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2013年01月20日

旧家・田付一族

旧家・田付一族
蝦夷地随一の旧家、福島屋田付家 本資料は、16世紀末から蝦夷地へ渡り、漁場を開き、運上屋を経営して公に私に北海道の開発に貢献した"田付一族"への褒状と思われる。 ◆田付新助 初代・田付新助は、愛知の柳川に住し、文禄三年(1594年)に士分を離れて松前へ見分に渡り、同志を募って組合・両浜組を組織して海運業を始めた。慶長七年(1602年)に陸奥の鰺ヶ沢に支店を置き、福山以北の各所に漁場を開いた。慶長十五年(1610年)には松前に支店をを設けて福島屋を名乗った。この年、神恵内を開く。 二代略。三代は、天和元年(1681年)に古宇に、元禄元年(1688年)には美国へ場所を開いて家業を拡大、以後の拠点とした。四代は、元禄九年(1696年) に彦根藩の御用金調達方を命ぜられ、また、宝永元年(1704年)に彦根藩の仲介により松前藩の物産移出方となり、大船数隻を建造、松前殿中に席を賜った。 五代は、美国・古宇場所の経営を拡大して運上屋を増設し、カブト越山道・珊内越山道を開削するなどに努めた。宝暦十一年(1761年)に彦根藩の執政から本拠が一揆打ち壊しに遭い、六代では罹災が続いて所有船五隻と傭船一隻を失い、家運は大きく傾いた。 七代に至り、凶漁が重なって事業継続はいよいよ難しくなり、福島屋を彦根藩、松前藩と両浜組が支援、松前支店の雇人差配を排して一族を派遣し、さらに七代・新助が家督を譲って新右衛門と名乗り、松前支店の支配人となった。こうして八代までに積丹・歌棄・寿都・磯谷・古宇の五場所を請負うまでに回復した。 九代・十代(八代)略。十一代は、井伊大老に取り入って蝦夷地経営を拡大しようとしたが、桜田門外の変が勃発、養子の十一代は身を引いて生家に戻った。 十二代は、あらためて同族から選ばれて家督を継ぎ、元治元年(1864年)に彦根藩に金千両、松前藩へ金千両を献上した。慶応元年(1865年)には幕府へ金五百両を奉じ、翌年、松前支店の新右衛門は幕府より苗字を、松前藩からは帯刀を許された。明治2年(1869年)において場所請負制は廃止され、新右衛門は同3年に開拓権小主典に任じられたが、間もなく辞職した。 十三代、明治5年(1872年)に一族の新右衛門が古宇に、新四郎は福山に分家した。同年、新助は小樽に支店を設けて織物商を開いたが、同14年には廃止した。 別家に寿都で活躍した篤志家の田付新兵衛(新八、新太郎)がいる。



























第335回   開拓使褒状           北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/

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Posted by 釣山 史 at 14:49│Comments(0)北海道の歴史
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