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文化・芸能・学術  |札幌市手稲区

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2024年03月07日

満州国の建国

終戦80年、NO.010


満州国の建国 清王朝は、女真族が東北部に後金を建てたことに始まる。後に「満州」を名乗り、1636年に「清」と改めた。これを背景に関東軍は、ラストエンペラー溥儀(宣統帝)を擁立して傀儡国家の建設を企てたのである。こうして昭和6年11月10日、溥儀は特務機関長の土肥原大佐によって天津から脱出、関東軍の保護を受けることになった。昭和7年3月1日に中国の黒竜江省・吉林省・遼寧省からなる「満州国」の建国を宣言する。9月15日には日満議定書を調印し、我国は満州国を承認した。 日満議定書の調印 関東軍の武藤司令官と満州国の鄭国務総理 満洲国帝政記念写真帖 昭和9年刊 執政時代の溥儀と婉容 新満洲国読本 昭和7年刊 終戦80年、NO.010  

2024年03月03日

満洲事変(柳条湖事件)

終戦80年、NO.009


満洲事変(柳条湖事件) 満州事変は、天才と称された関東軍の作戦参謀石原莞爾中佐と後に大将・陸軍大臣となりA級戦犯として死刑にされた高級参謀板垣征四郎大佐が主導した。石原中佐は、著書の「満蒙問題私見」の中で、『満蒙は国防の拠点で、朝鮮統治と中国指導の根拠のためにも関東軍が主導し、謀略をもって好機に乗じて領土となそう』と述べている。昭和6年9月18日午後10時20分ごろ、奉天郊外の柳条湖で南満州鉄道の線路が爆破された。爆破を自作自演した関東軍は中国軍の仕業だとし、翌19日午前1時、本庄繁司令が奉天・長春・営口・安東ほか沿線へのいっせい攻撃を命令、同日の正午迄には攻撃地を殆ど占領してしまった。この事態を同日朝にはラジオ放送が臨時ニュースで速報、新聞も号外を出して大々的に伝えた。
9月21日、これを若槻礼次郎内閣は事変だとし、24日には不拡大方針を発表したが関東軍は無視、林銑十郎司令が率いる朝鮮軍も加わって全満州を占領してしまう。この軍事行動を巡って挙国一致を唱える軍寄りの安達謙蔵内務大臣(副総理格)が若槻首相と対立、若槻閣内は総辞職に追い込まれた。国際連盟は中国の提訴を受け、昭和7年2~3月にかけ、リットン調査団を日本・満州・中国へ派遣した。10月に国際連盟は、日本の侵略であって自衛ではないと公表した。 終戦80年、NO.009 証拠とされた中国兵の軍帽と爆破された枕木 満蒙事変大写真帖、昭和6年刊 国際連盟より 派遣されたリットン調査団 産経新聞https://www.sankei.com/ (上)高級参謀・板垣征四郎大佐 (下)作戦参謀・石原莞爾中佐 陸軍の中心人物・革新の巨星、昭和12年刊 関東軍司令部 満洲事変紀念大写真帖附録 最新満蒙大地図、昭和7年刊 内田康哉外相とリットン卿
世界情勢と躍進日本外交史 昭和16年再版
  

2024年02月29日

柳条湖事件(満洲事変)の背景

終戦80年、NO.008
柳条湖事件(満洲事変)の背景 〇万宝山事件、万宝山に移住した朝鮮人が無許可で用水路を建設しようとして、中国警察が取り締まった。昭和5年7月、中国農民が日本の侵略だと押し寄せ、用水路を破壊して発砲する者もあり、日本側も武装警官が応戦した。 〇中村大尉殺害事件 昭和6年6月27日、満洲北部を巡見中の中村震太郎大尉らが屯懇軍に強殺され、証拠隠滅のために死体を焼かれた。その事実は、柳条湖事件の9月18日に公表された。 〇満鉄の経営危機、満蒙の邦人20万人が南満州鉄道に依存していたが、中国本土の鉄道網が次第に拡大し、また、廉価炭の移入もあって運賃収入が激減、銀建相場の暴落も痛手になった。中核企業の経営悪化は、満蒙経営の危機であり、権益維持の重大課題でもあった。 中村大尉と元曹長の井杉 終戦80年、NO.008 満蒙事変写真帖 昭和7年1月19日発刊  

2024年02月26日

大戦への第一歩、満州事変

終戦80年、NO.007


大戦への第一歩、終戦80年、NO.007 参謀石原莞爾中佐は天才と呼ばれ、その「世界最終戦争論」の中で、東西文明の最終決戦が日米間で争われると予想、まずは満蒙問題を解決すべきとした。さて、日支交戦の急報に特務機関へ奉天総領事代理の森島守人が駆けつけると、何故か旅順にいるはずの高級参謀板垣征四郎大佐がいて、緊急のために司令に代わって命令したのだと云う。森島は外交での解決を促したが、統帥権に領事館が干渉するのかと花谷中佐は軍刀を抜いて威嚇した。関東軍司令の本庄繁中将、最初に出動した大隊長の島本正一中佐も知らずに事が進んでいた。 
終戦80年、NO.007 石原莞爾中佐 板垣征四郎大佐 事変を画策した関東軍参謀 明治百年史、昭和42年刊
  

2024年02月23日

天皇機関説問題

終戦80年、NO.006


天皇機関説問題 主権は国家に有り、天皇には無く、法人たる国家を代表するのが天皇であって最高の機関であるという考え。貴族院議員(予備役陸軍中将)の菊池武夫が、昭和10年2月の本会議で、通説だった美濃部達吉の天皇機関説を批判すると政友会も加わって激しい政治闘争になった。こうして岡田啓介内閣は、天皇機関説を否定する「国体明徴に関する政府声明」を発した。『大日本帝国統治の大権は儼として天皇に存すること明かなり』。文部省も国体明徴・教学刷新を掲げて文教行政を進めることになり、戦時思想の形成・統制をいっそう強化した。昭和12年に教授要目を改定し、同年に「国体の本義」を発刊して全国へ配布、昭和16年には「臣民の道」を刊行して国体概念を具体的に示した。 終戦80年、NO.006 問題の著作 大正12年刊 美濃部達吉 アサヒグラフ1948年 6月23日号
  

2024年02月18日

元帥

終戦80年、NO.005


元帥 日本の軍隊においては、「陸軍省日誌明治五年第廿號」によるととろ、明治5年7月19日に参議の西郷隆盛が陸軍元帥を仰せつかった。これが最初と思われるが、後に賊軍となってしまう。大日本帝国陸海軍となってからは、明治31年の「元帥府設置ノ詔勅」に『特ニ元帥府ヲ設ケ陸海軍大将ノ中ニ於テ老功卓抜ナル者ヲ簡選シ朕カ軍務ノ顧問タラシメントス』とあり、天皇の統轄幕中に元帥府を置いて、大将の上位に位置して軍事最高顧問とする元帥府条例が明治31年1月20日に交付された。このときに叙任されたのが、山縣有朋(陸軍)、彰仁親王(陸軍)、大山巌(陸軍)、西郷従道(海軍)の四名であった。宮中の席次については特に定めが無かったが、明治31年1月27日の伺いに枢密院議長の黒田清隆の席次を『特ニ総理大臣ノ次席ヲ賜フ、特ニ元帥ノ上席ヲ賜フ』とあり、特に栄誉ある職であったことが分かる。元帥は終生現役であり、予備役とはならない。終戦までの陸海軍で延31人(西郷隆盛を除く)がいた。 山本元帥史伝昭和19年8月19日発行 東郷元帥写真帳昭和14年5月10日発行 終戦80年、NO.005  

2024年02月15日

統帥権と皇族軍人

終戦80年、NO.004


統帥権と皇族軍人 統帥権 旧大日本帝国憲法第11条には、『天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス』とある。こうして国軍の統帥権は天皇の大権のひとつで内閣には属さず、一般の国務から独立したものと解されたが、その範囲の解釈に行政府と軍部の双方間で疎意があった。 皇族御写真御大典記念金枝玉葉帖、昭和3年刊 皇族軍人 明治19年3月に参謀本部条例を改正し、本部長は皇族が就任することになる。 〇閑院宮載仁親王 日清戦争と日露戦争に従軍。大正元年に大将、同8年元帥、昭和6年から同15年10月までは参謀総長を務めた。陸軍は「総長宮」と呼んで権威を利用、英米寄りの米内光政総理のとき、陸軍大臣の畑俊六を辞任させて内閣総辞職へ追い込んだ。 〇伏見宮博恭王 日露戦争では戦艦三笠に乗船して負傷した。大正11年に海軍大将、昭和7年には元帥となり、海軍軍令部長(のち軍令部総長と改名)に就任して同16年4月まで海軍の最高責任者にあった。 海軍内にあって強く軍縮に反対する強硬派の後ろ盾となり、退任後も人事権を掌握して海軍大臣の決定に影響を与えた。 終戦80年、NO.004  

2024年02月12日

大本営

終戦80年、NO.003


大本営 昭和12年11月17日の軍令第1号によって新たな「大本営令」が公示され、同月20日には宮中内に大本営が設置された。大本営とは、戦時や事変時に開設された天皇直属の最高統帥機関で、参謀総長・海軍軍令部長が陸軍・海軍の幕僚長に任じられた。昭和19年8月に「最高戦争指導会議」と改称されて、参謀総長・軍令部総長・内閣総理大臣・外務大臣・陸軍大臣・海軍大臣が列席し、他の国務大臣や参謀次長・軍令部次長らも必要に応じて出席した。重要事項の審議には、天皇が御臨席なされて「御前会議」になる。大本営は昭和20年9月13日にGHQの指令によって廃止された。太平洋戦争への突入を知らせた臨時ニュース、『大本営陸海軍部、十二月八日午前六時発表。帝国陸海軍は本八日未明、西太平洋においてアメリカ、イギリス軍と戦闘状態に入れり。』は良く知られる。 終戦80年、NO.003 大本営衛兵所 絵はがき  

2024年02月10日

内閣情報部(のち内閣情報局)

終戦80年、NO.002
内閣情報部(のち内閣情報局) 昭和11年の2・26事件の際、内務省警保局が記事の掲載禁止を通告したが、これが切っ掛けとなって、言論統制がいっそう強化されて行くことになった。それまで各省の情報担当間で調整を図っていた「情報委員会」は、昭和11年7月1日に内閣総理大臣下の正式な「内閣情報委員会」になる。内閣、外務省、内務省、陸軍省、海軍省、逓信省から常任委員を派遣した。翌年9月25日には拡充されて「内閣情報部」に組織替えとなった。こうして昭和16年12月8日の太平洋戦争の開戦当日、内閣情報局が戦争報道は大本営が発表する以外の記事掲載を一切禁止し、政府の都合の良い戦意高揚を煽るだけの報道が垂れ流された。大本営発表のラジオのBGMは、陸軍が「観兵式行進式」、海軍は「軍艦マーチ」、玉砕などは「海行かば」だった。国民へ向けた国威発揚、戦時啓発のために内閣情報部(のち内閣情報局)が刊行した『写真週報』は、昭和13年2月16日付の創刊号(写真)に始まり、終戦前月の昭和20年7月11日付の374・375合併号まで続いた。 終戦80年、NO.002 大本営海軍部で伏見宮殿下 報道写真海軍作戦記録 昭和19年刊  

2024年02月08日

東宮さま、巴里へ行く

終戦80年、NO.001


皇太子さま、巴里へ行く 今年は、パリ・オリンピック!! 昭和天皇が皇太子時代にヨーロッパを外遊し、エッフェル塔を訪れたときの写真。 ヨーロッパを外遊中に殿下に似た親戚にあたる従者が殿下になりすまし、殿下本人は一般人の振りをし、自由に周遊したとの話も…。 さて、来年の終戦80年へ向けて、これから戦時を語って行きます。 終戦80年、NO.001 皇太子殿下御渡欧記念写真帖 第10巻