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2017年10月12日

紋別の歴史巡り 2/13



(b)渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 「備前焼」とは、古墳時代の須恵器の製法を引き継いで、釉薬を使わず絵付もしない土味を活かした赤褐色が特徴である。江戸時代後期には、池田藩によって統制されて窯元六姓による製造体制となった。これは著名な六姓木村総本家の木村興楽園で焼かれたものである。 ○渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 昭和12(1937)年に寄贈された渚滑小学校の「二宮尊徳像」。戦後に児童が投石して背中の薪が欠けてしまい、当時の教頭の立腹は相当なものであったと云う。渚滑小学校と同じものが、広尾町の豊似小学校と芦別市旧野花南小学校にある。近くには天皇・皇后両陛下の「御真影(御写真)」を保管した「奉安殿」も残る。 ○二宮尊徳の教え 本来は質素倹約、勤勉実直、相互扶助を模範とする「報徳仕法」も、「戊申詔書」が示されると国家のための国民道徳の強化に用いられるようになった。戦時中は国家主義のイデオロギーとして利用され、昭和15(1940)年の「皇紀二千六百年」を記念する立像の建立が各地に見られた。 ○金属類の供出と応召 戦争が長期化すると金属類が不足して昭和13(1938)年から金属類の「供出」が始まり、同16(1941)年には「金属類回収令」が発せられた。銅像などは「応召」の憂き目に合い、そうして湯たんぽや蛇口、ガスコンロ、水筒、栓抜き、缶詰などが次第に金属製から陶器へと代わって行った。各地に陶製の尊徳像が多く残る所以である。 ○薪を背負った姿の由来 薪を背負う二宮尊徳(金次郎)のイメージは、尊徳の高弟で娘婿となった富田高慶の「報徳記」にあり、明治24(1891)年に幸田露伴が著した「二宮尊徳翁」の口絵に始まる。明治37(1904)年から修身の国定教科書に掲載され、同44(1911)年には柴刈り、草鞋づくりに励み、手習、読書を学ぶ「二宮金次郎」が文部省唱歌となった。明治43(1910)年に製作されて常に明治天皇の御座所にあったお気に入りの尊徳像も、背中に薪を背負っている。 渚滑小学校の二宮尊徳像 幸田露伴著・二宮尊徳翁の口絵 1891年刊 こども用 渚滑小学校の二宮尊徳像~備前焼の立像 ○二宮尊徳(金次郎)とは 江戸時代の終わり頃に活躍し、「金次郎」として知られます。小田原の裕福な農家に生まれましたが、天災で田畑が荒れ、苦労がたたって両親が早くに亡くなります。金次郎は親類に預けられ、少しを惜しんで一生懸命に働き、空地に種をまき、苗を植えて、勤勉実直、倹約し、『小を積んで大となす』を実践しました。そうして苦難を乗り越えて生家を再建します。 あちこちから経営の再建を頼まれるようになり、武士となり、災害復興や飢饉救済に努め、晩年幕府の役人となって村づくりにいっそう励みました。この教えを「報徳仕法」と云い、質素倹約、勤勉実直、相互扶助を唱え、薪を運びながら勉強する姿は教科書や唱歌となりました。この薪を背負った金次郎のイメージは、金次郎の弟子で娘の婿となった富田高慶が書き残した話をもとに、明治24年に幸田露伴が子ども向けの物語がたりを書いて、このときのイラストに始まったと云われます。 〇渚滑に残る二宮尊徳(金次郎)像 渚滑小学校の「二宮尊徳像」は、昭和12年に寄贈された備前焼で、とても有名な窯元で焼かれたものです。同じところで焼かれたものが、広尾町の豊似小学校と芦別市の旧野花南小学校にあります。 渚滑小学校と同じところで作られたもの 芦別市の野花南小学校 広尾町の豊似小学校 九谷焼 筆者蔵 青銅製 筆者蔵

第428号 二宮尊徳のこと      北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/