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2016年09月30日

紋別聖徳太子講


誇るべき伝統文化の継承、顕正寺の聖徳太子講 ~無形民俗文化財調査が行われる/紋別市 この28日に道文化財保護協会、道建築士会の4名が、紋別聖徳太子講組合(紋別建設業協会)の協力を得て、100年を越えて顕正寺に伝わる紋別聖徳太子講の文化財調査を行った。文化庁の「文化遺産を活いかした地域活性化事業」の一環で、北海道文化遺産活用活性化実行委員会(道文化財保護協会、道建築士会、NPOれきけん)は、昨年から太子講の調査を始めて、また、市内では旧上藻別駅逓所や草鹿邸の簡易耐震診断なども行っている。太子講とは、聖徳太子が広く仏教の興隆に努めたので、親鸞は、太子を教主とした。親鸞は、救世観音(太子は化身とされる)の夢告を得て浄土宗祖・法然の専修念仏門に帰依し、太子が、浄土系、特に浄土真宗で尊ばれる。これに対し、民間信仰では、太子が、大寺院の建設のために木工、土工、紙漉きほかを振興したので、大工や鳶ほかの技能諸職の神となった。これら聖徳太子を奉賛するのが太子講である。当地では、明治41年に顕正寺に太子堂を建設して太子講祭が始まり、孝養太子像が厨子に奉安されている。この太子像の面は凛として彩色が華やかで、厨子は非常に精巧立派であり、天明元年の太子画もある。昔は、大工など技能職たちによって夜宮祭と本祭が執り行われ、十数本の幟が立って露店も並び、たいへん盛大であったという。この日の参拝者は講中40数名で、オホーツク管内では、ほかに滝上町や網走市、美幌町などの建設業団体が、同様の太子講を行っている。太子講は、大正10年から11年にかけた聖徳太子の遠忌千三百年祭に発するものが多く、紋別市では、それよりも15年ほど遡り、道内では古い伝承である。本堂には国宝・知恩院から貸与された屋根瓦が展示されていて、地元にいながら、まだまだ知らないことに驚かされた。紋別聖徳太子講は、他に誇るべき伝統文化であり、末永く継承され、文化遺産を活いかした地域活性化の一助となることを期待する。
第400号 紋別の太子講     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/   

Posted by 釣山 史 at 06:43Comments(0)郷土の語り紋別の歴史