戦前の鮮魚輸送 要旨

釣山 史

2018年12月17日 17:46


〇要 旨 豊州市場の開場よりも、むしろ築地市場廃止のイ ンパクトが強い。さて、関東大震災によって魚市場が日本橋から 築地へ移転した頃、既に最奥のオホーツク紋別か ら相当量の鮮魚が送られていた。いったいどのよう に東京へ運ばれたのか? ●北海道では、明治 36 年に“生鮭輸送保存試験” が行われ、石狩川で捕獲した鮭を札幌に運び、そこ から貨車に積載して東京深川の水産講習所へと送 った。これが本道における鉄道を利用した本格的な 鮮魚輸送試験の最初ではないかと思われ、当時の 交通事情を考えると室蘭まで鉄道を使い、室蘭から は郵船に貨載したと考えるが詳細は分からない。我国の鮮魚輸送試験は明治 25・26 年頃に氷蔵が試みられたが、その時は業界からの支持を得られず、あらためて同 40 年の各府県水産試験場長並びに水産講習所長協議会の決議によって試験が実施され、この時は良好な結果に事 業者達からも評価された。国内鉄道の冷蔵車は明治 41 年に登場し、道内では沖合底引き網 漁業が盛んになった大正11 年に30輛が配備された。大正14年から は、青函連絡船の“直積み航送”が開始されて内地への鮮魚輸送は 急増する。紋別に鉄道(名寄線)が開通したのは大正 10 年であるが、 昭和 3 年に紋別~隅田川間(築地市場の最寄駅)で、最新の冷蔵車 による“鰈と鱒”の鮮魚輸送試験が行われ、また、同 5 年には練製品 向けの原材料として“鮮鮫”を大阪梅田へ送る輸送試験がなされた。 当地には昭和5年当時で現在の漁協大型製氷施設の販売量に匹敵 する天然採氷があり、翌年には最新式の冷蔵施設が完成して、水産 物の地方出荷は益々盛んになって行く。昭和 10 年に“新築地市場”が開設されたとき、同時に『東京市場 駅』が設けられて“鮮魚特急”と呼ばれる貨物列車が走った。この間に 冷蔵車の度重なる開発・改良があり、速達化を図るための車輛連結 器の全国統一もあったが、そもそも鮮魚をコールドチェーンで結ぼう とする試みは北海道で始まったもので、車輛連結器も北海道仕様が 全国基準となった。そうして紋別は大手水産会社の進出などがあり、 戦後には国内水産冷凍食品の発祥地となった。第34回北方圏国際シンポジウム Transport of fresh fish before World WarⅡ 山田雅也 北海道産業考古学会 北海道文化財保護協会 紋別市役所

第437号 戦前の鮮魚輸送          

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