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2009年03月06日

紋別にも来たブラキストン

奇才ブラキストンの記録に見るもんべつ


 英国人で元軍人のブラキストンは、多才と云うよりは奇才な人物である。1861年には揚子江を探検して、その記録はロイヤルメダルを受賞した。同年に商社員として来箱すると、1864年には日本最初の蒸気機関による製材所を開設し、さらに翌年、3隻の帆船を使った貿易を始めたが、その一隻は「あきんど(商人)号」と云った。
 維新後の明治6年からは函館と大間を結ぶ津軽海峡の定期航路を運航し、幕末よりあった気象観測所を引き継いで近代化させ、箱館の水道や築港の設計なども行い、五稜郭での中川嘉兵衛の採氷も彼が端緒であった。
 そして後年、彼の名を一躍、世界に知らしめたのは野鳥の研究で、津軽海峡を挟んで、北海道と本州では鳥類や哺乳類の分布が違うという、いわゆるブラキストン・ラインの発見で、面白いところでは、明治13年にスポンサーとなり帆船競争を行ったと云い、これは船の改良を奨励するものだったが、同24年の「北水協会報告第六十七号」に『英人ブラキストン氏考案漁船ノ図』なるものがある。
 また、1861年には日本国内で初めてスケートをしたとされ、後にお役所から「ゲロリやそりで坂をすべってはケガ人が出てあぶないので止めるように」という御触書も出ており、これを記念して12月25日が「スケートの日」だそうだ。
 さて、この間の明治2年には、新政府から前年に難破した英国艦ラトラー号の調査を依頼され、函館を「あきんど号」で出港して浜中に上陸し、そこからオホーツク海岸沿いに北上して宗谷へ至った。
 こうして途中で紋別を通過、彼の記録では当時の紋別場所について、『岩礁が風波を多少防ぐ程度の少し引っ込んだ湾とは言えないくらいのもので、漁場には大きな住宅と役所が1軒づつ、それをアイヌ人の小屋が取り囲んでおり、この時は和船一艘が沖泊めされていた。会所の差配人によると、斜里と紋別の経営は採算が取れないが、他に非常に利益のある標津場所があり、どこか一カ所を放棄すると全てを召し上げられてしまう。』とあり、これは山田寿兵衛の請負によるもので、また、『案内人の若いアイヌ人はヒゲをそり、日本風の髪形をしてカナ文字を書いた』ともある。

 紙幣か証券か、発禁となったブラキストン証券/新撰北海道史/昭和12年







第115回 オホーツクをめぐったブラキストン    北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/


  

Posted by 釣山 史 at 22:51Comments(0)紋別の歴史