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文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2024年04月15日

満州事変の勃発から太平洋戦争へ 2/2

終戦80年、NO.012


12年3月 国体明徴を受け、文部省が国体護持の精神を著した「国体の本義」を編纂して全国へ配布する S12年7月 盧溝橋事件(日華事変)、盧溝橋で日中両軍の小衝突を発端して全面戦争に突入 S12年11月 軍令第1号によって新たな大本営令が公示され、同月20日には宮中内に大本営が設置された S12年12月 矢内原事件、軍部を批判した東大の矢内原教授が辞職に追い込まれる S13年4月 国家総動員法、戦時に国内経済・国民生活を統制する権限を政府に付与 S13年10月 河合事件、東大の河合栄治郎教授の著作が発禁のうえ休職とされ、罰金刑を受ける S13年11月 近衛文麿内閣が日満支三国の提携による東亜新秩序の建設を表明 S14年1~2月 平賀粛学事件、東大内の自由主義と右翼の抗争解決のため、平賀総長が河合・土方の両教授を休職にした S14年2月 鉄類の第一次特別回収要綱を定めて官公署を中心に回収を開始、民間に向けた特別回収も始まった S14年3月 軍事教練が大学の必須科目になる S14年4月 映画法を公布し、シナリオの事前検閲と制作の許可制を実施とする S14年4月 米穀取引所を廃止し、米国配給統制となる S14年5月 ノモンハン事件、満州とモンゴルの国境ノモンハン付近で日本軍とソ連軍が交戦、日本側が大敗する S14年7月 国民徴用令が施行し、戦時下の軍需産業へ必要に応じて人員を徴用できることになる S14年9月 興亜奉公日を制定(のち大詔奉戴日)、戦地を偲び毎月1日を禁酒禁煙、一汁一菜などの質素倹約日とした S15年1月 津田左右吉事件、古代史研究が右翼に告発されて検挙、早大教授を辞職 S15年2月 反軍演説問題、国会で斎藤隆夫が事変処理を糾弾、陸軍が反発し、のち議会主流派によって議員除名された S15年4月 陸軍志願兵令を公布、志願選抜された少年は航空学校・飛行学校で学ぶと少年飛行兵(上等兵)となる S15年4月 基本国策要綱で『皇国ノ国是ハ八絋ヲ一宇トス(天下をひとつの家とする)』とし、大東亜新秩序の建設をうたう S15年9月 日独防共協定・日独伊防共協定を発展強化して日独伊三国同盟を調印、これが日米関係を悪化させた S15年10月 政府は戦時下で新体制運動を推進、既成政党を統合して国大政翼賛会を組織した S15年11月 紀元二千六百年記念式典、宮城外苑で行われた奉祝式典は実況中継された S15年12月 内閣情報部を内閣情報局に格上げし、情報統制を強化 S16年1月 陸軍大臣東条英機が「戦陣訓」を通達。戦場での軍人の道義的高揚を促し発布した訓諭、心得 S16年7~8月 米国内の日本資産を凍結し、8月1日には石油輸出を全面禁止、ABCD包囲網なる S16年8月 金属類回収令を公布し、死蔵品、不用品、廃品の積極的な整理を勧請した S16年10月 ゾルゲ事件、ソ連共産党のゾルゲが近衛総理のブレーン尾崎秀実に接近して諜報活動を行ったスパイ事件 S16年10月 近衛内閣が総辞職して東条英機が総理となり、首相が陸軍大臣を兼務する軍事政権が成立 S16年11月 差別主義のルーズベルトは日本を特に蔑視、ソ連共産党の企みに乗ってハル・ノート(対日最後通牒)を示す S16年12月 真珠湾攻撃とマレー作戦、米英に宣戦布告する、太平洋戦争へ突入する 終戦80年、NO.012
  

2024年04月06日

満州事変の勃発から太平洋戦争へ 1/2

終戦80年、NO.011


満州事変の勃発から太平洋戦争へ S5年9月 橋本欣五郎・坂田義朗・根本博・樋口季一郎ら陸軍佐官級将校が国家改造を目指して秘密結社桜会を結成 S5年11月 ロンドン海軍軍縮条約の締結は統帥権の侵犯だとし、右翼青年に浜口雄幸首相が狙撃される。翌年に死亡 S6年3月 三月事件、桜会が右翼の大川周明と結んで宇垣一成陸相を首相とする軍事政権の樹立を企てたが失敗 S6年6月 中村大尉殺害事件、北満を巡見中の中村震太郎大尉らが屯懇軍に強殺され、遺体が焼滅された事件 S6年7月 万宝山事件、移住朝鮮人を中国警察が取り締まり、中国農民が蜂起して発砲、日本側も武装警官が応戦した S6年9月 柳条湖事件(満州事変)、関東軍の石原莞爾中佐らが自ら鉄道を爆破し、それを口実に軍事行動を起こす S6年10月 十月事件、橋本欣五郎中佐ら桜会と右翼の大川周明・井上日召らが独裁政権の樹立を企てて未遂に終わる S7年2~3月 血盟団事件、井上日召らが一人一殺を掲げて国家改造を唱え、前蔵相井上準之助と三井理事長団琢磨を暗殺 S7年3月 清朝最後の皇帝(宣統帝)であった溥儀が執政となって満州国の建国を宣言 S7年5月 五・一五事件、海軍将校らが血盟団の残党や大川周明と結び犬養毅首相を暗殺、各所を襲撃したクーデター S7年6月 警視庁に特別高等警察部を設置し、特高警察網を拡大、全国の都道府県にも特高課を置く S7年9月 日満議定書を調印、日本が満州国を承認する S7年10月 国際連盟が日本へリットン報告書を通告する S8年2~3月 国際連盟が満州国を不承認、全権松岡洋右が大演説の末に総会から退場する、のち国際連盟の脱退を通告 S8年5月 滝川事件、司法官赤化事件に関連して京大の滝川幸辰教授は危険思想だとし、鳩山一郎文相が辞職勧告 S8年7月 神兵隊事件、愛国勤労党・大日本生産党と陸海軍中佐らが首相官邸、警視庁ほかを襲撃しようした未遂事件 S8年12月 軍民離間問題、帝国議会の予算等決議について、軍が突如として『軍民離間の言動を為す』との声明を発する S9年2月 中島久万吉大臣が逆賊である足利尊氏を讃美したとして陸軍中将菊池武夫が問題化、大臣が辞職した S9年3月 満州国が帝政を実施し、執政の溥儀が即位する 終戦80年、NO.011
  

2024年03月07日

満州国の建国

終戦80年、NO.010


満州国の建国 清王朝は、女真族が東北部に後金を建てたことに始まる。後に「満州」を名乗り、1636年に「清」と改めた。これを背景に関東軍は、ラストエンペラー溥儀(宣統帝)を擁立して傀儡国家の建設を企てたのである。こうして昭和6年11月10日、溥儀は特務機関長の土肥原大佐によって天津から脱出、関東軍の保護を受けることになった。昭和7年3月1日に中国の黒竜江省・吉林省・遼寧省からなる「満州国」の建国を宣言する。9月15日には日満議定書を調印し、我国は満州国を承認した。 日満議定書の調印 関東軍の武藤司令官と満州国の鄭国務総理 満洲国帝政記念写真帖 昭和9年刊 執政時代の溥儀と婉容 新満洲国読本 昭和7年刊 終戦80年、NO.010  

2024年03月03日

満洲事変(柳条湖事件)

終戦80年、NO.009


満洲事変(柳条湖事件) 満州事変は、天才と称された関東軍の作戦参謀石原莞爾中佐と後に大将・陸軍大臣となりA級戦犯として死刑にされた高級参謀板垣征四郎大佐が主導した。石原中佐は、著書の「満蒙問題私見」の中で、『満蒙は国防の拠点で、朝鮮統治と中国指導の根拠のためにも関東軍が主導し、謀略をもって好機に乗じて領土となそう』と述べている。昭和6年9月18日午後10時20分ごろ、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。爆破を自作自演した関東軍は中国軍の仕業だとし、翌19日午前1時、本庄繁司令が奉天・長春・営口・安東ほか沿線へのいっせい攻撃を命令、同日の正午迄には攻撃地を殆ど占領してしまった。この事態を同日朝にはラジオ放送が臨時ニュースで速報、新聞も号外を出して大々的に伝えた。
9月21日、これを若槻礼次郎内閣は事変だとし、24日には不拡大方針を発表したが関東軍は無視、林銑十郎司令が率いる朝鮮軍も加わって全満州を占領してしまう。この軍事行動を巡って挙国一致を唱える軍寄りの安達謙蔵内務大臣(副総理格)が若槻首相と対立、若槻閣内は総辞職に追い込まれた。国際連盟は中国の提訴を受け、昭和7年2~3月にかけ、リットン調査団を日本・満州・中国へ派遣した。10月に国際連盟は、日本の侵略であって自衛ではないと公表した。 終戦80年、NO.009 証拠とされた中国兵の軍帽と爆破された枕木 満蒙事変大写真帖、昭和6年刊 国際連盟より 派遣されたリットン調査団 産経新聞https://www.sankei.com/ (上)高級参謀・板垣征四郎大佐 (下)作戦参謀・石原莞爾中佐 陸軍の中心人物・革新の巨星、昭和12年刊 関東軍司令部 満洲事変紀念大写真帖附録 最新満蒙大地図、昭和7年刊 内田康哉外相とリットン卿
世界情勢と躍進日本外交史 昭和16年再版
  

2024年02月29日

柳条湖事件(満洲事変)の背景

終戦80年、NO.008
柳条湖事件(満洲事変)の背景 〇万宝山事件、万宝山に移住した朝鮮人が無許可で用水路を建設しようとして、中国警察が取り締まった。昭和5年7月、中国農民が日本の侵略だと押し寄せ、用水路を破壊して発砲する者もあり、日本側も武装警官が応戦した。 〇中村大尉殺害事件 昭和6年6月27日、満洲北部を巡見中の中村震太郎大尉らが屯懇軍に強殺され、証拠隠滅のために死体を焼かれた。その事実は、柳条湖事件の9月18日に公表された。 〇満鉄の経営危機、満蒙の邦人20万人が南満州鉄道に依存していたが、中国本土の鉄道網が次第に拡大し、また、廉価炭の移入もあって運賃収入が激減、銀建相場の暴落も痛手になった。中核企業の経営悪化は、満蒙経営の危機であり、権益維持の重大課題でもあった。 中村大尉と元曹長の井杉 終戦80年、NO.008 満蒙事変写真帖 昭和7年1月19日発刊  

2024年02月26日

大戦への第一歩、満州事変

終戦80年、NO.007


大戦への第一歩、終戦80年、NO.007 参謀石原莞爾中佐は天才と呼ばれ、その「世界最終戦争論」の中で、東西文明の最終決戦が日米間で争われると予想、まずは満蒙問題を解決すべきとした。さて、日支交戦の急報に特務機関へ奉天総領事代理の森島守人が駆けつけると、何故か旅順にいるはずの高級参謀板垣征四郎大佐がいて、緊急のために司令に代わって命令したのだと云う。森島は外交での解決を促したが、統帥権に領事館が干渉するのかと花谷中佐は軍刀を抜いて威嚇した。関東軍司令の本庄繁中将、最初に出動した大隊長の島本正一中佐も知らずに事が進んでいた。 
終戦80年、NO.007 石原莞爾中佐 板垣征四郎大佐 事変を画策した関東軍参謀 明治百年史、昭和42年刊
  

2024年02月23日

天皇機関説問題

終戦80年、NO.006


天皇機関説問題 主権は国家に有り、天皇には無く、法人たる国家を代表するのが天皇であって最高の機関であるという考え。貴族院議員(予備役陸軍中将)の菊池武夫が、昭和10年2月の本会議で、通説だった美濃部達吉の天皇機関説を批判すると政友会も加わって激しい政治闘争になった。こうして岡田啓介内閣は、天皇機関説を否定する「国体明徴に関する政府声明」を発した。『大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存すること明かなり』。文部省も国体明徴・教学刷新を掲げて文教行政を進めることになり、戦時思想の形成・統制をいっそう強化した。昭和12年に教授要目を改定し、同年に「国体の本義」を発刊して全国へ配布、昭和16年には「臣民の道」を刊行して国体概念を具体的に示した。 終戦80年、NO.006 問題の著作 大正12年刊 美濃部達吉 アサヒグラフ1948年 6月23日号
  

2024年02月18日

元帥

終戦80年、NO.005


元帥 日本の軍隊においては、「陸軍省日誌明治五年第廿號」によるととろ、明治5年7月19日に参議の西郷隆盛が陸軍元帥を仰せつかった。これが最初と思われるが、後に賊軍となってしまう。大日本帝国陸海軍となってからは、明治31年の「元帥府設置ノ詔勅」に『特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス』とあり、天皇の統轄幕中に元帥府を置いて、大将の上位に位置して軍事最高顧問とする元帥府条例が明治31年1月20日に交付された。このときに叙任されたのが、山縣有朋(陸軍)、彰仁親王(陸軍)、大山巌(陸軍)、西郷従道(海軍)の四名であった。宮中の席次については特に定めが無かったが、明治31年1月27日の伺いに枢密院議長の黒田清隆の席次を『特ニ総理大臣ノ次席ヲ賜フ、特ニ元帥ノ上席ヲ賜フ』とあり、特に栄誉ある職であったことが分かる。元帥は終生現役であり、予備役とはならない。終戦までの陸海軍で延31人(西郷隆盛を除く)がいた。 山本元帥史伝昭和19年8月19日発行 東郷元帥写真帳昭和14年5月10日発行 終戦80年、NO.005  

2024年02月15日

統帥権と皇族軍人

終戦80年、NO.004


統帥権と皇族軍人 統帥権 旧大日本帝国憲法第11条には、『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とある。こうして国軍の統帥権は天皇の大権のひとつで内閣には属さず、一般の国務から独立したものと解されたが、その範囲の解釈に行政府と軍部の双方間で疎意があった。 皇族御写真御大典記念金枝玉葉帖、昭和3年刊 皇族軍人 明治19年3月に参謀本部条例を改正し、本部長は皇族が就任することになる。 〇閑院宮載仁親王 日清戦争と日露戦争に従軍。大正元年に大将、同8年元帥、昭和6年から同15年10月までは参謀総長を務めた。陸軍は「総長宮」と呼んで権威を利用、英米寄りの米内光政総理のとき、陸軍大臣の畑俊六を辞任させて内閣総辞職へ追い込んだ。 〇伏見宮博恭王 日露戦争では戦艦三笠に乗船して負傷した。大正11年に海軍大将、昭和7年には元帥となり、海軍軍令部長(のち軍令部総長と改名)に就任して同16年4月まで海軍の最高責任者にあった。 海軍内にあって強く軍縮に反対する強硬派の後ろ盾となり、退任後も人事権を掌握して海軍大臣の決定に影響を与えた。 終戦80年、NO.004  

2024年02月12日

大本営

終戦80年、NO.003


大本営 昭和12年11月17日の軍令第1号によって新たな「大本営令」が公示され、同月20日には宮中内に大本営が設置された。大本営とは、戦時や事変時に開設された天皇直属の最高統帥機関で、参謀総長・海軍軍令部長が陸軍・海軍の幕僚長に任じられた。昭和19年8月に「最高戦争指導会議」と改称されて、参謀総長・軍令部総長・内閣総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣が列席し、他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長らも必要に応じて出席した。重要事項の審議には、天皇が御臨席なされて「御前会議」になる。大本営は昭和20年9月13日にGHQの指令によって廃止された。太平洋戦争への突入を知らせた臨時ニュース、『大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』は良く知られる。 終戦80年、NO.003 大本営衛兵所 絵はがき