紋別の歴史巡り 3・4/13

釣山 史

2017年10月21日 08:36





(c)元西駅名板 (d)十六号線駅名板 ・大正12年11月5日に渚滑線が開通 ・昭和60年4月1日、廃線 ときの鉄道院総裁は政友会の幹部で、滝上全村民が入党して陳情し、紋別側は名寄本線との分基点や駅の場所など、有力者たちの利害と思惑が交錯した。また、測量建設に取り掛かると予定地上に渚滑神社があり、『撤去せよ』との役人の高圧的な態度も、結局、路盤の位置を変更することで決着した。 渚滑線開通の告示 官報 1923年11月2日 大正10年の意見書原本 大正11年の意見書原本 アジア歴史資料センター蔵 請願書副本 滝上町郷土館蔵 ○渚滑線の敷設運動 はじめ大正2(1913)年に地元の有力者であった岩田道議が、宗谷線の士別へぬける路線を提唱、つづいて同5(1916)年に上興部から滝上を経て渚滑に至る路線の開通をめざして「縦貫鉄道期成会」を結成した。滝上から分岐して上川・旭川へ繋ぐ案もあった。そうして滝上全村をあげた鉄道院総裁への請願を経て、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通した。 これで橋や畑に被害をもたらしていた渚滑川の木材流送は廃止され、木材のき損や品質低下は軽減されて、関東大震災後の復興事業で木材業が活況し、また、農産物やでんぷんの生産など、原野奥地の開発は目覚しく発展した。 こども用 元西駅名板と十六号線駅名板 〇黄色い駅接近標 渚滑元西と中渚滑16線には、ひっそりと駅名板が立っています。黄色に黒文字の看板は、正式には「駅接近標」と云い、運転士へ駅が近づいていることを知らせるものです。名寄本線と渚滑線の遺物が少ないなかで、貴重な鉄道遺産です。 ○渚滑線の開設運動 宗谷線の名寄から紋別を経由して北見方面と結ぶ名寄線の敷設が決まると、新たに士別からサクルーを通って渚滑原野を横断する路線の要望が上がり、また、滝上から上川を通って旭川までをつなぐ案もありました(新旭川駅をへて上川までを結ぶ路線をルベシベ線と云い、写真の碑は中越信号所にあります)。 滝上では住民みんなが署名して新路線を要請しましたが、結局は渚滑~滝上間の支線となって大正12(1923)年に開通しました。その頃ちょうど関東大震災があり、復興に木材が必要とされ、滝上では木材業が景気づき、また、農産物やでんぷん生産など、滝上原野の開発が進みました。昭和11(1936)年から34(1959)年までは、さらに奥地を森林鉄道が走っていました。 渚滑線開通記念絵はがき 筆者蔵 奥東駅の駅接近標 JR北海道オレンジカート 筆者蔵 石北線全通の記念碑
第429号 旧渚滑線の駅接近標      

関連記事