浦幌⇒豊頃⇒大樹旭浜⇒大樹晩成温泉(宿) (釧路町) 昭和6年竣工の岩保木水門  (釧路市) 新大楽毛のトーチカ すずらん団地のトーチカ ◆釧路町、釧路市 翌朝5時に起床、未だ激しい濃霧であるが、日の光を頼りに出発する。まずは釧路町の岩保木水門へ向かったが湿原に霧が広がり、しばらく待機したのちに激写!! 大幅な時間ロスである。 岩保木水門は昭和6年に竣工したレトロ調の木造上屋が特徴。洪水防止と木材流送のための堰が目的であったが、釧網本線が開通したため、一度も開門していないという。すでに供用は廃止され、湿原のオブジェと化している。美しい。 ここからチョッと右寄り、いやいや、だいぶ右寄りの戦時遺産巡りが始まる。釧路市大楽毛へ走る。 大楽毛では町内をグルグルっと回り、戻ったところに新大楽毛トーチカを発見、な~んだJR新大楽毛駅のすぐ裏手でした。それにしてもカモフラージュが残るトーチカは、痛みが激しい。つづいて同じく大楽毛地区のJR阿寒川橋梁へ向かう。地図の通りに行けない、イタドリが繁茂して視界が利かない…。あっちに行ったり、こっちに行ったり、う~む、残念ながら断念する。はてさて、仕方がなくすずらん団地トーチカへ。新道をくぐり、大楽毛西通ですずらん団地方面に行くと意外と簡単に発見できた。小高い丘にあるトーチカは、保存状態が極めて良い。 (釧路市)すずらん団地トーチカ 釧路町国道391号、JR遠矢駅から新釧路川へ 岩保木水門 濃霧で視界不良、しばらく様子見。釣りとカヌーツーリングで有名らしい。水門は、上部構造がレトロで趣のある木造造り、扉が2門ある。大正9年の釧路川の大洪水を契機に昭和6年に竣工した。目的に木材流送があったが、運搬が鉄道に転化され、一度も開門されないまま、供用を終了した。 釧路市の新大楽毛駅海側の住宅街 新大楽毛トーチカ 大楽毛南町内をグルリッと回って、な~んだ新大楽毛駅のすぐ真裏でした。おつむにカモフラージュが残るトーチカは、劣化が著しい。 釧路市大楽毛5丁目、JR阿寒川橋梁の西側  阿寒川橋梁トーチカ 道路が地図と違う、背の高いイタドリが繁茂して視界が利かない。分かりやすいと思ったが、発見できずに無念。 釧路市すずらん団地 すずらん団地トーチカ 国道38号線から新道をくぐり、大楽毛西通で釧白工業団地の山手へ向かう。意外と簡単に小高い丘に発見した。土砂が流入していて内部には入れなかったが、保存状況は非常に良く、コンクリートの質が高いのではないか。 旧泊別小の奉安殿 ◆白糠町、旧音別町 旧音別町役場庁舎 限界集落で目標物も無いなか、丘の上の小さな旧校舎は木々に隠れて非常に分かりにくい。旧泊別小学校奉安殿は、学校敷地に連続した木立ちにまぎれ、ひっそりとたたずんでいる。以前は集落のお社として利用されたようだが、今は、使われずに朽ち果てるのを待つのみである。周辺を行ったり来たりと往復して多くの時間を費やしてしまい、白糠町郷土資料室の見学は取止めとした。 現在は釧路市の音別町行政センター(旧役場庁舎)は、戦後間もない頃に出来た建築基準法にもとづく1950年代らしいデザインのRC建築物だ。あ~なるほどの窓のとり方に2Fのバルコニーが特徴的で、一部3階は望楼か? 写真を写していると“ナニ、撮ってんだ!”と怒鳴られ、公共物の写真を撮って何が悪い!! ぷんぷん。さっそく知人の建築士に送らなきゃ。 白糠町泊別 旧泊別小学校奉安殿 釧白工業団地浄水場の近く。限界集落のなか、閉校後35年を過ぎてもはや看板もない。小山の林間に隠れた小さな旧校舎は非常に分かりにくく、その前を行ったり来たりと多くの時間を費やしてしまった。奉安電は学校敷地に接続する木立ちの中にあり、いっそう発見を難しくしている。戦後は集落の神社として利用されていたようだ。 白糠町東3条南1丁目 白糠町郷土資料室 時間がない、スルーしちゃいました。 釧路市音別町 旧音別町役場庁舎(音別町行政センター)  国道38号線沿いに建つ昭和33年建築のRC造り。窓のとり方に1950年代らしさが残り、バルコニーや望楼?は特徴的。間もなく取り壊される予定。























第312回  太平洋岸、右寄りの旅1           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年09月11日

佐呂間町の奉安殿




旧仁倉小学校の奉安殿(佐呂間町) 仁倉八幡神社で天照皇太神を祀る旧奉安殿。 近くには、オホーツク沿岸で初めて発見された、縄文早期の竪穴住居跡がある。






































第311回  佐呂間町仁倉の奉安殿          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年09月03日

(更新)北海道の奉安殿

北海道に現存している奉安殿の一覧



北海道の現存する奉安殿(2012年8月現在で確認) 紋別市上渚滑町/上和訓辺 紋別市渚滑町宇津々/八幡宮 紋別市渚滑町/市街地 紋別市鴻之舞/旧喜楽町 湧別町上湧別/中湧別神社 遠軽町生田原/旧清里小学校隣接地 小清水町/小清水神社 名寄市風連町/東風連神社 士別市/士別市博物館所蔵 上富良野/東中神社 中標津町上標津/上標津神社 別海町/柏野会館隣接地 釧路市春採/春採神社跡地 釧路市桜田/桜田神社 鶴居村茂雪裡 弟子屈町/仁多 弟子屈町/友札内 弟子屈町市街/郷土資料収蔵庫てしかがの蔵 日高朝/錠教寺 平取町ニ風谷/萱野茂資料館 鹿追町/北鹿追 札幌市/琴似神社 江別市/江別小隣接地 石狩市花川/了恵寺 浦臼町鶴沼/金剛寺 浦臼町鶴沼/真宗寺 芦別市/常磐小隣接地 芦別市新城/正信寺芦別市/芦別神社 稚内市/上声問神社 函館市/護国神社 赤井川村/轟鉱山跡 むかわ町/春日神社 室蘭市/民俗資料館 旭川市/北鎮記念館蔵 鹿追町/旧北鹿追小学校 奉安用御筥 教育勅語謄本(明治型)  津別町/旧本岐国民学校の勅語謄本 ◆近年、解体された奉安殿 報徳神社 美幌町 H21年取り壊し 和琴神社 弟子屈町 H21年取り壊し 御園神社 喜茂別町 H22年取り壊し 春日神社 むかわ町 H18年改修 ◆その他の勅語謄本を保管する施設 北海道開拓記念館 札幌市厚別区 了恵寺 石狩市花川 小平町郷土資料館 小平町鬼鹿 郷土資料収蔵庫てしかがの蔵 弟子屈町 釧路市立博物館 釧路市 せたな 町瀬棚郷土館 せたな町 勅語謄本7カ所、確認 ◆その他の現存する奉安殿 札幌市 藤女学校 奉安殿33棟、確認













































第309回  北海道に現存する奉安殿一覧          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年08月30日

芦別の奉安殿2

芦別の新城小学校にあった奉安殿は、正信寺の境内に移転されて現存します。


















第308回  芦別市新城の奉安殿          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2012年08月25日

旧海軍高射砲と機雷


津別町の旧忠魂碑 ~旧日本海軍の高射砲と機雷 荒木 貞夫 陸軍大将で、陸相・文相。陸軍皇道派の首魁。中将時代に陸軍大学校長を務め、青年将校に圧倒的な人気があったが、昭和11年の2.26事件後の粛清によって予備役となる。第一次近衛内閣・平沼内閣では文部大臣。 昭和14年、平沼内閣は国民精神総動員委員会を設置、荒木が委員長に就任すると皇道教育を推し進め、思想的な戦時体制を作り上げた。 戦後、A級戦犯となり終身刑となったが昭和30年に仮出所、以後、全国を講演するなど積極的に活動した。昭和41年没。 昭和8年9月19日起案 官房第四四一三号 昭和八年十月五日 大臣 横鎮長官宛 廃兵器無償下付ノ件訓令 横須賀海軍軍需部保管ノ左記廃兵器ヲ付記ノ者ニ無償下付方取計フベシ 但シ現品搬出ニ要スル費用ハ下付ヲ受クル者ノ負担トス 記 以上 一、浮標水雷缶 一個 一、十二センチメートル弾丸 二個  四十五口径十二センチメートル一号徹甲弾 右ハ北海道網走郡津別村忠魂碑前備付品トシテ同村長内藤周平外一名ニ対シ下付 (了) 官房第四四一三号ノ二 昭和八年十月五日発布済 昭和八年十月五日 海軍省副官 北海道網走郡津別村村長 内藤周平 アジア歴史資料センター










































第307回  津別の忠魂碑          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2011年09月27日

芦別の奉安殿


芦別の奉安殿、ふたつ 芦別小学校の旧奉安殿は、芦別神社へ移設されて水神さんを祭っている。 常磐小学校の旧奉安殿は、今も学校近くに馬頭観音堂として残る。 これらの奉安殿は、ふたつとも材質がコンクリート造りであり、外観も非常に似ている。特に、ともに向拝柱を用い、同色の鉄扉に金庫様のダイヤルを配している。ダイヤル扉は、他に見られない非常にめずらしいもの。





















































第277回 芦別市に残る奉安殿         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/



  

2011年09月22日

浦臼の奉安殿2

鶴沼の奉安殿2

 以前に同地区にある金剛寺に移設された奉安殿は確認していたが、同じ鶴沼の真宗寺のものは見逃していた。
 住職に確認したところ、詳しいことは判らないが、浦臼にあった奉安殿に間違いないとのこと。浦臼小学校のものか?瓦葺き煉瓦造りの美しいもので、威厳がある。















































第276回 鶴沼の奉安殿2         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2011年09月19日

赤井川の奉安殿

轟鉱山跡の奉安殿
 明治29年に発見された赤井川村の轟鉱山は、鴻之舞鉱山が発見されるまでは、北海道随一の金鉱であった。同31年から北海道鉱山(株)が、明治39年には田中鉱業㈱が買収し、もっぱら金を多産した。戦時の一時休山を経て戦後に再開、その後も休山と再開を繰り返して昭和62年が最後となった。
 旧轟小学校の奉安殿は、荒れ果てた野に朽ちるのをタダ待つばかり。ダーティーロードなれど、普通車で通行可。ただし、途中、立ち入り禁止の看板あり。

































第275回 金山跡の奉安殿         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2011年08月30日

旧日本軍飛行場

本部の建物は旧海軍隊舎のまま
陸上自衛隊第5旅団第6普通科連隊 美幌駐屯地 昭和15年の美幌に96式陸上攻撃機約40機、隊員約2,000名の海軍航空隊基地が建設された。戦後は米軍キャンプ地となり、警察予備隊美幌駐屯地を経て現在に至る。現在の駐屯地の建物84棟のうち、27棟は旧海軍が使用していたもので、火薬庫の跡や米軍ハウスなども残っている。 本部隊舎 当時のままの玄関ドア 大理石の階段 約250mもある雪中廊下 夜間戦闘機・月光(左)と一式陸上攻撃機(右)のタイヤ 代用陶製の手榴弾 天皇陛下の御真影 資料館・北辰館



























第268回 旧軍遺産・美幌駐屯地          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2011年07月30日

稚内の奉安殿

上声問神社の奉安殿 か?
 限界集落であり、周辺に民家もないところでの調査は非常に難しい。
 戦後、GHQによって学校からの撤去が命じられ、また、皇国教育の象徴は、長く教育会でタブーとされたため、小学校や集落の記念誌にも、記録が残っていないことが多い。
 終戦から65年を経て、「奉安殿」という言葉は、既に死語となり、相当の高齢者でなければ、知っていない現状にある。

 上声問神社にある御堂についても、文献等はなく、詳しいこと、ハッキリしたことは分からないが、ただ、『戦後に奉安殿を移設したときに観音さんを入れたと聞いたことがある』との情報もあり、以下の特徴を鑑みて、「奉安殿」であると判断した。

 ご協力を頂いた稚内市立図書館さんに感謝!!



奉安殿の特徴、見分け方 ~疑似、神社・社様式。社のようでそうでない。 屋根~必須、瓦またはトタンであること。 壁材等~多くは石材かコンクリート、あるいはトタン、まれに木製。つまり燃えづらいもの。 扉~観音開き、多くが鉄扉。 施錠~必須、鉄の錠、多くが鉄カンヌキ。 通風孔~必須、2個以上の風通しがあること。 しっかりした土台がない、神社、社様式でない。特に地面に直置きの場合は可能性が高い。移設したと思われる。






























第260回 稚内の奉安殿          北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2011年07月12日

函館の奉安殿

奉安殿調査は続く…

 函館護国神社(沙羅の月の駐車場のところ)にある奉安殿は後ろ前。石の囲いの出入り側に「奉安殿」とあっても、その裏側に扉の跡がある。
 観音扉があったであろう上部には2つの通風孔があり、奉安殿には必ず通風孔を設けるように義務付けられていたので、これが単なるお社か、奉安殿かの区別の目安のひとつとなる。




















第255回 函館の奉安殿         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2011年05月05日

北海道の奉安殿と勅語謄本(更新)

更新・奉安殿と教育勅語の現存調査(経過報告)

 2011年5月現在で、奉安殿は全道の26カ所(うち1カ所は奉安庫)を現認したほか、情報が3カ所あり、教育勅語謄本は、6カ所での保存を確認している。
 また、ここ数年間で解体された奉安殿も多く、特に村落、限界集落での維持保存がむずかしいことが分かる。
北海道の現存する奉安殿 紋別市上渚滑町/上和訓辺 紋別市渚滑町宇津々/八幡宮 紋別市渚滑町/市街地 紋別市鴻之舞/旧喜楽町 湧別町上湧別/中湧別神社 遠軽町生田原/旧清里小学校隣接地 小清水町/小清水神社 名寄市風連町/東風連神社 士別市/士別市博物館所蔵 上富良野/東中神社 中標津町上標津/上標津神社 別海町/柏野会館隣接地 釧路市春採/春採神社跡地 釧路市桜田/桜田神社 鶴居村茂雪裡 弟子屈町/仁多 弟子屈町/友札内 弟子屈町市街/郷土資料収蔵庫てしかがの蔵 日高朝/錠教寺 平取町ニ風谷/萱野茂資料館 鹿追町/北鹿追 札幌市/琴似神社 江別市/江別小隣接地 石狩市花川/了恵寺 浦臼町鶴沼/金剛寺 教育勅語謄本/せたな町/瀬棚郷土館蔵 収納箱/旭川市/北鎮記念館蔵 北海道開拓記念館/札幌市厚別区 了恵寺/石狩市花川 小平町郷土資料館/小平町鬼鹿 郷土資料収蔵庫てしかがの蔵/弟子屈町 釧路市立博物館/釧路市 護国神社/函館市 藤女学校/札幌市 轟鉱山跡/赤井川村 春日神社/むかわ町 室蘭市民俗資料館/室蘭市/奉安庫 喜茂別町/御園神社 奉安殿 奉置所






































































第243回 現存する道内の奉安殿    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2011年03月22日

代用品の金次郎

忍びがたきをしのび、耐えがたきをたえ
~日本の復興を二宮金次郎に学ぼう

◆二宮金次郎(尊徳)の像
 道徳を尊び、経営実学を実践した「二宮尊徳」の報徳思想は、勤労(単に勤勉なのではなく、社会に役立つこと)、分度(将来に向けての余剰を図ること)、推譲(分度の余剰を拠出し、相互扶助、ひいては国づくりのためとすること)の3点を基本理念とし、私利私欲が無い社会貢献は、いづれ自らに返ってくると説いたことから、戦前は、勤勉実直、質素倹約の模範として、また、国のため、国家主義の象徴として利用されたりもし、各地の小学校などに銅像が建立された。
 弟子屈町の高齢者が今に語るところ、『わたしの集落の小学校にも、昔は二宮金次郎の銅像があった。それはオジが戦死していただいた死亡一時金を、遺族が国への奉公の証しとして、地域に還元しようと建設したのであったが、やがてそれまでもが供出されてしまい、ひどい時代であった。』と云う。
 ここの昭和19年に建設された旧北鹿追小学校の二宮金次郎像は陶製で、いわゆる当時の「代用品」が現存するめづらしいもの。
◆戦時の代用品
 環太平洋の「ABCDライン」による経済封鎖から太平洋戦争に突入して、それが激戦化、長期化すると資源のない日本国内は、あらゆる物資が不足した。
 特に金属製品は、お寺の鐘や銅像はもちろん、日用品までもが「供出」され、兵器さえもが木製や陶製の「代用品」に置き替えられて行く。それは木製戦闘機や1銭陶貨、10銭陶貨などが良く知られており、陶製のくぎ、ボルトとナット、陶製手榴弾、陶製地雷などもあった。
 この時代は、特に家庭用品としての陶製品の製作技術が著しく発達し、缶詰、フォーク、ナイフ、栓抜、羽釜、ガスコンロ、湯たんぽ、水筒、アイロン、学生服ボタン等々、陶製の鏡もちが登場して、神社で使われたりもした。








第231回 復興に向け、ガンバレ日本        北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

2011年01月05日

鵡川町の奉安殿

続報、日高の奉安殿2

 春日小学校の奉安殿は、終戦後の昭和21年に隣地に移転され、神社へと転用された。しかし、老朽化が進んだため、平成18年には取り壊されて、新たな社殿が建立され、そして内陣の扉には、今でも当時の観音扉を使用している。














































































 第223回 むかわ町の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2010年10月17日

網走のトーチカ2

帽子岩のトーチカ
 網走港の入り口、帽子岩にあるトーチカ跡。側壁に「昭和十九年七月 北部五二四一部隊」とあるらしいが、落石と風化による傷みが著しく、天井は陥没して、もはや中を確認することは出来ず、近づくのも危険である。網走市内には、8箇所があると云う。








































第211回 北海道内のトーチカ      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

2010年10月04日

北海道の奉安殿一覧

継続中の奉安殿と教育勅語の現存調査(経過報告)


 ~第244回へ更新し、移転します。




第209回 教育勅語と奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2010年09月25日

日高の奉安殿

奉安殿調査、続報

◆二風谷の奉安殿
 二風谷小の旧奉安殿は、二風谷アイヌ文化資料館に仮置きされている。移転の際に基礎から取り外されて、傷みが著しい。皇国公民のシンボルである奉安殿は、ヤマト人(和人)のアイヌ民族支配の象徴で『恨み』の表れでもあると、故萱野茂さんが語っていたという。現館長の萱野志朗さん談。
















◆日高町浄教寺のお堂
 日高小の旧奉安殿は、真向かいにあるお寺に移転して、お堂として利用されている。住職によると、いつに建設されたかも記録になく、もはや詳しいことは分からないという。
















第207回 アイヌ人の里の奉安殿      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

2010年08月22日

せたなの勅語類いろいろ

勅語謄本あれこれ

 平成22年度の北海道文化財保護協会文化財散歩では、日本で最初の女医で知られる荻野吟子さんを紹介する「瀬棚郷土館」に立ち寄りました。でもでも、一番、私の興味を引いたのは、戦後に残っているのがたいへん珍しい勅語・詔勅類であり、複数の種類が展示されているのを初めて見ました(ずいぶん前に見学に行ったときは、一番奥の小部屋なので、気がつかないでいた)。
 戦中・戦前に、奉安殿(奉置所)にうやうやしく安置されていた天皇・皇后の御眞影や教育勅語は、良く知られていますが、そのほかの勅語、詔勅類とは、いったいどのようなものがあったのでしょうか?
 それには、・戊辰詔勅 ・教育ニ関スル御沙汰書 ・国民精神作興ニ関スル詔書 ・教育ノ任ニ或ル者ニ賜リタル勅語 ・全国小学校教育ニ下シ給ヘル勅語 ・青少年学徒ニ賜リタル勅語
などがあり、郷土館には、このうち3点が展示されています。
















第200回 朕惟フニ     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/







例)紋別市渚滑小学校の旧奉安殿

















同内部の奉安庫