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2015年08月20日

あれから樺太70年


『あれから樺太70年』 この七月十八日に旭川市民文化会館で開催された全国樺太連盟による移動展を見学に行った。受付でご出身はどちらですかと尋ねられ、「名好」と記帳しておいた。入ってすぐに日露国境標石のレプリカがあったが、私の母は、戦中、国境に近い西海岸北部の名好町字北小沢に暮らしており、八月九日未明のソ連参戦を身をもって体験した貴重な生証人である。小学校の高等科では、勉強そっちぬけで軍馬用に草刈りをさせられたという。八月十一日にはソ連の本格侵攻が始まって、近接の恵須取・塔路では、ソ連軍が無条件降伏の翌日に上陸を開始、日本側の停戦交渉を無視して避難する民間人へ無差別な攻撃を加えた。炭鉱病院では看護婦が坑道にこもって集団自決したという。刻々と迫る危険に母達集落の住人は日本軍が駐屯する上敷香を目指し徒歩で移動、食料は尽き山野蕗原笹原をさまよい、道路を歩くと容赦の無い機銃掃射が襲って来る。体力の消耗は著しく、荷物がひとつふたつと捨てられて、弱い子供や老人は置き去りにされた。某日夜半、軍人が河原に集結して武装を解除し、装備品を埋却しているのを目撃したという。いっぽう、父はユニークな体験の持ち主である。生家は木材商で軍需に関係する坑木や枕木を主に個人商店ながら年間一万石を扱ってお国に貢献、表彰を受けたという。父は大湊海軍工作部虻田分工場で働き、十七才で志願すると七月一日には有名な稚内の北防波堤から樺太へ渡島、七月三日に少年兵として工兵第八八連隊に入った。終戦の八月十五日の正午は豊原駅前の広場におり、実際の玉音放送は、余りの雑音に何を云っているのか、全く分からなかったという。○昭和二十年八月五日 先住民の集落オタスへ行き、教育所の川村校長と会う。○同年八月二一日 王子製紙の防空壕で、八月十六日に発行の新弐百円の札束の山を目撃。○同年八月二三日 武装解除。そのまま抑留される。○昭和二一年五月五日 樺太庁舎前で岡田嘉子と会話する。○同年六月 火災から再建中の樺太庁舎の屋根を葺く。等々・・・さて、樺太ではたくさんの方々がソ連軍の侵攻によって亡くなられ、抑留されて、また、多くのひとが樺太を引揚げて「ふるさと」を失った。移動展の見学者は多く、涙する方もいて、望郷、昔を懐かしみ、当時の苦しい生活、亡くなった親族に思いを寄せ、なかには三世代、四世代に渡る家族もある。戦時の記録ではなく、戦争の記憶として若い世代に永く語り継がれて行くことを切望する。
第383号  戦時の樺太     北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/  

Posted by 釣山 史 at 18:09Comments(0)樺太・千島の歴史