ストーブのはじまり

釣山 史

2009年02月23日 21:01

ストーブの始まりは宗谷と紋別から
 ~ストーブと寒冷地手当の事始め


 北見郷土史話/昭和8年より
 安政3年に箱館奉行は宗谷と北見、千島などへこれから赴任する幕吏たちに、防寒に対する意見を求めたが、このうち宗谷詰調役・梨本弥五郎はストーブの配置を上申した。
 そして弥五郎は、そのころ箱館にあった蘭学者の武田斐三郎とともに入港していたイギリス船へ見学に行き、これを写生して設計図とした。
 そこで箱館の職人たちは本体を鋳物で、煙突は土管として、ストーブの製作に取りかかったが、何せはじめてのことで中々うまくいかず、予定22個のところ完成したのはたった6個で、うち2個は樺太へ送られることとなり、残る4個を宗谷へ配置することにしたが、冬季が迫り輸送が困難と見た弥五郎は、自らストーブの模型を作り、それを赴任した現地のアイヌ人・鍛冶屋の景蔵に見せて打物による試作を行った。
 これは煙突も鉄製としたので耐久性にすぐれ、また、経費も当初の見積もりの三分の一に済んだため、残る全ても宗谷で製作することとした。
 当時、ストーブのことを火辺炉(カァヘル、カッヘル、カッペル)と云い、安政4年の紋別御用所日誌に『ソウヤより火辺炉二器到来』とある。
 また、箱館奉行は北部への赴任者へ特に手当を検討、天塩から斜里までと樺太の詰役人に対して寒冷地手当を支給した。


第112回 ストーブと寒冷地手当の始まり      


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