白瀬、南極へ

釣山 史

2011年11月27日 11:25


明治の南極探検 2 ◆千島の探検 『白瀬矗』は子供のころから利発でヤンチャ、北極探検を夢見ていた。まずは手始めに千島の探検を企画していたところ、「郡司成忠」の千島開発の計画を聞き、これに参加することにした。白瀬は、明治26年3月20日に隅田川築堤を発った郡司ら「報効義会」の一行と函館で合流した。そこから民間船に便乗し、国境の占守島へ向かったが、途中、渡島を拒まれ、目的を果たせずにいたところ、偶々、軍艦磐城の協力を得て、ようやく8月31日に占守島へ上陸した。白瀬らは、占守島を根拠に3島に分かれて2回の越冬を試み、カムチャッカを探検し、千島北部の資源の豊かさを確認するなど大きな成果をあげた一方、支援が途絶えたことで、捨子古丹島の9名が全滅したほか、死亡者が13名という悲惨な結果に終わった。 ◆南極探検へ 苛酷な条件を生き抜いた白瀬は、ますます自信を深めていたが、アメリカ人のピアリーが北極点に達したと知ると、目標を南極探検に変更した。各所に探検への支援を働きかけ、政府援助の約束を得たが、結局、資金の融通は無いまま、一番の課題であった探検船も北方探検の同胞であった報効義会の新造船・「第二報効丸」を買取ることになった。この第二報効丸に補助の蒸気エンジンを取り付け、船体には鋼板を張り付けて、東郷元帥が『開南丸』と命名した。いよいよ出港することになり、明治43年11月28日には、芝浦で五万人とも云われる壮行会が催され、翌29日に華々しく品川を出港した。 出典「郡司大尉・S14年」 白瀬らを占守島へ運んだ軍艦磐城 同左 郡司海軍大尉 出典「開南創刊号・S14年」 大隈翁の壮行演説 出典「アサヒグラフ新年特大号・S31年」 開南丸 出典「開南創刊号・S14年」 後列右から白瀬隊長・野村船長


























第286回  白瀬の南極探検         

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