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2008年08月07日

もんべつのカレイ

紋別のカレイ(校正)  

○動力船の導入とカレイ
 紋別地方の最初の動力船は、紋別漁業組合が大正3年春に本州で建造した「紋別丸/5㌧10馬力」のホタテ監視船だったが故障が多く、翌年には高嶋春松がこれを購入してマガレイ漁を行いながら紋別~湧別間の輸送を始めた。
 こうして紋別にも漁業近代化の波が現れ、大正12年には松田鉄蔵(後の代議士)が動力船「第三寅丸」を操業させて、以後、小樽・室蘭からも底びき網漁船が回航し、動力船での漁が急増したが、この時はマガレイが大量に漁獲された。
 当初、松田は川氷を使って施氷していたが、大正14年に氷池をはじめ、昭和4年には道内でも数番目という冷蔵庫を建設して、大きいものは道内外に鮮魚として発送し、小さいカレイは蒲鉾にした。また、「焼きガレイ」の加工を目的とし、昭和13年には「紋別加工組合」が発足した。
 後にマガレイがオホーツク海を中心として全道的に注目されたのは、昭和30年代に入って群来の無くなったニシン漁に代わって、沿岸でのカレイ刺し網が普及したためで、このように古くから大量に「もんべつマガレイ」は流通し、これらによって広く知られるようになったと思われる。
 以上のように「紋別マガレイ」は有名となって都市部の消費地では高値で取引されようになったが、実際に紋別ではヒレグロが一番多く漁獲され、平成17年で781㌧と全道の30%を占め、次にアカガレイが246㌧、マガレイ161㌧とつづいて全種・総量で1,462㌧が水揚げされて、これは網走管内の45%にも及ぶ。ヒレグロとアカガレイは冬がおいしく主に底びき網と刺し網で漁獲され、マガレイは春は水っぽく、おいしいのは秋以降で、底建網と刺し網により漁獲される。
 マガレイは大きく分けると道北の日本海で産卵し、そのまま成長するものと、オホーツク海へ回遊して成長し、また、日本海へもどる2群があるが、比率の高かったオホーツク海育ちは年々減少傾向にあるようだ。

○オヒョウ漁と冷蔵の始まり
 昔は畳大のものもあったオヒョウは古くは江戸時代からオホーツク海の名産として知られ、松浦武四郎の「蝦夷土産道中寿五六(えぞみやげどうちゅうすごろく)」には紋別のオヒョウとして紹介されている。
 明治25年には土佐の岩田宗晴が網走・斜里地方でオヒョウを大漁し、搾粕にして大儲したと云い、改良川崎船を用いた同年の道庁調査でも好結果を得て、オヒョウ漁が一大ブームとなった。この岩田は後に有力実業者として紋別に居住して道議も務めた。
 そして明治41~45年には沙留の大多喜長蔵が道庁の補助を受けて母船式沖釣船による漁労試験を行い、このときに冷蔵船と冷蔵倉庫による操業も試みられて、動力船の利用も検討された。


第73回もんべつマガレイ(再)

北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 07:10│Comments(0)紋別の歴史
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