最奥の駅逓(第2回)

釣山 史

2008年09月15日 21:58

 §上藻別駅逓所と鴻之舞金山のはじまり2~網走地方に見る最奥の駅逓(つづく)
 前回(第79回)につづき~藤野漁場から島竹さんへ、新発見!島竹さん以外にもあった紋別の駅逓。

◆黎明期の駅逓
 イ)人馬車継立所と島竹駅逓
 当地においては、藤野家の使用人であった阿波(明治26年5月没)の後任は「島竹貫一」とされて来た。しかし「北海道實業人名録・明治27年(明治26年12月付)」においては「旅人宿・島竹清作」とあり、いっぽう「人馬継立所・旅人宿・久保田幸助」ともあって、この久保田とは同23年~25年までの間の紋別郵便局長を務めた藤野家の関係者と思われる人物である。
 これは先にも述べたが明治21年に駅逓を廃止して「人馬車継立所」としたもので、同28年に「駅逓補助金支給規定」と「官設駅逓所取扱規定」が定められて、人馬車継立営業に包括されていた駅逓業務が分離されてたもので、この「継立と宿」の両方の機能を兼ね備えたものが駅逓であることから駅逓取扱人はもうひとりいたことになり、後の同33年には「駅逓所規定」が制定されてあらためて駅逓所となったもので、これら制度の過渡期には「人馬継立所」と「駅(駅逓)」の語が併用された。そして以後に幾度かの制度の改定はあっても基本的には変わりはなく、駅逓所は戦後の昭和22年3月まで存続した。
 さて、興味深いことは「北海道人名辞書・大正12年」によると島竹(片野)貫一は明治29年に国内最初の民間鉄道である日本鉄道会社へ入社し、同31年に北海孤児院の教育係として来道したもので、同32年には渚滑原野へ入り、翌33年に駅逓取扱人を命ぜられたが、これは北海孤児院には牧場があって、駅逓経営に必要な馬の取扱いと駅員としての経験が買われたと考える。


    北海道實業人名録/明治27年~紋別、湧別駅逓ほか中央道路の各駅逓が見られる                 北見繁栄要覧/大正1年



第80回上モベツ駅逓所、その2  




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