最奥の駅逓(第7回)

釣山 史

2008年11月22日 03:08

◆上モベツ駅逓所と鴻之舞金山
                                                                                 上モベツ駅逓所設置以前の鴻之舞金山
                                                                                       /北海道鉱業誌/大正13年
ウ)鴻之舞の交通と上モベツ駅逓所
 大正6年に鴻之舞金山が住友へ売却されて開発が進捗すると、遠軽に出張所が設けられ、これら金山の資材を運搬するために遠軽の請負業者らが社名淵からの道なき原始林を切り開いた。
 そして大正3年に開設された「遠軽家庭学校」の社名淵農場では同9年までに50戸が入植に入り、学校を中心とした集落を形成した。このことから大正8年にはモベツ部落から金山方面へと続く「上藻別原野道路」が開削されても鴻之舞の主要な輸送は遠軽側で、製錬所の建設計画も当初は社名淵であったもので、同14年には上社名淵へ駅逓所が開設された。
 これら「上モベツ駅逓所」が設置される以前の状況は次のとおりであるが、大正10年に名寄線が開通すると次第に輸送の主力は紋別側へと切り替わって行った。
 「上藻ベツ駅逓所」の高地昇は大正15年2月に受命して5月に現地へ入り、7月には開業したが(告示では同年6月1日開設)、「驛逓協會々報第一號」によると前年には開設予定であったことが分かる。宿泊料は一泊が1円50銭、昼食70銭、弁当が30銭であった。高地は新潟県に生まれ、明治38年に北海道へ移住して神楽村東御料地ほかの各地を転じたのち、生田原を経て「官設駅逓上モベツ駅逓所取扱人」を命ぜられた。
 その後、部落の開発と整備が進み、また、昭和4年には上西音吉が、同7年からは今出新八による紋別までの乗合自動車が運行されて、さらに同15年にバスの運行が開始し、鴻紋軌道の敷設工事(同18年開通)が始まると、駅逓所は同年をもって廃止された。
 廃駅された取扱人には原始未開地での貢献に報いるべく、明治36年の勅令において駅逓所の財産が無償で付与されることとなったが、これにより高地へ無償付与された主な官有財産は以下の通りである。

 ・宅地 998坪5合1勺  ・駅舎
 ・畑  442㌃  ・牧場 2,130㌃
 ・馬    2頭  ・木材  1万20石

 昭和9年に増築されて廃止後は旅館として同24年まで利用された家屋は、駅逓所建築標準を残した現存する貴重なものである。



第95回上モベツ駅逓所、その7 





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