道内の教育勅語を巡る事件簿

釣山 史

2016年07月07日 19:29

津別町本岐の教育勅語
 その当時、学校長の最重要の職務は、御真影や詔勅類の奉護であり、各校は災害に備えたが、頭を痛めたのが盗難・紛失である。そうして全国各地に奉護のために殉職したり、責任を負って自死する例が見られ、ここでは道内での事件を紹介する。

○留萌小学校長無理心中事件/大正元年9月の大喪儀から間もない頃、留萌小学校で教育勅語が道庁へ送りつけられ、収納箱が縁の下に投げ込まれるという事件が発生した。授業中の教師が拘束されるなどがあり、犯人が特定されないまま全教師が転出して学校は混乱した。新たに赴任した阿曽沼校長は、この事件と卒業式での不手際に責任を感じ、服毒自殺を図った。
○盤渓小学校長遭難事件/盤之沢特別教授場が昇格独立して新校舎が完成した。明日の開校式を前に持ち上がりで新校長となった結城三郎は、正装して2里離れた役場で教育勅語を拝戴した。その帰路の途中、猛吹雪となり、円山の商店主に投宿を勧められたが、明日は大切な開校式だからと断り、深雪を進むと新校舎を目前に進退窮まってしまった。翌朝、登校の生徒が雪に埋もれた校長を発見、羽織で大切な教育勅語を包み抱いて凍死していた。遺体は呆然とする父兄らに見守られてソリに載せられ、生徒たちに曳かれて無言の帰宅となった。大正11年12月23日のことであった。
○愛冠小学校、教育勅語紛失事件/昭和4年5月、足寄村の愛冠小学校で教育勅語が紛失した。学校に官憲が入る騒動となり、関係者が警察の取り調べを受け、検事が現場検証を行い、当時の新聞で大々的に報じられた。これは校長に叱責された教師たちが、腹いせに共謀したものとされ、結局、教育勅語は発見されず、あらためて翌5年10月に再下賜を受けて事態は収束した。
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第396号   教育勅語を巡る事件     

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