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2011年12月10日

白瀬の一次探検1


明治の南極探検 3 ◆樺太イヌ受難 赤道が近づくにつれて気温はぐんぐんと上がった。2月5日には、樺太イヌ3頭が死んで水葬にした。19日に北回帰線に達すると気温はますます上昇、明治43年12月29日、ついに南半球に入った。望遠鏡に赤線を引いて赤道が見えるとハシャイで云った。 炎天直下、米が傷み、缶詰までもが腐ってガスが発生した。そして北国育ちの樺太イヌが、バタバタと死んでいった。 3月3日には、「たろう」と「じろう」の2頭だけになり、27日にはとうとう「たろう」だけとなった。結局、ソリ用に集められた30頭のうち、29頭が死んでしまった。犬係の樺太アイヌ、山辺と花村は我子を失ったようで、その落胆ぶりは非常に大きかった(戦後の第一次観測隊に参加したタロとジロの名前は、これにちなむ)。 ◆いよいよ南極海、第一次探検 明治44年2月8日にニュージーランドのウエリントン港に入り、3日間、滞在して燃料と食料を補給した。そこを11日に出港、17日にはペンギンを捕えて、白瀬隊長はご満悦だった。25日にオーロラを見る。28日に初めて氷山に遭遇した。 いよいよ3月3日に南極圏へ突入した。この頃から氷塊、氷山が絶え間なく漂流するようになる。6日にはついに南極大陸を見とめて、一同、狂喜する。8日、目を覚ますと開南丸は大氷崖に沿って進んでいた。流氷の少ないところを進んで行くが、時折りゴリゴリと船体に氷が当たる。10日の夜、幹部会を開いて、このまま大陸に進み、適地に越冬隊を残して船を退避させ、解氷期を待って再来して回収することを確認した。 3月12日には、とうとう氷塊に阻まれて前進することが出来なくなった。このままでは、結氷のため今来た航路も塞がれてしまう。やむなく後進、南緯74度16分、東経172度7分であった。 ようやく14日には氷野を脱し、別地点への上陸を模索したが、次々と現れる氷塊に船は思うように進まないうえ、さらに吹雪が襲って来た。同日の夕食後、野村船長は、これ以上の前進は不可能であり、一度、オーストラリアに戻って解氷期を待ち、再起を図ろうと提案、東京からの出港の出遅れは如何ともしがたく、もはや結氷期に入っていた。無念!! 出典「南極探検・T2年」 花村(左)と山辺 出典「山岳第年第二号・S12年」 第二次探検のとき


























第288回  白瀬の南極探検         北海道の歴史,北海道の文化,北海道文化財保護協会,http://turiyamafumi.kitaguni.tv/
  

Posted by 釣山 史 at 20:13Comments(0)郷土の語り